小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

出逢いと別れの季節~島の春

2021年03月30日 | 母島 日常 日記
■毎年、この時期の思うことですが、島の春はまさに出逢いと別れの季節です。
3月後半の出港は、一緒に島で過ごしてきた家族や先生、子ども達の出発が相次ぎます。

例年だと4月最初の便で来る新しい先生たちも、
コロナに配慮してでしょうか、昨日の入港で来島しました。

寂しいけど、元気で次の土地で楽しく過ごしてほしいし、
島に来た新しい仲間は、存分に島暮らしを楽しんでほしいし、
先生も子供もたちも新しい出逢いにドキドキワクワクしています♪

そんな出逢いと別れの春に樹冠を見事に飾る花があります。
ビーデビーデ(でいごの花)が咲き乱れている母島の春です♪

※ちなみに以前ムニンデイゴと呼ばれていましたが、
DNA解析で沖縄のデイゴと差異がないないことが分かり、
固有種ではなくなった経緯があったと思います。

なんだかちょっぴり寂しいです(*^_^*)



■そんな見送りの前日です。
同年代島仲間(昭和55年会)とみんなで眺めた夕陽。

この世代仲間はみんな仲良しで最高の友人達です(*^_^*)

大人も子供も誰も夕陽を見てなくて(笑)、
ああだこうだ言いながら大笑い。


そんな最後の黄昏時をみんなと過ごせて、
あったかいひと時を過ごしました♪

仲良かった人と別れるのは寂しいけれど、
またそれぞれの旅路の先で頑張っていると思えるだけで、
こっちも頑張れます。

また島で、
また内地で、
元気な顔で再開しようね(*^_^*)

明日の便で母島を離れてしまう同世代夫婦ファミリー。
母島に赴任した直後から、ほんと親子でいっぱい遊んだね☆

いっぱいいっぱいありがとう♪
ついに昭和55年組はオリジナルTシャツを作り、
お別れの夫婦にプレゼント☆
最高の仲間たちです(*^_^*)


■港に向かうみんなの手には美しい花が飾るレイが。
お別れの日です。

サッカー部は恒例の胴上げ★

みんなに沢山の言葉や餞別、レイをもらい、涙涙のお別れです。

いってらっしゃい!!

今日のみんなの見送りダイブ。
子ども達も先生も島民も飛んでます♪

内地に行っても元気でなぁ!!
身体を張って、気持ちを表現する見送り。
僕が大好きな光景です(*^_^*)

次女は大好きなお友達を見送る為に、
大岸壁から初の前転ダイブ(ファイヤーバードスプラッシュ!?ローリングセントーンかw)
※見送り船の上から撮影しました☆

こないだまで一緒に見送りで飛んでいたのに、
今度は見送る側と見送られる側に分かれるのです。
そして、月日が経てば、今度は自分も見送られる側になります。

島で一緒に過ごした時間はとてもかけがえのないものだったでしょう。
またいつか、内地や島で再開した時にどんな話ができるのかな(*^_^*)

大笑いしながら、夕陽なんかそっちのけでシャボン玉をしたね。

実はこっそり、お互いの将来の話なんかもしたりして。


お互い、元気で過ごしていきたいね☆


僕と妻は飛び込んでる次女を尻目に、
真漁丸の見送り船に乗せていただきました☆


先日の見送り船帰りの子クジラちゃん。
元気に跳ねて、顔出して、大忙し♪

大海原を見渡せば、あんなにも沢山いたザトウクジラも少し減ってきた気がします。
そろそろ北の海に向かう頃ですね。

この冬生まれの子どもは、いつも元気に跳ねています。

小笠原を離れて、島のどんな景色を思い出すのかな?

小笠原に初めて来た人たちは、どんな景色に見えるのかな?

そんな出逢いと別れの母島の春、真っ最中です(*^_^*)

子どもたちと原生林・石門を歩く

2021年03月21日 | 母島 暮らし 子供
■先日、次女のいる母島小学校の5年生+先生と石門に行ってきました♪
いわゆる、1年間の感謝を込めたクラスレクみたいなものです(*^_^*)

石門は母島に残された原生林が残るとても貴重な場所です。
固有の植物やマイマイが多く生息していて、
ガイドなしでは入山をする事ができません。

なんと5年生の保護者には、そのガイドの資格を持った保護者が複数います☆
今回はよく山の植物の仕事で石門に通っている保護者さんと、
僕の2名が案内役として同行しました。

父島よりも100m標高が高い母島。
その高さの為か、乳房山も石門も雲霧帯と言われる、
湿気を帯びたよく霧みたいな雲がかかるエリアが山の上一体に存在します。

そのエリアは特に固有のマイマイも多く、
苔やシダが周囲を覆っている、
とても幻想的な雰囲気を作っています。

僕は食べられない植物は全然詳しくなく、
道案内はできるけど、植物の詳しい案内はできません。

もう一人のガイド役のYさんは、植物の保全の仕事もしていて、超詳しいのです♡


■普段の島の子は中学3年生になるまで、石門に行く機会がありません。
今回は保護者にガイドがいるので、特別に5年生で石門に行ってしまうという幸運に恵まれたのです(*^_^*)

石門は原生林の為に森の雰囲気が特別です。
終点にはラピエと呼ばれる石灰岩質の大地が広がり、
絶景が望めます♪

5年生の年頃でみんなでここに来れたのはとても良かったです(*^_^*)
歩きながらああだこうだ楽しいお喋りをしながら歩くのも最高でした☆

先生も初めての石門。
とても楽しめた様で、本当に良かったです(*^_^*)

■石門の貴重な植物を少し紹介したいと思います。

こちらがヒメタニワタリです。

この冬の長雨のお蔭で過去にないほど大きくて元気な姿を見せてくれました♪

母島と北大東島、中国の海南島にだけ生息している激レアな可愛いコです(*^_^*)

(1)分類
シダ植物 チャセンシダ科
ヒメタニワタリ
学名  Hymenasplenium cardiophyllum
絶滅危惧ⅠA類(環境省第4次レッドリスト)
(2)分布及び個体数
小笠原群島の母島と北大東島、中国の海南島に分布する。
小笠原諸島の母島石門に2ヶ所、数十株が生育。
このほか、北大東島でも50株程度の生育が確認されている。
もともと個体数が少なかったが、採取により著しく減少し、かろうじて残存している状態である。
※環境省のページより


こちらはセキモンウライソウ。

これは石門の遊歩道の終点付近の石灰岩地域にだけ生息する貴重な植物です。

セキモンウライソウ(石門セキモンウライソウ(石門烏來麻)
Procris boninensis
イラクサ科 ウライソウ属
草丈50~60cmの常緑多年草。

近縁種はアジア熱帯域やアフリカに分布するウライソウ(烏來麻)と考えられているようです。

烏来(ウーライ)という言葉は、もともと台湾原住民のタイヤル族が多く暮らしていた地域の名前で、
タイヤル族の「温泉」を意味する言葉が由来だそうです。

今回は可愛い花を咲かせていました(*^_^*)


こちらはユズリハワダン。

Crepidiastrum ameristophyllum
キク科アゼトウナ属
小笠原の固有種で高さ1mほどの常緑小低木。
小笠原にはキク科で木本化した植物は本種のほかワダンノキ、ヘラナレンがあります。

個人的にとても好きな植物で、
茎は伸びていくときに葉っぱが落ちてどんどん先を譲って伸びていくことからこの名がついたようです。

こちらはマルハチ。

小笠原固有種でそこいら辺に生えていますが、実は大のお気に入り。
茎に八の字を逆さにしたような跡があるからついた名前ですが、
このネーミングセンスは素晴らしいと思います♪

こんな握りこぶしより大きな巨大なゼンマイの様な芽を出します。
これは食用にできるのですが、成長点を裁つと枯れてしまうので、お勧めしません。

切り株にこんな可愛い植生が生まれたりと、
石門は雰囲気のある素敵な原生林なのです(*^_^*)


終点付近には固有種のオガサワラグワの枯れ木が幾つも存在します。

オガサワラグワは普通の蚕に使われるシマグワが固有化したもので、
成長がとてもゆっくりで、すごく固くていい高級木材になります。

その為に乱獲されたこと、
シマグワが小笠原に導入されたことで、オガサワラグワと交雑してしまい、
野生下では純粋な繁殖が出来なくなってしまい、
現在保全の対象になっています。

樹齢が2000年を超えるものもあったそうですが、
石門の崩落により、その大きな切り株は見れなくなってしまいました。

こちらはシマオオタニワタリ。

これは固有ではなく、広域分布種ですが、大好きな植物です。
新芽はお浸しや天ぷらに適しています☆

上を見上げれば、こんな景色のルートです・

子ども達はこの雰囲気の景色を当たり前に歩いていますが、
凄い事なのです(笑)。

きっと島を出てその価値に気付くことと思います。


■通りすがりにも貴重なマイマイに会えました!

子ども達が「水まんじゅう」と呼んでいる(笑)、
オガサワラオカモノアラガイです。

小笠原の生き物を語るうえで欠かせないのが陸産貝類(カタツムリ)です。
もともとの祖先は流木や気流などによって運ばれ、
その後、小笠原の環境の中で種類が分かれ、
それぞれの場所で固有化したものが多いのです。


とにかく、子ども達はこれを見付けるのが上手いです!!
なんと30分くらいの間に7匹も発見しました。

大人は叶いません(笑)。

こんな森の中をどんどん歩いて行きました。

■途中の境ヶ岳に登って、絶景を望みます。


子ども達はほぼ6時間の行程を全く苦にすることなく、
下山した後はさっさと遊んでおりました。
恐るべき体力ですね(*^_^*)


石門の終点付近にある石灰岩質のエリア。

ここは大昔は海底であり、サンゴが作った地質なのだそうです。

見事な鍾乳洞もあるのですが、
崩落の危険があり、現在は立ち入りを禁止されています。

その石灰岩質が雨などで浸食されて、尖ったラピエと呼ばれる岩になります。

溝状の微地形をドイツ語でカレンKarren,
フランス語でラピエlapiésというそうです。

終点でお弁当を食べてからは、東港を望む絶景ポイントへ。

足元はラピエで危ないのですが、
子ども達は難なくクリア。

この景色がゴールというのはあまりに最高過ぎますね(*^_^*)

歩きながら先生と深い話や、
あまりにくだらない話などをして盛り上がりました(笑)。

最後にこの素晴らしい企画をしてくれた保護者さん、
案内してくれた植物のエキスパートのYさん、
工程を最高に楽しくしてくれた子供たちと先生、
お邪魔させてくれた大自然に感謝です!

どうもありがとうございました(*^_^*)

40歳。亡き父を超える齢を迎えて

2021年03月14日 | 家族
■先日、ついに40歳の誕生日を迎える事が出来ました。
沢山の方にお祝いの言葉をかけてもらい、とても嬉しかったです♪
みんなの存在が本当に有難いです(^^♪

とりわけ、家族に言われるのが、じんわりと嬉しい年頃になってきました(*^_^*)
本当にありがとうございます☆

そんな誕生日でしたが、慌ただしい1日でした(笑)。

母島に残された原生林、石門に次女のクラスと先生を案内する役(5年の保護者はガイド資格を持っている人が複数います!)、
夜は東京11島が集まって話をする母島部活動のイベントの主催。

朝から夜までバタバタの誕生日ですが、とても充実していました(*^_^*)

ヨガの不久先生に教わったことですが、
「有難い」の反対は「当たり前」だそうです。

今日も1日、無事に過ごせるのは当たり前ではなく、
有難いものであると感じさせられます。

本当に有難うございます(#^.^#)


■人生80年と言われる時代ですが、
その折り返しでもある40歳。

僕には大きな意味のある年齢でした。
それは、父が亡くなった39歳という年齢を超えるからでした。

父が生きれなかった年齢を生きる。
これがひとつの目標というか、目安でした。

別に長生きしたいとは思ってはいませんが、
次の目安は母が亡くなった55歳というのが目安です。

年々、持ち前の忘却力が日々進化する中(笑)、去年に自分が39歳を迎えた時に書いた記事を思い起こしてみました。
全然覚えていませんでしたが、亡くなった父の事を書いていました。

今回は僕が生まれた頃のことを記してみようと思います。
実は出生直後に死にかけていたのです。


■僕は昭和56年3月に仙台で生まれました。
確か河原町にある松永産婦人科で産声をあげたのだと思います。

母から聞いた話では、
とにかく朝早くから掃除とかをしていて、
陣痛が始まったから、自転車で産婦人科に行ったら、先生に怒られたと言っていました(笑)。

そりゃそうだ(笑)。
これからお産って人が自転車で来るのは、非常識でしょう(*^_^*)。
自転車で病院に着いたときにはすでに、頭が少し出かかっていたといいます(^_^.)

これも母から聞いたうる覚えですが、
出産予定日は5月だったけど、急に早まって3月生まれたから、未熟児だったというのです。

ってことは妊娠32週頃に早産で生まれてしまったということでしょうか?

出生体重が2200g。
これはかなり小さいし未熟児です。
すぐに保育器に入れられたそうです。

問題はその後です。

なかなか経過が厳しかったらしく、
ドクターから死の宣告を受けたそうです。

早く生まれて、助からない、と。


■しかし、そこはさすがうちの母親です。
「じゃあ、自宅で看取ります」と言って、病院を退院し、
超小さい僕を家に連れて帰ったそうです。

そして、諦めずに、ストーブをガンガンに炊いて、
部屋を暖め、蘇生を促したそうです。

すると、次第に元気になったというのです!

あの時、ドクターの言うままに任せて、諦めていたら今の僕はいないのです。
母の諦めの悪さのお蔭で僕は命拾いできたことになります。
感謝ですね♪

先日、仙台の祖母から連絡がありました。
まだこの生まれる時の母の行動を知らないなら、
伝えなくちゃと思ってくれていたとのこと。
本当にありがたいです。

祖母ももう90歳直前ですが、
スマホにFacebookデビューと、
新しい分野に果敢に挑んでいて、本当にカッコいいと思います☆


■1歳年上の姉に可愛がられながら(記憶の範囲では可愛がられた記憶はないですがw)、
その後はすくすくと育ったようです。
父と母は色々折り合わずに、
僕が保育園の年長の時に離婚してしまいます。
(僕が離婚というのを理解したのは小学5年生の頃でした)

小学校1~4年の僕はしょっちゅう熱と便秘に悩まされる、
病弱児だった記憶があります。

母が子宮癌で倒れて、
僕と姉が父の元に行って、
そこで気管支炎喘息をこじらせるまで、
僕は野菜が嫌いで、病弱でした。

丁度、母の入院ということもあり、
きっとストレスがかかったのでしょう。

僕は気管支炎喘息と動物タンパクアレルギーになりました。
夜はよく呼吸困難(チアノーゼ)状態になり、
とても母親に心配をかけたようです。
寝ていると顔が紫になって苦しんでいたので、
気が気じゃなく、心配でよく寝れなかったと言っていた気がします。

母が癌の手術後に、
僕と姉を迎えた後は、
何故か嫌いだった野菜を食べるようになり、
身体がメキメキと丈夫に、大きくなっていきました。

祖母と一緒の僕

■今でこそ身長は176㎝、体重は準ヘビー級となりましたが、
未熟児とは思えない生育ですよね(笑)。
決して大きくない両親でしたので、いつの間にか親を超していました。
遺伝ってなんなんでしょう(笑)?

ほんと、沢山の人に支えられての今があると思います。

自分の娘二人も決して大きく生まれたわけではありませんが、
今こうして無事に立派に成長してくれています。

当たり前に思えますが、
本当に奇跡で有難いことだと思います。


唯一の兄弟でもある姉は、
現在も仙台で元気に過ごしているようです。
高齢の祖父母の家にもよく通ってくれています。

まさに年子の姉は、
小笠原に移住してしまった僕とは真逆の生活をしているようですが、
母がカナダで危篤になった時にも一緒に行きました。

子供の頃は喧嘩の様な記憶しかありませんが(笑)、
お互い、子どもを持つ身になって大人になると、
今はよき同志になっている気がします(*^_^*)


■最後に現在カナダの高校に留学している長女から、
嬉しい誕生日メッセージを頂いたので、ここに載せちゃおうと思います。

*お父さんついに40歳*
東日本大震災から10年。。。
あの日私は小学1年生が終わるころだった。
夜は消防団員である父が避難所に駆けつけたり村の支援をしにいっていて、
父に何かあったらという不安と初めての大きな地震への怖さに妹と母と薄暗い明かりをつけた部屋で布団にくるまって寝れないでいた。
その翌々日は父のお誕生日だったがもちろんそんなことがあったばかりで対してお祝いができなかったのを覚えている。

そんな10年前、慌ただしく30歳になった父が日本時間でー昨日の3月13日に40歳を迎えた。
我が家の親は少しどころか結構変わっている親である。

さらに母島の私の学年の親の中で1番若い父親と1番(お年寄り、というときっと怒るから)年長な母親なのである。
私の両親はぴったり10歳の年齢差があり、父が23、母が33のときに私が生まれたそうだ。

年上の母の話は置いておいても、若い父親を持つと親の年齢の話題になるたびに誇らしかったものである。
特に周りの親が40代の頃父は30代だというとよく驚かれたものである。
そんな父がついに40代の入り口に立ってしまった!

これでもう親の歳でそれほど誇らしくはなれないのだろうかと思うと少し寂しいが
父が父の父親が亡くなった年齢である39歳を無事に終えて40歳になれたのだと思うと
娘ながらもなんだか感慨深くめでたいものだなあと思う。
今年の誕生日は父は宝島事業、山ガイドと40代の体力にはハードな予定があり😂、リアルタイムで電話はできなかった。
でも、そこで元気に生きていてくれるだけでいいのだ。

特にこんないつ誰が倒れるかわからないご時世で、無事に笑顔でいてくれるだけでもう十分嬉しい。
父は人がだいすきで積極的にご縁の輪を次から次へと繋げて、みんなの笑顔を回してくれる笑顔のバトンランナーだ。
内地からの定期便に頼りきった島で持続可能な暮らしを目指していて、いろんなものが近代化された現代で
1人ガラケーのままノネコや野鳥を助けるため野山をかけまわりながら、
農薬を使わず堆肥や古くからの農法や知恵をつかい、その土地にある土の質をあげることで
小さいけれど甘くて美味しい人参やトマト、美しいローゼルやオクラを作る素敵な百姓でもある。

伝えたい父の魅力は沢山あるし、感謝していることも数えきれないほどあり、
逆にださいな、もっとこうしたらいいのにって思うところも勿論ある。
だって人間だものね。
でも、やっぱり彼を父親として育つことができて世界一幸せな娘だといつも思う。
そして前側はビールっ腹になりつつはあるものの、やはり野山で鍛えられたその逞しい背中をとても尊敬している。
お誕生日おめでとう。

素敵な光でいっぱいの一年でありますように!
2021年3月13日 
カナダ バンクーバー時間 お父さんの誕生日に。


なんだか、
長女には沢山の大事なものが伝わっていて嬉しいです。
ありがとう☆

そうか、若い父親というのは誇らしいものだったのか(笑)。
まったく自覚がなかったです(笑)。
確かに同級生の男子では僕は親になるのはトップバッターでした。

親の自覚はある程度はあるのですが、
大人の自覚は未だにございません(#^.^#)

僕は間違いなく立派な完全な大人ではないけれども、
人として大事にしたい、大事にして欲しい部分を、
長女はすでに持っていると感じます。

学校の成績やいい学校、
いい企業に就職するよりも、
もっと大事と思っているものを彼女は小さなころから身に着けていました。

僕が同じ年頃の時代には、持てなかった目線です。
(高校生の頃は生徒会長とかはしていましたが、基本アッパラパーです★)
だけど、僕が高校生の頃は話ができる父親はこの世にいませんでした。

17歳の長女とこうして色々話せるまで生きられたことも、
本当に奇跡で有難いことですね。

そんな高校生の娘からもらった言葉が、
とっても嬉しい誕生日でした♪



 


子供の遊ぶ場所

2021年03月06日 | 母島 暮らし 子供
■母島で見る「ゆり丸」が小笠原最終航海を迎える頃、
母島の前浜で壮大な芸術作品の数々が姿を現しました。

島の子供達が何時間、何日もかけて、
石や流木を集めて、
様々な秘密基地(秘密なのかw?)を作っていました。

普段、子ども達が小型のゲームばかりやっていて、
なんだかなぁと思ってる親たちも、
これにはとっても微笑ましく眺めています♡

僕も畑に向かう通りすがりで、
活き活きとした子供たちの芸術作品の建設風景に出逢い、
嬉しくて、感動をして、沢山写真を撮りました。

これはなあに?と聞くと、一生懸命説明してくれます。
「これは巨人のトイレ!」(笑)
「ひみつの落とし穴!!」←秘密ぢゃねーぢゃん(^_-)-☆
などなど

なんて自由な思い思いの作品ばかりなのだろう(*^_^*)
保育園児から小学6年生までが一緒になって作っているこの光景が、
たまらなく愛おしい♡



■しかし、そんな親や子供の笑顔の裏側で、
こんな話が学校の朝礼でされたそうです。
「子ども達が前浜に作ったやつ、ウミガメの産卵の邪魔になるので、すみやかに片付けて下さい」

そして、朝礼後の子供達の反応。
「なんで!?ウミガメの産卵は今の時期じゃないじゃん!(夏です)」
その日は雨だったので、その翌日に先生も一緒に前浜の芸術的なオブジェは早々に撤去ということになりました。

納得いかない、子供達は思いっきり憤慨します。
もちろん、親もです。
うちの次女ももちろんです(*^_^*)

これには大人の事情があったようです。
島民から、ウミガメの産卵を理由に苦情があったようです。

学校はそのまま子供達に伝えた様で、納得がいかなかったようです。

確かに、前浜は公の場所です。
誰かがそこを利用したら、片付けるのが筋です。
そこに1ミリも反論はないと思います。

しかし、そこにもっと道徳的に配慮して子供達に伝えれなかったのか?と思いました。

これは学校にも伝えた事ですが、
まずは島民に言われたことをそのまま子供達に伝え、
しかも“先生も一緒に片付けた”というのが、とてももったいない所に思えました。

僕が先生ならば、
まずは子ども達のその芸術性の高さを思いっきり褒めます。(実際に感動したし!)

そして、前浜は公共の場所だし、野生動物も人もみんなが使う所だから、
今は冬で子供以外誰も使ってないからいいけど、
1週間くらいしたら片付けようね。
あんまり大変なら俺も手伝うよ。
と、言ってます。

そして、
苦情を言って来た島民の言葉を鵜呑みにするだけでなく、
しっかりと当事者と対話し、
できれば子供たちとも話す場を作って、
お互いの気持ちを確かめる作業をします。

それこそが道徳なのではないか?と思うのです。
教科書だけでなく、リアルないい機会ではないのか?と思うのです。
勿体ない機会と感じました。

先日の次女の学校の保護者会でもこんな話題がでました(*^_^*)



■現代の様に車も多くなり、安全管理を謳われる前は、
もっと子供達は自由に遊んでいました。

僕の子どもの頃過ごした、仙台の八軒小路も、
裏路地には車の通らない細い道があって、
子供達はボール遊びや、道路に落書きなど、
自由にのびのびと遊んでいました。

母島でも子供達は自由に海に川に山に遊んでいて、
先輩に習いつつ、
先輩も「この子なら大丈夫」と判断して、少し危険な場所に後輩を連れていき、
遊びの伝授をしていました。

転勤でいきなり島に来た子や、
島っ子でもその場を乗り切るには能力が足りないと思う場合は、
誘わなかったそうです。
さすが、島っ子。
素晴らしい判断だと思います。

しかし、月日と共に安全管理、責任が問題となり、
子供が勝手に遊ぶよりも、
安全で楽なゲームやTVで遊ぶように親も誘導して来たと思います。

“何かあったら”そんなキーワードで、
子供達はどんどん窮屈になってきている事実は否めません。

これも核家族化が進む現代では仕方がないかも知れません。

公園しか子供の居場所がないというのは、
あまりにも寂しい気がするのです。



■小笠原は有難いことに大自然に囲まれて、レジャーランドなんて皆無です(笑)。
昔に比べて、子ども達は自由に自然で遊ぶのはしにくくなってはいると思います。

もちろん、ゲームや漫画にふける姿も目にしますが、
夏場は圧倒的に子供達は海で遊んでいます。

やっぱり、
あの気持ち良さ、
楽しさ、
そして、
少しの怖さ、
スリル。

子供達は色んな失敗を重ねて成長し、
生きるすべを遊びから見出していると思います。

大人はそんな子供の学ぶ場所を奪っていないか?
少し考える機会かもしれません。

自分が子供の頃、
どんな事でワクワクしたのか思い出してみませんか?

僕は近所の堀の近くで作った秘密基地、
広瀬川で遊んだ堰(せき)の周り、
5階建てマンションをフルに使った水鉄砲大作戦、
色んな事を思い出しました。



もちろん、小学校高学年からゲームや漫画に没頭しました。
大人が子供を楽しませるために考え出した娯楽は楽しくないわけはありません。

だけど、大人の及ばない子供の創造の世界も、
ワクワクして楽しいものであるという事実。
この場所を大人は残していかなければいけない気がしています。

あの頃は後先や責任なんて考えず、
好奇心と野望の赴くままに、突き進んでいました(今も変わらない!?w)


■返還後にPTAで植えたという前浜のココヤシ。
40年前頃の写真を見ると、大人の背丈くらいの背の低さです。

このヤシたちがずっと眺めてきた、島の子供達の遊び。
時代と共にどんな変容をしてきたのでしょうか?

昔の前浜は漁師がカヌーでカツオを獲って来て、
水揚げする場所でした。

その頃と今は変わらず活き活きとしているでしょうか?


昔も子供の遊びにとやかく言う場面はもちろんあったでしょう。
放っておくと人様に迷惑をかけることになりまくりです。

昔は大人が日常の仕事が忙しすぎて、
子供の遊びを眺めている暇はなく、
子供の年上がみんなの面倒を見ていた時代です。

今とはまた違う生活のスタイルですね。
昔に戻れとは思いませんが、
昔を参考に、より良い今を作って行ければと思います。




■最後に3月は島のお別れシーズンです。
コロナ禍の今年も、この春に卒業したり、親の離任で島を離れる子供たちがいます。

母島で過ごした時間は、
間違いなくかけがえのないものになります。

内地で暮らして、
どこか人間らしさを見失ったときに、
母島での生活を思い出してほしいです。

当たり前にすれ違いで挨拶する風景、
多年齢で遊ぶこと、
親ではない他の大人に叱られるということ、
思いっきり飛び込める海があるということ、
自然にはたまらない魅力があり、敵わないと思い知らされること、
そんな事を忘れないでほしい。

先日、子供フラのお別れ会で、子ども達の可愛いフラを眺めてそう思いました。

改めて、こういう場を支えてくれる島の大人たちの姿勢に感謝です。

こういう環境ですくすくと母島の子供達は育って行きます。
それと同時に大人達も育って行きます。

いつまでも、
こんな人の為に自分の時間と労力をさけることを厭わない地域であり続けたいものです。

みなさん、本当にありがとうございます。