golf130のクラシックお笑い原理主義

オッサンのしがない日常や妄想話とその日聴いた音楽。

マーラー「交響曲10 番」ラトル旧

2008-03-03 07:01:48 | Weblog
第一楽章のアダージョだけ聴くべきなのか?

このような未完で補筆完成された曲は、原典重視のクラシック原理主義者にとって悩ましい存在です。

しかし、この曲は補筆完成版で聴きたい。何故かと言うと、マーラーが最後に行き着いた先、更に言えばその延長線がどうなっていたか興味深いからです。

「長生きしたらどんな作品を残したのだろうか?」と想像する作曲家がいます。モーツァルトなどその典型ですね。若くしてあれだけ数々の名曲を作ったのだから、それがもし長命だったとしたら…。実は意外にもロッシーニみたいに若くしてペンを置いてしまい、後は遊び惚けていたかもしれませんが。

ロマン派末期マーラーの音楽は爛熟の極め、妖しくも美しい最後の名花「第9」を咲かせました。しかしその先にはいったいどんな音楽があったのか。シェーンベルク達の様な調性からの解放か、それとも別の道か?。

ラトルの旧盤、ボーンマス響(クック完成版)(EMI盤)で聴いています。
10番はやはりロマン派の「臨界点」を超え掛かっている、2楽章、3楽章…と聴き進むに連れ、益々その感を強くします。やはり、9番までとはちょっと違う世界がそこに開けている。嗚呼、マーラーがこれを完成させてくれていたらなあ~。個人的には、未完が最も悔やまれる曲かもしれません。

新ウィーン楽派で、ウェーベルンは未来指向、ベルクは過去指向、といったことが言われますが、ロマン派の残像を引き摺ったベルクより、この10番の方が現代側に踏み込んだような錯覚にも陥ります。技法的にはベルクの方が新しいのは勿論のことですが。

店頭で試聴し気に入ったので、ハーディング指揮ウィーン・フィルの最新盤を昨日買いました。これもクック版ですが、また違った10番像でしょう。聴くのが楽しみです。

クック以外の完成版もいくつか出ているので、それらも聴いてオリジナル像を自分なりに想像復元してみたいと思います。