「フリーターは惨め」 近大、HPの文章削除
(2006年11月29日(水)12:03 共同通信)
近畿大学(本部・大阪府東大阪市)の理工学部が運営するホームページに「新卒で就職出来ていない人は欠陥品」「30歳後半のフリーターは惨め」といったフリーターを侮辱したともとれる文章が掲載され、外部からの指摘を受けて削除していたことが29日、分かった。
同校によると、理工学部理学科の講師が「夢を実現するために、今はまず就職することです」と学生を励ます目的で数年前に執筆。手直しを重ねながら、就職情報のホームページに掲載され続けた。
この中に「新卒で就職出来ていない人は落ちこぼれであり欠陥品。君がどのように言い訳をしようと、社会は欠陥品と見ます」「30歳後半になったフリーターは悲しく惨め」という文言があったほか「既卒者は肉体労働に近い、人が敬遠するような職を探すことになります」という表現もあった。
私が気になるのは、大学がこの文章を削除してしまったことです。
理工学部の就職情報のHPに一講師が書いたエッセイが大学の意見を代表するとは普通は思わないでしょうし、心配ならその旨注書きしておけばいいわけです。
また、侮辱的な表現があれば、その部分を謝罪して訂正すればいいだけです。
本来大学というのは、さまざまな意見を自由闊達にたたかわせて学問の発展に寄与するはずの機関であり、批判が出たからといって削除してしまうというのは本末転倒ではないでしょうか。
問題の文章全体を読んだわけではないので的外れな議論かもしれませんが、そもそも「欠陥品」というならそれを製造した大学の教育内容も議論になるはずです。
また、大学(特に理系)においては修士課程・博士課程と教育レベルがあがるほど ポスドク問題などの、求人と求職の構造的なミスマッチがあり、そちらの方向に議論が発展すればより本質的な議論が深められたのではないかと思います。
(ポスドク問題については「ポスドク問題とは何か」により詳しい分析がされています。)
今回の近畿大学は非難を怖がっていきなり文章を削除するのでなく、これを契機にコメントなども受け付けながら前向きな議論に発展させたならば、大学としての器の大きさをアピールできたのに、単に「醜聞に蓋をした」というような対応をしてしまったのは残念だったと思います。
一部の抜粋だけではわからないですが、私としては問題の文章が上のような大学教育の機能にまで視野を広げたうえでの問題提起であれば、(表現の不適切さはあったかもしれませんが)なんら恥じることはなかったと思います。
逆にこれらへの批判をする側も、就職のあり方としてのフリーターの意味(または期せずしてそうならざるを得ない状況の問題点)について正面から反論すべきだと思います。
しかし、これに関するマスコミの報道もフリーターに取材して「不愉快だ」とか「失礼だ」というコメントを取り上げているだけのものが多く、それじゃ最近問題の「いじめ」の一つのきっかけでもある異端や不愉快なものを排除するメンタリティとと同根じゃないか、と思ってしまいました。
私はもともと「フリーター擁護」の論調には何となくなじめないものを感じていたのですが、本件についても、その延長上にある違和感を覚えます。
ちょうど内田センセイがブログでこのような問題に関し面白い切り口で整理されていたので引用します。
私たちの時代の「政治的正しさ」は「『誰が最も弱者かレース』の勝者」がリソース配分で有利になる」というゲームのルールを採択した。「本態的弱者」が(社会的リソースの争奪戦では)「相対的強者」になるということになれば、人々は争って「私こそ真の弱者である」と叫びたて、「お前なんか『真の弱者』じゃない」といって他人の権利請求を棄却しようとする。
自分がいかに迫害され、疎外されてきたか、親により学校により社会により、能力の開発を阻まれ、健全な成長の機会を奪われてきたか、その結果自分がいかに無知で非倫理的で、社会的に無能な人間になったかを人々は「競って」ショウ・オフするようになった。
その方が「リソースの配分率がいい」という信憑が瀰漫したからである。
愚かなことである。
弱者に支援が提供されるのは、弱者の定義が「生き残ることが困難な個体」だからである。どのようなアファーマティヴ・アクションも本態的な弱さをカバーすることはできない。
目先の「利得」の競争的配分に目が眩んで、人々は「生き残ることに真に必要な人間的資質」の開発に資源を投資することを怠るようになった。
PS どうせフリーターの怒りの声を載せるのであれば
「筆者も講師といういわば有期の契約社員なわけで、フリーター予備軍のようなもんじゃないか。」
くらいのつっこみを入れてほしかったところです。
そうしないと議論が広がらないですよね。