昨日の続き。果たして高野長英は咸宜園の門人生であったか。
鶴見俊輔は、高野長英の血筋を引く。その著に評伝『高野長英』がある。そこに「漢学者廣瀬淡窓の塾にしばらくとまり、筑前をとおって、秋には広島についた」とある。この文によると、長英と咸宜園とは結びつくように思えるのだが、この評伝中でほんの一行で素っ気なく書き流しているにすぎない。
なぜ、長英と咸宜園のいきさつを詳述しなかったのか。この著書にはふんだんに史料が収められている。裏返しに言えば、長英と咸宜園を結ぶ史料はない。だから深追いしなかったのだろう。著者自身「歴史の実在としての長英には、ついに実証的方法としてはたしかめ得ないところが多く」云々と語っている。
実際、この評伝の巻末にある年譜の文政12年(1829年)の項には「肥後、筑前、広島に旅行。診療と講義をつづける」とあるだけで、咸宜園のある豊後が抜けている。史料の裏打ちがなければ、年譜に明記できまい。
さらに次回に続く。
鶴見俊輔は、高野長英の血筋を引く。その著に評伝『高野長英』がある。そこに「漢学者廣瀬淡窓の塾にしばらくとまり、筑前をとおって、秋には広島についた」とある。この文によると、長英と咸宜園とは結びつくように思えるのだが、この評伝中でほんの一行で素っ気なく書き流しているにすぎない。
なぜ、長英と咸宜園のいきさつを詳述しなかったのか。この著書にはふんだんに史料が収められている。裏返しに言えば、長英と咸宜園を結ぶ史料はない。だから深追いしなかったのだろう。著者自身「歴史の実在としての長英には、ついに実証的方法としてはたしかめ得ないところが多く」云々と語っている。
実際、この評伝の巻末にある年譜の文政12年(1829年)の項には「肥後、筑前、広島に旅行。診療と講義をつづける」とあるだけで、咸宜園のある豊後が抜けている。史料の裏打ちがなければ、年譜に明記できまい。
さらに次回に続く。
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