どうも胃腸風邪を引いてしまったらしく、昨日から食後は胃がムカムカ、頭がボーと言う状態。
当然のコトながら、思考力も低下状態・・・。
昨日、アカデミー賞の授賞式があった。
既にご存知の通り、「おくりびと」が外国語映画賞を受賞した。
短編アニメーション部門では、「つみきのいえ」が受賞し、W受賞と言う快挙で日本中が沸いた。
とても素晴らしいコトだと思う。
これまで「日本映画=時代劇もしくはアニメ(=宮崎駿)」が、ハリウッドの評価だったように思う。
「おくりびと」と「つみきのいえ」に共通するのは、とても静かな表現のような気がする。
「ハードパワー」で相手を攻め立てるような手法ではなく、(人の気持ち・こころに)語りかけるようなそんな映画だと思う。
そしてそのようなコトが、今のアメリカ社会が必要としているモノなのかも知れない・・・と、感じたのだ。
実際、作品賞を受賞した映画も今のインド(の貧困層の子供達のたくましさ)を描き出した作品だと言う。
むしろ「生きる」というコトへの渇望のような、そんなモノが今のアメリカだけではなく世界全体が求めているコトのような気がしてならないのだ。
ところで、「おくりびと」のような最期を迎えられる人が今の日本にどれだけいるのだろう?と、考えてもしまった。
葬儀に関わる人たち(=葬儀社の人たち)と言うのではなく、見送る家族の姿だ。
母が突然亡くなり(くも膜下出血だったため、あっけない最期だった)、丸3年が過ぎた。
葬儀の時は、悲しいと言う感情よりも葬儀社の人たちのテキパキとした指示に従い、バタバタと過ぎていってしまったように思う。
死者への悲しみが起きてくるのは、四十九日が過ぎた頃ぐらいだろうか?
まして今のような、やや希薄とも思える家族関係や地域社会の中で、「野辺の送り」と言う意味を、さほど考えなくなっているような気がするのだ。
今の私達が忘れかけている「日本人の死生観」。
「死があるから、生の大切さ」という感覚が、この映画「おくりびと」で表現されているとすれば、余りにも「生」に対する意味を失いかけているのが「今」という時代なのでは?そんなことを徒然に思ってしまったのだった。
これも胃腸風邪のせいかも知れない・・・。
当然のコトながら、思考力も低下状態・・・。
昨日、アカデミー賞の授賞式があった。
既にご存知の通り、「おくりびと」が外国語映画賞を受賞した。
短編アニメーション部門では、「つみきのいえ」が受賞し、W受賞と言う快挙で日本中が沸いた。
とても素晴らしいコトだと思う。
これまで「日本映画=時代劇もしくはアニメ(=宮崎駿)」が、ハリウッドの評価だったように思う。
「おくりびと」と「つみきのいえ」に共通するのは、とても静かな表現のような気がする。
「ハードパワー」で相手を攻め立てるような手法ではなく、(人の気持ち・こころに)語りかけるようなそんな映画だと思う。
そしてそのようなコトが、今のアメリカ社会が必要としているモノなのかも知れない・・・と、感じたのだ。
実際、作品賞を受賞した映画も今のインド(の貧困層の子供達のたくましさ)を描き出した作品だと言う。
むしろ「生きる」というコトへの渇望のような、そんなモノが今のアメリカだけではなく世界全体が求めているコトのような気がしてならないのだ。
ところで、「おくりびと」のような最期を迎えられる人が今の日本にどれだけいるのだろう?と、考えてもしまった。
葬儀に関わる人たち(=葬儀社の人たち)と言うのではなく、見送る家族の姿だ。
母が突然亡くなり(くも膜下出血だったため、あっけない最期だった)、丸3年が過ぎた。
葬儀の時は、悲しいと言う感情よりも葬儀社の人たちのテキパキとした指示に従い、バタバタと過ぎていってしまったように思う。
死者への悲しみが起きてくるのは、四十九日が過ぎた頃ぐらいだろうか?
まして今のような、やや希薄とも思える家族関係や地域社会の中で、「野辺の送り」と言う意味を、さほど考えなくなっているような気がするのだ。
今の私達が忘れかけている「日本人の死生観」。
「死があるから、生の大切さ」という感覚が、この映画「おくりびと」で表現されているとすれば、余りにも「生」に対する意味を失いかけているのが「今」という時代なのでは?そんなことを徒然に思ってしまったのだった。
これも胃腸風邪のせいかも知れない・・・。