今日の「毎日新聞」社会面に横浜であった、裁判の結果が報じられています。
この先生達って、一体どんな教育を受け、授業をしてきたのでしょうか?
「相田みつを」氏の書を知らないと言うのは、ある意味仕方ないのかも知れませんが、その書を見て「やくざのような言葉」というのは・・・。
言葉についての感性が、ありません。
他の先生達も、「生」という「美意識」が欠如しているように思います。
作家の橋本治氏の著書「人はなぜ『美しい』が分かるのか」という本で
「「美しい」は「人間関係に由来する感情で」、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。」
といっています。
動物の中で「美意識」というか「美しい」と感じることができるのは、ヒトだけです。
「合理性とか点数では判断できない」というのが、「美しい」という感覚であり、とても主観的なものでもあります。
その為、人それぞれの「美」に対する経験が、必要だと言うことになるのです。
おそらく、この先生達は「人間関係」というモノを真剣に考えたこともなければ、「美しい」と感じる心も育ててこなかったのでしょう。
もうひとつ、この元中学生が受けてきた様々な「いじめ」についてです。
単なる身体的なモノだけではなく、「モラルハラスメント」と呼ばれる差別まで受けています。
最近の教師の不祥事には、この「ハラスメント」によるものがほとんどで、教師本人はその自覚がありません。
本当に、これまでこの教師たちは何を学んできたのか?
最近よく言われる「教師の社会科勉強」程度では、余り効果が期待できそうもありません。
さて、この問題の原因になった国語の先生についてです。
実は・・・私は、小学校~高校まで「国語の勉強」と言うものをした記憶が、ありません。
書き取り練習や、文章を書くための技術は学びましたが、「国語の勉強」はしていないのです。
特に中学~高校にかけて、「国語の先生」はほとんど信頼をしていませんでした。
と言うのも、夏休みに出される「課題図書の『読書感想文』」についての、評価のされ方に違和感があったからです。
「感想文」というからには、人それぞれの感想があるはずなのに、評価されるのは「口当たりの良い、賞賛の文章」ばかりでしたから。
そして、その感覚が当たり前かな?と思ったのも、橋本治氏の「人はなぜ『美しい』がわかるのか」という本でした。
最近、受験の長文問題に橋本氏の文章が使われることが多いそうなのですが、その正解が作者本人のモノと違うのです。
このこと、先生達はどう感じますか?
この被害者である元中学生が、書初めで「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」(橋本治氏が「東大駒場祭」で書いたポスターのコピー)と書かなかっただけ、良かったような気が・・・。
この先生達って、一体どんな教育を受け、授業をしてきたのでしょうか?
「相田みつを」氏の書を知らないと言うのは、ある意味仕方ないのかも知れませんが、その書を見て「やくざのような言葉」というのは・・・。
言葉についての感性が、ありません。
他の先生達も、「生」という「美意識」が欠如しているように思います。
作家の橋本治氏の著書「人はなぜ『美しい』が分かるのか」という本で
「「美しい」は「人間関係に由来する感情で」、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。」
といっています。
動物の中で「美意識」というか「美しい」と感じることができるのは、ヒトだけです。
「合理性とか点数では判断できない」というのが、「美しい」という感覚であり、とても主観的なものでもあります。
その為、人それぞれの「美」に対する経験が、必要だと言うことになるのです。
おそらく、この先生達は「人間関係」というモノを真剣に考えたこともなければ、「美しい」と感じる心も育ててこなかったのでしょう。
もうひとつ、この元中学生が受けてきた様々な「いじめ」についてです。
単なる身体的なモノだけではなく、「モラルハラスメント」と呼ばれる差別まで受けています。
最近の教師の不祥事には、この「ハラスメント」によるものがほとんどで、教師本人はその自覚がありません。
本当に、これまでこの教師たちは何を学んできたのか?
最近よく言われる「教師の社会科勉強」程度では、余り効果が期待できそうもありません。
さて、この問題の原因になった国語の先生についてです。
実は・・・私は、小学校~高校まで「国語の勉強」と言うものをした記憶が、ありません。
書き取り練習や、文章を書くための技術は学びましたが、「国語の勉強」はしていないのです。
特に中学~高校にかけて、「国語の先生」はほとんど信頼をしていませんでした。
と言うのも、夏休みに出される「課題図書の『読書感想文』」についての、評価のされ方に違和感があったからです。
「感想文」というからには、人それぞれの感想があるはずなのに、評価されるのは「口当たりの良い、賞賛の文章」ばかりでしたから。
そして、その感覚が当たり前かな?と思ったのも、橋本治氏の「人はなぜ『美しい』がわかるのか」という本でした。
最近、受験の長文問題に橋本氏の文章が使われることが多いそうなのですが、その正解が作者本人のモノと違うのです。
このこと、先生達はどう感じますか?
この被害者である元中学生が、書初めで「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」(橋本治氏が「東大駒場祭」で書いたポスターのコピー)と書かなかっただけ、良かったような気が・・・。