『表現の自由か宗教への冒とくか』
フランスの週刊紙「シャルリーエブド」への襲撃事件をきっかけに、議論が起きています。
それぞれの国の歴史と文化、個人の思想信条の違いなどから、異なった見解が出てくることは
やむを得ないことかもしれません。
言論や表現の自由は民主主義の根幹をなすものです。
でも、言論や表現は、他者への敬意を忘れてはいけないのだと思います。
卑近な事例ですが、自分が応援しているチームの悪口を言われただけで、
本気で怒り出すサポーターさえいるのです。
他人が大切にしていることは、信念であれ、モノであれ、お互いが それなりに
尊重するというのが、平和に暮らすための知恵ではないでしょうか。
『価値』とは、人それぞれによって異なっているもの、他人がとやかく言うものでは
ないでしょう。
『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である』
と、新約聖書(マタイによる福音書 7章12節)に記されていますが、これは、
〔自分が されたくないことは、他人(ひと)にもするな〕
という意味だと思うのです。
そして、AかBの二者択一ではなく、AでもありBかもしれないから、互いに距離を
置きながら考えてみましょう………そんな立場というか領域を認めることも大事だと思うのです。
《根本的な解決を》と論じ、『悪』の根絶のためには正義のための「武力」をも辞しない。
そうした考え方もありますが、人間、そして その集合たる社会構造、「根本的な解決」などは、
なかなか見つからないのではないでしょうか。
※ カレル・チャペック作『園芸家12カ月』から。
≪何かと言うとすぐに、根のことに話をもっていきたがる人たちがいる。
おもに評論家と、聴衆の前で講演をする人たちに、それが多い。
われわれは根源にさかのぼらなければいけないとか、
禍根をのこしてはならないとか、
物事の根本をきわめなければいけないとか言う。
ところで、そういう先生方に、三年生のマルメロを一株、
根こそぎ掘り上げて見せてもらいたい。
おそらく、先生方は しばらく掘ってみて、
そのあとで腰をのばしてながら言うだろう。
ただひとこと、
「ちくしょう」と。
かならずだ。
ちがっていたら首を差し上げてもいい。≫
フランスの週刊紙「シャルリーエブド」への襲撃事件をきっかけに、議論が起きています。
それぞれの国の歴史と文化、個人の思想信条の違いなどから、異なった見解が出てくることは
やむを得ないことかもしれません。
言論や表現の自由は民主主義の根幹をなすものです。
でも、言論や表現は、他者への敬意を忘れてはいけないのだと思います。
卑近な事例ですが、自分が応援しているチームの悪口を言われただけで、
本気で怒り出すサポーターさえいるのです。
他人が大切にしていることは、信念であれ、モノであれ、お互いが それなりに
尊重するというのが、平和に暮らすための知恵ではないでしょうか。
『価値』とは、人それぞれによって異なっているもの、他人がとやかく言うものでは
ないでしょう。
『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である』
と、新約聖書(マタイによる福音書 7章12節)に記されていますが、これは、
〔自分が されたくないことは、他人(ひと)にもするな〕
という意味だと思うのです。
そして、AかBの二者択一ではなく、AでもありBかもしれないから、互いに距離を
置きながら考えてみましょう………そんな立場というか領域を認めることも大事だと思うのです。
《根本的な解決を》と論じ、『悪』の根絶のためには正義のための「武力」をも辞しない。
そうした考え方もありますが、人間、そして その集合たる社会構造、「根本的な解決」などは、
なかなか見つからないのではないでしょうか。
※ カレル・チャペック作『園芸家12カ月』から。
≪何かと言うとすぐに、根のことに話をもっていきたがる人たちがいる。
おもに評論家と、聴衆の前で講演をする人たちに、それが多い。
われわれは根源にさかのぼらなければいけないとか、
禍根をのこしてはならないとか、
物事の根本をきわめなければいけないとか言う。
ところで、そういう先生方に、三年生のマルメロを一株、
根こそぎ掘り上げて見せてもらいたい。
おそらく、先生方は しばらく掘ってみて、
そのあとで腰をのばしてながら言うだろう。
ただひとこと、
「ちくしょう」と。
かならずだ。
ちがっていたら首を差し上げてもいい。≫
他者を傷つけても構わない正義を正義と呼ぶほどに人間は賢いのでしょうか?
そんなに優れているのでしょうか?
何気なく読み過ごすにはもったいない内容でございました。
貴方の意見と重なるものがあるだけに、心地よく、有意義な訪問でした。
これからもよろしくお願い致します。
コメントありがとうございました。
「広義」にせよ「狭義」にせよ「正義」について論じる力量は私にありません。
「正義」という語彙から、私は、開沼 博(氏)の著書『フクシマの正義』を思い出しました。
原発事故以来、さまざまな「正義」が語られましたが、この本から、私は自身を内省させられました。
ご訪問ありがとうございました。
こちらこそ、これからも お付き合い下さいませ。