先日の新幹線道中2冊目。
絵本作家・画家の佐野洋子さんのエッセイは面白い、よく書評にも書いてあったのですが、初めて読みました。
そして、期待通通りの面白さでした。
執筆当時63歳~65歳の作者が
物を忘れるたびに「ついに(痴呆が)来たか」と思い、
88歳で痴呆症の母親を見舞い、
(北軽井沢に住む作者の)ご近所の農家からもらった野菜に感動し、
テレビ番組を見てむかつき、
過去の自分のを思い出して赤面し、
お気に入りの料理が友達に受けなかったといってくやしがる
そんな日常の喜怒哀楽、「歳を取ることのミもフタもなさ」を、気負いなくかつ鋭い観察眼で、過激にかつあっけらかんと語っています。
多分この面白さは、作者の視点が高みから「これが正しい」とか「これは面白い」と語るのではなく、等身大から発せられた温かい視線(や、ただの文句)からきていると思います。
どこか宮澤賢治の「眼にて云う」にも通じるものがあると思いました。
日々飯を食い、糞をたれ、眠った。
こう、あっけらかんと書ける、そこを原点にできるというのが、この作者のすごさなんだと思います。
ふと思ったことですが、(たとえテレビに向かってであったとしても)文句を言ったり、逆に文句を言われたりしているうちは、人間は孤独ではないのではないか。
そして人が孤独でないところでは、神も仏も必要はないのではないか、と。
逆に「文句を言ったり言われたり」とか「飯を食い、糞をたれる」という世界から離れ高い視座に立ちたい、と思った瞬間に人間は神や仏を必要とするようになるのではないでしょうか。
PS
最近、固有名詞を思い出せないどころか、思い出せないことをヤバいと思わなくなってきたのですが、これって相当マズいですよね・・・