アメリカは、なんでも大きく作る。
かつての、憧れアメ車は、バカでかかった。とにかく格好よかった。
ハンバーガー、紙コップ、ベッド、とにかくなんでも大きい。
映画でしか知りえない年代だったので、冷蔵から取り出したオレンジジュースを、おおきなコップに注いで、全部を飲み干さないで、残したままにしたり、やたら大雑把な印象だった。
長じて、実際にアメリカに行くと、やはりなんでも大きかった。
日本の感覚で言えば、情緒がない。
情緒といえば、情緒というものをもたない男がいた。
話し方は奥行きがないというか、一方通行的だった。
食事の仕方も、大雑把だった。バイキング形式では、山盛り、なんでも一緒くたにして、皿に盛って口に放り込む感じだった。
いわばアメリカ的だった。
仕事の同僚だったが、だから、付き合いはそれほどでもなかった。
それで、あるとき、
「お前は情緒がないなあ」
と言うと、ひどく傷ついた顔をされてびっくりした。
こんなことで傷つくとは、意外だった。
彼が、
「情緒ってなんですか?」
と僕に訊いて来た。えらい挑戦的な感じだったので、
応えなかった。応えれば、例を挙げなければならない、するとますます傷つけることになる。
答えに窮したぼくは、
「まあ、オレの感覚だから」
と逃げてしまった。
苦い思い出でもあり、心の傷の一つになっている。
そんな、何でも大きいアメリカだが、一つだけ小さなものがある。よくアメリカ人が文句言わないなと感心していることでもある。
飛行機のエコノミークラスだ。
あれは、アメリカにしては小さすぎる。すし詰めシート。
あの大きさは、他のアメリカの製品とは、明らかに異なる。
日本人がつくった新幹線のシートより、前後左右が狭い。
エコノミークラスは、平均的なアメリカ人には人権に抵触するような大きさだ。
人権教、かつ訴訟大好きアメリカ人がなにもしないのをいぶかっている。
経済的な考え方ではなく、他に何か理由がありそうな気がする。
オーム事件の被害者が、
「多く人々を殺害しても、まだその残党が活動をしているのは、理解できない」
と発言していたが、自分もまったく同じ意見だ。
宗教、思想の自由は絶対だが、
それでも社会通念上、オームの思想で多くの人々を殺傷したのだから、この思想は法的には認められない、と素人は考えてしまう。
なぜ残っているのか、理由はなんだろうか。