赤い彷徨 part II

★★★★☆★☆★★☆
こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。

さて明日は大宮戦ですが

2009-10-24 19:44:56 | Urawa Reds
みなさん狂ってますか?




「上位クラブ相手に好ゲームを演じて勝利した次の試合」というだけでも浦和的には十分過ぎるほど危ない状況なのに、それにも増して相手は大宮。気を引き締めて大事なゲームを取りたい。ええ、オレは狂ってますよ?

紀伊街道の要衝(2)

2009-10-24 00:36:37 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

さて岸和田城。現在の位置に建てられたのは豊臣時代、秀吉の叔父にあたる小出秀正が城主となり1587年に築城を開始したとのこと。入口となっている小天守と天守が連結しているのだが、実は当時は小天守はなかったという話もあるようだ。



その後江戸時代に入り小出氏は3代で但馬国に移され、丹波篠山から松平康重が入封。しかしその息子の代でやはり播磨国に移され、摂津高槻から岡部宣勝が入国。その後は維新まで岡部氏による治世が続いた。天守から遠くに望めるのは海だろうか?



城内の展示の中には武将ゆかりの品々のみならず、岸和田城下の発展の様子を示す写真などもあり、なかなか興味深いものだった。土曜だってのにえらく空いていたのだがいつもこんなもんなんだろうか・・・。写真は天守から趣のありげな建物だと思って撮影したものなのだが、よく見たら何のことはない「がんこ」の店舗・・・(´・ω・`)ショボーン



徳川家と縁戚関係にある岡部氏は紀州徳川家のお目付け役として、大阪城と和歌山城の中間地点にあるここ岸和田に配置されたという見方が有力らしい。一際異彩を放っていたこの石庭は「八陣の庭」というらしいのだが、特に歴史的なものではないようでちょっとした空振り感のみが残った・・・。



岸和田城は江戸時代終盤に落雷のため天守が焼失し、以後再建されることはなく、維新後に廃城となった。従いこの天守も戦後に復元されたもの。



この門を潜ると本丸なわけだが、どうやら模擬という話。多くの城がそうであるように、ここ岸和田城も春には桜の名所となる由。それにしても「城で花見」というのは宿場町で育った者としてはちょっぴり羨ましくもある。死ぬまでに一度「城下町」と呼ばれるところに住んでみたいような気はする。



「櫓だ櫓だ」と思って勇んで近づいてみたら公衆便所だったでござるの巻。



堀を挟んでの絵。石垣の下に広がっているのはいわゆる「犬走り」というやつでしょうか。背後には岸和田高校があり、部活に勤しんでいるのであろう生徒さんたちの活発な様子が伝わってきた。



(つづく・・・かもしれない)