1948年高野山の決戦第三局は升田幸三の「横歩取り」で始まりました。これは後手番の大山康晴が升田得意の「角換わり腰掛銀」を避けるために選んだ戦術でした。
前日の記事ではその序盤の棋譜を紹介しました。今日はその後編です。
では続きをどうぞ。
2八飛 6四歩 5八金 7四歩 4六歩 8二飛 3六歩 5二金 5九角 5三銀 7七桂 8六歩 同歩 同飛 8七歩 8四飛 2六角 4四角 3七角 2二角 4八飛 6五歩
ここからどう組むか、それが難しい。
後手は次に8二飛と飛車を戻すと、次に3一角から8六歩で角交換が狙える。角を交換することが先手にとっていいのかどうか。
結局、升田さんは2八飛と引き飛車にしました。そして「この構想が悪かった」と悔やんでいます。
升田さんは、2八飛~5九角~2六角という構想を描いたのですが、それがどうも「のんびりしすぎだった」というのです。升田さんは、「2八飛では、4六歩として、3六歩から3七桂を目指すべきだった」と振り返っています。
この発言の意味は、僕のような棋力のものでも、大雑把にならば理解できます。先手は「横歩」をとって持ち歩を2枚にしています。ここが後手よりもリードしているポイントです。それならば、この2つの持ち歩を生かすような速い攻めを見せて攻めの主導権を取りたいところ。それには桂馬の攻めが有効になりやすい。いつでも攻めるぞと桂馬と持ち歩で攻めをちらつかせて、相手の動きをコントロールするということです。
ところで、先手の駒組みは「雁木(がんぎ)」ですね。
今は見ることの少ない「雁木」が昔はよく現れていたのは、昔の将棋は「中央重視」だったからですね。飛車先の攻めや端の攻めよりも、中央の制圧が価値が高い、そういう意識が時代の空気としてあったように思います。
なので横歩を取ってその後▲2八飛と引き飛車にして中央を厚く、という先手の駒組みは、昔の(大戦前の)将棋を踏襲している感じがします。
先手升田が▲5九角と角を引いたのを見て、大山は△5三銀として角道を通しました。△6五歩からの攻めがあるので先手は▲7七桂。そこで大山は△8六歩から飛先の歩を交換して持ち歩を増やします。
大山ペースになってきました。
升田さんは▲2六角を予定通りに実現させましたが、大山さんの△4四角に▲3七角と引いてしまいます。どうも消極的です。ここも「▲3五歩と指すべき」と後で言っています。(この歩を、どこかで機を見て▲3四歩と伸ばしたいですよね。)
このあたりどうも結果的に、升田幸三の得意戦法を拒否した大山康晴の「横歩取らせ」がうまくはまったといえるかもしれません。
4五歩 6六歩 同銀 6五歩 5七銀 5五歩 4六銀 7五歩 同歩 6四銀 4四歩 同角 3五銀 3三桂 5五歩 同角 5三歩 同銀 5五角 同銀 6五桂 5四銀 5三歩 4二金 2四歩 5七歩
図の△6五歩(62手目)で開戦です。
形勢は互角ですが、後手が攻める展開です。こうなってみると後手大山陣のほうが“現代的”です。「受けの大山」という私たちのもつイメージとは違う感じ。
後手の持ち歩も先手と同じで2歩。それならば「一歩損」などもはや気にならない状況になっており、つまりは「後手大山の横歩取らせ大成功の図」ということです。後手の駒には勢いがありますね。
ただし、勝負はこれから。形勢はあくまで互角。
「攻める大山」は、3三桂とこちらの桂馬まで攻めに使ってきます。
6八金 6六歩 7六銀 4五角 9六角
先手▲2四歩に後手△5七歩。攻め合いです。
後手5七歩の手で△6五銀と桂馬を取ると、▲6三角から先手勝ち。
「△5七歩はありがたかった。△2四同歩が嫌だった」という升田の感想。このあたりが勝負どころだったようです。
大山がここで攻めて△6六歩▲7六銀という形になったので、▲9六角が生じここで升田優勢に傾きました。
8五歩 同銀 8二飛 7六銀 3一王 3七桂 5六角 5七金 7七歩 同金 8九角成 2三歩成 同馬 2八飛 2五歩
▲9六角―――こういう角打ちは升田幸三がほんとに得意とするところで、おそらく升田さんはずっと前からこの形になればこの角打ちで自分の勝ちと読んでいたでしょう。直前の▲7六銀がなければ△8五歩があるので、▲9六角もなかったわけです。大山さんの攻めを升田さんが「ありがたかった」と言ったのはそういうこと。自然に狙っていた形になった。
升田さんは「これでもう勝ち」と楽観気分にさえなったようです。(←それは喜び過ぎなのでは。)
2四歩 8九馬 7八金
大山さんは馬をつくり、攻防に働かせますが――
6五銀 同銀 7三桂 7四銀 6五桂打 5八金 5六銀 7三銀成
その馬を升田さんは▲7八金で封じ込めようとします。「升田の受けつぶし」です。
これでもう攻められないだろう、というわけです。
対して、不利な大山さんは“最後の攻め”を開始します。ここは無理しても攻めないとアウト、という場面なのでしょう。
【研究:9九馬なら?】 しかしさて、仮に▲7八金に後手が△9九馬と緩んだとしたら、先手はどう指すのがいいんでしょうね。▲2五桂は△4五桂が金に当たるのでダメ。それなら▲3四銀かな? △2一香なら▲7四歩から歩成をねらう…う~ん、そんなヨミでいいんでしょうか。
升田さんはもう勝ちを確信していたようです。大山さんはどうだったでしょう。「負けかもしれない、でも負けない」ってところでしょうか。何せ『助からないと思っても助かっている』の人ですから!!
7八馬 同王 6七金 6九王 5八金 同王 5七桂成 4九王 4七銀成 3九王
8二の飛車を取る一手の余裕ができれば先手勝ちが確定する。
後手は△7八馬と馬を切って△6七金と打つ。
対して先手は「▲8九玉とすれば勝ちだった」らしいが、升田は▲6九玉。この瞬間、じつは逆転していて後手大山の勝ちになる。(ダメじゃん升田さん!) ところが大山は、△5七桂成なら勝ちだったところを、△5八金。 再逆転、升田▲5八同玉。
【研究:8九玉と逃げて先手勝ちってホントか?】 ▲8九玉に△7七桂成。後手玉は詰みはない…。なら、先手負けなのでは?
と思ったらよく解説を読めば△7七桂成に▲5九金、これで先手が勝ちと書いてあった。そこまでしか書いてないが、以下△7八金、同飛、同成桂、同玉、6七歩成、8九玉、7七飛、8八金は先手勝てそう。
4八成桂 同飛 同成銀 同王 8八飛 4七王 8七飛行成 同角 同飛成
▲3九王と逃げて、また升田の勝ちになった。
将棋は逆転のゲームですなあ。
4六王 6四角 5五桂 4七金 まで142手で後手の勝ち
△8七飛成に「5七桂合」で升田勝ち ―――― となるはずが、そうならなかった。 本人にも理由はわからないが▲4六玉と逃げてしまった。
ポカ(=うっかりミス)である。
△6四角から先手玉は詰んでしまった。あーあ、なんてこったい。
こういうのを将棋用語で「トン死する」と言います。
【研究:5七桂合以下】 「5七桂合で升田勝ち」ということだけど、▲5七桂合△6七歩成でそこで先手はどう攻めたらいいのだろう? 後手玉が詰めば問題ないが、どうやって詰む?
詰まないとして、▲6一飛と王手して4一に金か角を合駒として使わせて▲3四桂とすれば先手勝ちか…。いや、▲6一飛に△5一歩なら?▲同飛成、△4一金打で先手取られて竜を逃げると△2九角でこれ、先手負けだなあ。うーん、じゃどうする?
などと、ここまで考えた後、ソフト(東大将棋6)に詰みの有無を問うてみた。すると「後手玉に詰みあり」でした。詰み手順は2三桂と打って、2二玉なら2一金、同玉、1一桂成、同玉、1二銀以下。2三桂、同金なら、3二銀、同金、4一金、2一玉、3一飛以下の詰みです。なるほど~。
投了図
投了し、「錯覚いけないよく見るよろし」と、升田幸三は呟いた。
投了図以下は、5六玉、5七竜、6五玉、5五竜、7六玉、7五竜、8七玉、8六竜、7八玉、7七歩、7九玉、6七桂以下の詰みとなります。
よく知られているように、升田幸三はこの時の負けを後々まで痛恨に思っています。何度も愚痴っております。言い訳にも聞こえる。体調が悪いだの寒さが嫌いだの主催者の対応が駄目だのと。
思えば升田幸三は、威張ることと、愚痴ることの似合う人でした。そしてそこが魅力だったのです。
あんなに強いのに簡単なところでポカをする。あんなに鋭い目なのに体が弱い。あんなにかっこいいのに愚痴る。強さと弱さが両方わかりやすく表われていた。
「あの男が名人位を取るところが見たいなあ…」多くの将棋ファンそう思ったことでしょう。(僕はもちろんこの当時まだ生まれておりませんので…)
対して、弟弟子の大山康晴は最強マシーンでした。体力と精神力の“オバケ”でした。年月を経て後になって徐々にその怪物ぶりが判ってきました。
しかしその大山も、まだ若く、この年1948年の名人戦では名人塚田正夫に勝てませんでした。
そして次年度のA級順位戦を勝ち抜き名人挑戦者になったのは、升田幸三でも大山康晴でもなく、あの木村義雄でした。そして木村は、再び名人位へ返り咲いたのです。
その後は――
1948年2・3月 高野山の決戦(名人は塚田正夫)
1949年 木村義雄、名人位復位
1950年 名人戦の主催者が毎日から朝日へ
1951年 『ごみはえ問答』 ついに升田幸三が名人挑戦者に
「ゴマ塩頭にいつまでも名人にいてもらっては困るんですよ」
とラジオの舌戦では敵を翻弄 しかし将棋では敗れる
1952年2月28日 陣屋事件=王将戦で升田幸三が木村義雄を差し込み(香落ち下手)に追い込む
1952年 大山康晴が名人に 敗れた木村義雄は引退
1953年 升田幸三名人挑戦者に しかし大山康晴に返り討ちにあう
1954年 升田幸三名人挑戦者に しかし大山康晴に返り討ちにあう
1957年 ずっと大山に勝てずファンも本人もあきらめていた頃、升田幸三が名人に
しかも全タイトル制覇の三冠王(名人・王将・九段) 升田超ハッピー
1959年 大山康晴名人位復位 最強マシーン完成
大山ここから13年名人位を離さず 伸び盛りの若手を悉くぶっ潰す
(この間升田も4度名人挑戦者に しかしそのたびに返り討ちにあう)
こんな感じです。 おしまい。
[追記]
『ごみはえ問答』について、その年度など、少し訂正があります。10月31日記事『萩原流横歩取り陽動向かい飛車』に書いております。
[追記2]
「錯覚いけないよく見るよろし」は、当時の観戦記によれば、三国人(朝鮮籍の人は自分たちのことを当時このように主張したことがある。朝鮮人は日本人とちがい敗戦国の人間ではないという主張を含む)が、日本人をだまして妙なものを買わせたときに、「錯覚いけないよく見るよろし」と言ってからかうことがこの当時多かったらしく、升田はそのセリフを拝借してこう言ったという。
元はそういう、人をだましておいてあざけるという嫌な言葉なので、この「錯覚いけないよく見るよろし」を升田の名セリフのように扱うのは疑問である。
・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
『高野山の決戦は「横歩取り」だった』
『「錯覚いけないよく見るよろし」』
『「端攻め時代」の曙光 1』
『「端攻め時代」の曙光 2』
『「端攻め時代」の曙光 3』
『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
『新名人、その男の名は塚田正夫』
・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
『京須新手4四桂は是か非か』
『小堀流、名人戦に登場!』
『「9六歩型相横歩」の研究(4)』
前日の記事ではその序盤の棋譜を紹介しました。今日はその後編です。
では続きをどうぞ。
2八飛 6四歩 5八金 7四歩 4六歩 8二飛 3六歩 5二金 5九角 5三銀 7七桂 8六歩 同歩 同飛 8七歩 8四飛 2六角 4四角 3七角 2二角 4八飛 6五歩
ここからどう組むか、それが難しい。
後手は次に8二飛と飛車を戻すと、次に3一角から8六歩で角交換が狙える。角を交換することが先手にとっていいのかどうか。
結局、升田さんは2八飛と引き飛車にしました。そして「この構想が悪かった」と悔やんでいます。
升田さんは、2八飛~5九角~2六角という構想を描いたのですが、それがどうも「のんびりしすぎだった」というのです。升田さんは、「2八飛では、4六歩として、3六歩から3七桂を目指すべきだった」と振り返っています。
この発言の意味は、僕のような棋力のものでも、大雑把にならば理解できます。先手は「横歩」をとって持ち歩を2枚にしています。ここが後手よりもリードしているポイントです。それならば、この2つの持ち歩を生かすような速い攻めを見せて攻めの主導権を取りたいところ。それには桂馬の攻めが有効になりやすい。いつでも攻めるぞと桂馬と持ち歩で攻めをちらつかせて、相手の動きをコントロールするということです。
ところで、先手の駒組みは「雁木(がんぎ)」ですね。
今は見ることの少ない「雁木」が昔はよく現れていたのは、昔の将棋は「中央重視」だったからですね。飛車先の攻めや端の攻めよりも、中央の制圧が価値が高い、そういう意識が時代の空気としてあったように思います。
なので横歩を取ってその後▲2八飛と引き飛車にして中央を厚く、という先手の駒組みは、昔の(大戦前の)将棋を踏襲している感じがします。
先手升田が▲5九角と角を引いたのを見て、大山は△5三銀として角道を通しました。△6五歩からの攻めがあるので先手は▲7七桂。そこで大山は△8六歩から飛先の歩を交換して持ち歩を増やします。
大山ペースになってきました。
升田さんは▲2六角を予定通りに実現させましたが、大山さんの△4四角に▲3七角と引いてしまいます。どうも消極的です。ここも「▲3五歩と指すべき」と後で言っています。(この歩を、どこかで機を見て▲3四歩と伸ばしたいですよね。)
このあたりどうも結果的に、升田幸三の得意戦法を拒否した大山康晴の「横歩取らせ」がうまくはまったといえるかもしれません。
4五歩 6六歩 同銀 6五歩 5七銀 5五歩 4六銀 7五歩 同歩 6四銀 4四歩 同角 3五銀 3三桂 5五歩 同角 5三歩 同銀 5五角 同銀 6五桂 5四銀 5三歩 4二金 2四歩 5七歩
図の△6五歩(62手目)で開戦です。
形勢は互角ですが、後手が攻める展開です。こうなってみると後手大山陣のほうが“現代的”です。「受けの大山」という私たちのもつイメージとは違う感じ。
後手の持ち歩も先手と同じで2歩。それならば「一歩損」などもはや気にならない状況になっており、つまりは「後手大山の横歩取らせ大成功の図」ということです。後手の駒には勢いがありますね。
ただし、勝負はこれから。形勢はあくまで互角。
「攻める大山」は、3三桂とこちらの桂馬まで攻めに使ってきます。
6八金 6六歩 7六銀 4五角 9六角
先手▲2四歩に後手△5七歩。攻め合いです。
後手5七歩の手で△6五銀と桂馬を取ると、▲6三角から先手勝ち。
「△5七歩はありがたかった。△2四同歩が嫌だった」という升田の感想。このあたりが勝負どころだったようです。
大山がここで攻めて△6六歩▲7六銀という形になったので、▲9六角が生じここで升田優勢に傾きました。
8五歩 同銀 8二飛 7六銀 3一王 3七桂 5六角 5七金 7七歩 同金 8九角成 2三歩成 同馬 2八飛 2五歩
▲9六角―――こういう角打ちは升田幸三がほんとに得意とするところで、おそらく升田さんはずっと前からこの形になればこの角打ちで自分の勝ちと読んでいたでしょう。直前の▲7六銀がなければ△8五歩があるので、▲9六角もなかったわけです。大山さんの攻めを升田さんが「ありがたかった」と言ったのはそういうこと。自然に狙っていた形になった。
升田さんは「これでもう勝ち」と楽観気分にさえなったようです。(←それは喜び過ぎなのでは。)
2四歩 8九馬 7八金
大山さんは馬をつくり、攻防に働かせますが――
6五銀 同銀 7三桂 7四銀 6五桂打 5八金 5六銀 7三銀成
その馬を升田さんは▲7八金で封じ込めようとします。「升田の受けつぶし」です。
これでもう攻められないだろう、というわけです。
対して、不利な大山さんは“最後の攻め”を開始します。ここは無理しても攻めないとアウト、という場面なのでしょう。
【研究:9九馬なら?】 しかしさて、仮に▲7八金に後手が△9九馬と緩んだとしたら、先手はどう指すのがいいんでしょうね。▲2五桂は△4五桂が金に当たるのでダメ。それなら▲3四銀かな? △2一香なら▲7四歩から歩成をねらう…う~ん、そんなヨミでいいんでしょうか。
升田さんはもう勝ちを確信していたようです。大山さんはどうだったでしょう。「負けかもしれない、でも負けない」ってところでしょうか。何せ『助からないと思っても助かっている』の人ですから!!
7八馬 同王 6七金 6九王 5八金 同王 5七桂成 4九王 4七銀成 3九王
8二の飛車を取る一手の余裕ができれば先手勝ちが確定する。
後手は△7八馬と馬を切って△6七金と打つ。
対して先手は「▲8九玉とすれば勝ちだった」らしいが、升田は▲6九玉。この瞬間、じつは逆転していて後手大山の勝ちになる。(ダメじゃん升田さん!) ところが大山は、△5七桂成なら勝ちだったところを、△5八金。 再逆転、升田▲5八同玉。
【研究:8九玉と逃げて先手勝ちってホントか?】 ▲8九玉に△7七桂成。後手玉は詰みはない…。なら、先手負けなのでは?
と思ったらよく解説を読めば△7七桂成に▲5九金、これで先手が勝ちと書いてあった。そこまでしか書いてないが、以下△7八金、同飛、同成桂、同玉、6七歩成、8九玉、7七飛、8八金は先手勝てそう。
4八成桂 同飛 同成銀 同王 8八飛 4七王 8七飛行成 同角 同飛成
▲3九王と逃げて、また升田の勝ちになった。
将棋は逆転のゲームですなあ。
4六王 6四角 5五桂 4七金 まで142手で後手の勝ち
△8七飛成に「5七桂合」で升田勝ち ―――― となるはずが、そうならなかった。 本人にも理由はわからないが▲4六玉と逃げてしまった。
ポカ(=うっかりミス)である。
△6四角から先手玉は詰んでしまった。あーあ、なんてこったい。
こういうのを将棋用語で「トン死する」と言います。
【研究:5七桂合以下】 「5七桂合で升田勝ち」ということだけど、▲5七桂合△6七歩成でそこで先手はどう攻めたらいいのだろう? 後手玉が詰めば問題ないが、どうやって詰む?
詰まないとして、▲6一飛と王手して4一に金か角を合駒として使わせて▲3四桂とすれば先手勝ちか…。いや、▲6一飛に△5一歩なら?▲同飛成、△4一金打で先手取られて竜を逃げると△2九角でこれ、先手負けだなあ。うーん、じゃどうする?
などと、ここまで考えた後、ソフト(東大将棋6)に詰みの有無を問うてみた。すると「後手玉に詰みあり」でした。詰み手順は2三桂と打って、2二玉なら2一金、同玉、1一桂成、同玉、1二銀以下。2三桂、同金なら、3二銀、同金、4一金、2一玉、3一飛以下の詰みです。なるほど~。
投了図
投了し、「錯覚いけないよく見るよろし」と、升田幸三は呟いた。
投了図以下は、5六玉、5七竜、6五玉、5五竜、7六玉、7五竜、8七玉、8六竜、7八玉、7七歩、7九玉、6七桂以下の詰みとなります。
よく知られているように、升田幸三はこの時の負けを後々まで痛恨に思っています。何度も愚痴っております。言い訳にも聞こえる。体調が悪いだの寒さが嫌いだの主催者の対応が駄目だのと。
思えば升田幸三は、威張ることと、愚痴ることの似合う人でした。そしてそこが魅力だったのです。
あんなに強いのに簡単なところでポカをする。あんなに鋭い目なのに体が弱い。あんなにかっこいいのに愚痴る。強さと弱さが両方わかりやすく表われていた。
「あの男が名人位を取るところが見たいなあ…」多くの将棋ファンそう思ったことでしょう。(僕はもちろんこの当時まだ生まれておりませんので…)
対して、弟弟子の大山康晴は最強マシーンでした。体力と精神力の“オバケ”でした。年月を経て後になって徐々にその怪物ぶりが判ってきました。
しかしその大山も、まだ若く、この年1948年の名人戦では名人塚田正夫に勝てませんでした。
そして次年度のA級順位戦を勝ち抜き名人挑戦者になったのは、升田幸三でも大山康晴でもなく、あの木村義雄でした。そして木村は、再び名人位へ返り咲いたのです。
その後は――
1948年2・3月 高野山の決戦(名人は塚田正夫)
1949年 木村義雄、名人位復位
1950年 名人戦の主催者が毎日から朝日へ
1951年 『ごみはえ問答』 ついに升田幸三が名人挑戦者に
「ゴマ塩頭にいつまでも名人にいてもらっては困るんですよ」
とラジオの舌戦では敵を翻弄 しかし将棋では敗れる
1952年2月28日 陣屋事件=王将戦で升田幸三が木村義雄を差し込み(香落ち下手)に追い込む
1952年 大山康晴が名人に 敗れた木村義雄は引退
1953年 升田幸三名人挑戦者に しかし大山康晴に返り討ちにあう
1954年 升田幸三名人挑戦者に しかし大山康晴に返り討ちにあう
1957年 ずっと大山に勝てずファンも本人もあきらめていた頃、升田幸三が名人に
しかも全タイトル制覇の三冠王(名人・王将・九段) 升田超ハッピー
1959年 大山康晴名人位復位 最強マシーン完成
大山ここから13年名人位を離さず 伸び盛りの若手を悉くぶっ潰す
(この間升田も4度名人挑戦者に しかしそのたびに返り討ちにあう)
こんな感じです。 おしまい。
[追記]
『ごみはえ問答』について、その年度など、少し訂正があります。10月31日記事『萩原流横歩取り陽動向かい飛車』に書いております。
[追記2]
「錯覚いけないよく見るよろし」は、当時の観戦記によれば、三国人(朝鮮籍の人は自分たちのことを当時このように主張したことがある。朝鮮人は日本人とちがい敗戦国の人間ではないという主張を含む)が、日本人をだまして妙なものを買わせたときに、「錯覚いけないよく見るよろし」と言ってからかうことがこの当時多かったらしく、升田はそのセリフを拝借してこう言ったという。
元はそういう、人をだましておいてあざけるという嫌な言葉なので、この「錯覚いけないよく見るよろし」を升田の名セリフのように扱うのは疑問である。
・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
『高野山の決戦は「横歩取り」だった』
『「錯覚いけないよく見るよろし」』
『「端攻め時代」の曙光 1』
『「端攻め時代」の曙光 2』
『「端攻め時代」の曙光 3』
『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
『新名人、その男の名は塚田正夫』
・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
『京須新手4四桂は是か非か』
『小堀流、名人戦に登場!』
『「9六歩型相横歩」の研究(4)』