泰衡軍が迫ってきても、「たとえ小勢といえども我らは恐れぬ」と弁慶が笑顔で言えば、
「ま、ここで、これまでの戦の総仕上げじゃな」と言う、伊勢三郎も笑顔。
義久、喜三太、そして次郎も笑顔。
気負うでもなく、悪びれるでもなく、なんて迷いのない笑顔なんでしょう。
この笑顔こそが、これまで苦楽を共にしてきた義経主従の絆の深さであり強さなんだ。
そんな郎党たちの姿に思わず涙。と同時に、彼らの命運を考え、又、涙。
義経主従の物語は、郎党たちの迷いのないこの笑顔と、
「三度生まれ変わっても、我らは変わらず主従ぞ」という義経の言葉に、
すべて集約されていたように思います。
そして、夜明けの空を見上げる六人の姿は、
義経主従物語のエンディングであり、プロローグ・・・。
義久は刀折れ、喜三太は矢を受け、次郎は殿の盾となり、三郎は笑顔で。
そして、弁慶は立ち往生し、義経は持仏堂で。
新しき国へ・・・。
カニ&笑顔の伊勢三郎は、最期まで伊勢三郎でした。
カニはちょっとやりすぎかな、と思わないでもありませんが、でも、いいんです(笑)。
最期だけ格好良く、なんて三郎には似合いません。
笑顔のまま倒れ、事切れた瞬間に消えた笑顔。
これが、三郎の殿への想いであり、心意気です。
それから、この三郎の最期は、伊勢三郎らしいのと同時に、南原さんらしいものだと思いました。
それは別に、カニのまねをしたから、ということではなく、格好良く死んでいくことに、南原さんの中で照れがあったのではないかと思うからです。
「えっ? お笑い芸人なのに二枚目気取り? 格好つけちゃうの?」という、もう一人の自分のツッコミが聞こえてきたんじゃないかな。
うじきさんが、"120% 役者でした"と、言ってくれてましたが、ここだけはお笑い芸人だったのではないかな~と思うのですが、これは私の勝手な想像なので、違ってたらあしからず、です。
格好良いことをやって格好良いと思われるのは当たり前。
最期まで三枚目を通した南原さんの伊勢三郎は、格好悪い姿が格好良かったっす。
「ま、ここで、これまでの戦の総仕上げじゃな」と言う、伊勢三郎も笑顔。
義久、喜三太、そして次郎も笑顔。
気負うでもなく、悪びれるでもなく、なんて迷いのない笑顔なんでしょう。
この笑顔こそが、これまで苦楽を共にしてきた義経主従の絆の深さであり強さなんだ。
そんな郎党たちの姿に思わず涙。と同時に、彼らの命運を考え、又、涙。
義経主従の物語は、郎党たちの迷いのないこの笑顔と、
「三度生まれ変わっても、我らは変わらず主従ぞ」という義経の言葉に、
すべて集約されていたように思います。
そして、夜明けの空を見上げる六人の姿は、
義経主従物語のエンディングであり、プロローグ・・・。
義久は刀折れ、喜三太は矢を受け、次郎は殿の盾となり、三郎は笑顔で。
そして、弁慶は立ち往生し、義経は持仏堂で。
新しき国へ・・・。
カニ&笑顔の伊勢三郎は、最期まで伊勢三郎でした。
カニはちょっとやりすぎかな、と思わないでもありませんが、でも、いいんです(笑)。
最期だけ格好良く、なんて三郎には似合いません。
笑顔のまま倒れ、事切れた瞬間に消えた笑顔。
これが、三郎の殿への想いであり、心意気です。
それから、この三郎の最期は、伊勢三郎らしいのと同時に、南原さんらしいものだと思いました。
それは別に、カニのまねをしたから、ということではなく、格好良く死んでいくことに、南原さんの中で照れがあったのではないかと思うからです。
「えっ? お笑い芸人なのに二枚目気取り? 格好つけちゃうの?」という、もう一人の自分のツッコミが聞こえてきたんじゃないかな。
うじきさんが、"120% 役者でした"と、言ってくれてましたが、ここだけはお笑い芸人だったのではないかな~と思うのですが、これは私の勝手な想像なので、違ってたらあしからず、です。
格好良いことをやって格好良いと思われるのは当たり前。
最期まで三枚目を通した南原さんの伊勢三郎は、格好悪い姿が格好良かったっす。