はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

樫の木のある街

2007年08月03日 | はなし
 ピカソの名を知らない日本人はほとんどいないだろう。しかし、ピカソの顔まで知っている人は少ないのでは?
 それでは、この人、フランシスコ・ザビエルはどうか。そう、教科書に載っているあの顔! きっとだれもが知っている♪ ザビエルは日本では超有名な外国人なのだ!
 ザビエルは1549年に日本へ来て、1552年中国で亡くなっている。(46歳) このザビエルがバスク人なのである。

 「バスク」という民族がヨーロッパのピレネー山脈に住んでいる。北はフランス領で、南はスペインだ。豊かな地であるらしい。バスク人は、欧州の他の民族と異なる言語をもっているという。司馬遼太郎は短編『奇妙な剣士』の中で、日本人を見たいというだけの理由でポルトガル船で平戸までやってきたバスク人剣士(フェンシングの達人)を描いている。彼は、日本人たちが黒い瞳黒い髪をもつということを聞き、バスクと同じだ、ということで会いたくなったのだ。
 ゲルニカの町には、広場に樫の木(オーク)があり、これはバスクの人々の自由の象徴とされている。スペイン側バスクの古くからの首都がゲルニカである。
 このバスクの地がスペイン内戦の戦場となり、「ゲルニカ空爆」の舞台となった。その無差別爆撃はドイツ空軍の爆撃の実験場になったと言われている。なぜ、スペイン内戦なのに、ドイツ空軍が出てくるのか。なぜゲルニカだったのか。


 スペイン内戦とは、1936年から39年にかけて起きた国内の戦争のことである。
 きっかけは「左派」である人民戦線が選挙によって初めて政権を握ったこと。これが共和国政府をつくり、その中には共産党も含まれる。これは「右派」にとっては信じれれぬ出来事である。「それは許せん!」とクーデターを起こしたのがフランコ将軍の率いる反乱軍である。
 つまり左派政権の樹立に反発するアレルギー反応のような戦争で、この時期の国々はこのような構図が多い。ドイツのヒトラー政権の誕生の下地にも、これに似たものがある。
 反乱はスペイン領モロッコから始まり、南部からスペイン全土に広がっていく。人民戦線(共和国政府)はソ連が後押ししているが、反乱軍フランコは、イタリアとドイツに支援を求めた。イタリアとドイツはその要請を受け、フランコ軍を支持する。
 このとき、日本の新聞はフランコ軍を支持する記事を載せているそうだ。イギリス、フランスでも、新聞はフランコ軍支持が多数派だったようである。

 この戦いは、基本的にはイタリアとドイツの援護を受けた反乱軍が優勢だったようだが、人民戦線もよく戦った。すぐに陥落すると思ったマドリードがなかなか落ちず、フランコもドイツ・イタリアも焦った。マドリードは長期戦になりそうだということで、フランコ反乱軍は北方のバスクの地を先に手に入れようということになった。バスクの都市ビルバオの工場とバスクの豊かな鉄鉱資源が魅力だったからだ。そのビルバオのすぐとなりにゲルニカの町があった。
 反乱軍のスペイン北方の指揮を担当したのがドイツ空軍で、コンドル軍団と呼ばれた。その指揮のもと、ゲルニカ空爆が実行された。1937年4月26日のことである。
 ゲルニカは当時約6千人の町であったが、ドイツ・コンドル軍団とイタリア空軍による無差別爆撃により、約1600人の民間人が死亡したと言われている。ただし、その数は確かではない。政治的意図によって数が正確に発表されないためだ。ただ、それがドイツ空軍の指揮による無差別爆撃であることは事実である。


 このゲルニカ爆撃は世界に報じられ、大いに非難された。それはロンドン『タイムズ』誌のスティヤ記者の詳細な描写(誇張もあるとされている)によるところが大きく、ゲルニカは政治的論争の中心となった。それまでは保守的な立場からフランコ寄りだった各国(アメリカ、フランス、イギリスなど)で、議論が巻き起こった。(と同時に世界は、「空爆」という新戦略の威力を知った。)
 フランスにいたピカソは、壁画の製作に取り掛かっていたが、そのニュースを聞いて怒り、その怒りを壁画制作の題材にすることにした。それが『ゲルニカ』である。5月1日、ピカソは『ゲルニカ』のための最初のスケッチを描いた。そして6月4日、完成した。ドラ・マールがその傍らにいて、『ゲルニカ』の製作過程を写真に収めた。

 世界が大騒ぎしたこのゲルニカ爆撃のニュースを、日本では、なぜか、新聞は報じていないという。(その数ヶ月後に、日中戦争が起きる)

 スペイン内戦は3年続き、フランコ軍が勝利した。以後、フランコ政権となり、1975年まで続く。
 ピカソは、スペイン共和国政府(人民戦線)に依頼されて壁画『ゲルニカ』を描いた。フランスで生まれた『ゲルニカ』は、スペインに帰るはずであった。
 ところがその所有者である共和国政府は、フランコ勝利によって、消滅した。それで、所有者を失ったピカソの大作『ゲルニカ』は、放浪の旅に出ることになる。

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2 コメント

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スペイン情報ありがとう ございます。 (夢三太郎)
2007-08-03 21:53:09
初めまして!
スペインについて読ませていただいてます。

何十年も前ですがスペイン放浪中にバルセロナの確かピカソ美術館でピカソの夫人を見かけました。

マドリッドでは当時のブランコ首相がバスクのテロによって車諸共爆破された事が思い起こされます。
フランコ総統率いるスペイン政府とバスクの対立で
テロのニュースは度々ありました。(´ω`)
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はじめまして。 (han)
2007-08-04 22:27:39
ピカソ夫人! それはすごいナマ情報ですね!ありがとうございいます。
しかしフランコ政権下ですと、そうとう前のことですねえ。あの時代にスペインを旅した方がコメントをくださるとは! なんだかこの記事を書いて、実際にスペインの地を踏んだ人からコメントをいただいて、瞬間、スペインの遠い空の下の空気が舞い込んだような気がしますね。
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