今年のノーベル賞は、日本人受賞者のニュースから始まった。
生理学・医学賞を受賞した木村博士の功績は、アフリカや中南米などの地域における「人の命」とかかわるようなモノであった。
一方、翌日物理学賞を受賞した梶田博士の研究は、宇宙という壮大な空間の中から「重さ」を求める、という私たちのくらしと、どう結びつくのかわからないが、ロマンスを感じさせるものだった。
2000年代に入ってから、「日本人がノーベル賞を受賞する」ということが、ある意味「大きな驚き」ではなくなりつつあるような気がする。
それほど、ノーベル賞を自然科学の分野で受賞される方が、増えてきているのだ。
このことはもちろん、喜ばしいコトだと思う。
ただ、ノーベル賞そのものが10年以上前の研究に対して評価されるコトが多いことを考えると、今後20年、30年先も日本人がノーベル賞を受賞し続けることができるのだろうか?と、不安になった。
というのも、2000年代に入ってからノーベル賞を受賞された方々の経歴を拝見すると、かつてのような「東大VS京大」という、一部の偏差値が高い大学出身の方々だけではなくなりつつあるからだ。
今回受賞された木村博士は、山梨大出身。その後、東京教育大学の聴講生となり、北里大学の研究室へと進まれている。
梶田博士にしても、出身大学は埼玉大学。その後東京大学大学院へと進まれた、経歴を持っている。
いわば「エリートコースから外れた」人材だったのだ。
しかし、今の「お受験事情」などを見ると、「とにかく有名大学へ進学」という傾向が、年々強くなってきているような気がする。
それが、いわゆる「受験テクニック」はあるが、その後の勉強意欲と結びついているのだろうか?という、気がするのだ。
大学の勉強というのは、高校までの勉強とは違い、自分で「勉強の楽しさ・意義を発見する」勉強だと思う。
その中から、自分がやりたい研究へと進む学生、社会に出てチャレンジをしていく学生など、様々な「生き方」を見つけるのだと思う。
ところが、「就活」に明け暮れていては、そのような勉強をしているような時間は、限られてしまうのではないだろうか?
もう一つは、木村先生が研究資金を得るため米国の製薬会社の協力を得たような、システムが日本にはできていない、という点もある。
「産学協同」という言葉は、随分使われているような気がするのだが、なかなか実績が上がってこないような気がしている。
「企業は利益を求めるためにある」のではなく「まず、社会に貢献するためにある」のではないだろうか?
「社会に貢献し、イノベーションを起こすコトで、利益を上げるコトができる」という、発想にはなかなかならないと感じるコトが多い。
実際、木村先生と協力し、薬を研究・開発した企業は、動物での治療で十分利益を上げるコトができたので、人への利用を無償としWHOに提供している。その結果として多くの人が病気から逃れるコトができ、ノーベル賞にもつながった。
梶田博士の研究成果を導いたのは「スーパーカミオカンデ」という施設で、その装置を造ったのは浜松ホトニクスという地方の企業。
そのような企業が、(特に地方で)増えてこない限り20年、30年後も日本人研究者がノーベル賞を受賞し続ける、ということは難しいような気がする。
日本人研究者が、ノーベル賞を受賞する機会が増えるコトは、とても喜ばしいコトだが、今から20年、30年後も今と同様に日本人研究者がノーベル賞や世界的権威があり、社会的意義のある賞を受賞し続けるための準備をするのは、今なのではないだろうか?という、気がしている。
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