高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

Sapukota father

2019-10-29 15:03:13 | 日記

お仕事の関係なのか(先方お父様はネパール第二の都市ポカラに単身赴任中)、それともヒンズーの結婚式はそういうものなのか・・わかりませんが、嫁のRadhikaの父上とは結婚式ではお会いできませんでしたが、翌日に彼女のカトマンズの実家へお邪魔してランチ会をしました。そこには女性陣の叔母様方(と、思う)がみなさんいらしていました。そして、夜には始めてお父様にお会いしました。その時は、お父様の男兄弟、つまり彼女の叔父さん方四人が集合しました。 ネパールで一般的にそういう風習なのかは不明・・・・。

なかなか噛み合う会話はつくれませんでした(まっ、ワタシは実は無口なヒトなのです・・・)が、親睦を深めることができました。 本人たちは冬は日本・ニセコで仕事をし、半年はネパール在住か世界を旅行する生活をしばらくは続けるようですが、異国の地で逆異邦人となり、ことなる民族のコミュニティで暮らすことになる息子のたいへんさを思うと、お父様との別れ際にはハグをし、「よろしくお願いします・・」と思わず涙が出てしまったのでした・・。

夫婦本人達の日常の会話が英語なので、どちらもネパール語、日本語が上達できないと嘆いていましたが、これを機会に息子はカトマンズのネパール語学校に通い、ネパール語をより習熟してネパールコミュニティにも馴染んでゆく決意を固めたようでした。

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ネパールでの結婚式

2019-10-26 21:10:07 | 日記

 長男の北斗がネパール人のRadika Sapukotaさんと結婚をしました。 昨年、寿都神社でも結婚の儀を日本神式で執り行ったのですが、ネパール人のお父さん、お母さんともお会いしたこともないし、ネパール娘が自国の式も挙げないのはかわいそうだなということもあり、ヒンズー教で地元での結婚式を挙げることにし、私達夫婦と長女、私の弟夫妻、子どもの頃から知り合いのYさんと10月24日から30日までカトマンズを訪問しました。

式は25日、市内のヒンズーのお寺で執り行いました。 境内の野外に式の場が飾られていました。息子(新郎)はまるでネパールの王族が来ているような金糸を織り込んだような服そう、花嫁は赤を貴重にしたネパール服、参列者の女性たちはほとんどが赤のネパールサリー服で華やかでした。

何事もネパール時間、そもそも宿への出迎え時間から2時間近く待たされて、「ほんとに今日あるんかあ・・」という感じでした。

儀式も長く、それぞれに意味合いがあるのでしょうが・・、長い布をふたりで固く結んで、嫁が引いて夫が末端を持って会場を歩き回ったり、食事をするようなしぐさなど・・、いろいろな儀式が続きました。待ったんを解説が欲しかった・・・。嫁のお父さん(実は、お父さんは会場におらず、これがそういうものなのか不明?)が、私たちにマフラーやお金をくれる場面もありました。

会場についてから、終わるまで3時間近くかかりました。

ラディカさんが、ネパール親族に囲まれて幸せそうにしているのをみれて、私も幸福でした。

私としても、とてもよい機会、時間をもらえました。 なが生きしていてよかったなあと、ジジィの気持ちです。

     

          

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楽しみです・・

2019-10-23 18:08:07 | 日記

10月23日

昨夜は、来道中の中国からの自然学校視察ツアーの最終日at 札幌だったので、行こうか迷ったのですが、一日おいて、明日からネパール旅行なので断念しました。

ネパールはトレッキング仕事ではありません。息子の結婚式です。昨年、ネパールの娘さんと結婚し、日本で婚姻届も出して、寿都神社で式は行いましたが、先方の親御さん、ご親族にお会いしてもいませんので、ネパールでもヒンズー式の結婚式を挙げることになりました。

ネパールは、私が母を亡くした二十歳の時に、始めて訪れて、8000m峰のダウラギリがそびえるカリガンダキという流域をトレッキングして、トレッツオ湖というチベット高原に含まれるような場所を目指したことがありました。結果としては湖には到達できながったのですが、ダウラギリの巨大な壁が目の前にある5000mを越えたことがありました。高山病で息があがり、4000m付近に降りて2泊山中キャンプをしたのです。

おふくろはくも膜下出血で8ヶ月あまり植物状態になり亡くなったのですが、その間は休学をして看病もしました(付き添って、タンを取ったり、下の世話もしました・・)。亡くなったのは1月でしたが、復学する気力も失せて虚無化し大学を辞めて就職するかとも思っていたのですが、時により行動が極端になるアタシは、気力を絞って、ネパールへ行こう!!と考えて、復学し、アルバイトに精を出して、その12月に初めての海外旅行の旅に出たのでありました。

山中の集落を辿りつつ往復1ヶ月のトレッキングでした。 その時、高峰に囲まれた地点でキャンプをしていた時に・・、はたと気づかれされました。 壮大な風景の中に置かれて・・、何を悩んでいるんだ、オレはこの地球で生きているんだ。なんとオレの悩みはちっぽけなんだ!と・・。 それで、ふっきれたのでした・・・。

山中の集落は、日本に比べて物質的には貧しいのですが、人々はいきいきとしていました。子どもの眼はキラキラと輝いていました・・・。 その後、自然体験の仕事をするようになり、トレッキングにゲストをアテンドしたこともありましたし、小学生の子どもと一緒に家族で行った(この時はカトマンズだけ)もありましたが・・・、それも数えてみると、もう30年も昔のことです・・・。 カトマンズのタメルの街も随分と変化してしまったでしょう・・・。

それでも、息子の結婚式という機会でネパール再訪です。 とても楽しみです。

トレッキングはできませんが、ヘリコプターで高峰遊覧もする予定です!!!

 

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階段整備

2019-10-22 12:44:16 | 来訪者

10月21-23日

Kenちゃんと木村さんが、今年も物づくりボランティアに来てくださっています。昨年は、校舎からキャンプ場に出る場所に屋根をつけやハウスのペンキ塗りをしてくれました。薪小屋にも続いているので、冬の薪出しがたいそう楽になりました。今年は、そのさらに前に、キャンプ場へ登る階段を改装土木工事です。

ありがたや、ありがたや・・・。

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知里幸恵 銀のしずく記念館

2019-10-22 12:42:59 | 日記

10月19日

来道中の中国からの視察チームを登別フォレスト鉱山から支笏湖へ送り出して、私は黒松内へ。鉱山を降りてすぐにある郷土資料館をひさしぶりにのぞいたところ、知里幸恵記念館(銀のしずく記念館)が登別市街地にあることを知りました。

ナビに導かれてゆくと登別郊外の閑静な住宅地の中にありました。ここは彼女の生家があった場所で、幼い頃に過ごした場所だったとのことです。知里幸恵さん(1903-1922)のことを復習しますと・・

彼女は明治36年(1903)にこの地で生まれ7歳の時に旭川に移り住み、心臓病のためにわずか19年の生涯を終えたアイヌ女性です。アイヌ語を話す祖母・モナシノウクと共に育ち、アイヌ語は堪能、さらに勉学にも励み日本語も話しました。表現豊かな文才に恵まれて、アイヌ人として始めてアイヌ語の物語をローマ字表記し、日本語の翻訳文字化した「アイヌ神謡集」を著作しています。中でも「梟の神の自ら歌った謡~銀のしずく(銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに)」は有名です。

一見、ここかと思わせる白壁の一般住宅のようですが、玄関正面には大きなガラス窓があり、幸恵が幼少の頃に過ごした森が目に飛び込みます。(今は森化しているが、当時は父親が造園業を営んでいたので、空も高く明るい林であり花壇や池も配置されていたそうだ) 館内は天井も高く落ち着いた静かな時間が流れていた。 幸恵の生涯、金田一京助博士とともにアイヌ語研究に勤しんだ兄・知里真志保についても展示されている。 復刻版ながらも 幸恵直筆のアイヌ神謡(ユーカラ)のローマ字表記と和訳されたノートなども展示されていて興味深い。

館長の金崎さんにもお茶を頂きながら、彼女の足跡やこの記念館のNPO活動の御話を聞く機会を得ました。

なんだか、やさしくなれる贅沢な小時間でした・・・。

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中国からの視察ツアー4日目

2019-10-19 21:33:15 | 国際交流

午前中は北限のブナ林ガイド。
まむ&たーぼの中つち農場を見学後に登別フォレスト鉱山へ。

登別フォレスト鉱山へ移動。ここは登別市が建設し(元廃校舎の全面新設改修)NPOが指定管理者で運営しています。設立時のソフト開発はNPOねおすが受託し、開設後2年だったかな、ねおすが運営受託をしていましたが、地元NPOが立ち上がり、旧ねおす職員も移籍して運営をしています。現在は職員雇用も独自募集採用をしています。官設民営としては、成功事例でしょう。主催事業もさまざまと展開していますが、特に市民活動が盛んで、さまざまな市民団体がここを会場にさまざまな催事を企画運営しています。そのボランティアコーディネイトは簡単にはマネができないレベルに到達しています。すごいもんだと感心しております。

一行は、ここでは例年自炊。本場餃子づくりが定番化しています。 私も随行。明日は採石プログラム予定です。その後は黒松内に帰ります。

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中国からの視察ツアー3日目

2019-10-19 21:29:45 | 国際交流

ツアー二日目は大沼牧場・パドゥミュゼへ。 私は同行しませんでしたので、写真がありません。

三日目は、我が黒松内へ。 お天気は上々の毎日が続いています。 今日は大沼からの移動、寿都町で自然学校が活動フィールドにしている場所をご案内しました。

夕食は、これまでふた晩、お肉だったので、お魚料理がメインのまりこキッチンでした。

      

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中国からの自然学校視察旅スタート

2019-10-17 11:50:43 | 国際交流

ここ数年、秋の恒例になっている4回目かな、中国から自然教育・自然学校に関心のある方々のケーススタディツアーが今年も10月16日からスタートしました。今回は訪問ルートを 苫小牧・いぶり自然学校⇒大沼流山牧場・パドゥミュゼ⇒黒松内ぶなの森自然学校⇒登別フォレスト鉱山⇒東川・大雪山自然学校に変えました。 途中で、豊浦のオーガニック農場の 中つちや、支笏湖でカヌーかのあにも訪問する予定です。

夜は、けっこうワイルドにBBQ(寒いんで、食事は室内でしたがね)

ネット決済ができるようになっていました。 特にWechatペイで野外で日本円で物品販売ができたのには驚いたなあ。いぶり自然学校時代の先端を行っていますが・・、この消費増税のポイント還元はどうなるんだろう・・・うん?!、

その場で還元された金額で決済されているのかな。

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薪割りボラ

2019-10-15 15:02:46 | 来訪者

薪割りボランティア募集に呼応して頂き、おーさか(寺坂さん)が自分の休日を使って、10月15-16日と汗を流してくれました。 例年、冬も二月になると、事務所のストーブも薪量が心配になるのですが、今冬は大丈夫だろう・・。

ほんとうは、春のうちから薪づくりをして、十分に風乾させるのがいいのですが、いつもこの時期に慌ててしまうのです。

おーさか(最近の子ども活動ではテンプラがニックネームで定着しつつあるそうですが・・)、ありがとうね。

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平和

2019-10-15 15:02:04 | 自然学校の日常

10月14日(月・祝)

ロングウォークの翌日も秋晴れの一日でした。本州では台風による洪水被害が広がっていることがニュース報道で流れていましたが、申し訳ないほどの平和な時間をつかれた身体を休めてわらわらと過ごしました。 地域のコミュニティ活動「元気いちば」も同時開催。地域のお年寄りも校庭には集まりました。

世界には、ミサイルに怯える紛争地域、本州では台風罹災とありますが、ここは「ごめんなさいね」と言いたくなるほどに いたって平和でした。

こんな平和な時と場を星の数ほど作り出したいね。 私にできることは、そのくらいだけだな。。。 でも、その「だけ」な場がたくさんあって、それらがつながってゆけば、世界全体が幸せに平和なるだろうという、思いは強いです。

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