はんどろやノート

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チェアマン

2007年08月20日 | はなし
 小堀清一九段(1912~1996年)の話。

 「腰掛け銀」という戦法があることは、前にも述べた
将棋の戦いは、序盤で大体▲5六歩と、5筋の歩を突くことが多い。そうすることで作戦の幅が広く、駒が使いやすい場合が多いからだ。しかし、「腰掛け銀」にしたいなら、▲5六歩は指してはいけない。▲4六歩として、右銀を4七から▲5六銀とする。これが「腰掛け銀」の定位置である。
 このあと、場合によっては▲4八飛として4筋を攻撃する… これが「右四間」である。

 小堀清一さんは「なにがなんでも腰掛銀」という人だった。腰掛け銀の鬼、と呼ばれたかどうか、それはしらないが、とにかく、腰掛け銀一本だったらしい。

 僕は高校生のとき、『将棋年鑑』を買っていた。たしか、3800円だったと思う。『将棋年鑑』には、1年間にプロが指した将棋の棋譜が500ほど載っていて、簡単な解説もついている。夜、受験勉強の合間に、その棋譜のいくつかを並べるのが楽しかった。
 その中に、小堀さんの対局の棋譜も1局あり、小堀さんが「腰掛銀しか指さない」ということが書かれていた。こういう棋士は、それだけで印象に残る。ガンコ職人、スペシャリスト… そういう人は、世の中には必要なキャラである。

 羽生善治は15歳中学生のとき、プロ棋士(四段)になった。
 その羽生四段が小堀清一と対戦した。小堀さん74歳くらいのときだ。
 その対局も当然小堀は「腰掛け銀」である。将棋は羽生が有利にすすめたが、小堀もがんばった。両者時間をいっぱいに使い、朝から始まった対局は夜になり、日付が変わり、深夜1時になって決着がついた。羽生の勝ち。
 そこから「感想戦」となる。ああだった、こうだったと研究、反省、ぼやく時間で、これの好きな人と、そうでない人といるらしい。小堀さんは感想戦が好きなタイプだったのか、このときの感想戦は延々とつづいた。なんと朝がきて、明るくなった。それでも小堀は感想戦をやめない。羽生少年はつきあったが、とうとう盤の前で寝てしまった。
 その記録をとっていたのが、勝又清和(現六段)で、まだ奨励会員だった。記録の仕事は終わったが、帰るわけにもいかない、勝又さんも、小堀と羽生の感想戦を聞いている。そして、朝8時になった。掃除のおばちゃんがやってきた。それでも小堀さんはやめない、眠りこけている羽生少年の前で一人で研究を続けている。9時になった。まだやめない。おばちゃんは、掃除ができない。
 10時になると、その日の対局がはじまってしまう。ようやく小堀清一九段は感想戦をやめ、羽生四段、勝又記録係は解放された。

 僕はこのエピソードが好きで。(羽生さんは高校へ行っていたんだっけ?) 
 この話は小堀九段の弟子の河口俊彦七段が書いた『新・対局日誌』(将棋世界)にあるのだが、「よく付き合ってくれた、と羽生四冠に感謝するのだが、こういうエピソードを知ると、大棋士になる人は、子供のときから違う、と思いませんか」と河口さんは書いている。
 小堀九段はこの羽生と対局の翌年に引退している。


 羽生善治と深浦康市が闘っている。

 自分も、相手も、お互いが「腰掛け銀」にすると「相腰掛銀」となる。この形が今、タイトル戦ではよく登場する。この前の名人戦第七局がそうだったし、佐藤・渡辺の竜王戦・棋聖戦でも出てきた。
 そして只今進行中の王位戦第4局も「腰掛け銀」になった!
 先手・後手が同じ型に… これは佐藤・渡辺の棋聖戦第2局と同じで、そのときは先手佐藤康光が堀口流▲2六飛で勝った。そして王位戦も、先手の深浦康市が同じように指し、後手の羽生の指し方が注目された。しかし、勝ったのは、深浦八段。どうも堀口流▲2六飛は優秀のようだ。羽生を持ってしてもうち破れないとは…。
 この堀口新手▲2六飛を僕が知ったのは、深浦さんの著書『最前線物語』なんだよねー。

 羽生善治 1-3 深浦康市

 あと一つ勝てば、深浦八段が初タイトルを獲得する。さて、それじゃあ、次は、その深浦さんのことを書きますか。

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