一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「責任」の混乱

2006-11-17 | 余計なひとこと

(追記あり)

相次ぐ校長自殺で衝撃広がる 「敵前逃亡」と批判も
(2006年11月15日 08:16 産経新聞)

相次ぐ校長の自殺は異常事態ともいえるが、メンタルヘルスに詳しい常楽診療所(東京都足立区)の日向野春総(ひがの・はるふさ)所長は「校長は組織上頂点にいるが、実態は中間管理職。生徒や保護者、そして教育委員会の板挟みで、頭を痛めている校長は多い」という。  

ただ、いじめに悩む児童・生徒の自殺に歯止めがかからない現状のなか、教育関係者の間では「先頭に立って難題と向き合うべき校長の自殺は、やはり許されるものではない」という声が支配的だ。  

三好祐司全日本教職員連盟委員長は「死者にむち打つつもりはない」としたうえで、「難破した船内で船長自らが逃げ出すようなもの。卒業に赤信号がともった生徒からすれば、敵前逃亡に等しい。生徒第一に考え、教育者として範を示してほしかった」と厳しい。

やりきれない話ばかりの今日この頃ですね。
組織の責任と個人の責任、死者への鎮魂と免責について、不謹慎かもしれませんがちょっとした思考実験をしてみました。



日本教職員連盟などが、在職中死亡した教職員を祀る「教員神社」を建立したとしたらどうでしょう。


教員としての責任を果たさずに、生徒間のいじめを放置して生徒を自殺に追いやったり学習指導要領に従わず未履修問題を起したあげくに自殺した教員を神として祀るのはおかしいのではないかという批判に対しては、つぎのような答えが用意されるはずです。

日本では昔から八百万の神々を祀るという風習があり、亡くなった人々も神として祀る神社が各地でつくられていた。 その意味では、教職にその身を捧げて死んでいった人々を慰霊するための神社があるのも当然のことである。
さもなければ、誰も教職のために一身をささげようとは思わないであろう。
「教員神社」に祀られた人が在職中になしたことの評価は見方によって分かれるであろう。
しかし、その人が教職に一身を捧げたという事実は穢れのないものであり、その御霊を祭るという行為自体は何等非難さるべきものではない。
いじめや未履修は由々しき問題であるが、それが死亡した教職員個々人に帰すべきものはない。本来の責任は、学校や教育委員会を追求すべきである。

では、もしこういう神社があったとした場合、皆さんはこの神社に文部科学大臣が参拝することは適切でしょうか?


漠然とした印象ですが、「責任」という言葉の中に「果たすべき役割」と「過去の行為(または不作為)に対する評価」と「法的責任」の意味が含まれ、混乱しているように思います。

それはいろんな問題について起きがちなことなのかもしれませんが、問題が大きく深刻であるほど、入り口で混乱している暇はないと思うんですけど。

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(追記)

コメントをいただいたSwindさんが「『責任』はあいまい」というエントリで詳しく分析されていますのでこちらもご参照ください。

コメント (2)
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