高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

ウルトラマンネオス

2024-03-26 20:51:11 | コラム風味

ウルトラマンシリーズに【ウルトラマンネオス】という存在をご存知ですか。

このウルトラマンは定番番組でTV放送はされておらず、ウルトラマンシリーズを広報するためのイベント用が役目だったみたいでしたが、何話かは制作がされていました。 確かウルトラマンコスモスかなにかで、主人公役者がなにかの事件で逮捕されてしまい、そのシリーズが途中で中止となってしまい、その代わりに代役放映されたらしい・・? また、関西方面だけの連続放送があったとか、少年雑誌に漫画版があったとの噂も耳にしていました。

私がネオスを知ったのは、子どもが小さい時に岩見沢グリーンランド(遊園地)に行った時に、ウルトラマンのライブショーがあったのですが、その時、舞台に登場したのがネオスだったのです。 当時私は、北海道自然体験学校NEOSという自然学校を始めた頃でした。

びっくりしたなあ!!!!

しかし、けっこう弱くて怪獣に負けそうになった時に、他のウルトラマンが複数現れて、怪獣を倒すというストーリーでした。 終了後に会場の片隅にワゴンセールで、ウルトラマンや怪獣の高さ5cmほどのデフォルメフィギアがザクザクと販売されており、その中から必死でネオスを見つけました。 その後、石黒ホーマー(今のDCM)で、20cmほどのフィギュアも見つけて数体も買ってしまった。(今まだに一体は愛車に乗っけています)

はたまた、サウンドトラック版のCDがあることも知り、当然に買い求めました。それが届いた時は興奮のあまりに包装をガチャガチャと破って、プラスチックケースを開けるときにケースを壊してしまうという失態も・・・。

その歌がまた、いいんだなあ。まるでNEOSの理念を歌っているような歌詞で。 子どものキャンプで聞かせて子らに歌わせたこともあったなあ・・。

インターネットで歌を見つけました。 ぜひお聞きください。

https://www.uta-net.com/song/163707/

♫ 輝く銀河の果てからぁ〜 ・・・ Don't give up NEOS ... ♫

 

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8月15日

2023-08-15 08:50:18 | コラム風味

8月15日  毎年、子ども自然体験キャンプの最中であり、なにか言わなければなあと思いつつも日は過ぎ去っていた。 今日は、話す内容も考えていないうちに

「今日は何の日か知っているかーい?」と、子どもキャンプの朝食時に問いかけた。

さっそく、手が上がり「森にいく日ぃー」と応えがあったが・・

「そういうことでなくてさ、もっと日本全体のことだよ・・・」

すると、上級生から「戦争が終わった日」との回答。

そう、今日は日本がアメリカやイギリス、オーストラリア、中国を敵として戦った太平洋戦争が終わった日。

大したことは子ども達に話してあげる知見もない、そもそも今のほとんどの日本人は直接な戦争体験がないのだ。その悲惨さを身の上、あるいは身近な人からも聴くことができなくなっている。80年も前のことなのだ。

でも、人間には想像力がある。 戦争の残酷さを描いた小説やニュースや映像もある。 何百万人も戦争によって殺されたのだ。 だから、そういったものをぜひ読んだり、観たりして、自分で戦争を想像して考えて欲しいと、伝えた。

自分としてはこの夏、731石井細菌豚の「悪魔の飽食」、占守島の少年戦車兵のドキュメント本を読んだ。

そして、アッツ島やキスカ島がどこにあるのか、今更ながら地図で調べた。 今はアメリカ合衆国のアラスカ準州に属する北海アリューシャン列島の島だと知った。 こんな北の果てから 南国の島々まで、中国全土まで領土領海にしようとしたこと自体が狂気の沙汰であったよな帝国日本時代は。

ここぶなの森自然学校には平和がある。

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なぜ、やまに登る(登った)のか・・・

2023-01-12 12:27:27 | コラム風味

人生振り返りシリーズ

自叙伝のようなブックレットを作ってくれるというので、古い写真を求められたのですが、そんなのあるかなあ・・と、古いアルバムを引っ張り出したら、岩登りにのぼせていた当時の写真がありました。

これは、利尻山の西大壁の中央稜だったかなあ、積雪期に登り、頂上直下のローソク岩前での記念撮影(左がアタシ)写真です。

20代、特に大学生時代は、社会人山岳会の札幌山岳会に所属していて岩登りに傾注していました。利尻は積雪期(とはいえほぼゴールデンウィーク)、夏と年に2度は出かけていました。

夏には西大壁にある青い壁という大岩壁の第二登を狙って先輩とでかけたことがありました。ルート中盤のハング(岩がせり出している場所)で、先輩が飛んで(滑落)して、宙吊りになり救出したことがありました。お互いにケガはなかったので、その後も完登を目指したのですが、アタシの握力が尽きて、握ったハンマーが手から離れない(手が開かない)というアクシデントで敗退。 3月には暴風雪に遭遇し、下山中に雪崩に流されて埋まったこともありました。

岩登りは北アルプスにも10日間くらい友人と3人と遠征し、涸沢にテントを張り、毎日のように滝谷、奥白又、屏風岩などをロッククライミングしました。さすがに5級ルートは無理でしたが、そのギリギリくらいのグレードであれば、落ちる気はしなかったなあ・・。

なんで、あんな危険な遊びをしていたんだろか・・・。

しかし、その過信のゆえに、冬の小樽赤岩の東大壁北大ルートの3ピッチだったか、小さなハングの乗っ越の時、目の前のハーケンが抜けて飛んだ、その下のハーケン(岩の隙間に打ち付けてカラビナという輪をかけてロープを通し滑落時に制動をかけて安全を確保する釘みたいなもの)も、ピンピンと二本も抜けたが、幸いにも三本目が効いて、岩に叩きつけられて止まった)。膝の下を大きくケガしたのですが、なんとか下山(というよりも大小の岩が積み重なっている斜面のガレ場を登り返す)を止血した足を引きずってほぼ自力で)して、テント場へついた。(この時、すぐに病院に運んでもらえるとアタシは安心したが、先輩が「紅茶のんで一息しよう・・」と言った時は、気絶しそうになったなあ)

映画にもなったマンガ「神々の山稜」は、エベレストの南壁登はんを目指す登山家の話、小説「還るべきところ」も心臓ペースメーカーを埋め込んでいるのにヒマラヤをめざしはじめ遭難してしまう会社社長の話なのですが、それほどまでの大それた登山はしていなくとも、その描かれる情景は容易・リアルに想像できるので、山登りをしなくなった今でものめり込めました。

あの頃は、実際に仲間を山で何人も失った。今日隣で一緒に飲んで、別々の山にでかけて、その彼は帰らず遭難死したりもしました。山で失った仲間、知人は指折り数えられます・・。

イギリスの登山家マロリーは、エベレスト初登頂を目指しましたが帰らぬ人となりました。彼は「なぜ山に登るのか」と問われ「そこに山があるから」という有名な言葉を残していますが、 今、アタシが、「なぜ山に登ったか」と問われれば、

その時は、思いも感じもせずにやっていましたが、「生きている実感がリアルに体感できること」が面白かったんだろうと、写真を見て思いましたがな・・・。

 

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私の大事なもの紹介

2023-01-10 13:38:01 | コラム風味

私の大事なもの紹介 その1

そろそろ終活断捨離しなくちゃあいけないお年頃なのですが、手放せないものがいくつかあります。 紹介の第一番目は、インディアンドラムです。 これは赤井川村にあるとんでんファーム(という名前だったかな?それともホピの丘?)のアメリカインディアングッツを売っているコーナーで10数年ほど前に出会ってしまいました。 店主に聞くと、「これは売りものではない」と言われたのですが、何度か通ってしつこく交渉して、大枚はたいて売ってもらった代物です。

元来、アタシは鳴り物楽器が操れないクセに好きで、ドラム系のジャンベやカホーン、土器太鼓、民族系タンバリンなど複数を持っていますが、このインディアン太鼓の音・響きがとても好きなのです。和太鼓の演奏を聞くのも好みですが、イ太鼓の音の方が、私の遺伝子振動と共鳴するらしく、昔は車に積んで森の中にゆき、エンヤのCDを思い切り大きくかけて、それに合わせてひとりで叩くなんてこともしていました・・・と、無我の境地に入れます。

以前、フランス語圏西アフリカ諸国のJICA研修生を受け入れたときに、夕食後にこれら鳴り物を叩いてアフリカンダンスに興じるというにぎやかな晩がありました。この時は私の鳴り物たちも大活躍をしました。

イ太鼓のあそび方として、数人でバチで自由にそれでもお互いに調和するように叩き、ひとりがそれまでのリズムと変えると、他の人がそれに合わせるように自分の叩き方・リズムを変えて再び調和させてゆくという遊びはなかなか楽しいのであります。

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自然体験をなぜにして仕事にしたか その4

2023-01-07 16:01:27 | コラム風味

年始、人生のふりかえり物語の続きですぅ。 (またも長いです) 大学卒業から北海道自然体験学校NEOS設立まで。

 さて、大学を卒業して農業機械の輸入商社に入り、北欧やヨーロッパに入社2年目から年に1,2度出張をさせてもらえました。農機だけではこれからはダメだろうということで、私は外国為替。輸入デリバリーの事務仕事と並行して、農機以外の日用雑貨や建築資材の営業もしました。この時の北欧での体験も今のアタシに大きな影響を与えています。(これを書くとさらに長くなってしまいますので割愛しますが・・・) フィランドでもスエーデンでも若い私でも一応バイヤー(買い手)ですから、接待をしてくれるのですが、(まっお金を掛けてなんかいられないということもあるんでしょうが・・)だいたいにおいて「うちの街をみてください」ということで都市郊外の住宅地や自宅に連れてゆかれるのです。それがまた、森の中にあって、多くは真冬に行ったのですが、スキー場や室内プールがあり、家には暖炉に薪ストーブととても豊かでゆったりとした自然の中での生活があるのです。 将来はそんな暮らしがしたいなあと思わされましたな。

が、20代の後半に社長と衝突してしまい、輸入商社を会社を止めました。(この社長からは仕事の厳しさをたんと学ばせていただきました) 時は、バブル経済と言われた右肩上がりの高景気でした。すぐに引く手があって、退職後3日目には転職ができましたが、そこは不動産開発会社・いわゆるデベロッパーでありました。 そこで、複合レジャー施設開発という仕事場をもらい、札幌新川にビッグシップという船の形をしたいわゆる健康ランドという建物の開業準備室という勤務となりました。担当役員とスタッフ3名という小世帯部署でしたが、なにから何までやりました。 設計段階から内装・インテリア計画、必要な汁器、部署ごとの制服、人員計画と人件費と見積もり、ランドリーは自前でしたので、その機械の選定(実際のランドリーに実習にもゆきました。)スタッフの募集や面接取り仕切りと徐々に準備室員は増えましたが、・・4人で始まった準備室は1年半後の開業直前にはパートさんも含めて200人を超える規模となりました。 時は昭和天皇が病床でお亡くなりになるかならないかの自粛ムードの頃でオープンが延期に延期を繰り返し(準備が間に合っていなかったので、長生きしてくださいと祈ったなあ・・)したが、正月にオープン。 ここでは、最上階にあったスポーツフロアー(アスレチック機器、エアロビクスなどのスタジオ、競泳もできるサイズのレジャープール有り)のフロアーマネージャーとなりました。チーイントラクター級からフロントスタッフまでヘッドハンティングしたり、プログラム作り、スタッフ研修とてんてこ舞いでした。正月オープン時は物珍しさもあって連日大入り満員。艦(船ですから)に入ったら1週間ほど外にでられない大忙しで、宴会場の着ぐるみ劇に出演したり、ラーメンどんぶり洗い、アイスクリーム売り、ランドリーの洗濯物たたみと、七変化。なんでもやりました。 ヤクザに絡まれてその対応に飛び回り(特にリストラ社長命令で子どもの水泳教室を閉鎖する時に、子どもを通わせていた母親・ヤクザのおカミさん(父親は銃刀法違反で服役中だった・・・)との対応交渉はたいへんだったなあ・・人生でただ一度、土下座をして謝った)と・・・、かなりの人生経験を積まされました、残業手当がほとんどないマネージャークラスにはユンケル皇帝液や牡蠣エキスが配られたり、今なら労基違反ものでしたなあ・・(健康ランドならぬ、社員にとっては不健康ランドと揶揄していたな)。 バブル経済は24時間回るようになると、会社トップから末端社員まで本気で信じていて、スポーツフロアーの営業は平日は深夜0時まで、休日前は深夜2時までとされて(風呂と全艦は年中無休24時間オープン)、昼10時出勤、就業見回りを終えての帰宅は朝3時、4時と夏には空が明るくなる頃に帰宅するという昼夜逆転の生活となりました。 スタッフの忘年会などは、予約したスナックに深夜1時集合なんて。。、むちゃくちゃだったよなあ・・。 しかし、商社マンと違った、世の中全体のあらゆる仕事というものが一度に知れたような凝縮した数年でしたな。

話は自然体験と仕事にもどして・・、実は、ここで始めた水泳教室の子どもたち向けに夏休みキャンプを実施したのが、お金をいただいての初めての有料自然体験キャンプでした。(赤井川村で2泊3日。10数人の参加だったかな・・)

 

1年半ほど現場をしたあとに本社に戻されて、千葉幕張の土地開発コンペ要員となり、東京に単身赴任をさせられました。千葉県が所有する土地を払い下げてもらう、そのために何を建設するかの競争コンペでした。当社は「21世紀に向かう健康複合施設」というコンセプトで開発計画をプレゼンすることになりました。その案を作るという大役でした。計画から現場体験をしたビックシップを下敷きにスポーツ・健康に関わるジム、プール、ショッピングモール、飲食店が入る総合施設を企画提案することになりました。 しかし、ここで大きな問題にぶつかりました。コンペを組む設計会社(日建設計という最大手のひとつ)から、「千葉県は今、老人をあずけっぱなしにしてしまう健康ランドが林立していて、社会問題化しているので、高齢者という言葉は使わないほうがいい」という注文でした。 21世紀(2000年代ですね)の経営にも耐えうる施設開発をせよという命と反するわけです・・・。悩みました、アイディアが出てきません・・・。

しかし、あるとき、突然に気が付いたのです。当時は三十二、三歳になったころでしたが、21世紀に高齢者になるのは、ほかならぬアタシじゃあないか!!と。 今目の前の高齢者問題と、私の時代の高齢者問題はまったく違うものになるだろうと・・、思い至ったのでした。  それからは筆がスラスラと進みました。 コンペ結果は、最終4社に残るまでゆきましたが、残念ながら落ちましたが・・、(で、今はロッテマリンスタジアムになっています・・・)

それからです・・。アタシが高齢者になるまでは 「まだ、30年もあるじゃあないか!!」「アタシが楽しく幸せになる老後社会を創ってゆけばぁ、いいじゃん!!」となったのです。 しかし、札幌へ戻ると、今いうところの「バブル経済の崩壊」が起こりました。 ビックシップも経営が思わしくなくなり、全体人員削減計画を担当させられ、私が築きあげてきたスポーツフロアーのリストラを先行実行もしました・・。水泳やエアロビクス・ジャズダンスのインストラクターや室内遊具を置いた子どもの国コーナのスタッフ達に「君は来週から、ゴルフ場のキャディか、売店担当のどちらかを選んで欲しい」と無茶な要求をして、「マネージャー(私)を信じてついて来たのに・・!!」と泣かれました。上層部が決めたことを現場で実行した仕方ない立場ではありましたが、なんともアタシは阿漕なことをしたんでしょ!!と、恥じ入ります・・・   

そして、ハード造りのこの不動産開発仕事に嫌気がさして、2度目の転職。(半年位、次の任務が決まるまでマンション販売の広報室長なる(何もわからないので)部下の書類に可のハンコを押して、上司部長に決裁をとるというつまんない仕事だったのですが、これからどうすんべっと将来を考える時間がたっぷりとありました)残って宅建資格をとって高齢者マンションの企画販売してくれとの話はありましたが、景気に左右され、状況によってはトップの経営判断に重きがあり、突然に事業変更がある、長いスパンではソフトを組み上げることができないという仕事、不動産開発業に愛想をつかしました・・ 

そのときに、スポーツクラブのインストラクター養成をしている専門学校の経営立て直しに引きがあり、参画をすることにしました。そこの理事長に   アウトドアインストラクターの養成コースも設けて欲しいという条件を出して転職したのでした。 100人入学すると2年目になるときには1/3は退学してしまうという専門学校でした。ここでも教員の大リストラを断行して経営というか、カリキュラム改善をして、3年目には退学者は数名なるという結果を残しました。

そして、未来に私自身が、自然の中で楽しく幸せになる仕組みを創ろうと、事業内起業のカタチで北海道自然体験学校NEOSを立ち上げて、それらを担う人材養成をロングスパン、自分のライフワークとして始めたのでした・・・。

(冒頭写真は、BIG SHIPの舳先からの全景、看板は経営が変わっての屋号に変わっていますが・・)       

 

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なぜに自然体験を仕事にしたのか その3

2023-01-07 12:53:26 | コラム風味
(今回も長い文章です・・・)
高校受験は必死こいて千葉県立千葉高校へ入学。田舎の中学では成績もトップであったが、ここへ来て、世の中にはなんて頭がいい(頭の回転が速い)連中がいるんだと井の中の蛙は驚いたのでした。そして、勉学よりも山登りに関心が高まったのでした。しかし、当時は学園紛争が激化するちょっと前でした。中学の恩師からは「山岳部は活動家がいるらしいから入部なんかするんじゃあないよ」と忠告されていた。入部してみると、本当に活動家がいて、最初の文化祭の山岳部の展示は「三里塚闘争(千葉成田空港拡張のために反対する農民に対して国が土地の強制代執行をするのを阻止しようとした闘争)」であった。現地の闘争拠点に張った拠点テントやら闘争の様子を写した8mm映像を流したりしていて。。???。実際にそのために高校留年した4年目3年生がいました。が、3年生が卒業してからは私の高校生活は山岳部が中心でした。

ここでも、私を自然に誘うオトナがいました。 顧問の桜井先生。千葉校山岳部は、当時高校山岳部はどこも夏合宿は北アルプス縦走、ちょっと力のある高校は南アルプスを目指すのが一般的でしたが、我部は群馬と越後の県境の大学ワンダーホーゲル部が目指すような道なき藪尾根をたどるという冒険的な1週間合宿をしていました。今日のサイトから目の前のひと山越えるのに一日ががりで反対側の鞍部にたどり着くというような藪こぎがあり、水汲みに谷まで降りるというような山行でした。 そんな場所にやんちゃな高校生に付きそう桜井先生は今思うとすごい人だったなあと感心します。 その留年先輩も同行して私に多大な影響を私に与えてくれました。(彼は卒業後、当時先鋭的なクライマー集団の山岳同士会に所属しネパールのジャヌー北壁遠征に参加し亡くなりました・・合掌)
 
大学は一浪して北海道大学へ。高校山岳部の部長副部長の関係だった同期のMTS君も合格。翌年その翌年にも高校山岳部の後輩が入学してきて、一時は同部同窓生が5人にもなったときがありました。私は山スキー部に入部したのですが、そのGW合宿を終え下山した時に、郷里からオフクロが倒れたとの連絡があり急遽帰郷。彼女はくも膜下出血で意識なく植物人間状態となり、その付き添い看護を親父とするためにすぐさま大学休学をしました。 そして、8ヶ月のちの翌年正月に他界をしました。 もう復学もしたくないほどの虚無感に襲われて、人生が終わったくらいに落ち込んだのでした。
 
もう就職するかなあともかんがえたのですが、父親や親戚の叔父貴に説得されてなんとか復学しましたが、山スキー部には戻らずに、札幌山岳会という社会人団体に所属しました。ここでも、自然愛好の登山家の多くのオトナに出会いましたが退廃的虚無感はぬけだせませんでした。そして、先輩から聞いたネパール話に大いに関心がわき、この状況を変えたいとも考え、高校山岳部の同期MTY君(彼も北大生で同じ山岳会に所属)とネパールトレッキングを計画して実行に移しました。
 河口慧海(かわぐちえかい・僧侶、仏教学者、探検家)が明治時代にチベットに探検旅行をしたカリダンダキ川にそった街道(エベレスト街道でもある)をナムチェバザール・ジョムソンを経て、更に奥地のティリッツオ湖)を目指すという計画でした。往復1ヶ月半の旅でした。(おかげで学部移行の単位不足となり留年した・・・
 
この道中に見聞したことはアタシの人生に多大な影響を与えました。 人々の貧しくとも豊かに見える生活、やっとた(中学生くらいの)ふたりのポーターの献身さなどなど・・・、そして何より、大きかったのが「世の中にはこんなにもデカイものがあるのだ!!」という山々の様相でした。 5000mラインでテント2泊したことがありました。遠くチベット高原も見渡せるような高台で、ふと気づきました。「俺はなんと小さいんだ、そんな小さいやつが何を小さいことに悩んでいるのだ!!」と、ネパール旅で癒されすべてが吹っ切れたのでした。
 
このネパールの旅がなければ、それからのアタシ、今のアタシはなかったなあ。
二十歳、1974年のことでありました。
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なぜに自然体験活動を仕事にしたのか その2

2023-01-04 16:05:52 | コラム風味

児童期

思い起こすと、親、特に父親が自然の中に連れ出してくれていた。小学5,6年生、中1は大阪豊中市に住んでいました。ハイキングやら海やらにけっこう連れて行ってもらっていました。 冊子インタビューで思い出したのは京都の鞍馬山でした。けっこうきつい登りでうっそうとした森の登山道を歩きました。 なんだか恐ろしくて、天狗が出てくるんじゃないかと怖かった記憶があります。(鞍馬=天狗の時代、 鞍馬天狗は正義の味方でしたがね・・)が、大きな木に登りました。

小学6年だっただろうか、林間合宿(という学校行事が当時ありました)。たぶん能勢だったのだと思うのですが、生まれて始めてキャンプを経験しました。 それがおもしろかったんでしょうね、(女の子と手をつないでペアになって歩いた肝試しの手の感覚しか覚えていないんですがね・・・)

 キャンプの面白さに目覚めて、中学1年になり、(これは)男友達と夏休みにキャンプに行きたいと思ったのですが、親たちはもちろん子どもだけでは許してくれませんでした。 しかし、どこでどうつながりがあったのか、たんと記憶がないし、親はもう死んじゃっているので確かめようがないのですが、西村さん(この名前は覚えている)という大学生が友達三人をやはり能勢だか箕面のキャンプ場に一泊で連れて行ってくれたのです。 この時は自分たちで食事を作り、始めて川で泳ぎました。 堰堤の手前の大きな堰堤池で足が立たない深さ、足に水草が触れて引きずり込まれるのかと恐怖で、必死に西村さんの後を追いました。 原体験というのでしょうか、その思い出は五感で鮮明に記憶しています。

そんな強烈な自然体験を提供してくれたあの西村さんは誰だったんだろうか・・? やはりアタシのそばには、自然にいざなってくれたイイ大人がいたのでした。

大阪の中学1年(豊中第二中学校)では、奥村先生という方が、私の自然体験をいざなってくださいました。これもまた課外で、近郊の低山にハイキングをしてくださいました。 それに味をしめてついには、友達同士で近くのハイキング道を子どもだけで辿りました。 その初めての冒険?は四人でゆくはずでしたが、友達のひとりが現れない・・公衆電話でその子の家に電話をかけたのですが、ツーツーとずっとお話中でつながらなかったので仕方なく三人ででかけました。道に迷いかけて半べそもんでしたが(たぶん迷っていない、ただ不安だったと思う)6,7kmの初心者コースを踏破しました。 翌日、学校で、来なかった子の家は火事で全焼したことを知ったという強烈なおまけつきの思い出です。

中2で、船橋に戻り、小学校時代の友人がたくさんいる海神中学校に再転入しました。この頃からひとりで高尾山方面にでかけるようになりました。以来、長男が生まれるまで元旦は山で過ごすことが通例になりました。 一度、陣馬山付近で帰路を間違えて本当に迷ったことがありました。 地図読みして歩いていませんから、これはどこにいるかもわからずに必死だったなあ。 ともかく下へ降りれば道路があるだろうと、藪こぎ状態でくだったな。なんとか相模湖に出て国鉄(JR)駅にたどり着き帰れました。

 

 

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なぜにして自然活動を仕事にしたのか? その1

2023-01-04 15:36:26 | コラム風味
自然体験活動を仕事に30年以上してきて、レジェンドなどとたまに言われたりしていますが・・、そんな爺さん等の半生を書き起こして冊子にしてあげようというスペシャルな企画がありまして、年末に数回、インタビューを受けました。なかなかよい機会であり、あれ、あんなことが今のアタシの人生に影響があったんだと自分でも気がつけました。

そして、若い頃、子どもの頃の写真を送って欲しいと編集者に頼まれていたのですが、高校時代や山岳ガイドをしていた頃の写真なんぞ残っているかなあ・・と、探すのを後回しにしていましたが、今日さっき、古い写真アルバムをひっぱり出してきたら、意外とありました。
 
どうして、自然活動を仕事にしようと思い実現してきたかと思うと、幼少期から中学・高校と私を自然に連れ出してくれた身近なおとな達がそれぞれの時期にいたことを思い起こしました。
 
まずは、幼少期
生まれは千葉県船橋市西船にある浅間神社の境内に隣接した生家でした。鎮守の森があり遊び場所にことかきませんでした。小学校時代は学校から帰ってくれば暗くなるまで、その森の中を駈けずりまわっていました。神社の石段の横にある松ノ木に登り枝が折れてみごとに転落し、2,3日寝込んだことがあったなあ。飼い犬が死んだときは、親父と森の中に穴を掘って埋めた。 幼児期は海神保育園 ここは徒歩15分くらいでその地にしては商店街の中にありましたが、保育士さんが課外に近所の沼地や林に小人数で連れて行ってくれました。 ここでミズカマキリを捕まえたことは今でも感動した思い出として記憶に張り付いています。 先生もきっと、「すごいねー、よくやったねー」と存分に褒めてくれて、私の自己肯定感をおおいに育んでくださったんだな・・・。
 
幼児、小学低学年の頃は、高台から東京湾や富士山も見え、田んぼや畑ばかりだった。が、首都の衛星都市だったので、どんどんと開発されて住宅地となり駅周辺にはビルが建っていきました。 そんな環境の変化をまざまざと体験した世代です。
 
 
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冬の遊び

2022-01-14 16:21:33 | コラム風味

北海道の先住民には明確な四季を表す言葉がないと言うアイヌがいます。(辞典には春夏秋冬に当たる言葉も出ているので地域差があるのかもしれませんが・・)、夏と冬しかなくて、秋は「夏の終わり冬の始まり」春は「冬の終わり夏のはじまり」となります。私たちは実際に12月中旬から5月上旬までほぼ半年は雪で遊べるフィールドで活動をしているので、その言葉の実感が持てます。雪の多い年は、当自然学校(旧小学校)の平屋校舎は屋根からの落雪で建物全体がロールケーキのように雪に包まれてしまいます。

コロナという疫病が流行り、収束が期待されて来ましたが、ただでさえ家に閉じこもりになるのに、もう2回目の冬がやってきています。にもかかわらずに、田舎だからか、私たちの活動は遠方からの参加者はいなくなりましたが、幸いにも表面上はいつもと変わらぬ冬を過ごしています。

冬だからこそ、積極的に野外に出たいものです。曇りがちな雪国であっても、私たちは雪にまみれて野外活動をしています。ましてや、陽光輝く日にはカラダを使って大いに幸せを満喫し楽しんでいます。冷たい、寒いからこそ、仲間とともにする身体活動でカラダを活性し身も心も温め合うことができます。

雪は、冷たいだけでなく、いろいろな性質があります。 滑る、溶ける、固まる、白い、塑像造形性等など・・、それらを使うといろいろなアクティビィティを工夫展開することができます。雪合戦は単純明快な活動的なアクティビティですが、ゲームのやり方次第でいろいろな展開ができます。私たちは陣地の宝争奪のチーム戦を好んでしますが、ハンディをつければ幼い子から高学年まで一緒に闘えるのも面白いです。

また新雪は雪は柔らかいのでクッション性があります。なので、けっこう身体を張った乱暴(運動量が多い)な活動ができます。 体と体で取っ組み合うということがなくなっている現代の子ども達には雪の中での大人との急な斜面での格闘遊びは男の子ばかりではなく女の子も夢中になって落とし合いをします。誰かが滑ると巻き込まれて団子になって大勢が落ちて行きます。落とされると這い上がるのに大変ですが、みな組んずほぐれつに真剣勝負です。屋根からの雪の中への飛び込みも冬のメインイベントです。

ひととき仕掛けた遊びをすると、徐々に子ども達は自分で遊べるようになってゆきます。彼らの様子は個性様々です。ひたすらソリ遊びをする子、容器で作った雪の塊を積み上げ続ける子、穴を掘り続ける子と、じょうずに遊び続けます。

零下20度の中でも雪中キャンプもお決まりプログラムです。雪洞や簡易イグルーの中でも夏用寝袋と毛布があれば意外と過ごせるものです。慣れた子になると、竪穴だけでブルーシートをかけて過ごす子もいるくらいです。冬に野外でひと晩過ごした、冬の雪中で遊んだという経験だけでも子にとって大きな達成感があり自己肯定感が育まれると私は信じてやみません。

また、冬の活動だからこその寒暖をつけたプログラムフローが大切だと思います。雪まみれになったあとの焚き火、暖かい飲み物、食べ物の提供、息が凍るほどの雪洞の中で膝を寄せ合い、小さなストーブの火を囲んで、雪を溶かして作り飲むココアはお互いの気持ちも自然と寄り合わせますね。身体だけではなく、その場も温め人と人とが触れ合い仲間としての一体感を演出できます。

 

しかし一方で、冬場の街中では、子どもが外で遊んでいる姿はさっぱりと見かけません。街中では、夏に水場へ行かないようにとの学校指導と同じように、「路肩の除雪の雪山に登ってはいけない」「雪玉を投げてはいけない」という禁止事項が実はたくさんあります。だから子どもに大人が働きかけ、最低限の安全を確保しつつ冬の外活動のにキッカケをつくってあげる必要が夏以上にあります。

(日本環境教育フォーラム機関紙 地球のこども 投稿原稿転載)

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賞味期限とNPO

2021-10-11 11:36:01 | コラム風味

このところにきて、しばらく途絶えていた頼まれ事が次々と持ち込まれています。 講演とか実践的な委員会からのお声かかりが60歳を超えた頃から減ってきました。 若いもんが台頭してきたからね、一緒に仕事をしてきた連中があちこちで活躍しているその評価を聞くことは、嬉しいことであります。 我が賞味期限がやってきていると自嘲しておりますが・・ね。

この秋口からなにやら、思い出されたように依頼ごとが次々に来ています。その与えられる題目ごとに・・、「おい! オマエ、近頃ちゃんと考えてないヤロ!」と自省しつつアタフタしております。 今月下旬には旭川のNPOサポートセンターにお呼ばれしているのですが、その題目は・・、「NPOの継承について・・・」

30代後半から育て上げてきたNPOねおすは、もう7,8年になりますかね、発展的解散と称して各拠点を分派独立させました。それは、まあうまくいった事例でしょう。が・・、その分派のひとつを私は今、黒松内ぶなの森自然学校としてセ金者をしているのですが、ここの継承・継続は、改めての今の喫緊の課題ともなっているわけです。自分の問題でもあるわけでして、しかし課題整理ができていないので、私が演者でいいんかしらという、難しいお題を頂いたのであります。

で、そのための頭の整理につらつらと思いつくままにメモ書きします・・・。

・集まるNPOは福祉系NPOが多いらしい。 目の前に現実的にある社会問題に取り組んでいる福祉系NPOと、社会問題の課題解決に取り組んではいる環境・自然系のNPOの存続継承の意義が大きく異なるんじゃあないかなあ・・。

・つまり、福祉系は、無くなると明らかに目の前に困る受益者がいることが、環境・自然系と大きく質的に異なる。

・NPOは社会課題の解決をミッションにしていることこそに存在意義がある。

・しかし、一方ではNPOは個人の自己実現の手段でもある。 だから、自分が継続持続可能でなくなったら収束解散もよしであると思う・・が、これは福祉系NPOではそうもゆかん身勝手な論法だなあ・・

・NPO経営の理事者との連携、特に現場実務への参画が福祉系はより重要だと思う。

・時間がかかることであるが、NPO経営は社会への人材輩出が使命でもあり、常に人材の成長を経営の方針とすべきである。

・企業の合併のようなM&AをNPO経営も視野にいれるべき時代だと思う。

・スタッフの自由度を高くし、専門だけでなく、スタッフ自らの経験値を高める工夫を常日頃からしているべきである。

・組織のミッションと個人のミッションのバランスが大切。

・むかしの営利仕事で、子どものスイミング教室を閉鎖したことがあったのだが、利用者がじょうずに他へサービス継承できるようにすることも志事ではないか。

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