清原和博選手がプロ野球引退を表明しました。
僕はたまたまその前日だったか、書店で『日本野球25人私のベストゲーム』という本を立ち読みして、清原選手のところだけ読んでいたんです。
それによると、彼の「ベストゲーム」は、1985年の夏の甲子園決勝戦「PL学園対宇部商業」なのだそうです。その年は、例の、日航機墜落事故があった年です。僕はその時与論島にいたことは以前このブログで書きました。
その試合で清原は、2本の同点ホームランを打ったのです。試合は最終回にPL学園がサヨナラ勝ちしました。彼はその試合で自信を得て、「これで俺はプロの四番になれる。山田太郎のようになれる。」と思ったそうです。水島新司の漫画『ドカベン』の明訓高校四番打者・山田太郎こそ清原和博の目標だったというのです。ああいう凄い四番バッターに、俺はなるのだ、と。 「マンガなんだけどね」と清原選手。
面白いよね、『ドカベン』。あれだけ長く続いて、なにもかも順調にいくと、「フン、どうせマンガだからな」と腹の立つ気持ちも一方で湧いてきますけれど。でも読み返すと、やっぱり面白いよ。
『ドカベン』は、はじめ「柔道まんが」として始まりました。最初の1年間は柔道まんがでした。でも、最初から作者の水島新司氏は野球まんがへの移行を考えていたようです。それなら何故、柔道まんがからはじめたのか? 理由は2つあって、1つは水島新司は「まだ野球まんがを描く自信がなかったから」といいます。2つめの理由は、野球まんがよりも柔道まんがのほうが当時は人気があったから、なのです。そういう時期があったのです。それはTVで『柔道一直線』が大ウケした後でしたからね。だから人気の柔道のほうが企画を編集部に持ち込みやすかったワケです。この『柔道一直線』も、元は漫画で、原作は梶原一騎、漫画は永島慎二。水島新司に永島慎二。なんだか名前が似ています。
野球よりも柔道が人気があったといいましたが、もっと正確にいえば、スポーツまんがよりも「ケンカまんが」に人気のあった時代なのです。ボールを追いかけて点数競うより、なぐりあって血を流したりがまんしたり…そっちのほうが当時の子どもの気持ちにフィットしたんですね。子どものくせに、「親分」「子分」などと呼びあったり、学ラン着て原っぱでケンカをする… 『ドカベン』も、『ど根性ガエル』もそういう空気の中で生まれた漫画なのだ。スポーツまんがでも、試合をしているシーンよりも、ケンカシーンをページを多くさいて描いていました。『巨人の星』も『男どあほう甲子園』も。
そのうち、そうした「時代の空気」が変化していきます。ケンカまんがの時代(男の時代)が終わり、ギャグと恋愛とスポーツの時代へと。『ドカベン』はその時代の空気の変化にうまく乗っていきました。
僕は今年も去年も、高校野球のTV中継を一試合も観ていません。高校生がきびきびと動くのを観ることはとても気持ちいいと思いますが、勝敗そのものに興味はとくに沸きません。それでも、たまたまTVをつけて高校野球をやっていて、そのまましばらく観続けることはあります。
去年の夏、そんなふうにたまたま観たとき、第1試合と第2試合のインターバルだったと思いますが、画面にはスタンドが映り、NHKのアナウンサーが「アルプススタンドに…」と言っていました。それを聞いて、僕はふとこう思ったのです。
「アルプススタンド… 何故、アルプススタンドって言うんだろう? だれが言い始めたのだろう?」
僕は去年の夏、第二次世界大戦の「空爆」について、ブログに書きました。沖縄の10・10空襲、東京大空襲、ゲルニカ爆撃、中国の重慶爆撃…。第二次世界大戦は「空爆」という戦術が主役となった戦争といえます。そのクライマックスが原爆。
それで「原爆」から僕が連想したのが、「アインシュタイン」でした。アインシュタインが、ヒトラーが先に原爆を手にする恐怖から、アメリカの大統領ルーズベルトに原爆を作るよう進言する手紙を書いたことは有名です。戦後アインシュタイン氏は、そのことを大きく後悔し、おなじ科学博士である湯川秀樹氏に会ったときに「湯川君、すまなかった」と涙したといいます。
そのアインシュタイン、調べてみると、大正時代に日本へ来ているという。そういうことから僕は去年の夏の終わり頃、アインシュタインの訪日(なぜアインシュタインは日本へ来たか)に興味を抱くようになったのです。するとそこに、岡本一平という男が登場した。岡本一平…? 漫画家で、岡本太郎の父親で…それから? それでこんどは、岡本一平についての本を図書館で探しました。すると…
バ~ン!
それは、いきなり『岡本一平漫画漫文集』(清水勲編)の文庫本の表紙に載っていました。「アルプススタンド」というネーミング…それは岡本一平が甲子園へ行ったときに名付けて生まれたものだったのです!!
〔…そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ。〕
一平のこの漫画(+漫文)が載ったのは1929年8月14日の東京朝日新聞。その年の12月に一平とその一家は、ヨーロッパへの2年半の旅に出る…。
僕はたまたまその前日だったか、書店で『日本野球25人私のベストゲーム』という本を立ち読みして、清原選手のところだけ読んでいたんです。
それによると、彼の「ベストゲーム」は、1985年の夏の甲子園決勝戦「PL学園対宇部商業」なのだそうです。その年は、例の、日航機墜落事故があった年です。僕はその時与論島にいたことは以前このブログで書きました。
その試合で清原は、2本の同点ホームランを打ったのです。試合は最終回にPL学園がサヨナラ勝ちしました。彼はその試合で自信を得て、「これで俺はプロの四番になれる。山田太郎のようになれる。」と思ったそうです。水島新司の漫画『ドカベン』の明訓高校四番打者・山田太郎こそ清原和博の目標だったというのです。ああいう凄い四番バッターに、俺はなるのだ、と。 「マンガなんだけどね」と清原選手。
面白いよね、『ドカベン』。あれだけ長く続いて、なにもかも順調にいくと、「フン、どうせマンガだからな」と腹の立つ気持ちも一方で湧いてきますけれど。でも読み返すと、やっぱり面白いよ。
『ドカベン』は、はじめ「柔道まんが」として始まりました。最初の1年間は柔道まんがでした。でも、最初から作者の水島新司氏は野球まんがへの移行を考えていたようです。それなら何故、柔道まんがからはじめたのか? 理由は2つあって、1つは水島新司は「まだ野球まんがを描く自信がなかったから」といいます。2つめの理由は、野球まんがよりも柔道まんがのほうが当時は人気があったから、なのです。そういう時期があったのです。それはTVで『柔道一直線』が大ウケした後でしたからね。だから人気の柔道のほうが企画を編集部に持ち込みやすかったワケです。この『柔道一直線』も、元は漫画で、原作は梶原一騎、漫画は永島慎二。水島新司に永島慎二。なんだか名前が似ています。
野球よりも柔道が人気があったといいましたが、もっと正確にいえば、スポーツまんがよりも「ケンカまんが」に人気のあった時代なのです。ボールを追いかけて点数競うより、なぐりあって血を流したりがまんしたり…そっちのほうが当時の子どもの気持ちにフィットしたんですね。子どものくせに、「親分」「子分」などと呼びあったり、学ラン着て原っぱでケンカをする… 『ドカベン』も、『ど根性ガエル』もそういう空気の中で生まれた漫画なのだ。スポーツまんがでも、試合をしているシーンよりも、ケンカシーンをページを多くさいて描いていました。『巨人の星』も『男どあほう甲子園』も。
そのうち、そうした「時代の空気」が変化していきます。ケンカまんがの時代(男の時代)が終わり、ギャグと恋愛とスポーツの時代へと。『ドカベン』はその時代の空気の変化にうまく乗っていきました。
僕は今年も去年も、高校野球のTV中継を一試合も観ていません。高校生がきびきびと動くのを観ることはとても気持ちいいと思いますが、勝敗そのものに興味はとくに沸きません。それでも、たまたまTVをつけて高校野球をやっていて、そのまましばらく観続けることはあります。
去年の夏、そんなふうにたまたま観たとき、第1試合と第2試合のインターバルだったと思いますが、画面にはスタンドが映り、NHKのアナウンサーが「アルプススタンドに…」と言っていました。それを聞いて、僕はふとこう思ったのです。
「アルプススタンド… 何故、アルプススタンドって言うんだろう? だれが言い始めたのだろう?」
僕は去年の夏、第二次世界大戦の「空爆」について、ブログに書きました。沖縄の10・10空襲、東京大空襲、ゲルニカ爆撃、中国の重慶爆撃…。第二次世界大戦は「空爆」という戦術が主役となった戦争といえます。そのクライマックスが原爆。
それで「原爆」から僕が連想したのが、「アインシュタイン」でした。アインシュタインが、ヒトラーが先に原爆を手にする恐怖から、アメリカの大統領ルーズベルトに原爆を作るよう進言する手紙を書いたことは有名です。戦後アインシュタイン氏は、そのことを大きく後悔し、おなじ科学博士である湯川秀樹氏に会ったときに「湯川君、すまなかった」と涙したといいます。
そのアインシュタイン、調べてみると、大正時代に日本へ来ているという。そういうことから僕は去年の夏の終わり頃、アインシュタインの訪日(なぜアインシュタインは日本へ来たか)に興味を抱くようになったのです。するとそこに、岡本一平という男が登場した。岡本一平…? 漫画家で、岡本太郎の父親で…それから? それでこんどは、岡本一平についての本を図書館で探しました。すると…
バ~ン!
それは、いきなり『岡本一平漫画漫文集』(清水勲編)の文庫本の表紙に載っていました。「アルプススタンド」というネーミング…それは岡本一平が甲子園へ行ったときに名付けて生まれたものだったのです!!
〔…そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ。〕
一平のこの漫画(+漫文)が載ったのは1929年8月14日の東京朝日新聞。その年の12月に一平とその一家は、ヨーロッパへの2年半の旅に出る…。