虚空を観じて

今感じたことを書くことは、年取った脳みそにいいんじゃないかと考えて認めています。日常の風景から、過去の記憶まで。

ロイヤリティーを失う

2010年08月31日 | Weblog

仕事のやりがいは大事だろうが、やりがい以前に、とにかくお金がなければどうしようもないという状態は辛い。

仕事の内容や価値、あるいは人間関係など、贅沢を言わずに、かまわず働かなければお金を稼げない。

多少理不尽なことがあっても、愚痴などこぼせない。

景気がよくなって働く場所がたくさんあっても、大部分の人々にとってこの状態は変わらないだろう、と思う。



ペルーの仕事の事情は、たぶん今でも、そんな状態だろうと思う。

こんな状態が長引けば、会社や事業主に対するロイヤリティーなど生まれない。

これが、ペルーに限らず、おそらく多くの国での環境ではなかったかと、思う。

転職が普通、というのはこれを意味する。



高度成長時代に向かう以前から、日本は一度入った会社を辞めることは、いい評価をされなかった。が、逆に、

一つの会社で働きつづけることは、会社に対するロイヤリティーを育んだ。

ロイヤリティーを持たせるために、意図的に仕組んだわけでもなかろうに、結果的に日本では終身雇用が、

たぶん、会社にとって一番の力となるだろうロイヤリティーを社員に持たせてきた。

このロイヤリティーこそが、今の日本の経済発展の元を創造してきた、と思っている。


ところが、いまやパートやアルバイト、派遣社員を多く使って、効率だけを追求している状態だ。なにかを失っているような気がする。
あるいは、本社員と区別するために名称だけを変えた社員カテゴリーを設けて、社会保険は負担するが、退職金やボーナスを支給しないで、雇用するのも、それほどいい施策ではないような気がする。

ロイヤリティーを失えば、愚かな事に神経を使わなければならない。それは、人間はずるいことをするものだ、という前提に立つことになるからだ。

規定や決まりがどんどん増えていく。




ペルーでは、一つの会社で一生働くことは稀であろう。
だから、社員が会社に対してロイヤリティーを持つことはない。単に労使関係だけで、仕事をすればいいわけで、
こういった環境も、慣れれば、それなりに過ごしやすい。が、

日本人の資質には合わないような気がする。


 日記@BlogRanking           

  http://putiya.com/4sports_bowring01.html  

 

コメント

失うもの

2010年08月30日 | Weblog
子供のころ、家に鍵をかけることはなかった。それどころか、たいてい開けっ放しの状態だった。

それが当たり前の生活だった。

ところが、学校で(小学生5年か、6年くらいだったか)、

「スイスでは、乗合バスには車掌がいない」

と先生が説明してくれたとき、

「へ~~、それだったら、いくらでもただ乗りできちゃうね」

と生徒みんなが驚いた。

「スイスの人たちは、みんな正直で、料金を払わないで、バスに乗る人はいない」

と、先生が、いかにスイスの人々が優れているか、また説明した。


これが大きな間違いであることは、小学生には分からなかったが、車掌がいないバスには、ビックリした。


こども心にも、素晴らしい国があるものだな、と感心した。


ペルーは、どの家でも二重三重の鍵をかける。それでもドロボーは簡単に侵入する。


子供のころの鍵のかからない生活は、いま思えば信じられない社会状態だ。

ペルーの人々に、否スイスの人に話しても容易には信じてはくれないだろう、と思う。

鍵をかけないで、開けっ放しにして、ドロボーに侵入された場合、法律では、全面的にドロボーには非は無く、開けっ放しにしておいた事を攻められるだとうと思う。

この考え方は、どんどん広がって、そのうち手がつけられないほどになってしまうかもしれない。
日記@BlogRanking  

http://putiya.com/4sports_bowring04.html  


コメント

知らないこと

2010年08月29日 | Weblog

30年前、ペルーに行ったころは、夜は暗くて、歩くことさせ怖かった。

首都リマであっても、日本人から見れば汚れた服を着た、見るからに貧しそうな人々があちこちにたむろしていた。

犯罪の町でもあったが、全員が犯罪者ではない。当然心優しい人々もいる。

あの頃に比べれば、今のリマは、天国だろう。街は美しく、ゴミは落ちていない。

一度、ドロボーマーケットに知らずに入ったことがあった。

ドロボーは、盗んだものを、このマーケットで売る。

例えば、自動車のワイパーやバックミラー。時にはカブトムシのエンジンその物など、なんでも売っていた。

盗まれた人は、ここまできて買い戻す。ほとんどジョークの世界だ。

眼鏡や靴、ブーツ、時計も並んでいる。

いいものを見分ける能力があれば、掘り出し物もたくさんある。

ここに買い物にくれば、またなにか盗まれてしまう。

幸い、雰囲気がなんとなくおかしかったので、あわててその場所から出たが、

知らないというのは、おっかない。



OSをXPから、無料の、なんとかというものに変更した。

もう7年ほど前のPCだから、失敗してもいいか、とやってみた。

Windows XPを消去して、新しいOSに入れ替える知識はもっていないので、当然詳しい人にやってもらった。

一気にPCが軽くなり、反応も素早くなった。

こちらはウイルス撃退ソフトはいらないという。

一体、高いお金を出して買ったWindowsはなんだったのかと思う。

不便さは一切ない。

無料というが、これを配信というか、かってに取りこめるのだから、これを作成した人はお金が入らない、どうするんだろうと余分なことまで考えてしまう。

知らない、というのはおっかないと、あらためて思う。

日記@BlogRanking  ボウリング、ストライクを出したイラスト

http://putiya.com/4sports_bowring04.html  

コメント

駄目元文化

2010年08月28日 | Weblog

日本は、商売するとき、お客を第一に考えて大切にする。

多少理不尽な要求でも、きいてしまうこともある。

こんなことはぺルーではない。

売る方が大きな態度だ。

お客を大事にしない文化、と言ってもいいかもしれない。

消費者からみれば駄目元文化かもしれない。とにかく理不尽な要求でも、とりあえず言ってみるというのがある。駄目でもともと、というわけだ。きいてくれればシメタってことになる。

客を大事にしないのは、おそらくは、この駄目元があったのだろうと思う。一度要求をきけば、際限なく要求されるからだ。

 

日本には、とりあえず要求してみるということを潔しとしない感覚がある。要求を恥ずかしく、あさましく感じてしまう。

そんな感じだ。だから、お客を大事にしてくれるのかもしれない。

頭を下げて、お礼を何度も述べて、なおかつお金を支払う相手は、昔から医者、弁護士、学校の先生くらいで、このうち普通の人がお世話になるのが、医者と先生くらいだろう。あとはたいてい、お客を大事にしてくれる。

 

学校に、とりあえず要求してみる、屁理屈をいって理不尽な要求するのは、

ときどき報道される。

あさましさや、恥ずかしいという感覚が欠落しているのか、

駄目元文化になりつつあるかもしれない。

これも一応国際化だろう。

日記@BlogRanking  ボウリングのボールを投げているイラスト

http://putiya.com/4sports_bowring01.html  

コメント

お金に綺麗

2010年08月27日 | Weblog

漠然としているが、

ペルー人の友人を持つことはかなり困難だと思う。それはペルー人自身がペルー人を信用できない、という前提で物事を進めるからだ。

なんというか、人が人を信用するとか、信頼しているとかは、生活環境で難しかったのだろうと思う。

権力を握るとか、人の上に立つのは、公共のことを考えるより先に自分の利益を優先する。

お金に綺麗は、ペルー人の人間関係においては存在しない。

ペルーにあってはこれは常識だ。

 

小沢さんを支持しているわけではないが、

お金のことを問題視し、そんな人が代表になることは支持しない、という意見を聞いたが、これはいいがかりだろうと思う。

善人だから、お金に綺麗だから、それは代表の資格でもなんでもないような気がする。

もともと善人やお金に綺麗な人は、政治の世界では生きてはいけないし、その世界に入ることも最初からないだろうと思う。

 

理不尽や、理屈に合わないことなど、小さな会社組織でもあるし、アルバイトの世界でもある。酷いと思っても、仕事を続けざるを得ない。

小さな世界であることなら、大きな世界でもあるだろう。

日記@BlogRanking  

http://putiya.com/4sports_bowring01.html  

コメント

行き着く先

2010年08月26日 | Weblog

正直者がバカを見る社会、バカを見ない社会などと、象徴的に表現されることがある。

ペルーに生活すると、これを日常で実感する。

高いもの、たとえば冷蔵庫を購入するときには、半額だけ、あるいは少しだけ支払いをする。全額支払うと、いつまでたってもモノが届かない。もらうものを貰えばお店は関係ない。買ったものを確実に自分のモノにするためには、半額以下をしはっらて、残りは現物が届いてからになる。

手続きのため、役所で列を作って並ぶ。公共料金支払いに列に並ぶ。長い列が出来る。中には並ばないで、横は入りなどは自由にする輩がいる。全員から非難が飛ぶ。それでも平気だ。

賢い人は、友人を頼って、列に並ぶことなく、さっさと手続きをすませる。

友人がいない人は、袖の下を渡して、並ぶ時間をなくす。

日本人駐在員は、たいていはコネを使う。または袖の下。

ペルーで生きるためには、この袖の下と、力のある友人がいないと不便極まりない。

正直者はバカを見る社会なのだ。

 

死亡届を出さないで、年金を受給していたことで、逮捕というのは、ちょっと考えさせられる。

役にも立たないモノをオッタテテ、挙句は売り飛ばし、損失金だけで一兆円近い事実が一方であっても、法律的には罪は問えないし、だれも責任をとる訳でも無い現実があって、方や小額不正受給で逮捕。

法律には全く疎いが、

たとえば暴走族でもなんでも、集団で、一人に襲い掛かって死なせてしまった場合、殺されたのは事実であっても、誰が殺したのか特定できない。この場合、まさか全員が無罪にはならないだろうと思うが、重い罪には問われないだろう。

社会の秩序や法に照らし合わせれば、当然のことなのだろう。

それにしても、つくづく不条理を感じる。

もっとも、これが世界の常識なのだろう。

 

支配者階級が法律をつくって、それを利用する。

これはもう、国全体ばかりではなく、各小さな組織にも見られるようになったと密かに推測している。

これはこれで、また行き着くところまでいくかもしれない。

日記@BlogRanking   ボウリング、ガーターのイラスト

http://putiya.com/4sports_bowring01.html  

コメント

頭を下げる

2010年08月25日 | Weblog

もう、昔の話だが、

ペルーに駐在中、大使公邸で開催されるパーティーに参加していた。

ペルーの要人、日系人会のなにかの役を担っている人、進出企業の駐在員などが招待される。

出される料理は、定番の寿司、天婦羅、焼き鳥など盛りだくさんだ。

公邸の庭はひとで一杯、あちこちで話に花が咲いている。

隣の隣のパラグアイではサンドイッチしか出ない、吝嗇の大使だと聞いていたので、ペルーは、それだけで立派な大使だと思ってしまう。 

準備する料理は、とても大事な要素になる。

特にペルーは日本食が人気で、高いが故にそれなりの人しか食することが出来ない。

日本食レストランも多いので、刺身、寿司、天婦羅などはその世界では周知だ。

 

時に、丁度その時期、ペルーを訪れている国会議員も出席する。

あるとき、一人の国会議員が、

ある最大手の宗教団体の批判を大声で始めた。場所が場所だけに、批判するのは大人気ないので、

「ここでは、関係者もいらっしゃるだろうから、・・・・」

となしなめたが、酔っ払っていたのだろうか、ますます批判が酷くなって、その場を離れた。

あの時の議員さんは、どうなっただろうか。

 

招待客が帰るころには、大使ご夫妻が一人一人に挨拶をされる。

中でも、N大使ご夫妻は、深々と頭を下げ、丁寧にお礼を述べていた。日ごろ関係などないので、大使の名前も顔も思い出せないが、

N大使ご夫妻だけは、いまだに記憶に残っている。

 

頭の切れだとか、外国語が堪能だとかは、二次的要素で、まずは他人に、それがどんな立場の人であれ、頭を下げることが普通にできることが、大切なんだと思った。

日記@BlogRanking  ボウリング、ストライクのイラスト

http://putiya.com/4sports_bowring01.html  

コメント

知らない世界

2010年08月24日 | Weblog

こんな記事を見つけた。

政府が20日に閣議決定した大使人事で、昨年末に厚生労働省を退職した渡辺芳樹・元社会保険庁長官(57)がスウェーデン大使に起用された。 渡辺氏は、過去に懲戒処分歴があり、今年1月に発足した日本年金機構に移籍できなかった。渡辺氏が起用されたのは、1984~87年に外務省に出向し、在スウェーデン大使館で書記官として3年間勤務した経験などが評価されたとみられる。

長妻厚生労働相は20日の記者会見で、渡辺氏の大使起用について「昨日聞いた。基本的に外務省の人事なので、(閣議で)淡々とサインした」と述べ、不快感をにじませた。

2010年8月20日22時54分  読売新聞)
 
 
新聞を読むことはまったくないが、テレビ番組で、コラムニストが、この記事を話して、気になってネットで調べてみた。
 
役人の世界のすざましさというか、恥を感じないというか、否、おそらく一般下々の人間などは、犬猫に等しいか、奴隷以下だと考えないと、こんなことはできないだろうと思う。
 
すざましい世界だと思う。
 

日記@BlogRanking    

http://putiya.com/4hito4_sagyou2.html  

コメント

奴隷社会

2010年08月23日 | Weblog

今は、知らないが、僕がペルーに赴任した当時は日本からの進出企業駐在員で構成している組織があった。

けっこう歴史のある組織だ。

大使館や日本人学校、政府機関から商社、各メーカー、入り乱れての集まりだった。毎月一回の集まりがあって、それなりの楽しみがあった。

組織ができれば、委員会があり、当番があり、名簿がある。それぞれには序列というか、順番がある。どいうわけかというか、当然というか、大使館関係が常に上席、次に政府関係者、それから商社、メーカーと続く。

同じ商社、メーカーのなかでもまた序列が生じる。

最初名簿を手にしたとき、序列の決め方に、これにはかなりの違和感を感じた。

基本的には全く関係のない人々が集まっても、序列ができればそこには自然と、優劣の上下というか、意識の差が出てくるのが、面白かった。

 

 

奴隷という言葉は、いつ頃できたんだろうか。

日本には、奴隷制度に似たようなものはあったと思うが、

奴隷という言葉からイメージしてしまうのは、足に重しをつけて、引きずって、働いている姿だし、極端な差別意識。

こういった、イメージは日本には感じない。

 

現代を、格差社会と表現するのに抵抗のある人は少ないだろう、と思う。

これは高い給料をとる人と、低賃金で働く人との格差をイメージしてしまうしまうが、

どうもそれだけではないような気がする。

賃金とともに、人間性にまで優劣の格差があると、誤解してしまっている、

そんな感じを受けるのは、被害者意識だけを募らせているからだろうか。

日記@BlogRanking   

http://putiya.com/4hito4_bussines3.html  

コメント

小さな政府・高税率・高福祉?

2010年08月20日 | Weblog

万引きによる被害は、一つのスーパーでどのくらい出るものなのだろうか。

近所のスーパーでは、ホントかウソか知らないが、年間二千万を超える、と聞いた。

とんでもない額だと思う。

よく利用するスーパーだが、これまで万引きを目撃したことはない。

その店は24時間、1年365日、休日はなし。一日5万以上が被害にあっていることになる。日当1万円のガードマンを5人雇える。

にわかには信じがたい額だ。

アメリカは、万引き被害額を、最初から商品にのせるという。ガードマンを雇うより賢いかもしれない。

 

選挙速報で、開票率0%なのに、当確を出す局がある。いつも不思議に思うが、当確を出す方も自信がるからだろうか、まず間違いが起こらない。

アンケート調査も、それほど多い人数ではないが、たとえば内閣支持率だとか、だれに総理になってもらいたいか、などと割合を示す。

単なるアンケートだと思うが、選挙速報と同じで、かなり正確に読みができるのだろうと思う。

税金についてのアンケートを見た。

多少税金が高くても、質の高い福祉を望む人が多かった。

これは、しかし、最初から答えは決まっていて、貧しい層が多いから、当然のような気がする。

大きな政府、高税率、高福祉がいいか、

小さな政府、低税率、低福祉がいいか、というものだった。

この大きな政府、高税率、高福祉、と

小さな政府、低税率、低福祉というは、定理のような感じで、一般的には、示される。

どうも納得がいかない。

大きな政府で高い税金なら、どうして高福祉ができるのか、これが分からない。

逆に、小さな政府、低税率なら、なぜ低福祉になるのか、これも分からない。

どうして、小さな政府、高税率、高福祉にならないのか、不思議だ。

 

スーパーの万引きは、犯罪だが、政府や役人の無駄遣いは、おかしな言い方だが、合法的な万引きではないのか。しかも額はスーパーのそれとは比較にならない。

日記@BlogRanking   

http://putiya.com/4siki_natu02.html  

コメント

珍しいうちが花

2010年08月19日 | Weblog

子供のころ、周囲を見渡しても、日本人だけがいる環境だった。

どの家の屋根も黒いかわらだった。どの人も家に鍵をかけることなどなかった。

こんなとき、黒人を一度見たことがるが、思わずじっと見てしまった。

この記憶は残っている。

この縁なのか、いまはニューヨークに黒人の友人がたくさん出来た。

一度友人の家に遊びに行ったら、ランチをつくってくれた。ジャガイモとたまねぎを煮た、肉じゃが風だった。さっぱりしたいい味だった。

 

近所のスーパーに買い物に行った。夕方、4時、5時くらいだ。

大きな声で話しながら、買い物をしている人々がいる。

人で一杯だ。見るからに盛況さを感じる。

ところが、話し声がイヤでも耳に入ってくると、全部中国語だ。

店員に、場所や探し物を訊ねているのも、中国人だ。老いも若きもの様相を呈している。

「日本で、人気の食べるラー油はどこにある?」

「こちらです」

店員さんは、丁寧に接している。

ここでも中国人のお陰で、スーパーが成り立っていることを実感する。

同じスーパーの中で、こんなこともあった。

「おい!!」

甲高い、怒りに満ちた声が聞こえた。

見るとスーツを着た日本人が血相を変えて、一人の女性の後を追いかていた。

女性は、ルイビトンらしいケースを引っ張りながら歩いていた。女性は立ち止まった。

「こら!、人にぶつかっておいて、何にもいわないのか?」

スーツの男がどなった。

女性は意味がわからず、そのまま背中を見せてかえっていった。

男は、まだぶつぶつ言いながら、買い物を続けた。

こんなこともスーパーで起こる時代になった。

日本人もかつては、欧米で、こんな感じだったのだろうと、想像した。

静かに、落ち着いて、買い物を楽しむ、ことができなかった。

たぶん、ワイワイガヤガヤ、人をかき分けて商品に群がったのだろう。

いま同じことが日本で起きている。

複雑な気持ちになった。

珍しいうちが花かもしれない。

 

日記@BlogRanking  

http://putiya.com/4siki_natu01.html  

コメント

許す感性

2010年08月18日 | Weblog

ペルーには死刑制度が無い。

なくなったのは、それほど昔のことではなく、たしか20年ほど前だったか、と思う。当時はまだテロ時代だったし、治安はけっしてよくなかった。

それでも死刑を廃止した。

死刑には、どうしても冤罪の可能性ということがつきまとう。

 

冤罪は、証拠を積み上げてもおこるし、反対に証拠を積み上げるから起こる場合だってある。

冤罪というほど深刻ではないが、人間の付き合いでもおこる。

日常生活で、毎日しっかり証拠を保持しているなんて事は皆無だし、緊張した人生なんておくれない。適度にバカをして、笑って、厭味や軽犯罪、スピード違反を起こす。

つい言葉がすぎて、意に反して、友人の、または誰かの非難や批判をしてしまったことを、「それがお前の全てだ」と判断されて、拒絶されてしまうことがある。

これはまだ、「やってしまったこと」だから冤罪ではないが、「やってしまったこと」とそれに対する刑罰「それがお前の全てだ」という重みと、合わない。

20Kmオーバーで、懲役20年!と変わらない。

無実であっても、警察のやっかいになった、というだけで会社をクビになり、人生を狂わす事だってある。

痴漢がいい例だ。

無実を勝ち取っても、会社には戻れない。

こんなことは、だれにでも起こる可能性が高い。

 

 

理屈や、論理の展開といったことには苦手だが、

死刑制度反対の意見のひとつに、

死刑制度は、犯罪の抑止力にならないから、死刑はなくそう、というがある。

となると、これは死刑制度に限った事ではなく、さまざまな刑罰は、それがあっても犯罪の抑止力にはならないだろうから、刑罰はなくそうというこにならないか、と考えてしまう。

この意見を際限なく進めれば、

警察組織は、あっても犯罪はなくならないし、抑止力にもならないから、警察はいらない、となってしまう。 

となると、一定数の犯罪が起きるのは、刑罰とか警察だとかの問題ではなく、

人間が本来的に持っているものに由来することになる。

 

 

軍隊。どこの国も争いを起こすための軍隊だとか、侵略するための軍隊だ、などとは絶対に言わない。かならず自衛のための軍隊だという。

だから、たとえ自衛であっても、争いはなくならないから、軍隊は必要ない、こういう時がくれば一番いい。

日記@BlogRanking   

http://putiya.com/4siki_natu01.html  

コメント

クスコ

2010年08月17日 | Weblog

クスコは、インカ帝国の首都だった。お臍という意味らしいが、分からない。

いまでも当時のままの石垣を街で見ることができる。

一度、クスコの朝市に行ったことがある。

民芸品や、果物、野菜などを売っている。

そこに昔ながらの衣装を着たインディオらしい、おばさんたちがなにかわけのわからないものを売っていた。

青菜を塩でつけたような感じだった。

「それを一口ください」

と言うと、おばさんは、自分が食べていたお皿をスカートで拭いて、その上に青菜をのせてくれた。

見るからに不衛生な感じだ。

それでも二回目はないと思って、食べると、塩辛いものではなかった。もちろん美味しいものでもなかった。

観光なら、通り過ぎるだけだから、かまわないが、

快適な生活空間に住んでいれば、不衛生な場所には住めない。中には、クスコが好きになってしまって、住みついてしまう人のいるだろうが、かなり少数派だ。

インドやネパールも同じだ。

臭いや不衛生に辟易するが、それでも好きなってしまう人がいる。

どうも、自分の思想や哲学、あるいは生き方からそこを選んだ、というわけでもなさそうだ。

ときどき、アフリカの貧しい人々がテレビに映し出される。子どもたちは裸足だ。彼らは夏には涼しく、冬には暖かい、ひねれば水の出る快適な生活とは無縁だ。

賞味期限や消費期限などは、自分の舌と鼻でしか確かめられない。

クスコに住むインディオも、それほど変わらない。

 

文明が発達すれば、物事の順序というか、秩序というか、サイクル関係というか、自然な営みというか、

それらが当然崩壊してくる。漸次の変化だから、気がつきにくい。が、ゆっくり崩壊していく。

どのくらいの時間がかかるのか分からないが、1000年、万年単位だろうか。

自然の崩壊を、畑を耕す、畑を開墾することから始まった、とすると、もう万年は経過したかもしれない。

資本主義は、結果壮大なるマルチ商売と、それほど変わらないから、そのうち破綻が来る。人の一生単位では破綻はこないが、いつかは来る。

文明も、また似たようなものだろうと想像している。

日記@BlogRanking   

http://putiya.com/4ongaku06.html  

コメント

自分のモノ

2010年08月16日 | Weblog

仕事をしないで、プラプラ遊んで暮らすことができれば言うことはないが、

年金だけで親子二人で生活するのは、厳しいかもしれない。電気代が支払えなくて、クーラーはあっても使えない。

それで熱中症で老人が亡くなった。発見者は長男。

こんなニュースが今朝流れた。

司会者が、なんとかならないものか、と意見をコメンテーターに求めたが、コメントも苦しい。

根底には、自分で選んだ道、自分の責任、という考えがあるからだろう。そしてこれは、誰もが思うことだ。

「おにぎりが食べたい」

と書き残して、亡くなった人と、どこか似ている。

生きるというのは、いったいどいうことなのかと思う。こんな愚かな質問したところで、生きなくちゃ答えがでないわけだから、どうでもいいことだが、

電気代が払えなくて熱中症で死んだ人は、幸せだったのだろうか?

おにぎりが食べたいと思いながら餓死した人は、人生を振りかえって幸せだったろうか?

と思ってしまう。

 

生まれ故郷に行くと、生まれた家はもうなく、新しく家が建築されて、誰かが住んでいる。かつては自分達のものだった。

自分たちのもではあったが、それ以前は、やはりだれかのものだった。

今は東京にいる。ここも今は自分達のものだが、かつてはだれかのモノだった。

こう考えると、自分のモノというは、何一つないことになる。

それなのにモノに執着する。まったくしょうがないな、と思うが、どうしようもない。

日記@BlogRanking    

http://putiya.com/4ongaku06.html  

コメント

都合よく変える

2010年08月15日 | Weblog

日本人が、ペルーに移住した当時は、当然だが、カトリックの習慣や教えで生活をしていた。 

カトリックの国では、普通日曜日は働かない。それが教えだからだ。

日曜日には教会に行く。

移住した日本人は、当初は農業従事者が多くを占めていたが、次第に商売に転業する人が増えた。

商売は、日曜日には休む。ところが、日本人は日曜日でも店を開け、商売をする。

ペルーで暴動が起こったとき、だから、日本人の店は集中的に襲われた。

いまでこそ、日曜日に店を開け、商売する人々は当たり前のように普通になっているが、当時はまれなことで、かつ、ペルー人の反感をかった。

 

詳しくは覚えていないが、宣教師だった人が、書いた話を本で読んだ事がある。そのなかにかすかに覚えている話がある。

ある真面目な、熱心な信者がいた。毎週日曜日には教会に行って祈りをささげていた。神父もそれを感心していた。ところが、ある日を境に、教会に顔を出さなくなってしまった。

心配した神父は、ある日、その真面目な信者に会いに行った。

「このごろ、教会に顔を見せないがどうしたのかな?

と神父が問う。

「実は、教会に行くと、畑は大丈夫かと、畑のことばかりが心配で、神父さんの話を聞けないんです・・・・」

と話し、ちょっと間をおいてから、

「ところが、教会に行かないで、畑にいると、今度は、神父さんはどんな話をしているんだろうか。今日はどんな説教があるんだろうか、と神様のことばかりを思ってしまうんです」

と答えた。

この話は、けっこう有名らしく、信仰というものの本質を考えさせらる。

 

人間の生活は、だんだん変化していく。常識も、考え方も、習慣も変化していく。

30年前のペルーも、日曜日に、商売している店は少なかった。いつでも静かな日曜日だった。

現代は、日曜日に出かける場所が多くなって、人々も負けずに外出していく。大きなショッピングセンター、映画館やレストラン、ボーリング場などがあって、にぎやかだ。

 

経済が成長すると、生活の変化が急速に進む。それは、やはり自分達に都合がいいように物事を変えていくからだろうと思う。

 

日記@BlogRanking   

http://putiya.com/47gatu4.html 

コメント