2月7日から3月7日まで、全国各地で全8公演が行われた現代狂言Ⅸ。
私は、2月7日国立能楽堂で行われた昼夜の2公演、2月8日同じく国立能楽堂の2公演、2月21日の福島棚倉公演、そして3月7日の東京板橋公演へ行ってきました。
計6公演を観劇した現代狂言Ⅸの感想を、あれこれと。

まずは、古典の「棒縛」。
太郎冠者が南原さん、次郎冠者が平子君、そして主人が万蔵さん。
あらすじは。
自分が外出しているときに太郎冠者と次郎冠者が盗み酒をしていることに気づいた主人。
二人をだまし、太郎冠者は棒に縛り、次郎冠者は後ろ手に縛って外出する。
残された二人は、縛られたまま酒を飲もうと知恵を絞る。
何とか酒にありついた二人は、歌を歌い舞を舞っていたが、そこへ主人が帰ってくる・・・。
タイトル通り棒に縛られていた太郎冠者の南原さん(笑)。
でも、縛られる前には、こんなふうに棒を使えるんですよ~というのを主人と次郎冠者に披露(というか自慢・笑)。
10月の「伝統WA感動・日本の笑い-古典」で公開初稽古をしていたときは、南原さんは棒を握る手が上か下かよくわからずあたふたとしていましたが(笑)、今回はもちろんそんなことはなく、鮮やかな棒さばきを披露してました。
ただ、初稽古のとき万蔵さんは「棒の使い方などは、綺麗にやるけど格好良くやってもしょうがない。サーカスで言うと空中ブランコを本当はできるのにわざと失敗するピエロみたいなもの」という話も。
南原さんの棒さばきがその域まで達していた・・のかどうかは素人の私には判断は出来ませんでしたが、綺麗にやっていたことは間違いありませんでした。
棒さばき以外の見どころはというと・・・やはり南原さんの顔芸でしょう(笑)。
お酒の匂いを嗅ごうとしたり、棒に縛られた手で飲めない酒を必死に飲もうとする南原さんの表情と動きには、大笑いしてしまいました。
前のほうの表情が良く見える席だと面白さはさらに倍(笑)。
久々の南原さんの顔芸を観れただけでも行った甲斐がありました(笑)。
そんな顔芸も含めこの役は南原さんに合っている、という感じでしたが、だから万蔵さんはこの演目を選んだのかもしれません。
それにしても、ずーっと棒に縛られたまま演技をしたり舞を舞うというのは本当に大変だろうな~。
体力的に大変なのはもちろん、あんなふうに案山子のように棒に縛られていたら、お酒が飲めないだけではなく鼻の先が痒くなってもかけないし、トイレにも行けないし・・などと考えてしまいましたが(笑)、いや、でも、稽古もかなり大変だったのではないのかな?というのは想像に難くなく、本当にお疲れ様でした、であります。
それから、今回は舞いだけではなく、歌(謡と書くのかな?)も平子君とともに何曲も歌ってました。。
南原さんの歌声がかすれ気味のときが2度ほどあり、少し気になったのですが、本当にかすれていたわけではなく、ちょっとした体調の加減だったようで。
舞台の出来としてかすれ声はどうなのかな?という気もしますが、その後の演技には影響は出ておらず、こちらは何よりでした。
あとは、やっとのことで酒を飲んだあとに舌鼓を打つ場面。
いい音がしたりそうでなかったり、公演によってまちまちでしたが、やはり、舌鼓は「タン」といい音がしたほうが場が締まります(笑)。
南原さん以外の感想では。
平子君は相変わらずベテラン狂言師みたいだな~(笑)。
それから、途中に出てくる擬音が面白く、これも600年まえからあったのか、と笑いながらも感心。
酒蔵の鍵を開けるときの「ピーン」という音や、酒壺の蓋の紙を開ける「ムリムリムリ」という擬音など、その響きに単純に笑ってしまいました。
太郎冠者と次郎冠者が協力して酒を飲むときの「静かに」「こぼすな」「静かに」「こぼすな」というやり取りの繰り返しも面白く、パンフレットに南原さんが書いていたように「ことば」の面白さを感じられる場面でした。
古典も何作も観ていると、さすがに台詞はどんなことを言っているのか大分わかるようになってきたのですが、歌のところは、いまいち聞き取ることが出来ず、ちょい残念。
それから、縛られて舞を舞う太郎冠者と次郎冠者の場面も、元の舞がどんな感じなのかわかっていればさらに面白く観れたと思いますが、そのへんの素養がなくもうひとつ面白さが実感できなかったのも、ちょっと残念なところでした。
あ、それから、この「棒縛」で出てきた歌。
♪酒はもと薬なり♪♪世はまた人の情けなり♪
は、新作「ことだま交差点」では、
♪ことばはもと魂なり♪♪世はまた人の情けなり♪
というふうに、つながっていたんだ!?ということを、今になって気づき、改めて感心してしまいました(笑)。
ちなみに「棒縛」では、太郎冠者が「ご許されませご許されませ」、主人が「やるまいぞやるまいぞ」と言いながら退場。
「ことだま交差点」でも南方朔が「ご許されませご許されませ」と言いながら退場しており(大神様は「やるまいぞ」とは言わず)こちらも、古典と新作がつながっている作りになっていました。
あとは、主人に騙されて縛られているのに、
太郎冠者「身から出した錆じゃ、しょうことがない」
次郎冠者「その通りじゃ」
と言ってるのが、なんか良いな~(笑)。
縛られてるのに怒るわけでもなく、呑気な会話をしている二人に思わず笑ってしまいました。
それから、最後の場面、次郎冠者が退場し、残された太郎冠者が縛られた手を主人顔のところに持っていき、
太郎冠者「やぁ」
主人 「やめぬか」
太郎冠者「やぁ」
主人 「やめぬか」
というやり取りも、何ともとぼけた感じ(笑)。
これぞ和楽の世界という感じの「棒縛」でありました。
続いての番組は、古典の「茸(くさびら)」
山伏が石井ちゃん、何某が三浦祐介さん、茸が弘道お兄さん、石本君、森君、ジョニ男さん、大野君、平子君、そして万蔵さん(東京公演では他に若手芸人ツインテルの倉沢学さん、勢登健雄さん、モグライダーのともしげさんが参加)。
あらすじは。
家に気味の悪い茸が生えてきたので、山伏を呼んで茸退治の祈祷をしてもらうが、祈祷の祈りをすればするほど茸の数は増えていく・・・。
「茸」の感想はというと・・・ジョニ男さんがずるい!(笑)
山伏の石井ちゃんが♪ぼ~ろ~ん♪ぼ~ろ~ん♪と祈祷すればするほど増える茸たち。
そんな中でヒメ茸(たけ)として登場したジョニ男さん。
ヒメ茸だけに綺麗なお姫さまのような着物を着て、舞台中央にちょこんとあの顔で座っただけで大笑い(笑)。
退場するときも、一人で最後に残って笑いをとってましたし、チョピ髭おじさん(茸のときはメガネなし)にはまんまとしてやられました(笑)。
ちなみに、普通は茸はお面をして演じるとのことでしたので、こういう笑いはちょっと反則かな?という気がしないでもありませんが(笑)、板橋では万蔵さんのちょっと辛そうな顔も観ることができましたので(笑)、こんな「茸」もあり・・なのかもしれません。
あと、今回初参加の三浦さんはいい声で、堂に入った何某(主人ではなく「なにがし」だったのか・笑)でした。

20分の休憩をはさみ。
最後の番組は、新作の「ことだま交差点」
下級の神様の南方朔が南原さん、サラリーマンの平均が森君、平均のことだまが弘道お兄さん、平子君、大野君、石本君、万蔵さん、平均の上司がジョニ男さん、上司のことだまが三浦さん、石井ちゃん。
大神様より「近頃言葉使いか怪しくなってきた人間界へ行き、人の心のうちに宿る美しい言葉を引き出し人の心を明るくせよ」という命を受けた南方朔。
渋谷の交差点に降り立った南方朔はサラリーマンの平均と出会うが・・・。
旗揚げ公演の新作「連句」と同じ、「ことば」をテーマにした「ことだま交差点」。
テーマは同じでも、懐古趣味などとは無縁。
より洗練され、この9年間培ってきたものがいかんなく発揮された作品になってました。
そして、南原さんらしい真摯な姿勢があらわれた脚本でもありました。
「ことだま交差点」で印象に残ったのは、南方朔が平均に言った「半歩の勇気」ということば。
人は急に生まれ変わったり、なりたい自分になれるわけではない。
何か呪文のようなものを唱えれば新しい自分になれる、というわけでもない。
あくまでも自分の力で着実に歩いていく、そうすれば道が開けてゆく・・・。
そんな考えが、「半歩の勇気」という言葉に集約されていたように思います。
これは、Ⅲの「サード・ライフ」の「自分探しではなく自分づくり」、Ⅷの「女王アリとキリギリスとカミキリムシ」の「目の前のことを懸命にやる、そうすればいつか素敵な縁(えにし)に出会えるかも・・」という言葉にも共通しているように思いますし、これこそが南原さんの真摯な姿勢の源のように思います。
・・・堅っ苦しい書き方をしましたが、ひと言でいうと「南原さんはちゃんとしてるな~」ということかな(笑)。
無いものねだりをするのではなく、泣き言をいうのでもなく、地に足つけてちゃんと生きている、そんな誠実な生き方が作品に反映されていて、こういうところが南原さんの最大の魅力の一つだと思いました。
あ、それから、「一歩踏み出す」と言わず「半歩」というところは南原さんらしいヒビリな性格を表してるのかな?という感じも(笑)。
(「嫌なら戻ればよい」というところはビビリな性格プラス優しさかな?・笑)
南原さんの真摯な姿勢というのは、「すべてのものはうつろいゆく」というもののとらえ方にも表れてるように感じました。
「生きるとは変わり続けること」というのを感傷的にとらえるのではなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、そのまま受け入れて前を向いて生きていくという覚悟。
これは、「HUG」の「あきらめた僕たち」とも共通しているように思います。
野球もギターもいろいろとあきらめた自分を、卑下するわけでもなく開き直るわけでもなく、そんな自分を素直に受け入れる。
変わっていく、変わってしまうということは、時にはつらく認めたくないこともありますが、それを直視することが出来る、というのが南原さんの誠実さであり強さでもあるのだろうと思いました。
それから、「すべてのものはうつろいゆく」というのは・・・。
「夕景」も「季節」も「ことば」も「現代狂言」も変わっていく。
でも、変わらないものも・・・その心や思いは変わらない。
だからこそ、俳句は季節季節の心を伝え、大神様は変わっいく「ことば」を憂いながらも「ヤバイということばひとつを上手に使いこなす・・」と言い、現代狂言は毎年テーマやアプローチの仕方を変えながらも、その思いや心は変わらず続いている。
かつて万之丞さんが「伝統は形ではなく心を伝える」と言っていましたが、それはこういうことなんだろうな~と、今回「ことだま交差点」を観て改めて思いました。

あとは・・・。
「連句」では東方朔だったけど、「ことだま交差点」では主人公は南方朔というのを見て、ちょっとニヤリ(笑)。
同じ下級の神様で演じてるのは南原さんですが、続編ではなくパラレルワールドだからこうなった、ということなのかな?
あ、でも、上司について愚痴るのは東方朔も南方朔も同じで、ちょっと笑ってしまいました(笑)。
それから、東方朔は烏帽子をかぶり神様らしい格好をしていましたが、南方朔はもっとラフな感じで、「サード・ライフ」のサルヒコを思わせる姿(しっぽは無し・笑)でした。
それから、今回いちばん心に残った場面は、南方朔と平均君、そして大神様が空の上から夕日を見るところ。
南方朔と平均君が橋掛かりの欄干の上に座っている姿は、二人がビルの上に座って夕日を見ているようでもあり、スカイツリーのてっぺんに座っているようでもあり、あるいは雲の上に座っているようでもあり、はたまた成層圏を飛び出して宇宙の入り口から地球を眺めているようでもあり・・・。
見方によっていくらでも想像が膨らみ、これこそ南原さんが挨拶でいつも言っていた「セットも照明も何も変わっていない、変わっているのは皆さんの想像力・・」というのを表現している場面になってました。
こんなふうにして、刻々と変わる壮大な夕景を空の上から見ていたら、いつもネガティブなことしか言わなかった平均君が心ときめくのも無理のないことです(笑)。
(ホールでは舞台最前に南方朔と平均が座る、という演出でしたが、能楽堂とまたひと味違う趣きがあり、こちらもまた良かったです。二人が舞台最前に座る前の、南方朔が前にいて斜め右を見ている、平均は後ろにいて同じく斜め右を見ている、という場面でも、二人はちゃんと上と下で顔を見合わせて喋ってるように見えて、感心してしまいました)
それにしても、想像で作り上げる場面というのは、本当に豊かな世界だな~。
いくらリアルなセットを舞台上に作っても、それはよく出来た偽物でしかないわけで。
流行りのプロジェクションマッピングですごい映像を見せても、それは、見えているもの以上でなければ以下でもない。
でも、想像の中で出来た世界に限度はなく、無限に広がっていく・・・。
これらのことは600年前から続いていることであり、今さら私が力説しなくてもいいのですが(笑)、古典ではなく新作の「ことだま交差点」でこういう表現がなされているというのが、うれしいことであります。
いくら演出でこういう場面を作り出しても、演者の技量がなければ観客にいろいろな場面を想像をさせることは出来ないと思いますが、南方朔が空の上から「お~い!へいき~ん!実に良い眺めじゃぞ~~!」と呼びかける時の発声の仕方などは、遠くにいる人に呼びかける時の声だな、というのがよくわかり、大いに感心。
想像の世界を作るうえで大きな役割を果たす演技だったように思います。
もちろん南原さんの演技だけではなく、これらの場面を構成していた現代狂言一座の力があってのことだと思いますが、兎にも角にも、何度観ても引き込まれるいい場面でした。
そして、こういうところに9年間培ってきたものが出ているんだと思うと、感慨もひとしおでありました(笑)。
(ファンの贔屓目込みで観ていますので、評価は3割増しくらいかもしれませんが・笑)
それから、もう一つ心にとても残る場面が。
それは、大神様が「すべてのものはうつろいゆく」と説いたあと、ことだまたちが立ち上がり、
「心は聞き取る、お前のことばを」
「心は受け取る、言うことばを」
「心は傷つく、言うことばで」
「心は喜ぶ、お前の言うことばに」
と言う場面。
特別なことを言ってるわけではないのですが、ことだまたちが言うこの「ことば」を聞くと、自分の心の中の凝り固まっていた感情が、すーっとほぐれていくような気が・・・と同時に涙がじわっ(笑)。
う~む、本当に心に響く「ことば」だったな~。
きっと、凝り固まったものというのは私の中にあるネガティブな感情、言い換えれば平均君的な感情で(笑)、それが、壮大な夕日を観たりことだまたちのことばを聞くことにより、平均君と同じように心ときめき素直になっっていった、ということなのかもしれません。
・・・まったくの私の個人的な感情で、何のことやらという感じだと思いますが、ここもいい場面だったということで悪しからずご了承ください(笑)。
あと、印象に残っているのは、平均君がことだまたちに無言の世界に引きずり込まれる場面。
それまで仲間だと思っていたことだまが豹変し、ネガティブなことを口にしながら平均の周りに集まりだす。
そして無言の世界へと引きずり込んでいく。
まるで、ホラー映画で主人公が悪霊たちに地獄の底へ連れ去られていく場面のようで、怖かったな~。
ただ、どの公演でも、この場面ではだいたい笑いがおこっていて「あれれ?」という感じだったのですが(森君が「あ~!」と言いながら引っ張られていく様は確かに面白かったですが・笑)、私などは、面白さよりも怖さのほうが先に立ってしまいました(笑)。
(あ、でも、初めて観たときは私も笑いながら観ていたような気もしますので、その時々で観方も変わる、ということなのかもしれません)。
それから、「人は言葉で出来ている」「美しい言葉を使えばその者は心も晴れる」というのは、その通りだなと素直に納得。
私もブログを始めるときに、「文は人なり」という言葉を心にとどめ、出来るだけちゃんとした言葉(「美しい言葉」というのはちょっとおこがましいので・笑)を使っていきたいと思いながら記事を書くようにしていました。
ネットなどではネガティブな言葉をよく見かけますが、ああいう言葉を書いてる人は自分の書いたものを読み返したりしないのかな?そのとき自分で自分の毒(ネガティブな言葉)にあたったりしないのかな?という疑問も。
ネットのネガティブなことばと、「ことだま交差点」に出てくるネガティブなことばは少し意味合いが違う気もしますが、やはり美しい言葉を使い、心は晴れて明るくなったほうが良いことに変わりありません。はい。
あとは・・・森君はダメサラリーマンがよく似合う、とか(笑)。
ジョニ男さんは相変わらずジョニ男さんだな~(笑)。
現代狂言に南原さんの社交ダンス(ステップ)はやっぱり欠かせないな~(笑)
その南原さんのステップはさすがで、その場でクルクルと華麗に回転したときなどは客席から「お~」という小さ歓声が上がっていたこともあったっけ。
万蔵さんの舞は、こちらもさすがに堂に入っていて、南方朔じゃないけど「ここだけ異様にうまい」(笑)。
「ことだま交差点」を観て以降、会話やテレビなどで「ヤバイ」という言葉が出てくると思わず笑ってしまう。
などなど、細かな感想は色々とあるのですが、キリがなくなりそうなので今回はこのへんで(笑)。
・・・取り留めのないことを長々と失礼しました。
最後までご清聴ありがとうございました(笑)。
あれもこれもとついつい語りたくなる、現代狂言Ⅸでありました。
ちなみに、前にも書きましたが万蔵さんによると、現代狂言Ⅹは、来年の3月4日、5日の国立能楽堂公演は決まってる、とのこと。
今回、9年目で集大成的な新作だったので、10年目はどうなるんだろう?と、楽しみでもありちょっと心配でもあるのですが(笑)、兎にも角にも、来年の公演を(鬼が笑うのもためらうほど先の話ですが・笑)今から楽しみにしたいと思います。
私は、2月7日国立能楽堂で行われた昼夜の2公演、2月8日同じく国立能楽堂の2公演、2月21日の福島棚倉公演、そして3月7日の東京板橋公演へ行ってきました。
計6公演を観劇した現代狂言Ⅸの感想を、あれこれと。

まずは、古典の「棒縛」。
太郎冠者が南原さん、次郎冠者が平子君、そして主人が万蔵さん。
あらすじは。
自分が外出しているときに太郎冠者と次郎冠者が盗み酒をしていることに気づいた主人。
二人をだまし、太郎冠者は棒に縛り、次郎冠者は後ろ手に縛って外出する。
残された二人は、縛られたまま酒を飲もうと知恵を絞る。
何とか酒にありついた二人は、歌を歌い舞を舞っていたが、そこへ主人が帰ってくる・・・。
タイトル通り棒に縛られていた太郎冠者の南原さん(笑)。
でも、縛られる前には、こんなふうに棒を使えるんですよ~というのを主人と次郎冠者に披露(というか自慢・笑)。
10月の「伝統WA感動・日本の笑い-古典」で公開初稽古をしていたときは、南原さんは棒を握る手が上か下かよくわからずあたふたとしていましたが(笑)、今回はもちろんそんなことはなく、鮮やかな棒さばきを披露してました。
ただ、初稽古のとき万蔵さんは「棒の使い方などは、綺麗にやるけど格好良くやってもしょうがない。サーカスで言うと空中ブランコを本当はできるのにわざと失敗するピエロみたいなもの」という話も。
南原さんの棒さばきがその域まで達していた・・のかどうかは素人の私には判断は出来ませんでしたが、綺麗にやっていたことは間違いありませんでした。
棒さばき以外の見どころはというと・・・やはり南原さんの顔芸でしょう(笑)。
お酒の匂いを嗅ごうとしたり、棒に縛られた手で飲めない酒を必死に飲もうとする南原さんの表情と動きには、大笑いしてしまいました。
前のほうの表情が良く見える席だと面白さはさらに倍(笑)。
久々の南原さんの顔芸を観れただけでも行った甲斐がありました(笑)。
そんな顔芸も含めこの役は南原さんに合っている、という感じでしたが、だから万蔵さんはこの演目を選んだのかもしれません。
それにしても、ずーっと棒に縛られたまま演技をしたり舞を舞うというのは本当に大変だろうな~。
体力的に大変なのはもちろん、あんなふうに案山子のように棒に縛られていたら、お酒が飲めないだけではなく鼻の先が痒くなってもかけないし、トイレにも行けないし・・などと考えてしまいましたが(笑)、いや、でも、稽古もかなり大変だったのではないのかな?というのは想像に難くなく、本当にお疲れ様でした、であります。
それから、今回は舞いだけではなく、歌(謡と書くのかな?)も平子君とともに何曲も歌ってました。。
南原さんの歌声がかすれ気味のときが2度ほどあり、少し気になったのですが、本当にかすれていたわけではなく、ちょっとした体調の加減だったようで。
舞台の出来としてかすれ声はどうなのかな?という気もしますが、その後の演技には影響は出ておらず、こちらは何よりでした。
あとは、やっとのことで酒を飲んだあとに舌鼓を打つ場面。
いい音がしたりそうでなかったり、公演によってまちまちでしたが、やはり、舌鼓は「タン」といい音がしたほうが場が締まります(笑)。
南原さん以外の感想では。
平子君は相変わらずベテラン狂言師みたいだな~(笑)。
それから、途中に出てくる擬音が面白く、これも600年まえからあったのか、と笑いながらも感心。
酒蔵の鍵を開けるときの「ピーン」という音や、酒壺の蓋の紙を開ける「ムリムリムリ」という擬音など、その響きに単純に笑ってしまいました。
太郎冠者と次郎冠者が協力して酒を飲むときの「静かに」「こぼすな」「静かに」「こぼすな」というやり取りの繰り返しも面白く、パンフレットに南原さんが書いていたように「ことば」の面白さを感じられる場面でした。
古典も何作も観ていると、さすがに台詞はどんなことを言っているのか大分わかるようになってきたのですが、歌のところは、いまいち聞き取ることが出来ず、ちょい残念。
それから、縛られて舞を舞う太郎冠者と次郎冠者の場面も、元の舞がどんな感じなのかわかっていればさらに面白く観れたと思いますが、そのへんの素養がなくもうひとつ面白さが実感できなかったのも、ちょっと残念なところでした。
あ、それから、この「棒縛」で出てきた歌。
♪酒はもと薬なり♪♪世はまた人の情けなり♪
は、新作「ことだま交差点」では、
♪ことばはもと魂なり♪♪世はまた人の情けなり♪
というふうに、つながっていたんだ!?ということを、今になって気づき、改めて感心してしまいました(笑)。
ちなみに「棒縛」では、太郎冠者が「ご許されませご許されませ」、主人が「やるまいぞやるまいぞ」と言いながら退場。
「ことだま交差点」でも南方朔が「ご許されませご許されませ」と言いながら退場しており(大神様は「やるまいぞ」とは言わず)こちらも、古典と新作がつながっている作りになっていました。
あとは、主人に騙されて縛られているのに、
太郎冠者「身から出した錆じゃ、しょうことがない」
次郎冠者「その通りじゃ」
と言ってるのが、なんか良いな~(笑)。
縛られてるのに怒るわけでもなく、呑気な会話をしている二人に思わず笑ってしまいました。
それから、最後の場面、次郎冠者が退場し、残された太郎冠者が縛られた手を主人顔のところに持っていき、
太郎冠者「やぁ」
主人 「やめぬか」
太郎冠者「やぁ」
主人 「やめぬか」
というやり取りも、何ともとぼけた感じ(笑)。
これぞ和楽の世界という感じの「棒縛」でありました。
続いての番組は、古典の「茸(くさびら)」
山伏が石井ちゃん、何某が三浦祐介さん、茸が弘道お兄さん、石本君、森君、ジョニ男さん、大野君、平子君、そして万蔵さん(東京公演では他に若手芸人ツインテルの倉沢学さん、勢登健雄さん、モグライダーのともしげさんが参加)。
あらすじは。
家に気味の悪い茸が生えてきたので、山伏を呼んで茸退治の祈祷をしてもらうが、祈祷の祈りをすればするほど茸の数は増えていく・・・。
「茸」の感想はというと・・・ジョニ男さんがずるい!(笑)
山伏の石井ちゃんが♪ぼ~ろ~ん♪ぼ~ろ~ん♪と祈祷すればするほど増える茸たち。
そんな中でヒメ茸(たけ)として登場したジョニ男さん。
ヒメ茸だけに綺麗なお姫さまのような着物を着て、舞台中央にちょこんとあの顔で座っただけで大笑い(笑)。
退場するときも、一人で最後に残って笑いをとってましたし、チョピ髭おじさん(茸のときはメガネなし)にはまんまとしてやられました(笑)。
ちなみに、普通は茸はお面をして演じるとのことでしたので、こういう笑いはちょっと反則かな?という気がしないでもありませんが(笑)、板橋では万蔵さんのちょっと辛そうな顔も観ることができましたので(笑)、こんな「茸」もあり・・なのかもしれません。
あと、今回初参加の三浦さんはいい声で、堂に入った何某(主人ではなく「なにがし」だったのか・笑)でした。

20分の休憩をはさみ。
最後の番組は、新作の「ことだま交差点」
下級の神様の南方朔が南原さん、サラリーマンの平均が森君、平均のことだまが弘道お兄さん、平子君、大野君、石本君、万蔵さん、平均の上司がジョニ男さん、上司のことだまが三浦さん、石井ちゃん。
大神様より「近頃言葉使いか怪しくなってきた人間界へ行き、人の心のうちに宿る美しい言葉を引き出し人の心を明るくせよ」という命を受けた南方朔。
渋谷の交差点に降り立った南方朔はサラリーマンの平均と出会うが・・・。
旗揚げ公演の新作「連句」と同じ、「ことば」をテーマにした「ことだま交差点」。
テーマは同じでも、懐古趣味などとは無縁。
より洗練され、この9年間培ってきたものがいかんなく発揮された作品になってました。
そして、南原さんらしい真摯な姿勢があらわれた脚本でもありました。
「ことだま交差点」で印象に残ったのは、南方朔が平均に言った「半歩の勇気」ということば。
人は急に生まれ変わったり、なりたい自分になれるわけではない。
何か呪文のようなものを唱えれば新しい自分になれる、というわけでもない。
あくまでも自分の力で着実に歩いていく、そうすれば道が開けてゆく・・・。
そんな考えが、「半歩の勇気」という言葉に集約されていたように思います。
これは、Ⅲの「サード・ライフ」の「自分探しではなく自分づくり」、Ⅷの「女王アリとキリギリスとカミキリムシ」の「目の前のことを懸命にやる、そうすればいつか素敵な縁(えにし)に出会えるかも・・」という言葉にも共通しているように思いますし、これこそが南原さんの真摯な姿勢の源のように思います。
・・・堅っ苦しい書き方をしましたが、ひと言でいうと「南原さんはちゃんとしてるな~」ということかな(笑)。
無いものねだりをするのではなく、泣き言をいうのでもなく、地に足つけてちゃんと生きている、そんな誠実な生き方が作品に反映されていて、こういうところが南原さんの最大の魅力の一つだと思いました。
あ、それから、「一歩踏み出す」と言わず「半歩」というところは南原さんらしいヒビリな性格を表してるのかな?という感じも(笑)。
(「嫌なら戻ればよい」というところはビビリな性格プラス優しさかな?・笑)
南原さんの真摯な姿勢というのは、「すべてのものはうつろいゆく」というもののとらえ方にも表れてるように感じました。
「生きるとは変わり続けること」というのを感傷的にとらえるのではなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、そのまま受け入れて前を向いて生きていくという覚悟。
これは、「HUG」の「あきらめた僕たち」とも共通しているように思います。
野球もギターもいろいろとあきらめた自分を、卑下するわけでもなく開き直るわけでもなく、そんな自分を素直に受け入れる。
変わっていく、変わってしまうということは、時にはつらく認めたくないこともありますが、それを直視することが出来る、というのが南原さんの誠実さであり強さでもあるのだろうと思いました。
それから、「すべてのものはうつろいゆく」というのは・・・。
「夕景」も「季節」も「ことば」も「現代狂言」も変わっていく。
でも、変わらないものも・・・その心や思いは変わらない。
だからこそ、俳句は季節季節の心を伝え、大神様は変わっいく「ことば」を憂いながらも「ヤバイということばひとつを上手に使いこなす・・」と言い、現代狂言は毎年テーマやアプローチの仕方を変えながらも、その思いや心は変わらず続いている。
かつて万之丞さんが「伝統は形ではなく心を伝える」と言っていましたが、それはこういうことなんだろうな~と、今回「ことだま交差点」を観て改めて思いました。

あとは・・・。
「連句」では東方朔だったけど、「ことだま交差点」では主人公は南方朔というのを見て、ちょっとニヤリ(笑)。
同じ下級の神様で演じてるのは南原さんですが、続編ではなくパラレルワールドだからこうなった、ということなのかな?
あ、でも、上司について愚痴るのは東方朔も南方朔も同じで、ちょっと笑ってしまいました(笑)。
それから、東方朔は烏帽子をかぶり神様らしい格好をしていましたが、南方朔はもっとラフな感じで、「サード・ライフ」のサルヒコを思わせる姿(しっぽは無し・笑)でした。
それから、今回いちばん心に残った場面は、南方朔と平均君、そして大神様が空の上から夕日を見るところ。
南方朔と平均君が橋掛かりの欄干の上に座っている姿は、二人がビルの上に座って夕日を見ているようでもあり、スカイツリーのてっぺんに座っているようでもあり、あるいは雲の上に座っているようでもあり、はたまた成層圏を飛び出して宇宙の入り口から地球を眺めているようでもあり・・・。
見方によっていくらでも想像が膨らみ、これこそ南原さんが挨拶でいつも言っていた「セットも照明も何も変わっていない、変わっているのは皆さんの想像力・・」というのを表現している場面になってました。
こんなふうにして、刻々と変わる壮大な夕景を空の上から見ていたら、いつもネガティブなことしか言わなかった平均君が心ときめくのも無理のないことです(笑)。
(ホールでは舞台最前に南方朔と平均が座る、という演出でしたが、能楽堂とまたひと味違う趣きがあり、こちらもまた良かったです。二人が舞台最前に座る前の、南方朔が前にいて斜め右を見ている、平均は後ろにいて同じく斜め右を見ている、という場面でも、二人はちゃんと上と下で顔を見合わせて喋ってるように見えて、感心してしまいました)
それにしても、想像で作り上げる場面というのは、本当に豊かな世界だな~。
いくらリアルなセットを舞台上に作っても、それはよく出来た偽物でしかないわけで。
流行りのプロジェクションマッピングですごい映像を見せても、それは、見えているもの以上でなければ以下でもない。
でも、想像の中で出来た世界に限度はなく、無限に広がっていく・・・。
これらのことは600年前から続いていることであり、今さら私が力説しなくてもいいのですが(笑)、古典ではなく新作の「ことだま交差点」でこういう表現がなされているというのが、うれしいことであります。
いくら演出でこういう場面を作り出しても、演者の技量がなければ観客にいろいろな場面を想像をさせることは出来ないと思いますが、南方朔が空の上から「お~い!へいき~ん!実に良い眺めじゃぞ~~!」と呼びかける時の発声の仕方などは、遠くにいる人に呼びかける時の声だな、というのがよくわかり、大いに感心。
想像の世界を作るうえで大きな役割を果たす演技だったように思います。
もちろん南原さんの演技だけではなく、これらの場面を構成していた現代狂言一座の力があってのことだと思いますが、兎にも角にも、何度観ても引き込まれるいい場面でした。
そして、こういうところに9年間培ってきたものが出ているんだと思うと、感慨もひとしおでありました(笑)。
(ファンの贔屓目込みで観ていますので、評価は3割増しくらいかもしれませんが・笑)
それから、もう一つ心にとても残る場面が。
それは、大神様が「すべてのものはうつろいゆく」と説いたあと、ことだまたちが立ち上がり、
「心は聞き取る、お前のことばを」
「心は受け取る、言うことばを」
「心は傷つく、言うことばで」
「心は喜ぶ、お前の言うことばに」
と言う場面。
特別なことを言ってるわけではないのですが、ことだまたちが言うこの「ことば」を聞くと、自分の心の中の凝り固まっていた感情が、すーっとほぐれていくような気が・・・と同時に涙がじわっ(笑)。
う~む、本当に心に響く「ことば」だったな~。
きっと、凝り固まったものというのは私の中にあるネガティブな感情、言い換えれば平均君的な感情で(笑)、それが、壮大な夕日を観たりことだまたちのことばを聞くことにより、平均君と同じように心ときめき素直になっっていった、ということなのかもしれません。
・・・まったくの私の個人的な感情で、何のことやらという感じだと思いますが、ここもいい場面だったということで悪しからずご了承ください(笑)。
あと、印象に残っているのは、平均君がことだまたちに無言の世界に引きずり込まれる場面。
それまで仲間だと思っていたことだまが豹変し、ネガティブなことを口にしながら平均の周りに集まりだす。
そして無言の世界へと引きずり込んでいく。
まるで、ホラー映画で主人公が悪霊たちに地獄の底へ連れ去られていく場面のようで、怖かったな~。
ただ、どの公演でも、この場面ではだいたい笑いがおこっていて「あれれ?」という感じだったのですが(森君が「あ~!」と言いながら引っ張られていく様は確かに面白かったですが・笑)、私などは、面白さよりも怖さのほうが先に立ってしまいました(笑)。
(あ、でも、初めて観たときは私も笑いながら観ていたような気もしますので、その時々で観方も変わる、ということなのかもしれません)。
それから、「人は言葉で出来ている」「美しい言葉を使えばその者は心も晴れる」というのは、その通りだなと素直に納得。
私もブログを始めるときに、「文は人なり」という言葉を心にとどめ、出来るだけちゃんとした言葉(「美しい言葉」というのはちょっとおこがましいので・笑)を使っていきたいと思いながら記事を書くようにしていました。
ネットなどではネガティブな言葉をよく見かけますが、ああいう言葉を書いてる人は自分の書いたものを読み返したりしないのかな?そのとき自分で自分の毒(ネガティブな言葉)にあたったりしないのかな?という疑問も。
ネットのネガティブなことばと、「ことだま交差点」に出てくるネガティブなことばは少し意味合いが違う気もしますが、やはり美しい言葉を使い、心は晴れて明るくなったほうが良いことに変わりありません。はい。
あとは・・・森君はダメサラリーマンがよく似合う、とか(笑)。
ジョニ男さんは相変わらずジョニ男さんだな~(笑)。
現代狂言に南原さんの社交ダンス(ステップ)はやっぱり欠かせないな~(笑)
その南原さんのステップはさすがで、その場でクルクルと華麗に回転したときなどは客席から「お~」という小さ歓声が上がっていたこともあったっけ。
万蔵さんの舞は、こちらもさすがに堂に入っていて、南方朔じゃないけど「ここだけ異様にうまい」(笑)。
「ことだま交差点」を観て以降、会話やテレビなどで「ヤバイ」という言葉が出てくると思わず笑ってしまう。
などなど、細かな感想は色々とあるのですが、キリがなくなりそうなので今回はこのへんで(笑)。
・・・取り留めのないことを長々と失礼しました。
最後までご清聴ありがとうございました(笑)。
あれもこれもとついつい語りたくなる、現代狂言Ⅸでありました。
ちなみに、前にも書きましたが万蔵さんによると、現代狂言Ⅹは、来年の3月4日、5日の国立能楽堂公演は決まってる、とのこと。
今回、9年目で集大成的な新作だったので、10年目はどうなるんだろう?と、楽しみでもありちょっと心配でもあるのですが(笑)、兎にも角にも、来年の公演を(鬼が笑うのもためらうほど先の話ですが・笑)今から楽しみにしたいと思います。