一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

内部統制とクラインの壷

2006-11-25 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

※ この飛び石連休は、(代打の代打の)接待やら業界の集まりやらのオフィシャルなゴルフ3件という「ちょっと前の日本のサラリーマン」をやっていまして、手元に資料もなく十分な考察もなく、多いのは筋肉に蓄積された乳酸だけという状態での脊髄反射的なエントリですのでご容赦を。  


金融商品取引法上の内部統制評価報告制度に関する「財務報告に係る内部統制の評価及び監査に関する実施基準(公開草案)」が公表されました。

内部統制に関してずっとフォローされていて、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスについての必見のブログとなっているtoshiさんが「内部統制監査の『品質管理』」というエントリで次のような問題提起をされています(少し長いですが引用します)。  

たとえば、内部統制評価に非常に厳格に対応する上場企業があったとします。この企業の経営者は、一般に公正妥当と認められる内部統制評価基準に従うと、自社の内部統制には不備があると認められ、その後の不備解消の努力もむなしく事業年度の最終日までその欠陥は補正できず、「内部統制は不備がある」と評価したとします。しかしながら、内部統制監査を担当する監査人は、会計基準にしたがえば有効と判断していい、と考えている、としましょう。この場合、内部統制監査を担当する監査人(監査法人もしくは公認会計士)は、経営者の評価は間違っている(つまり、この企業については、他社の内部統制評価と比較しても、一般に公正妥当と認められる内部統制評価基準によれば内部統制は有効である、と判断される)と意見表明する(つまり、経営者意見について不適正意見を述べる)ことは十分ありうることなのでしょうか?理屈のうえではありうると考えられるでしょうが、さて財務報告の信頼性を確保するための開示情報という観点からみますと、一方で企業が「信用性に問題あり」と述べて、もう一方では監査人が「信用性には問題なし」と述べているわけです。財務諸表監査の場合には、経営者が数字によって意見を表明し、これに監査人が「信用性あり、なし」と意見を出すわけですから、これは投資家の自己責任で判断する材料としては、わかりやすいですね。しかし、数字を出した企業自身が「信用性はない」と言いながら、監査人が「信用性あり」と意見を表明したとしますと、そもそも投資家は開示情報のどれを信用していいか混乱するだけであって、投資家の自己責任の根拠となる企業情報開示制度としては、おそらく不適切なものになってしまうのではないでしょうか。  

昨今の「日本版SOX法」(この言い方はあまり好きでないのですが)対応で、企業は「何をしなければいけないのか」「最低限何をすれば文句を言われないのか」更には「そんなことまでする必要があるのか」という逆切れ風な議論までいろいろ議論がかまびすしいですが、上のtoshiさんの指摘は、そもそも内部統制とは何のために求められるのか(より正確に言えば何のために内部統制が求められ、何を目的としてために監査をするのか)について考え直すいいきっかけになると思います。  

改めて金融商品取引法の「目的」を見ると 

(目的)
第一条 この法律は、企業内容等の開示の制度を整備するとともに、金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め、金融商品取引所の適切な運営を確保すること等により、有価証券の発行及び金融商品等の取引等を公正にし、有価証券の流通を円滑にするほか、資本市場の機能の十全な発揮による金融商品等の公正な価格形成等を図り、もつて国民経済の健全な発展及び投資者の保護に資することを目的とする。  

とあります。  

一方で会社法は 

(趣旨)
第一条  会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。(※)

会社法は株式会社という組織の中で株主・取締役・監査役の権限と責任を定めた(その中で取締役の善管注意義務の一環としての内部統制構築義務が観念されるわけです。)のに対し、金融商品取引法は「有価証券の取引等を公正にし、公正な価格形成等を図る」ことが目的と言っています。

つまり、会社法は株主という出資者と経営の専門家の取締役・監査役が「内輪」の(=株主から見れば、「自分のためにきっちりした会社経営をしてね」と仲間である経営者に頼む)ルールをどうすべきかを定めているのに対し、金融商品取引法は金融市場を間に介して企業と素人の投資家の間の情報格差の是正をはかる(=一般投資家としての会社の「外部」にいる株主が、会社の内部の経営者に騙されないようにする)ことを目的としているわけです。  

その結果、「内部統制」における議論は、「会社はしっかりしなければならない」という誰にも文句の出ない総論の次に、「誰のためにしっかりするべきか」「会社(経営陣)を株主の側にあるもの(会社法的考え)として考えるか、株主(投資家)の外部にあるものとして考えるのか」というところで議論が混乱しているように思います。


上のtoshiさんの設例も、業務のクオリティを高いレベルに保ちブランドを維持しようという企業であればあり得ることかもしれません。
この場合、経営陣と同じサイドにいる株主にとっては経営陣の言うことはもっともなことで「もっとしっかりしてくれ」と言うでしょうし、短期の値上がり期待で保有している株主は「何物議をかもす余計なことを言ってくれるんだ、株価が下がったらどうする」ということになるわけです。

あのエンロンにしても、アウトサイダーの株主にとっては迷惑以外の何物でもないですが、役員のようなインサイダーの株主にとっては粉飾決算であっても合理的(合目的的)な行動なわけです。
逆に「現場に多少統制が効いてなくても元気があるほうがよろしい」という企業があってもいいわけで、そういう企業が「内部統制が確立していない」というだけで資本市場での資金調達ができなくなるのももったいない話です。


企業の内部統制をめぐる議論のややこしさは、このように企業と株主を同じサイドとして(=会社法的考え=儲かるためにどうするかと)考えるか、違うサイドとして(=金融商品取引法的な考え=騙されないためにどうするかと)考えるかが「クラインの壷」の表面をなぞるように循環してしまうところにあるのではないか、とふと思った次第です。  



※「六法」と言われるだけあって、商法・会社法はそんじょそこらにあまたある法律のように自らの「目的」を明らかにすることなく「趣旨」で始まるあたり、「俺がルールブックだ」風な居住まいですね。

コメント (2)
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