虚空を観じて

今感じたことを書くことは、年取った脳みそにいいんじゃないかと考えて認めています。日常の風景から、過去の記憶まで。

文明の利器

2011年05月27日 | Weblog

福島の小学校の放射能というか、放射性物質の許容量というか、いい加減なのか、しっかりした数値なのか、素人にはさっぱり不明だ。

専門家でも意見が分かれているなら、素人にはなおさら分からない。

言えるのは、年間20ミリまで安全だという政府の指示は、ちっとも科学的ではないし、安全でもないし、井戸端会議の話し合いの結論とさほどレベルに違いがない。

頭脳明晰な人々が集まって決めても、この体たらくなら、学問はなんのためにあるのか分からなくなる。

学問は「文明の利器」だろうと思う。車も電話もテレビもみんな文明がもたらしたものだが、科学的に物事を判断する「学問」そのものが文明の利器だろう。

原発は文明の利器だが、それをコントロールする頭脳明晰集団は未開人というのは、

ブラックユーモアにもならない。

日本の法律で年間1ミリと決まっているなら、それに従えばいいものを、と思う。

涙を流して記者会見した専門家の「子どもに20ミリは容認できない」という言葉は、かなり重いと思うが。

 

外国にいる日本人を、有事の際に救出できない日本政府を苦々しくおもうが、日本国内でも救出できない、しようとしないのは、国としての形を成してはいないだろう。

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一日でも長生き

2011年05月26日 | Weblog

60年も人並みに人生をおくっていると、様々なことがある。

言えるのは、巡り合いの素晴らしさだろうか。

巡り合う人がかならず素晴らしいわけでも、幸せをもたらすわけでもないが、

総じて、巡り合いは、いまのところ素晴らしいものである。この点は、本当にありがたいと感じている。

 

巡り合っても、その人とずっと付き合うわけではなく、一期一会的な場合もあれば、しばしの付き合いもある。

仲がいいまま疎遠になることもある。この例は不思議とかなり多い。

たぶん生きる世界が違うのだろうと、勝手に解釈している。

争ったまま、そのまま別れてしまうこともあるが、そいう人に限って、どこかでまた会わなくてはならない場面が多い。

悲しいことだが、同じ世界に生きているんだろうと、これまた勝手に解釈している。

 

「たとえ一日でも、あいつより長生きしてやる」

と、ずっと陰で争っていた人がいた。どんな事情があったのか知らないが、死ぬまで思い続けるのは、辛く、悲しすぎる。

謝罪、することも大事だろう。それ以上に大事なのは許すことではないだろうか。

自分の人生のために。

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センスはゼロに近い

2011年05月24日 | Weblog

自分には音楽的センスがまったくないと思うのは、

オーケストラの指揮者を見るときだ。

学校で先生が前で指揮をとる。指揮していても、その指揮を見て、強く歌うだの、弱く奏でるなど考えたこともないし、単にやっているだけで、指揮があろうがなかろうが変わらないだろうと、漠然と思っていた。

それが未だに続いている。

楽団による違いや、指揮にうまい下手、違いや好みがあることすら理解できないし、交響楽などとても最後まで聞いていられないので、

やはり音楽的センスはゼロに近いだろう。

 

歌舞伎も同じで、面白さがわからない。分かる人にはたまらない魅力だろう。

歌舞伎は世襲制がおおい。世襲制は才能や力量は問わない。

芸術やスポーツが解かるわけではないが、芸術、スポーツは才能が必要だ。世襲はできない。

世襲できるものは、だから技術的には素人の積み重ねだろうか。

ただ、実はこの凡人の積み重ねというのが一番なによりも大事、ということはよくわかる。 

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羞恥心の感覚

2011年05月23日 | Weblog

恥ずかしい、と感じるのが、ちょっと以前とは違う。

給食費を、払う能力があるのに支払わない、それを恥ずかしいとは感じない。

けっして少なくはないだろう。

こんな場面にでくわした。

ある女性が買い物をした。その中に冷凍品があった。

その女性は、用事があるらしくお店に買ったものを一時期あずかってくれるよう頼んだ。

お店は快く承知したが、中に冷凍品があった。

「すいませんが、冷凍品は責任を持てないので、あずかることができません」

と丁寧に断ると、件の女性はみるみるうちに顔を変えて、なにがなんでもあずかれと、要求を繰り返した。

恥ずかしさの欠片もない女性だった。お店は折れて預かってしまった。

お客さまは神さまですは、もう昔のこと。

こんな客ならもう利用しないでくれと、お店も言える時代になった。

否、ハッキリ「出て行ってくれ」と言わなければならない。

 

原発の水の注入停止が問題になり、言った、言わない、そんな素人並みの意見を言うわけがない、などとエライさんがたがもめている。

その悪影響を受けるのは国民。エライさん達のおしりふきをセッセセッセと国民は文句も言わずにやる。

トップに君臨する人々は、国民を守ることに専念することより自分の立場を守ることの方がはるかに大切で、優先事項であり、それに精魂傾けることには、どんなことも恥ずかしいなどとは一切感じない。

やはり恥ずかしいと感じる時、場所、出来事が昔とはだいぶ違う。

世の中の移り変わりは、たぶん、羞恥心の感覚の違いに一番よく現れるのではないかと思う。

 

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素人考え

2011年05月21日 | Weblog

復旧、復興するためには莫大なお金がかかる。

それを税金でなんとかしようというのは、よく分かる。

世論調査でも50%以上の人が賛成している。

でも、税金など上げなくとも、お金を印刷すればいいと、ある若い女性タレントが言った。

その方法が何故ダメなのか、丁寧な解説がはいった。

仮に100兆円のお金を国民がもっていて、100兆円の物資があるとする。そこに100兆円を印刷すると、いままでの100兆円の価値が半分に減ってしまうから、結局は同じだ、という説明だった。

つまり極端なインフレになるというわけだ。

なんとなくわかるが、どうもおかしいと、感じる。

国民のお金は、100兆円どころではなく、京に近いだろう。そりゃ、国民がもっているお金と同額を印刷すれば、おかしくなるだろう。

そのうちのほんの一部、100兆円を印刷するだけだから、まったく影響はないではないか、と素人は思う。

ましてや復旧復興には50兆円というではないか。ならば、さっさと50兆円を印刷して、被災者や、避難者にバンバン配ればいいものをと思う。素人はこれだから困ると言われるかもしれない。

 

南米は、どの国もかつてはお札を印刷しまくっていた。

同じものでも朝の買い物と、夕方の買い物の値段が違うほど激しいインフレだった。

貯金などしても、意味はないので儲けたお金はすぐ消費した。

それでも、国は崩壊することなく、現在はインフレに苦しむことなく安定している。

 経済は難しい。

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共産党の存在意義

2011年05月20日 | Weblog

原発事故で、今作業にあたっている人々の環境が、とんでもなく悪いことがテレビで報道された。

あんな環境で労働させている幹部の人々の心は、どうなっているんだろうか。

食事だとか、シャワーだとか、一ヶ月休みなく働き続けている状態や、

寝ている場所など、気の毒である。

テレビで報道はされたが、それに対する識者のコメントも、意外と簡単だったのには、がっかりもした。

作業員の診察にあたっている医師が、労働環境について話していたが、

淡々と、他人事のような感じだった。

二カ月経過しているが、ずっとあのままの状態が続いたわけだから、あの環境で労働をさせている幹部というか、経営者というか、

報道されるまで「平気」で過ごしている感覚が、おかしい。

 

日本への出稼ぎが流行したころ、ブラジルやペルーから大挙して日系人が押し寄せた。

戸籍の売買や、出生証明書の偽造などが続出。

査証の乱発で、程度の悪い労働者が日本にあふれた。

落ち着いたころ、外務省の一人が、

「生まれながらにして、人の下で、奴隷のように働く人間は決まっている」

と、言い放った。もちろん公ではなく、プライベートな会話だが、外国から日本に働きに来る人々の条件は、役人からみれば、奴隷のような扱いだったのだろう。

この考えは思いあがった愚かなものだが、一面、今の日本の全体的な感性を言い当てている。

 

もし、マルクスが見たら、目を丸くして、革命だと声をあげるだろう。

共産党の存在意義を示すいい機会だと思うが。

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謙虚

2011年05月18日 | Weblog

被災者になった友人から話を聞くと、

被災地の中でも助かった場所と、津波で流されてしまった区域の間には、明確に線が引かれ、まるで人智を超えた意思のようなものがあると、と教えてくれた。 

こういったことは体験したものでないと分からないが、一種感覚的なものであろう。

宇宙飛行士が、地球を離れるとそこに表現のできない何とも言えない感覚を覚えるという。

キリスト教徒なら神の存在を感じることなのかもしれない。

日本人飛行士は、どのように表現するだろうか。

両方とも経験したことがないので、勝手に想像するだけだが、

我々が住む次元とは異なる世界の存在を感じたのかもしれない。言葉でこう表現しても説明はできないが。

 

リマ市にハビエル・プラード大通りがある。

その道路脇に一本の木が立っていた。今でもあると思う。その木にマリア様があらわれると、評判になって、町の信者たちが集まって祈りをささげるという事件と言うか、出来事が昔あった。

僕が見たときは、一人の女性が木を触り、祈っていた。が、すぐどこからか神父さんが出てきて、それをやめさせようと、必死になって制止していた。

さあ、祈ってくれと待っているような立派な教会ではなく、路傍の、埃まみれの一本の木に人の心が向いてしまう。

神父さんごときでは止めらるはずもなく、女性は祈り続けていた。

 

言葉では説明できない何かを感じると、人間は謙虚になれるかもしれない。

本当は、なにも感じなくとも、自然と謙虚でありたいと願うが、難しいことなんだと思う。 

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隠しても

2011年05月17日 | Weblog

放射線や放射性物質が、3月の時点で自分が住んでいる東京に大量に降り注いで、

枝野さんが正直に、

「とにかく逃げろ」

と指示しても、逃げていく場所がない。それは今も同じで、幸い放射性物質はバイ菌と同じで感知できないので、あわてずにすんでいる。

1号機どころか、他もメルトダウンしているらしいというし、4号機がもっとも危ないとも言われている。

メルトダウンや再臨界の危険性やメカニズムは分からないが、メルトダウンを隠しているなら、再臨界だってしているかもしれない。

いずれにしても今後5年以降に、真実が明らかになっていくことだろう。

 

お茶の葉から放射性物質を検出したという。

お茶の葉から出れば、他の野菜だって、空気だって同じだろうに。報道ではお茶の葉のことだけを言う。

もっとも、あれもこれも口にはできないとなれば、放射能より先に餓死してしまう。

 

被災地の復旧は、なかなか進まない。義捐金も、なんだかんだで、困っている人に渡らない。

お金など必要ないという人々が、しっかり握っている。

お金は、昔から必要な人には、なかなか行きたがらないが、

どうでもいいと思っている人の尻を追いかける。

たまには、今お金が必要だ、という人のところにもすぐ行って欲しいと思う。

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想像

2011年05月15日 | Weblog

メルトダウンを認めた東電の回答は、明らかに国民を屁馬鹿にした言い回しだった。

もっと、素直に、やさしい日本語を話せないかと思う。

それにしても、日本人は怒らない、と思う。

外国だったら、殺されているかもしれない。

 

メルトダウンだから、全くの想像だが、東京は放射性物質に汚染されているだろうと思う。どの程度かわからないが、空気から食べ物に至るまで、後年健康に悪影響がある数値であろうと考えている。

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寂しい感性

2011年05月14日 | Weblog

時々、もうどうにでもなれ、と気持ちだけ、開き直るときがある。

自分のことでは、家族のことなどが気になって、なかなかできない。が他人事に置き換えれば、簡単にできてしまう。

地震や原発事故の被災者、避難している人々は大変な思いをされているだろうと、想像しかできないが、思う。

国は、一向に動かない。否、動いてはいるだろうが、具体的な救済策を示さないで、なんにも復旧していない印象を受ける。

義捐金を渡すことは、一番欲しい時に差し上げなければ、義捐金の意味が半減する。

 

昨夜お世話になった方の法要に出かけた。そこで、

結局、原発はメルトダウンしていたわけだが、放射性物質はどうなんているんだろうか、とみんなに問いかけてみた。すると、

「我々のような年寄りには関係ない」

と冗談のような感想を言っていた。

放射性物質は、五感では感知できない。危険などとは全く実感がわいてこないから、悠長な感覚だが、あれが黄砂のように目に見えたら、パニック状態だろうと思う。

同じ日本で起きているにもかかわらず、未経験のことや、感知できないことは、暢気なものだと思う。

 

義捐金をいまだに差し上げないのは、理屈では理解していても、配布する側の感性が欠けているからだろうと思う。

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文化の象徴

2011年05月11日 | Weblog

電力は快適な生活を提供してくれる。

いまさら、電力のない生活には戻れない。

ペルーに住んでいたころ、テロが跋扈した時代があった。当時テロは、送電線をよく爆破していた。そのたびに停電になった。

12階のマンションにいたので、そのたびに12階まで歩かなければならなかった。これがかなりきつかった。停電が長引きけば、トイレも困った。

治安は悪化の一途で、物資は輸入禁止、快適な生活などはできなかった。夜は8時以降は外出禁止。

治安の悪化、さらに不便な生活。

それでも、なんとか楽しく生きてきた。

日本での快適な生活が懐かしくなった。

蛇口をひねれば、暖かいお湯が出てくる。レバーを押せば水が汚物を流す。いつでもシャワーを浴び、夜タバコがなくなれば、そこまで簡単に買いに行けた。飲み物だって、軽食だって24時間OKだ。

安全、安心の上に、さらに快適とくれば、言うことなしだ。それを当り前だと思っていたが、

ペルーで、その生活は特別な環境だと、思い知らされた。

こんな生活は、一生の内でも滅多にないだろう。

 

自動販売機は、たしかに無くても生きてはいけるが、

自動販売機は、日本だけのものだ。外国にはそこかしこに「お金の詰まった」箱など放置されていない。

自動販売機の裏には、日本が誇るべき文化の裏打ちがある。

多少の節電は、それが義務となった今は仕方ないが、

自動販売機がそこかしこにある風景はまだまだ安全の内にあるだろう。

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非を見つける

2011年05月10日 | Weblog

ペルーは言わずと知れた遺跡の宝庫で、あちこちに遺跡がある。

興味があれば、面白いが、なければ単なる遺跡で終わってしまう。

僕自身は、遺跡には興味がないので、説明を聞いても「へ~~」で済ませてしまう。

インカの模様は、土器にしろ、衣装にしろ、デザインがいい。ちょっとデフォルメされた絵は、素人目にはピカソの感覚だ。

学問的には、模様によって時代や地域が分かれるらしいが、不思議とどの絵も似たり寄ったりで、格別の違いがない。

インカに文字があれば、歴史は、また違った様相を見せるだろうが、文字がなかったので、推測の域を出ない。

 

聞いた話だが、

インカの遺跡からは武器と言うものはそれほど出てこないらしい。戦争がそれほど頻繁ではなかったのか、あまり好まなかったのか、どちらにしても戦争は下手だったのだろうと思う。

未だに何故少数のスペイン人に何万というインカの軍隊がいとも簡単に征服されたのか、定説が無いらしいが、一言でいえば、

戦争下手、だったのだろうと思う。

戦争は手続きだの、正義だの、信頼などは捨てて、いかに相手を騙して、姦計に陥れて、やっつけるかが勝負だから、この点にかけては当時のスペイン人には敵はいなかっただろう。

ましてや、インカの人々が手続きだの、正義だのにこだわっていれば、簡単に負けてしまう。

実際、インカの戦争では日没は戦争をしない、と決めていたらしい。

日本人がペルーに移住した当時、カトリックでは日曜日はどこもかしこも休みだった。

カトリックではない日本人は店を開けた。商売では、だからペルー人は日本人と勝負にならなかった。

 

目に見えた、明確な戦争でなくとも、経済の競争や外交、日常の職場での仕事などは、姦計を使うことは滅多にないだろうが、

いかに相手に責任を求めるか、相手の非を指摘するか、自分には非がないかを主張することに長けていなければ、簡単にやられてしまう。

戦争、というほど大きなことでなくとも、日常でもこんな風な感覚を、このごろ味わう。

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煮干しを懐かしむ

2011年05月09日 | Weblog

精神的にも肉体的にも疲労することがある。

何年も続くことだってある。

続けば希望を失う。

疲労感を、素直に表現できれば、まだいいかもしれないが、苦境のギリギリまで笑顔を絶やさない人だっている。

いいことも悪いことも、普通は長く続かない、と思っていたが、

それが結構続いてしまう世の中になってしまった。

 

小学生、中学生のころは、自分の周囲で目立つほどの裕福な家庭はなかった。お金持ちなんて身近にはいなかったから、金持ちがどんなものなのかもわからなかった。

単に大きな立派な家に住んでいる、そんな程度の印象しかなった。

当時は、格差などという感覚はなかった。 もちろん羨望すらなかった。

ちょっと以前までは一億総中流とかいって、格差などと言う言葉はマスコミに登場しなかった。

日本は資本主義社会だったが、共産主義が理想とする社会を、日本で作り上げた、と半分揶揄したことを発言する人も結構いた。

現代は、格差と表現して富める者、貧するものを分ける。

こんな風になったのは、原因があるだろうが、素人には分からない。

 

以前、厄介になった人に、教わったことだが、

煮干し、と言ってもかなり程度のいい煮干しだが、(確か、名前があったが忘れた)

その煮干しの頭をとって、指で半分に割る。半分をさらに胴体に沿って半分に割る。骨は取り除く。

そいつに、すっておろしたショウガをかけ、醤油をふって食べる。

これが、ホントうまかった。

子どものころに煮干しはたくさん食べていたが、この煮干しの食べ方は、ちょっと違って、上品な感覚があった。

時々思いつくと探してみるのだが、見つからない。

スーパーには食べる煮干し、などと売っているが、違う。

どこかにあるだろうか。また食べてみたいものだなと、懐かしむ。

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舌を巻く

2011年05月06日 | Weblog

水の検査は、20以下は不検出と表示される。

どこの浄水場でも、放射能測定検出結果の表に「不検出」とある。

ヨウ素やセシウムは、だから「0」ではない。微量ながら汚染されていることになる。

 

世の中は変わっていく。

見るものもそうだが、特に精神というか、心、気持ちが一番顕著に表れる。

昔は良かった、などと言うつもりはさらさらないが、

一般的な傾向として、簡単には人々が謝らなくなった。

謝罪すればいいってものでもないから、よしあしではなく、文化として、あるいは習慣、伝統として謝る、ということに抵抗を感じているのか、簡単には謝らない。

日常よく、あそこで頭を下げればいいものを、と感じることがある。

 

大きなことでは、東電は謝罪するまでの時間が長かったし、謝罪しても謝罪風景を見ていても、儀式のような感じだし、

保安院などは、逆でこっちが謝罪してもらいたいという態度だし、まったく謝罪するつもりは無いようだ。

おそらく、「ごめんなさい」は、自分で自分の非を認めることになるので、後々裁判沙汰になった場合、不利になるから、とでも考えているのだろうか、それとも過去の裁判でそのような、つまり「ごめんなさい」と言ったばかりに裁判で不利になってしまった、という事実でもあるんだろうか。

日本以外では、「ごめんなさい」は、絶対に禁句だが、日本での裁判では、調べているわけではないが、まだ聞いたことがない。

謝らない、ということは逆に相手の非を責める、あるいは自分の正当性を主張することに長けてきたことを意味する。これは、もう現実の生活の中で、実感している。

本来は、それが高慢だということになるが、それもここかしこになれば、普通になってしまった。

とにかく、その巧さには舌を巻く。とてもシニアでは太刀打ちできない。

 

目の前に高さだけなら634mになったスカイツリーがそびえている。

心まで高くなってしまったが、また欧米に一歩近づいた。

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窮鼠

2011年05月05日 | Weblog

電気料金の値上げを検討するという。

逆立ちしても、仕方ないな、とは思えない。

テレビで、東電の役員の給与を50%カットらしいと報道で知ったが、50%カットでも、まだ2000万というから、大変な給与額だと、ある評論家が話していた。

ほとんど持てないもののヤッカミだが、値上げする前に、他に何かやることがあるだろうと思う。

あちこちで、デモをしているというが、報道にはまったくのらないから、一般的な国民は全く知らない。

税金を上げることも、「仕方ない」と考えている人が楽に50%を超えている世論調査ばかり流れるが、

原発反対、値上げ反対、増税反対のデモがテレビ報道されなければ、それは「存在しない」と同じだから、

これらに「反対」している人々はいないことと同じになる。

反対する人がいなければ、簡単に値上げとなる。

この構図は、かわらない。

窮鼠猫をかむというが、国民が窮鼠になる寸前で止めているかもしれないが、

今は既に国民は窮鼠の状態かもしれない。

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