日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

批判は簡単だが、問題解決にはならない

2009-02-22 19:18:04 | 徒然
先日、香川県の県立病院で体外受精の取り違え事件(と言ってよいのか?)が発生した。
取り違えられた受精卵→胎児は、中絶と言うコトになってしまった。
この事件を聞いた時、なんとも虚しく悲しい感覚を覚えたのは、私だけではなかっただろう。
当然のことながら、早速新聞の社説には厳しい内容のモノが掲載された。
讀賣新聞:不妊治療ミス 「命」の管理がずさん過ぎる(2月21日付・読売社説)
中日新聞:受精卵取り違え 安全管理軽視のツケだ
確かに、これらの社説が書いていることは、正論だと思う。
思うのだが、今回の問題は決してそんなに簡単なコトでは済まされないと思うのだ。

ご存知の方は多いと思うのだが、現在不妊治療をしているご夫婦はとても多い。
結婚すれば、妊娠→出産と言う時代ではない。
不妊治療には費用的な問題だけではなく、女性にかかる肉体的・精神的負担も多く、時には「いつ終わるとも分らない不妊治療を続けている」という女性もいるのだ。
もちろん、女性だけの問題ではなく男性にとっても同様の負担が必要だろうし、周囲の理解も必要となっているはずだ。
そのようなご夫婦にとって、「良い先生=優秀な先生」となれば、藁にもすがるような思いで、病院に通っているというのは想像できる。
「優秀な先生」と言うコトであれば、そのお医者さんにかかる負担は、大きくなるばかりだろう。
それだけではなく、現在産婦人科医師不足と言うコトは再三指摘されているのだ。

実際、今回の香川県立中央病院だけではなく、数多くの病院では、受精卵を医師1人で扱っている状況にあるようなのだ(紹介記事は朝日新聞)。
今後、このような事故が起きない事を願う事は当然だが、現在の医療問題全体が解消されていかなくては、意味が無いのではないだろうか?
批判するのは簡単だが、その問題解決のために必要なコトは何か?そこが解決されなくては同様の事件が起きるのではないだろうか?
むしろ、事件を起こした医師は不妊治療に対して熱心で、一生懸命取り組んでいたとすれば、その批判はどこか的外れのような気がするのだ。

突発的な時こそ、想像力が必要

2009-02-22 09:01:55 | アラカルト
最近、時々思う事がある。
それが、「突発的な時の対応」だ。

実は、金曜日実家から帰ってくる時チョッとしたトラブルに巻き込まれた。
実家への帰省は、JRと利用すると言うことがほとんど無い。
と言うのも、大阪から実家のある米子まで高速バスを利用すれば、3時間半程度でついてしまうからだ。
JRを利用してもその時間差は30分程度。
費用面から考えれば、高速バスを利用した方が格段に安い。
もちろん、高速バスには「時間通り到着しない場合がある」という、問題点がある。
それを承知の上なら、まったく問題ないのだ。
むしろ、「JRが遅れる=列車が遅れる」と言うコトを、考える人はあまりいないのではないだろうか?

ところが、今回だけではなく昨年父と一緒に京都旅行に行ったときも、その前の初盆の帰省の時も、JRの在来線が遅れたのだ。
今回は米子駅着の時点で25分遅れで、乗車時点で、とても乗り継ぎの新幹線に乗れるような状況ではなかった。
ところが、詳しい案内は岡山駅に近づいてから。
それも「(指定席券をお持ちの方は)駅の係員の指示に従ってください」という内容。
乗り換え改札口で聞いても、「××時発の○○号車の空いている席に座ってください」だけ。
その指示に従ったら、心配していた通り、ダブルブッキング状態になってしまった。

私が思ったことは、列車が遅れた事ではない。
ある意味、突発的な事故や気象・自然現象で遅れるのは、仕方ないと思っている。
その後の対応なのだ。
「○○号車の△△番~××番のA・B・C席の、空いている席にお座りください」という、案内が欲しかっただけなのだ。
そうすれば、私が誤って座ってしまった先約の方にも、迷惑を掛けずに済んだと思うのだ。

しかし考えてみれば、このようなことは案外身近なトコロで、事の大小は関係なく起こっている事なのでは?と、思ってしまったのだ。
そのようなことが起きるのは、前提として「こうなるに違いない」という、希望的観測を絶対条件(と言ってしまって良いのだろうか?)として、考えているからなのではないだろうか?
私なども、人間的に出来ていないトコロのほうが多いので、自分で「こうなるに違いない」と思い込んでしまい、思わぬ結果(と言うほどではないコトのほうが多いのだが)になってしまうと「どうして!」と八つ当たりをすることがある。
八つ当たりをする相手がいないときには、仕方なく(?)自分のダメさ加減に落ち込むのだ。

自分ではなんともしようが出来ない、突発的なコトは起きて当然だろう。
まして、気象などの自然によるものなら、起きるコトが当たり前のコトなのだ。
ところが、私達はどこかで「こうすれば、こうなる」という、思い込みと言うか決め付けをしている場合が多い。
それが、何らかの原因で「こうならなかった」時対処する方法は、ただ一つ「打開するための想像力」なのではないだろうか?
そしてそのような「想像力」が、最近劣化しているような気がするのだ。