はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

金目鯛

2007年12月27日 | はなし
 半年前から「本」の世界に魅かれて、昭和を遡って大正時代、そこから地球の裏側の地中海・中東・アフリカ世界へ行き、さらに時間を遡って古代へと…。ふかく潜って、このごろほとんど人と話をすることがありません。他者の目から、「僕」という存在はどう見えているのでしょうか。いったい僕はどこへむかっているのでしょう。自分でもわからないのです。

 中沢新一の本『人類最古の哲学』の中に、「豆」のことが書いてありました。それによれば、神話の世界で「豆」というのは特別な位置にあったようです。
 「豆」というのは、あるときは、女性性器のクリトリスを意味しています。これは「やわらかい」女性器の中でいちばん「かたい」男性的な部分であります。で、同時に、「豆」は、男性器の睾丸を示すことも多い。それは「かたい」男性器の中の「やわらかい」つまりいちばん女性的な部分なのです。このように「豆」は男性と女性、「かたさ」と「やわらかさ」をつなぐ魔術性をもっているというんですね。
 ですから、昔の正月のお祭りである「節分」に、「豆」を鬼に対して撒くというのはすごく象徴的な儀式なのだそうです。人間の世界を「かたい」世界だとしたら、精霊の世界はみえない「やわらかい」世界です。それをつなぐのが「豆」。精霊世界の「鬼」にたいして「豆」を投げるのは、鬼に「豆」をごちそう(つまり贈与)しているわけです。そうすることで、逆に精霊の世界から「何か」をもらう。「何か」というのは、生命力とか元気とかそういう人間にはつくりだせないもののことです。
 人間のつくったものは、時間とともに「かたく」なっていきます。正しいものはより正しくなっていき、でも「息苦しく」なってつまらないものになっていきます。がんばると人間は「かたく」なっていくのです。それを「いきいきしたもの」にする、つまり「やわらかく」するためには、精霊の世界の力を借りるしかないのです。そのつながりを保つための「豆」の魔法なのですね。

 二日前、街の商店街を歩いていると『渋谷さん』さんに会いました。『渋谷さん』と仮にここで呼ぶことにしますが、それは彼と僕の出会いが妙に渋谷(渋谷区のシブヤです)に関わっているからです。で、『渋谷さん』が正面むこうから歩いてくるのを見ました。2メートルほどの距離になり、僕は「こんにちわ」と挨拶をしました。ところが『渋谷さん』は、僕を見てもぽかんとしています。それであと2回「こんにちわ」と言ってそれで『渋谷さん』は「僕」を認識したようです。「僕」という人間は、本の世界にもぐりすぎて姿が消えかけているのでしょうかねえ。
 『渋谷さん』は年上の将棋友達です。彼と僕とは数年前に「ふしぎな出会い」をしました。それについては今日は省略しますが、その出会いがあって、僕は地元に古くからある「天馬会」という将棋の会に入れてもらいました。そういう間柄です。時々ですが、二人で将棋の話を何時間もすることもあります。
 ところが今年の夏から、僕は本ばかり読んであまり人付き合いをしていません。将棋の会にも行かなくなりました。今年はどの忘年会等も(もともと苦手ですし)まったく出席するつもりもありません。でした。そのときまでは。
 『渋谷さん』に「こんにちはー」とだけ挨拶して、僕はすれちがいそのまま歩いて行こうとしました。すると数メートル離れた後、『渋谷さん』は「あっ、そうだ」と言って僕を呼びとめました。そして僕を「天馬会」の忘年会に誘ったのです。僕は断るつもりでいました。ところが「今年はお金いらないんだよ。会費が余っているから。あんたも会費払っているんだし。明日の夜7時、あそこの居酒屋で。おいでよ、言っておくから。」 この将棋会の忘年会には2度参加したことがあります。でもそれはいずれも5千円を払っていました。それが今年はタダだというのです。
 そのときはあいまいに返事をしたのですが、あとで僕は「行こうかな」と思い直しました。けっして「タダだから得だ」そう思ったわけではなく…

 中沢新一の「贈与」の話の中で、「純粋贈与」ということを説明しています。
 私達の世界での「交換」(売買)や「贈与」は、有形の物を「移動」させます。ところが「純粋贈与」というものは、精霊世界から人間世界に贈与された「ふしぎなちから」のことです。たとえば「子供の明るさ」。あるいは、大地の恵みとしての食べ物。ここには「無」から「有」を発生させる魔法が働いています。そうしたことを「純粋贈与」というわけですが、それを維持するシステムとして、クリスマスや節分の豆蒔きの儀式があるわけです。
 エジプトでは「ナイルの恵み」があります。これが「純粋贈与」です。ナイルには「ナイル暦」というのがあります。エジプトには雨が降らないのに毎年ナイル川は増水する。これが栄養たっぷりの土を運ぶ「ナイルの恵み」ですが、増水とは洪水でもありますから準備をせねばなりません。その増水が始まる時期というのが、明け方にシリウスが輝き始める時期と一致していました。シリウスの出現が合図となってナイル川の農民達は川の増水に準備したのです。それでナイル暦は「シリウス暦」ともいいます。
 現代人は「努力」ということをよく言います。たぶんそれしか知らないからでしょう。僕にはそれが貧弱な思想に思えます。「努力」では得られない「みずみずしいなにか」を純粋贈与してもらうための「祭り」は、きっと個人の努力などよりずっと、古代の人にとっては大事なことだったのです。

 で、『渋谷さん』との話に戻ります。
 僕は『渋谷さん』の宴会への誘いを、これは「純粋贈与」だ、と思ったのです。
 僕と『渋谷さん』が商店街で(半年ぶりに)出会ったのはまったくの偶然です。しかしそれが宴会の前日。こういうことに僕は「ふしぎさ」を感じるのです。笑われそうですが。
 もし『渋谷さん』が僕に電話をかけて、明日忘年会があるから来ないか会費はいらないよ、と教えてもらったとしたら、ここにはまったく「ふしぎさ」はありません。それなら、僕ははっきり断っています。ところが現実は、僕も、『渋谷さん』も、なにも考えていなかった。ここが重要な点です。『渋谷さん』と僕はたまたま宴会の前日に出会った、この小さな出会いがなかったら何も起らなかったわけです。「無」であったはずなのです。それが出会いによって『渋谷さん』が宴会のことを思い出しそれが偶然に前日だったので僕にそれを告げた。その瞬間に、「無」から「有」が出現したのです。
 「これは人間わざではない。純粋贈与だ!」

 それで昨日僕は宴会に出席しました。ごちそうが目の前にあります。前日まで宴会のことなど何も考えていなかった僕の目の前に料金タダのごちそうが存在しているという「ふしぎ」。 お金自体は僕も幾分か払っている会費からのもの、そこにはふしぎはないのですが、前日に『渋谷さん』と通りで会わなかったら、僕はごちそうのことなど知らないのですから。「無」が、偶然という仕業によって、「有」になったのです。まさしく「純粋贈与」です! (←くどいナ~! 理屈っぽいナ~!)
 最近の居酒屋のコースメニュウはどこかフランス料理のコースと似ていますね。初めにサラダが出てきて、最後はアイスクリーム。メインは金目鯛でした。お腹いっぱいになりました。
 この将棋の会の忘年会は、年間最優秀者のカップ授与式をかねているのですが、今年の優勝者はなんと『渋谷さん』。僕はびっくりしました。なぜってこれまで『渋谷さん』はそれほど勝っていなかったからです。僕が将棋をサボっている間に突然好調になったらしいのです。『渋谷さん』はおそらく優勝カップを手にするのは人生初のことで、見かけ以上に心の底でうれしいことでしょう。おめでとうございます、『渋谷さん』。 僕をこの会のメンバーにしてくれた『渋谷さん』の晴れの日にすべりこみで立ち会えたというのは、やはり「贈与の霊」のしわざとしか思えないのです。

 僕は新聞をとっていないのですが、今朝、郵便受けに毎日新聞が。放っておいたら夕方には夕刊も。 これも「純粋贈与」? いやいやいや、これはちがうでしょう。
コメント
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