ちょっとナルニアモードな今日この頃(笑)ナルニアの成り立ちについて復習しようと「魔術師のおい」を読もうと思いつつ、なぜか「馬と少年」を読んでしまいました。まあ斜め読みなのですが・・・
なんで読んだかというと、この間友達に「タムナスさんもう出てこないから」と豪語してしまったのですが、後になって「もしかして5巻と7巻に出てた・・・?」とふと思い、確認してみたのでした。ええ、どちらにも出てました(汗)しかも5巻(「馬と少年」)は思ったよりもずっと出てた・・・(汗)
まあ、5巻と7巻は映画化されるか微妙だし、いいか、ということで友達にはわざわざ訂正しないでおきますが(汗)
5巻と7巻「さいごの戦い」がどうして映画化されるか微妙だと思うかというと、アラビア風の敵国カロールメン国の描写が今の世の中ではヤバイのでは・・・と思うからです。7巻は別の意味でも微妙ですが・・・私はどうもあのラストは納得できないんだよなあ。
しかし、そう思いながらもついつい読み進んでしまう・・・面白いんですよね、「馬と少年」って、お話として。初めて読んだ時もそう思ったということを思い出しました。
ストーリーは結構単純だし、「王子とこじき」みたいな展開も先が読めるといえば読めるのですが、なんというか私にとってはナルニアシリーズ全体に言えることなのですが、ストーリー自体ではない、別のところで「いいなあ」と思うところがあるんですね。
「馬と少年」の場合、自惚れ屋の「もの言う馬」ブレーとシャスタのやりとりが面白いんでいよね。全体的なストーリーは単純なのですが、このあたりがちょっとオリジナルというか、斬新で面白いと思います。
だいたい原題からして「The Horse and his Boy」なんですよね。
カロールメン国を「悪い国」として描いてしまうようなところがありながら、こういうところは斬新だったりする。このあたりはトールキンとも共通するように思います。
しかし、このまま映画化というのは難しいのでは、とやはり思ってしまいます。解決策としては、カロールメン国をアラビア風でなく描くという手があるかもしれませんが、「アラビアンナイト」趣味?で描かれているので、これを変えてしまうとかなり原作の味がなくなってしまうと思うんですよね。
アーケン国もアラビア風の国にしてしまうという手もあるかもしれませんね。ナルニアの成り立ちとしては、イギリス人の子孫が治める国ということになるのでおかしくなりますが・・・
しかし。そうやって現代に合わせて改変することって、果たして良いことなのかなあとも思います。よほど上手くやらないと、原作の味を相当損なってしまうことになるのではないでしょうか。
人種や宗教の点で偏見や差別を感じさせる記述というのは、「指輪物語」にもありますよね。褐色人とか東夷とか。
フロドとサムの主従関係というのも、身分の差というものがあるわけで、現代の感覚で言えば二人を対等な「親友」にした方が良いようにも思えます。
でも、実際にフロドとサムの主従関係を弱めたPJ映画では、原作のフロドに盲目的に忠実なサムの健気さ、という味わいはなくなり、かなり違う雰囲気になってしまいました。(まあそれだけが原因ではないと思いますが、それはちょっとおいておいて(汗))
「馬と少年」も、現代の感覚に合わせて改変したら、かなり違う味わいの作品になってしまうのではないでしょうか。それが果たして良いことなのかどうか。原作を大事にするなら、やはりあまりそういう改変はすべきではないのではないかと思うのです。
ルイスやトールキンは、こういう偏見的な部分のある作品を書くことが許された?最後の世代なのかもしれませんね。
しかし一方で、ナルニアも指輪も発表されたのが第二次大戦後だったりして、「昔の人が書いたものだから」と言い切るにも微妙な時代ですが・・・19世紀とかだったらまだしもなんですが。
以前、宮崎駿氏が「指輪」の偏見的な部分を批判していたのを読んだことがあるのですが(細かい内容は覚えていないのですが)、そのとおりではあるんだけど、そのために他の良いところまですべて否定してしまうのは勿体無いのになあ、と思いました。
ナルニアについても、宗教的なところとか時々ひっかかるところはあるんですが、良いところは良いところとして評価したいなあと私は思っています。
そして、良いところと良くないところというのは、切り離して別のものにすることは難しかったりするものですよね、往々にして。
そういう意味でも、どこかを改変すると原作の味わいは失われると思うので、やはり改変は最小限にするぺきではないかと思うのでした。
でもそうなると、やっぱり「馬と少年」の映画化は難しいのかな・・・
って、まだナルニアも2作目の製作が決まっただけだというのに、気が早すぎですね(笑)
なんで読んだかというと、この間友達に「タムナスさんもう出てこないから」と豪語してしまったのですが、後になって「もしかして5巻と7巻に出てた・・・?」とふと思い、確認してみたのでした。ええ、どちらにも出てました(汗)しかも5巻(「馬と少年」)は思ったよりもずっと出てた・・・(汗)
まあ、5巻と7巻は映画化されるか微妙だし、いいか、ということで友達にはわざわざ訂正しないでおきますが(汗)
5巻と7巻「さいごの戦い」がどうして映画化されるか微妙だと思うかというと、アラビア風の敵国カロールメン国の描写が今の世の中ではヤバイのでは・・・と思うからです。7巻は別の意味でも微妙ですが・・・私はどうもあのラストは納得できないんだよなあ。
しかし、そう思いながらもついつい読み進んでしまう・・・面白いんですよね、「馬と少年」って、お話として。初めて読んだ時もそう思ったということを思い出しました。
ストーリーは結構単純だし、「王子とこじき」みたいな展開も先が読めるといえば読めるのですが、なんというか私にとってはナルニアシリーズ全体に言えることなのですが、ストーリー自体ではない、別のところで「いいなあ」と思うところがあるんですね。
「馬と少年」の場合、自惚れ屋の「もの言う馬」ブレーとシャスタのやりとりが面白いんでいよね。全体的なストーリーは単純なのですが、このあたりがちょっとオリジナルというか、斬新で面白いと思います。
だいたい原題からして「The Horse and his Boy」なんですよね。
カロールメン国を「悪い国」として描いてしまうようなところがありながら、こういうところは斬新だったりする。このあたりはトールキンとも共通するように思います。
しかし、このまま映画化というのは難しいのでは、とやはり思ってしまいます。解決策としては、カロールメン国をアラビア風でなく描くという手があるかもしれませんが、「アラビアンナイト」趣味?で描かれているので、これを変えてしまうとかなり原作の味がなくなってしまうと思うんですよね。
アーケン国もアラビア風の国にしてしまうという手もあるかもしれませんね。ナルニアの成り立ちとしては、イギリス人の子孫が治める国ということになるのでおかしくなりますが・・・
しかし。そうやって現代に合わせて改変することって、果たして良いことなのかなあとも思います。よほど上手くやらないと、原作の味を相当損なってしまうことになるのではないでしょうか。
人種や宗教の点で偏見や差別を感じさせる記述というのは、「指輪物語」にもありますよね。褐色人とか東夷とか。
フロドとサムの主従関係というのも、身分の差というものがあるわけで、現代の感覚で言えば二人を対等な「親友」にした方が良いようにも思えます。
でも、実際にフロドとサムの主従関係を弱めたPJ映画では、原作のフロドに盲目的に忠実なサムの健気さ、という味わいはなくなり、かなり違う雰囲気になってしまいました。(まあそれだけが原因ではないと思いますが、それはちょっとおいておいて(汗))
「馬と少年」も、現代の感覚に合わせて改変したら、かなり違う味わいの作品になってしまうのではないでしょうか。それが果たして良いことなのかどうか。原作を大事にするなら、やはりあまりそういう改変はすべきではないのではないかと思うのです。
ルイスやトールキンは、こういう偏見的な部分のある作品を書くことが許された?最後の世代なのかもしれませんね。
しかし一方で、ナルニアも指輪も発表されたのが第二次大戦後だったりして、「昔の人が書いたものだから」と言い切るにも微妙な時代ですが・・・19世紀とかだったらまだしもなんですが。
以前、宮崎駿氏が「指輪」の偏見的な部分を批判していたのを読んだことがあるのですが(細かい内容は覚えていないのですが)、そのとおりではあるんだけど、そのために他の良いところまですべて否定してしまうのは勿体無いのになあ、と思いました。
ナルニアについても、宗教的なところとか時々ひっかかるところはあるんですが、良いところは良いところとして評価したいなあと私は思っています。
そして、良いところと良くないところというのは、切り離して別のものにすることは難しかったりするものですよね、往々にして。
そういう意味でも、どこかを改変すると原作の味わいは失われると思うので、やはり改変は最小限にするぺきではないかと思うのでした。
でもそうなると、やっぱり「馬と少年」の映画化は難しいのかな・・・
って、まだナルニアも2作目の製作が決まっただけだというのに、気が早すぎですね(笑)