岡本一平の墓。
岡本一平は、1922年夏に世界一周旅行を終えて日本に帰国した。
その頃から、世間では、アインシュタインの名が新聞紙上をにぎわし始めていた。ドイツ・ベルリンからアインシュタイン博士を招く予定の改造社が、その宣伝をはじめたのである。
ほとんどの国民はアインシュタインなど知らなかった。
新聞によると、その博士は「相対性理論」というもので有名な博士らしい…。
わからないながらも世間は、「相対性理論」に、ちょっとばかり興奮した。なぜなら、その言葉がとってもエロかったからである。
「相対」という言葉はもとから日本にはあって、これは「アイタイ」と読むのだが、その意味は「男と女が二人きりで抱き合う」というような意味なのだ。「相」は「相合傘」の「相」だし、「対」は「2つで1つ」の意味がある。
さらにその上に、「性」の字がくっついて「相・対・性」!
「相対性理論」---うお~っどんだけいやらしい理論なんだ!!
その「相対性」の(エロい?)有名な博士が日本の地を踏んだのは1922年11月17日。その7日前、船上で博士はノーベル受賞を知らす電報を受け取っている。11日には同時にノーベル賞受賞が決まったニールス・ボーアからの祝電も届いた。 東京駅では大群衆に迎えられ、19日には慶応大で講義。 この講義は2千人の聴衆を集めた。 さらに25日からは東大での集中講義がはじまった。東京での博士の講義の通訳は石原純が務めた。
東京でのアインシュタインの歓迎ぶりは、お祭りのようだった。その様子が新聞で伝えられ、アインシュタインはたちまち人気者となった。
「アインシュタイン?」
岡本一平という男は、“一流の人”というのに会うのが趣味のようなところがあった。新聞紙上をにぎわしているこの「相対性理論を編み出したすごい博士」に会ってみたいと思った彼は、「会わせてくれ」と頼んだ。 「では仙台に行ってくれ」、ということになり、岡本一平はアインシュタイン博士のあとを追い、仙台へ。
12月3日、東北仙台講演。この日から岡本一平はしばらくアインシュタインの講演旅行に同行することになる。
だがこのア博士の東北仙台講演は、なぜか期待ほどには客が入らず空席も見られた。
東北大学の物理学者といえば、本多光太郎がいた。大正時代、この時点において世界最強の磁石、「KS鋼」の発明者である。そういうわけで本多光太郎の名前は専門家の間では世界的に知られていた。
石原純も数年前まではここ東北大学の教授であったが、以前に書いた通り、歌人原阿佐緒との不倫が世間を騒がせ、辞めることとなった。そういうこともあって、石原はこの仙台講演には同行しなかった。
当時の東北大学の総長は小川正孝。化学が専門である。 彼は、アルゴンやネオンなど「新元素」を次々と発見したイギリスのラムゼーの下で学び、その影響で「新元素」の発見を生涯追求した。 1909年、ついにそれ(43番元素)を発見したと発表し、「ニッポニウム」と名付けたが、世界的に認められることにはならなかった。43番元素は現在「テクネチウム(Tc)」という名前が付いているが、1937年にアメリカ・カルフォルニアの実験室で人工的に作られて認められた。これは現在の地球上にはほとんど存在していないらしい。
話がどんどんそれるが、この東北(帝国)大学の設立と、古川財閥の足尾鉱毒事件とはかかわりがある。東北大学の設立計画は一時期、資金難のために頓挫しかけていたが、足尾銅山鉱毒事件で世間を騒がせ、しかしその後日露戦争で大いに儲けた古河財閥に、鉱毒事件の悪いイメージを払拭するために資金を出せと要求して実現したのである。
ところで、大正時代の東北といえば、あの男、宮沢賢治はこのとき何をしていたのだろう? なぜアインシュタイン博士のこの講演にこなかったのだろう? 知らなかったはずはないし、お金もあったはずである。物理学にまでは興味はなかったのだろうか。
この年の1年前から、賢治は花巻農業高校の教師であった。(その前には1年間東京で暮らしていた。) 生徒たちと岩手山に上り、また夏には“イギリス海岸”と名付けた川原で泳ぎ、地質調査をした。
そして、1922年は、宮沢賢治の詩の才能が爆発した年なのである。賢治は首からぶら下げたシャープペンシルであふれる詩想をメモ帳に書き留めた。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
賢治の『永訣の朝』の詩で有名な“妹のトシ”が逝ってしまうのがこの年の晩秋。1922年の11月27日のことだった。 「わたくしといふ現象は…」で始まる詩集『春と修羅』の序文を書いたのは、その1年2か月後になる。
宮沢賢治は新聞紙上をにぎわす“アインシュタイン博士”について何を思っていただろう。(この日のアインシュタインは東大で講義をしていた。)
『銀河鉄道の夜』のアイデアが彼の中にふくらんでいくのは、この2年後のことだ。
転倒の相対性原理
雪の山中は寂莫、山の頂は白く、裾は澱んだ薄墨色に隈が取ってある。吹雪の混る楢の落葉のみ触れ合ってかさこそと音を立てて居る。凍った道に博士は滑り転ぶ。外人の転びようは不器用だ。助け起こして稲垣氏言う。「相対性原理で申すと先生が転んだのじゃないですね。地球が傾いたのですね。博士「俺れもそう思うが、感じでは同じだ」
(岡本一平『アインシュタイン博士の人間味』)
まあつまり、このとき(1922・12・3)、アインシュタインと岡本一平と宮沢賢治、この三人は東北の地で最接近していたということを、僕はどこかに書いておきたかったのだ。 性格的にはこの三人、共通点はあまりなさそうだけれども。
岡本一平とかの子の墓。もちろん岡本太郎の制作によるもの。
太郎は父一平のことを“ニヒリスト”と評している。また、「お父さんは絵が上手くないよね」と、若いときに言っていたようだ。僕もそう思う。上手くないし、パンチがない。それでも、たしかに、「日本一有名な売れっ子漫画家」であった。 “ニヒリスト”の部分がウケていたのかもしれない。
岡本一平は、1922年夏に世界一周旅行を終えて日本に帰国した。
その頃から、世間では、アインシュタインの名が新聞紙上をにぎわし始めていた。ドイツ・ベルリンからアインシュタイン博士を招く予定の改造社が、その宣伝をはじめたのである。
ほとんどの国民はアインシュタインなど知らなかった。
新聞によると、その博士は「相対性理論」というもので有名な博士らしい…。
わからないながらも世間は、「相対性理論」に、ちょっとばかり興奮した。なぜなら、その言葉がとってもエロかったからである。
「相対」という言葉はもとから日本にはあって、これは「アイタイ」と読むのだが、その意味は「男と女が二人きりで抱き合う」というような意味なのだ。「相」は「相合傘」の「相」だし、「対」は「2つで1つ」の意味がある。
さらにその上に、「性」の字がくっついて「相・対・性」!
「相対性理論」---うお~っどんだけいやらしい理論なんだ!!
その「相対性」の(エロい?)有名な博士が日本の地を踏んだのは1922年11月17日。その7日前、船上で博士はノーベル受賞を知らす電報を受け取っている。11日には同時にノーベル賞受賞が決まったニールス・ボーアからの祝電も届いた。 東京駅では大群衆に迎えられ、19日には慶応大で講義。 この講義は2千人の聴衆を集めた。 さらに25日からは東大での集中講義がはじまった。東京での博士の講義の通訳は石原純が務めた。
東京でのアインシュタインの歓迎ぶりは、お祭りのようだった。その様子が新聞で伝えられ、アインシュタインはたちまち人気者となった。
「アインシュタイン?」
岡本一平という男は、“一流の人”というのに会うのが趣味のようなところがあった。新聞紙上をにぎわしているこの「相対性理論を編み出したすごい博士」に会ってみたいと思った彼は、「会わせてくれ」と頼んだ。 「では仙台に行ってくれ」、ということになり、岡本一平はアインシュタイン博士のあとを追い、仙台へ。
12月3日、東北仙台講演。この日から岡本一平はしばらくアインシュタインの講演旅行に同行することになる。
だがこのア博士の東北仙台講演は、なぜか期待ほどには客が入らず空席も見られた。
東北大学の物理学者といえば、本多光太郎がいた。大正時代、この時点において世界最強の磁石、「KS鋼」の発明者である。そういうわけで本多光太郎の名前は専門家の間では世界的に知られていた。
石原純も数年前まではここ東北大学の教授であったが、以前に書いた通り、歌人原阿佐緒との不倫が世間を騒がせ、辞めることとなった。そういうこともあって、石原はこの仙台講演には同行しなかった。
当時の東北大学の総長は小川正孝。化学が専門である。 彼は、アルゴンやネオンなど「新元素」を次々と発見したイギリスのラムゼーの下で学び、その影響で「新元素」の発見を生涯追求した。 1909年、ついにそれ(43番元素)を発見したと発表し、「ニッポニウム」と名付けたが、世界的に認められることにはならなかった。43番元素は現在「テクネチウム(Tc)」という名前が付いているが、1937年にアメリカ・カルフォルニアの実験室で人工的に作られて認められた。これは現在の地球上にはほとんど存在していないらしい。
話がどんどんそれるが、この東北(帝国)大学の設立と、古川財閥の足尾鉱毒事件とはかかわりがある。東北大学の設立計画は一時期、資金難のために頓挫しかけていたが、足尾銅山鉱毒事件で世間を騒がせ、しかしその後日露戦争で大いに儲けた古河財閥に、鉱毒事件の悪いイメージを払拭するために資金を出せと要求して実現したのである。
ところで、大正時代の東北といえば、あの男、宮沢賢治はこのとき何をしていたのだろう? なぜアインシュタイン博士のこの講演にこなかったのだろう? 知らなかったはずはないし、お金もあったはずである。物理学にまでは興味はなかったのだろうか。
この年の1年前から、賢治は花巻農業高校の教師であった。(その前には1年間東京で暮らしていた。) 生徒たちと岩手山に上り、また夏には“イギリス海岸”と名付けた川原で泳ぎ、地質調査をした。
そして、1922年は、宮沢賢治の詩の才能が爆発した年なのである。賢治は首からぶら下げたシャープペンシルであふれる詩想をメモ帳に書き留めた。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
賢治の『永訣の朝』の詩で有名な“妹のトシ”が逝ってしまうのがこの年の晩秋。1922年の11月27日のことだった。 「わたくしといふ現象は…」で始まる詩集『春と修羅』の序文を書いたのは、その1年2か月後になる。
宮沢賢治は新聞紙上をにぎわす“アインシュタイン博士”について何を思っていただろう。(この日のアインシュタインは東大で講義をしていた。)
『銀河鉄道の夜』のアイデアが彼の中にふくらんでいくのは、この2年後のことだ。
転倒の相対性原理
雪の山中は寂莫、山の頂は白く、裾は澱んだ薄墨色に隈が取ってある。吹雪の混る楢の落葉のみ触れ合ってかさこそと音を立てて居る。凍った道に博士は滑り転ぶ。外人の転びようは不器用だ。助け起こして稲垣氏言う。「相対性原理で申すと先生が転んだのじゃないですね。地球が傾いたのですね。博士「俺れもそう思うが、感じでは同じだ」
(岡本一平『アインシュタイン博士の人間味』)
まあつまり、このとき(1922・12・3)、アインシュタインと岡本一平と宮沢賢治、この三人は東北の地で最接近していたということを、僕はどこかに書いておきたかったのだ。 性格的にはこの三人、共通点はあまりなさそうだけれども。
岡本一平とかの子の墓。もちろん岡本太郎の制作によるもの。
太郎は父一平のことを“ニヒリスト”と評している。また、「お父さんは絵が上手くないよね」と、若いときに言っていたようだ。僕もそう思う。上手くないし、パンチがない。それでも、たしかに、「日本一有名な売れっ子漫画家」であった。 “ニヒリスト”の部分がウケていたのかもしれない。