高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

Big Ship

2014-03-31 16:57:12 | 日記

あ~!!! 本当にさら地になってる!!

子ども達の送迎に札幌を往復。 帰りに新川通りを通ったので、昨秋Kazuから聞いていた「Big Shipが取り壊されていますよ」情報を確認に行きました。 本当でした。 2014年3月31日、年度の終わりに見たこの光景には感慨深いものがありました。

 都市型総合レジャー施設Big Ship は、船の形をした3階建ての建物でした。この建物の設計企画の段階から担当役員1名の下に3名のスタッフのチーフとして関わりました。1987年??頃かな。バブル不動産景気の最期です。 先の昭和天皇が崩御するかしないか、長期入院をされていた昭和の終わりにオープンしました。オープン直後は3階のプール・アスレチックゾーンのフロアー長をした30代中盤でした。

その後、経営者は何度か変わりましたが、20年以上も存在をしておりましたが・・・、ついに取り壊し。時代の移りを感じるなあ。

大学を卒業して最初に勤めた貿易会社の社長と喧嘩して尻まくって会社を辞めたのですが、その時の上司のUさんが間を取り持って取引先でもあったマンション不動産会社のM社を紹介してくださいました。当時はバブル景気と言われた好景気、日本のあちらこちらにリゾートや都市型レジャー施設が林立した時代でした。私は、なんと「ゴルフ場開設準備室」の一員となりました。恵庭にあるジャンボ尾崎監修のゴルフ場です。 そして、ほどなくして、このBigShipの開業準備室のスタッフに抜擢されました。 本州で流行していた大型浴場を併設したレジャー施設の開発でした。担当役員1名の下の3名のスタッフのチーフ役でした。設計企画の段階からの関わりでした。

時期を同じくして、札幌の郊外にテルメ、市内に黎明薬湯、すすきのにジャスマックプラザが企画されていることがわかり、準備段階から競争が始まりました。 以来足掛け2年でオープン。様々な初めてのことをやりました。

基本設計には、大型浴場はもとより、プール、アスレチック、大食堂以外に回転寿司、お好み焼き屋、ファーストフードコーナー、床屋に美容室、マッサージコーナー、子どもランド、ゲームコーナー、漫画図書コーナーとありとあらゆる施設が取り込まれました。 その全館の調度品、什器、設備など建設費以外の初期投下の見積もりから始まりました。フロントの入館システムから厨房器具、ランドリー施設、従業員のユニフォーム、家具とありとあらゆるものでした。 イベントの企画と見積もり、広報のあり方と予算立てまでもあり、わからないことも多く、実際にいろいろと体験に行きました。

本州へ出張し一日に4件も大型銭湯施設を回る、すすきののラブホテルから出てくるタオルや浴衣洗い専門のランドリー会社に実習4日間、市内にオープンし始めたあちらこちらのスポーツジムでの体験、準備期間中に並行してオープンして行ったゴルフ場やホテル、イタリアンレストランの手伝い・・・・・世の中にさまざまな職業を知りました。

オープンに向けた人員と人件費のシュミレーション積算もしました。3人で始まった準備は、1年も経つと専門スタッフがどんどんヘッドハンティングされ開業準備室も徐々に大きくなってゆきました。オープン時には、短時間のパートさんを含めると、なんと300人以上だったと記憶しています。 まさに、バブリーでした。オープン数ヶ月まえには、3階のスポーツフロアーの責任者に任命されました。 私もスタッフのヘッドハンティングをしました・・・。

オープンすれば館内から10日間も出られないくらいに睡眠時間を削るような毎日。舞台に着ぐるみ着て立ったこともあれば、何時間も皿洗い、バックヤードで朝までタオルと浴衣たたみ、プールで溺れた女児に人工呼吸、深夜まで続く営業のためスタッフ懇親会の集合が深夜01時の大宴会・・・、ヤクザに絡まれ、お客さんに罵倒され、土下座までさせられた事件あり・・・・

はたまた、オープン2年後には早くもリストラ計画づくりと、鬼の首切り役・・・・

この話をすれば尽きません。 涙アリ、笑いアリ、怒りアリ、悲しみアリの数年でした。

ともあれ、波乱万丈な30代中盤の修行の場所でした。

更地にされた跡地をこの目で確認して・・・・、

あ~~~~、時代は完全に曲がったなあと、感じた 3月31日でした。

 

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廃校利用フォーラム

2014-03-31 07:57:14 | いろいろシゴト

全国には使われなくなった学校がたくさんあります。 これからもたくさん現れてきます。

農山漁村のソフトプログラムからの振興を応援している(財)まちむら機構が過去3年間に全国の廃校の利用状況を実際に訪問しながら調べました。そして、各地でフォーラムを開催してきました。北海道でも昨年、栗山町で北海道地域フォーラムがありました。今回はその集大成としての全国大会会で100数十名が東京に集まりました。 廃校は農山漁村ばかりでなく都市にも出現しています。

戦後まもない団塊の世代を称される年代は60代。各年代は200万人を越えています。 その第二次ベビーブーム世代も今や親。現代の子ども達は1学年100万人ちょっとしかいません。 そして、100万人を下回る状況はここ数年で訪れるでしょう。 田舎から廃校は出現しましたが、田舎から都会に大量に移住した世代のために造成された学校の統廃合も進んでいます。 札幌市でも増加しすでに民間に売却された施設もあります。

再利用の事例は多岐に渡っています。福祉施設、芸術・アート・木工等の作家利用、食堂や喫茶、食品加工場、そして、まだまだ数は少ないものの、黒松内ぶなの森自然学校としての利用もあります。全国に事例を聞いていて、ましてや北海道にもさまざまな利用がなされていることを改めて知った次第です。

 利用継続の課題は共通しています。 施設維持費用、雇用、地域内外のネットワークです。 しかし、これらはどんな事業を展開する時にも共通することでしょう。 廃校利用においての特徴的な課題があると私は思うのですが、まだまだそれは全体共有案件にはなっていないように思います。 廃校利用している団体の横のつながり、ネットワーキングは、この特徴的な課題の共有がなされなれば、意味がないでしょう。 特に、止めることができない人口減と少子高齢化が先に現れている田舎に立地する廃校利用団体においてはなおさらです。

 それは、なんでしょうか・・・。

私は、生き方暮らし方の問題だと思います。 

今回のフォーラムの基調講演は、半農半Xの生き方暮らし方を提唱し実践している塩見さんでした。私はこの1ヶ月の間に縁あって3回も塩見さん講演を聞いています。 お金をかけすぎず我が身として等身大の、そして地域の土地が持つ資源力も適正に使う農業をやりつつ、農以外にも副業を持つ生き方を実践されていると思います。

農業関係者の批判を敢えて覚悟して言えば・・・、

農山漁村地域の最大の資源・資本はは食料が生産できる里地里山・海や川そのものです。その資本そのものを減資してゆくような土地利用では持続可能性はないと思います。土地の価値を下げないために、つまり作物がより多く生産できるようにするために化学肥料が投入され、農薬が撒かれ、機械化が進めるためにお金が必要になる。なんだか矛盾しています。

日本の地勢は変化に富んでいるので食糧生産の方法も食材も実に多様です。 しかし、この多様な産地はTPPで象徴されるような食のグローバリゼーションの波に翻弄され、自らの特徴を忘れかねていないでしょうか・・・。

農作物は換金商品作物として、広域な流通には適さないにも関わらず、商品化したところから農業経済の混沌が始まったのではないか。

農山漁村には長い年月で培われてきた田畑のシゴト、海のシゴト、山のシゴトの知恵と技術があります。しかし、それが消えかかっている。

廃校の再利用のソフトには、本題が学校であろうと、アートであろうと福祉であろうと、最大の地域資源である食糧生産地の特徴を生かしたものが不可欠だと改めて感じることができた廃校フォーラムでした。

 

 

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