虚空を観じて

今感じたことを書くことは、年取った脳みそにいいんじゃないかと考えて認めています。日常の風景から、過去の記憶まで。

自分を見る

2019年11月30日 | Weblog

昔から異常者は、自分を異常とは思わないという。

自分を正しいと思っているのか、それは分からないが、少なくとも、自分を異常だとは、考えていないだろう。

元共産党の人が大切なことを話していた。

共産党時代は、ソ連の独裁や理不尽な政治がニュースになっても、それを見ようとはしなかった。

頭の中では、独裁はイケない、自分たちに都合にいい政治などはイケない、それは充分分かっていたが、

ソ連に「イケない」とは、ついぞ考えなかった、

そう発言していた。

これは、とても大切なことで、自分にも言い聞かせることをしたい。

 

 

立憲民主党の花見に対する異常な感覚は、素人には理解を超えている。

どうでもいいことにあれほどエネルギーを燃やせるのは、自分たちがいつの日か政権を取ろうとは、爪の先ほども考えていないからだろう。

少しでも日本国を思って政治をしているなら、モリカケや花見に、あれほどの力は注がない。

韓国政府の行動にも似たような印象を持つ。

けっして、韓国国民のことは考えてはいなんだな、と思う。

両者とも、一連の行動を見ていると、背筋が冷たくなる。

異常者の集団に見える。

 

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素人でも・・・

2019年11月27日 | Weblog

政治の世界は、素人ではなかなか難しいと思っていたが、

実は、それほどでもなく、普通の人間関係とさほど変わらないことを知った。

 

 

例えば、立憲の議員はモリカケをあれほど長く言葉を尽くして追及したのに、結果何も出てこないし、どうでもいいことに勢力を費やしたと、あらためて思い知らされた。

最近は、桜問題で、最初からどうでもいいことを取り上げている。

野党側には野党側の論理があるだろうが、やはりどうでもいいことだろうなと思う。

何を求めているのか、と思う。

少なくとも、国民のことを、安全、安心、幸せ、豊かさ、不平等さなどは、まるで考えていないことだけは確かだろう。

 

 

初めて知ったことが、議員が国会でなにを発言しても、それが嘘であろうとなんであろうと、責任を一切問われないという。

それは憲法で保障されている。

立憲民主の森議員が、一般人をそのやり方で攻撃し、主張した内容が真っ赤な嘘であるにもかかわらず、

謝罪もせず、そのまま放置という、ちょっと信じられない態度だという。

やられた一般人はほぼ泣き寝入りとなるが、それでも、一応、国会に請願という形で懲罰を求めることができるが、

それもいろいろ手続きや、思惑があって、なかなか思うようには進展しないという。

 

 

こんな不埒な議員が当選してくるのは、結局は有権者の責任であるが、

普通は、次の選挙では当選しないだろうと思うが、また当選してくる。ここが、民主主義の欠点で、どうにもならない。

やはり、どんな人も、敵が千人、味方が千人だなと思う。

となると、憲法を変えるしかないように思う。

 

 

 

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恥ずかしいを失うと・・・

2019年11月24日 | Weblog

恥ずかしいと感じるのは、人によって異なるだろうが、

人前で歌うのは恥ずかしい、この程度なら可愛いものだ。

嫉妬心丸出しで、批判するのは、あるいは間違った情報を主張するのは、

かなり恥ずかしい行為だろうと思うが、

まったく、羞恥心を感じない人々もいる。

こまったことに、頭脳明晰、知識人が多い。

 

 

安倍政権の最長に、

「なにもレガシーがない」

と評した野党議員がいたが、

敵方とはいえ、素直に喜びというか、業績というか、称賛する言辞を言えなのは、人間として残念な一面をもっている。

 

 

戦争か平和か、といえばだれもが平和を選択する。

昔、追い詰められたとき、人間は「闘争」か「逃走」するという、漫画があった。

両者ともダメなら、諦める。

日本が戦争にはいったのは、

平和か戦争、あるいは平和か侵略かではなく、

戦争するのか、白人の「植民地になる」かだった、ということを武田先生が動画で話していた。成る程、と思う。

日本人なら、植民地になるくらいなら、敵わぬまでも、一矢報いるだろうと思う。

日本は、民族性で、他国を侵略し、搾取し、なんて道は選択しないだろうと思う。おそらく、こんな民族性を持った国は世界にはそれほど存在しないだろう。

左翼の頭脳明晰な知識人が日本の侵略を主張するが、こんなことは、まるで説得力がない。

大学の教授とか、あるいは東大の先生だとか、知識人だとか、それでだけで権威を感じたが、

今時は、そうはならない。逆にうさん臭さを感じる。

 

ペルーから持ってきたアヒーの種を植えた。

日本の唐辛子の先祖になる。

まだ、緑色だが、これから赤く色づいてくる。

これが、辛くてびっくりするが、出稼ぎのペルー人に訊くと、辛さがかなり落ちるとのこと。

アヒーを、オリーブオイルに漬けて、調味料にすると、パスタや肉料理に合う。

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理屈などない

2019年11月17日 | Weblog

ペルーにいたとき、

古老から

「昔、ペルーで暴動がおこると、日系人のお店が最初に襲われた」

特に、日本人は、カトリックとは無縁で、日曜日でもお店を開けていたから、襲う対象になったという。

外国に移民したのは、お店をやるためではなく、農業が目的だったが、

農業をする条件が酷くて、日本人はお店をもち、しかもペルー人が働かない日曜日にも働くから、

そりゃ、便利だから、日系人のお店は繁盛した、それも襲われる対象になったらしい。

そういった状態ではあったが、

フジモリさんが大統領になるほどの信頼を勝ち得るには、

想像を絶する努力を、一人じゃなく、日本人みんなで積み上げてきたんだろうと思う。

そりゃあ、なかには不埒な日本人もいただろうが、それを打ち消すほどの貢献をペルー社会にした結果だろう。

こういったことは、どこの国でも言えることで、

普通の社会生活をしている人間の普通の姿というか、事実だろう。

そこには、理屈などない。単に誠実に長い間、積み上げてきた事実のみだろう。

 

時々、ヒドイ事件や、大災害など、多くの犠牲者が発生した場合、

風化させてはイケない、とマスコミは言う。

とはいえ、人間は本質的に、忘れてしまうし、勉強しても、くりかえし取り上げても、せいぜい頭の片隅にしまっておくしかできない。

つまり、体験するまでは、分からないように人間はできているように思う。

悲惨な戦争であっても、災害であっても、未経験ならば、「その残酷さは分からない」のが人間なのだろうと思う。

知識があっても、勉強ができてもこれは変わらないだろう。

人間には、理屈などまるで関係ないことが多々ある。

 

安倍政権は、最長になるという。

安倍政権がいい、というより、対抗馬がいないからで、普通の国民は、「よりよい、より魅力のある政党」にはすぐ飛びつくだろう。

マスコミやお役人が常日頃「愚か・バカ」と考えている普通の国民、大衆は、あっというまに支持など変える。

ならば、安倍政権の最長を許すなら、それは単に「魅力ある対抗馬」あるいは「切望される政党」の不存在が大きな原因となるだろう。

 

政教分離の考え方は、素人には難しすぎるが、

先週の天皇陛下一代で一回きりの行事が、政教分離の原則に違反するのではないか、という。

政教分離の考え方はいつごろからできたものか、まったく知らないが、

天皇陛下の行事は、政教分離の原則より、はるか以前から存在するのは間違いないだろう。

ならば、現代の政教分離を、適用するのは、まったくの間違いではなかろうか、そう素人には思える。

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屁バカ

2019年11月13日 | Weblog

一人では生きることができないのは、だれもが同じで、そこには裕福も貧乏もない。

こんなことは、誰もが理解していることで、当たり前のことだろう。

ならば難しいことはなく、一人では生きられないなら、そこには、まず、尊敬、感謝が必要だろう。

とはいえ、普通の社会生活ではそうはいかない。

なかなか、難しい。

 

よくテレビのコメンテーターが、批判だけして、なにかこうしたらいいという策でもあるのかと思うと、何もないことが多い。

政治の世界ではこれが多くて、ひたすら批判、ただただ批難、あげくはねつ造、などたくさんある。

素人は、あんなことして、恥ずかしくないのか、と思うことが度々ある。

野党も与党もなく、この点では、同じ穴の狢みたいなもので、

見つかった政治家が運が悪かっただけなのだろうと思う。

日本のことを本当に考えて、政治に向かっている侍は、それほど多くないかもしれない。

 

国民祭典を動画で見た。

日本人でよかったなあ、と感じる。

別に他の国と比べているわけでもなく、素直に思う。

 

日本人であっても、天皇陛下が存在することを「イヤ」だと思っている人、コメンテーターがいる。

知識人らしく、その理屈を述べているが、実に情けない理由で、例えば

今の民主主義に合わないだとか、男女同権だとか、あんな古風な即位式より民主主義にあった式にするべきだとか、

寒い理屈だった。

一生懸命知識人らしく、もっともらしいことを述べていると思っているか、寂しい理由だなと、思う。

概ね、こういった人々は、雨の中、その時だけ一条の光が差し込んだことを、奇跡だと感じた「感覚」を、

屁バカにしている。

これも、寒い、寂しい、悲しいセンスだなと、知識のない僕には思える。

 

どうでもいいことだけど、これでは、人生豊かにならないよ。

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生理的に

2019年11月09日 | Weblog

どうでもいいことなんだけど、

動画で指摘されているコメンテーターの言い分を聞くと、気の毒になってしまうことがある。

女性が天皇になれないのは差別だとか、現代なら女系でもいいではないかとか、男女同権だとか、

何か言いたいんだろうけど、その主張には素直に頷けない。

実は、頷けないより先に、言い方に「品」がない。

なんとなく、嫉妬など歪んだ気持ちが垣間見えてしまう。

ここまでくると、内容、主張より先に、生理的に敬遠したくなってしまう。

 

 

愛知トリエンナーレ芸術展が話題になったが、

芸術の芸術たるゆえんは何かというのは、各自で異なるかもしれない。

そうであっても、だれもがこの要素だけは外せない、という視点があるだろうと思う。

現代アートなる言葉があるが、現代アートも、古典的アートも違いがあるのか分からないが、やはり、芸術の芸術たるゆえんには、共通した「感覚」があるだろうと思う。

 

時々訪れる「時の風景・・・Rumiko」。

有名なのか、まったく知らないが、虚心坦懐、素直に彼女の描いた作品を見ると、生きることに直向さというか、一種人間として完成されたような感覚というか、

「品」を感じてしまう。

まごうことなき「芸術」を感じる。

自分の場合は、芸術作品を見るとき、作品の良しあしというか、出来不出来というか、主張だとか、そんなことより先ず「品」があるかどうかに、左右されているように思う。

もちろん意識しているわけではないが、無意識の鑑賞感覚とでもいうかもしれない。

 

「品」は、それまで生きてきた、身についた積み重ねの結果だろう。

思想には品を積み重ねる効果はない。頭の中だけで考えた観念論には、品を醸成する力はない。

一人では生きられない社会生活の中での行動でしか品は身につかない、そう思っている。

 

 

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年寄りがこぼした言葉

2019年11月04日 | Weblog

SHINGENさんが、やっと動画をアップしてくれた。どうも、いろいろあったようが、

これまで通り、続けてくれるというので、一安心だ。

 

 

将棋会館に出前をよくしていた日本食堂が、閉店したニュースが、少し前テレビで流れた。

知っている場所なり、人なりがテレビ出ると、少々びっくりする。

 

この食堂の配達範囲にあるマンションの管理人をしているが、

配達している人と、たまたま会うとよく話し込んだ。若くはないが真面目な人だった。

お正月には、特性の唐辛子をいただいたり、けっこう仲良くしていた。

その人は、閉店する前に退職してしまったが、若い人が働いても長く続かないと嘆いていた。

お店のキリモリが大変で閉店するらしいことは聞いていた。

 

その人から聞いた話だが、

このマンションから注文があっても、滅多に受け付けないという。そのわけは簡単で、なかなか所定の位置に置いてくれないし、

食器は洗わないし、食器の回収に来てもないことがあるという。

ひとことでいえば、常識がないという。

それでも、ごく普通の人もいるわけだから、そういう人の注文だけは受けている、そう話していた。

 

太古の昔から、年寄りが

「今時の若い者は・・・・」

と嘆くのは、普通のことだが、

目に見える世界が変化すれば、それまでの積み重ねがあるわけだから、当然変わっていく。

穴の開いたデニムが普通になる程度なら、あるいは、ヘアースタイルが変化していく程度なら、どうでもいいことだが、

それまで美徳とされた他人にやさしくする行為や、日本の国に感謝する心、そういった気持ちが変化していく、

否定されていくのは、おおいなる問題だ。

こういったことは、はじめ、ささいなことから始まるようだ。

配達している人が、こぼした言葉、

「今時は食器は洗わないでそのまま出す。たまには残飯もある。それで平気なんだね。」

この感覚、教えてもらわなくとも、日本に住めば自然と養われていくと思うが、

食べ残しをそのまま出すのは、

一種の権利というか、自分の役割ではないとか、お金を払っているから、とか

気が付かないというより、それが当たり前だと考えているからだろうと、思っている。

原因は、おそらく、簡単で、日本の良き伝統や文化、習慣などがおろそかにされてきたり、否定されたり、

そうしたいと願っている人々の行動の結果だろうと思う。

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