はんどろやノート

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多磨霊園の人々(6)

2011年02月14日 | はなし
 岡本かの子の墓。 岡本太郎作。


 かの子が死んだとき、太郎はパリにいた。芸術家としての栄養を充填していた時期である。7年前に、パリの北停車場での別れが母子の最後の別れとなった。 父一平からの電報で太郎はそれを知った。
 1939年2月のこと。
 
 かの子の遺体を埋葬したのは岡本一平と新田亀三。
 二人はありったけのバラの花を買い集めた。 二人で穴を掘り、バラの花を敷き、その上にかの子の棺、そしてまたバラの花を入れた。 日本ではめずらしい土葬である。生前に彼女が、火葬をひどくいやがっていたことを二人はおぼえていたので、多磨霊園には例がないのを無理矢理頼んでそうした。






 新田亀三はかの子の恋人で、青山の岡本一平の家に一緒に住んでいた。

 新田亀三は医師で、岡本かの子の主治医であったが、ある日、かの子は夫の一平にあの医師のことが好きでたまらない、と訴えて泣いた。それでとうとう一平はかの子に、「それなら家に連れて来れば」と言った。
 新田は、はじめは断っていた岡本家の熱心な招待についに応じ、やがて怪物かの子の愛にからめとられてしまう。新田は岡本家に出入りするようになるが、それをゆゆしき事態とみた病院は、新田を北海道札幌へと転任させた。
 それでも一平かの子夫婦の異常さは、止まらなかった。
 熱烈なラブレターを書くだけではかの子が満足できなくなると、彼ら夫婦は息子太郎も連れて東北行の汽車に乗り、青森まで行くと、一平と太郎はそこで待ち、青函連絡船で海を渡って新田に会いに行くかの子を「必ず帰ってくるんだよ」と言って送り出した。
 そんな異常に、新田亀三はとうとう我慢ができなくなった。 岡本一平に頭を下げ、こう言った。
 「奥さんをぼくに下さい。正式に結婚したい。」と。
 これを聞いた一平は、さらに深く新田に頭を下げ、懇願した。
 「かの子をぼくから奪わないでくれ。ぼくらはもういわゆる夫婦の生活はしていないけど、ぼくにとってかの子は生活の支柱だ。いのちだ。」


 その後新田は東京へ戻り、岡本家に暮らすようになる。この岡本家の家計・食事等を切り回していたのが、垣松安夫である。女一人におっさん三人、プラス太郎という岡本家である。

 そんな新田亀三の様子をうわさに聞いて猛烈にに腹を立てたのが、その父母である。そこで新田の母は岡本家に乗り込んだ。ところが――――。
 新田の母は、かの子に会った途端、すっかり彼女のことが気に入ってしまったのである。かの子は、どんな魔術をもっていたのだろう。





 岡本一平、かの子、新田亀三、垣松安夫、の4人は、一緒に生活をしながら、そのうち皆でヨーロッパに行きたいねえ、などと話していた。
 それが実現したのが、1929年。 『岡本一平全集』が刊行され、それが売れてお金が入ったのである。「全部使っちまえ」と一平は思っていた。


 岡本一平は、もともと“小説家になりたい”と思っていた男である。
 絵画の勉強をしたのは、親がそうせよと言ったからだった。そうして美術学校を卒業したが、芸術家としての限界を知っていた。だから依頼されるまま漫画をかいた。そうしたらそれがウケて漫画家になった。
 夏目漱石にも褒められた。しかし漱石が褒めたのも、その画ではなく、文章であった。
 しかし一流の小説家になるには、自分には何かが決定的に足らない、と思っていたのではないか。 その「決定的に足らない何か」を、余るほどに持っている女がここにいる―――。 岡本一平はそのように考えていたのではないか。

 

 2年間、彼らはヨーロッパに滞在した。初めは参加しない予定だった太郎も連れていくことになり、そして太郎はそのままずっと留学を続けることになった。

 その2年間の滞在の間に、一平はかの子に、「日本に帰ったら小説を書くわ」と言わせることに成功した。
 一平には、小説への意欲も、アイデアも、知識もたっぷりと用意できていた。 しかし心の中の、「どろどろした何か」を掬い取るのが芸術だとしたら、それが一平にはなかった。
 かの子がそれを持っていた。


 『金魚撩乱』『東海道五十三次』『老妓抄』などの作品を残し、かの子は50歳でこの世を去った。書きかけで止まった原稿の続きは、一平が書き足して完成させた。