はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

イリコ

2008年08月10日 | はなし
 ウチの田舎のほうでは、「にぼし」のことを「いりこ」と言います。いわし(鰯)の小さなやつですね。

 僕の小学校では、5、6年生になると「クラブ活動」という時間が週一であって、4年生の終わりのときに、どのクラブへ入るかを決めるために、先輩の活動を見学します。僕は「図画工作クラブ」と「科学クラブ」で迷いました。気持ちは「図画工作」のほうでしたが、「科学クラブ」では「水飴をつくって食べれる」といううわさがありましたし。(合法的に、給食以外のおやつが食べれるなんて!)
 さて、僕はまず、「図画工作クラブ」の見学に行きました。机の上に紙をひろげて先輩達がスケッチをしています。彼らが描いているものは…
 「いりこ」でした!
 先輩たちは黙って(下級生が見ているので意識している)、「いりこ」をスケッチしています。後で、あの「いりこ」は描き終わった後、どうするのだと、友達と話ました。きっと食べるに違いない…。
 僕は「図画工作クラブ」に決めました! (子どもは食い物によわい…)

 「図画工作クラブ」はたのしかった。トーテムポールを作ったり、石膏でモニュメントを作ったり。



 丸木スマが一番はじめに描いた絵というのが、「メバル」だそうです。これは瀬戸内海に多くいる魚です。僕は広島にいるときに夜釣りに誘われて行ったことがありますが、その時に釣りの目標とした魚が、メバルです。あれは、9月でした。海釣りは9月くらいの気候がちょうど良いですね。(余談だが、その年広島カープが優勝した。)
 スマは、1975年(明治8年)生まれ。メバルを描いたときは73歳。それがなかなかいい出来だとみなが誉め、そこからスマの画才が花開く。それまでスマは絵筆を握ったこともない。それどころか、スマは読み書きさえできないのだ。
 スマが少女の時、学校へ通うほどの経済的な余裕があったそうだが、窮屈なことが嫌いで野で遊ぶことが好きな少女スマは、読み書きを覚えることなく生きてきたのである。

 丸木位里・赤松俊子が、『原爆の図』の制作を始めたのは1947年。その第1部「幽霊」を発表するのは1950年。
 その制作の中、丸木夫妻が広島の三滝に次男と共に住んでいたスマのところに行ってみると、スマが近寄ってきて「見てくれや」という。画用紙の束を持ってきた。
 「これ、犬?」
 「魚じゃよ」  (←犬にみえる魚って…!)
 「これ、虎とひょう?」
 「猫じゃよ」
 みんなが集まって、スマの絵を見て、笑います。
 「おもしろかろうがの」と、スマばあちゃんも大笑い。


 スマの長男である丸木位里はこう言う。

 〔孫からもらった鉛筆とか、絵の具とか、クレヨンで描いてあるのが、もう、しょっぱなからおもしろい。おもしろいというか、何か出来ているし、何かあるんです。これには、まず、絵描きの私たちが、おどろいたわけです。おどろいて、何という絵か、これは。これは、もう、不思議な絵だと。何か出来ていると。何か、ものが描けていると。形は描けていないが、あるものの表現がまことにうまく出来ていると、私たち自身が見るなりおどろいたわけです。〕


  
 これは、丸木スマの「すずめと猿」という作品(一部)です。
 猿よりすずめを大きく描くなんて…意表をつく。ちょっと、思いつかない方法で見る人をおもしろがらせる。不思議な才能だ。
 こんな絵を描きたいなあ、と僕は思う。


 晩年の丸木スマは、朝から晩まで、絵を描き続けていたという。赤松俊子が、「疲れたでしょう。少し休んだら」と言うと、スマはこう答えたそうだ。

 「日照りのときの田の草取りのことを思うてみい、遊んどるようなもんよ。
コメント
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