小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

初めてのお産 ~二人の娘たちへ③ 長女誕生編

2020年11月03日 | 娘たちの誕生物語
←その②、前回の続きです。 

10月中旬のとある日の朝早くに、妻が叫びました。
「起きて!破水した!!」
そこからついにフィナーレともいえるお産が始まりました。

その時4時過ぎ頃だったと思います。
僕は起きていたのか、飛び起きたのかは定かではないですが、
速攻でタクシーとファン助産院に電話し、
予め用意していた着替えなどのお産セットを用意したはずです(あまり覚えてないw)。

ちなみに破水というのは、
子宮の中で赤ちゃんと羊水が入った卵膜が破けることです。
赤ちゃんは母親からへその緒を伝って酸素や栄養、水分を得て、
その後、羊水として排出しているそうです。
赤ちゃんは子宮の中で羊水を吸いながら、どんどん体を成長させていくそうです。

陣痛が先か、破水が先かは人によるようですが、
妻の場合は破水が先で、そこから陣痛が始まったようでした。

予想はしていましたが、
案の定テンパっていた証拠に、あまりその時の詳細を思い出せません(笑)。

妻は陣痛の周期で、動ける時、動けない時があり、
ベランダからタクシーが到着したのを確認し、降りました。

ベランダから「お産です!よろしくお願いします!」と叫んだのは覚えています。

生まれるまで写真を撮る余裕なんて微塵もないので、生まれるまでは母島の景色をお楽しみください(笑)。

■タクシーの中でも陣痛の周期で苦しむ妻をさすります。
何故か片手にミカン(笑)。
これ、なんか強烈に覚えていますヽ(^o^)丿

気付くともうファン助産院に到着していました。

助産院の産むお部屋はなんと2階!!
陣痛で苦しむ妻は陣痛のON・OFFのタイミングを一気に階段を駆け上がります。

最初、助産院を訪れた時に、
この階段を上がれるのか!?と思いましたが、
「みんなここを登れるものなのよ~」という、
杉山先生の笑顔で「あ、そうなのか」と思わされました(笑)。

そんな階段をタイミングを見計らい、一気に駆け上がり、
お産の部屋へ!



■お産の部屋では妻は自由な体制で、
だんだん陣痛の感覚が短くなってきます。

陣痛は子宮の赤ちゃんを出そうとする収縮なので、
当然、母体も赤ちゃんもキツイ様で、
ずっとは続かず、
断続的にいきみ、休憩、陣痛と続きます。

陣痛の間には、休憩があり、
予め用意していた高カロリーの一口チョコレートとプリンを妻は食べ、
水分補給などをします。
(長い入院生活で体力が衰えているのを実感して、用意した妻、さすが!)

杉山先生、助産師さんは、さすり、声をかけ、
赤ちゃんの心音を聞き、常に母と子の状態を気にかけます。

陣痛と陣痛の間は、
休息があり、その間はみんなが無言で静かに待っている感じです。
妻はその時、ショートコントみたいな夢を見ていたらしく(笑)、
陣痛で我に返ると、周りがみんな真剣な顔で「あ、お産だったんだ(笑)」と思うほど、
陣痛の間は最高にリラックスできていたようです。

妻は横になったり、
四つん這いになったり、
天上からの太い綱に掴まったりと、
自由に体制を変えます。

その間、僕も妻の体を支え、栄養や水分を補給させます。


■そこで皆さん!知っていましたか?
お産の時のメインは誰がどう見ても、母親とその赤ちゃんです。

立ち会いをしている夫なんて、もちろんほぼアウトオブ眼中です(笑)。

妻がみんなに気を遣ってもらっている、食べ物や排せつのIN・OUTは超自由ですが、
立ち会っている僕はそんな事を言い出せる雰囲気でなく、ひたすら我慢なのです(笑)。

赤ちゃんが生まれるまでの8時間くらい、僕は飲まず食わず、トイレ行けず(笑)。
しまいには最後のいきみで妻に手を噛まれ、
出血し、お産で僕まで体重が3kgも落ちてしまいました(笑)。

お産の最中は周りに気を遣わせるのを最大限ないようにして、
とにかく無駄な動きはしないようにと心に決めていました(*^_^*)

これは完全にネタとして、その後ネタとして使える武勇伝になっています。
頑張ったぞ!俺!!←誰か褒めてw


■そんなこんなで、最後は妻は仰向け気味になり、僕が後ろで支える形でお産となりました。
助産師さんは妻の会陰を抑え、
赤ちゃんがゆっくり降りてくるのを呼吸といきみと状態に集中し、
静かに声をかけて行きます。

お産のの部屋は優しい照明で、薄暗い感じで、温かく、
ずっと4~5人くらいで集中していました。
めっちゃアットホーム。
でも集中している、そんな感じでした。

赤ちゃんは少しだけ頭の先を覗かせます。
髪の毛だけが見える時もありました。
一番大きな頭を必死に産道を通り抜けようと、
何時間も頑張っています。

先にも書いた、僕が出血した妻に手を噛まれながら、
最後のいきみがあり、
頭が出た!と思ったら、するっと赤ちゃんが生まれてきました。

この時初めて赤ちゃんの性別を知りました。
今まで、エコーで知ることはできたのですが、夫婦でずっと生まれるまでの楽しみにしていたのです。

初めてこの世に生まれた長女は、
すぐに産声を上げるわけでなく、ぐったりとしていました。
確か、へその緒を1回首に巻いていた気がします。

すぐさま、助産師さんが赤ちゃんをさすり、口から羊水を吸い出したような気がします。
そうしたらか細い声で「おぎゃあ」と泣いたのです♪

その瞬間、元助産師の妻は時計を見上げ、正確に時間を読み上げます(そこらへんさすが!)。
ようやくホッとした瞬間です。

会陰切開もなく、無理な促進剤も使わない自然なお産なので、
大した出血を見た記憶もありません。

むしろ僕の方が噛まれて出血したかもしれません(笑)。
あと、足は妻を抱えて超しびれていて、トイレもずっと我慢で満身創痍でしたが、
生まれた瞬間にすべてを忘れました(笑)。


■その後は胎盤を出す後産があったはずですが、まったく覚えていません(笑)。
生まれて、ほんとうに、ほんとうに小さな赤ちゃんは、ちゃんと生きています。

小さな指に爪だってあるし、
目も鼻も口もちゃんとあるんです。

当たり前なんだけど、本当に奇跡なんだなと感じました。
ここにあるすべてに感謝の気持ちが溢れてきます。

へその緒が繋がったまま、まずは母親のおっぱいを飲ませます。

今まではへその緒を通してもらっていたものを、
今度は母親から母乳としてもらうのです。

このメチャクチャピースフルな雰囲気、忘れられません。

急な搬送、永遠に思えた絶対安静の入院生活、
退院後は足腰が弱って、リハビリの様な助産院に通う毎日。

こうして無事に生まれて来てくれて感謝です♪

胎盤が出たのが先か、へその緒の動きが止まったのが先か覚えていませんが、
僕がへその緒を切りました。

今まで、親からもらった桐の箱のへその緒が、
なんで長いものではなく、短いのかここでようやく理解できました。

この切った部分から、のちに赤ちゃんのお腹からポロッと取れる部分だけだったのです(*^_^*)
22歳の新米パパには知らないこと尽くしでした☆


■そして、落ち着いたら助産師さんに教わって、赤ちゃんを抱き、体重を計り、産湯に付けます。
体重は3000gもないような細い女の子でした。

初めて抱く小さな生き物に困惑する僕(笑)。

その緊張も伝わっていただろうなぁと思います。

確か、ビックリして泣いたような、泣かないような…
いずれにせよ、すんごい緊張して産湯を終え、母親の元に返してホッとした気がします。

今思うとそのすべての儀式をスムーズに行えるように、
助産師さんたちが気を配り、用意してくれていたのです。
本当に感謝です♪
ありがとうございました!
助産師は偉大です!!

命を産み落とすという、
一大イベントを乗り切った妻はとてもいい顔をしていました♪
こりゃあ、男は叶いませんね(*^_^*)

そして、妻は3泊、助産院に泊まる事になりました。

本来は夫も一緒に泊まれるものらしいですが、
この日近辺はお産が立て込んでいて、
他の産婦さんも入院していたりで、
ひとりでマンションに帰りました。(すごく残念でした)

妻がファン助産院で「粗食のススメ」の様な素敵な夕食が出てきたので、僕もお腹が空いたのです(笑)。

帰り道の途中、浜田山駅前にあるお気に入りの定食屋「World of Mouse」でアジフライ定食を食べたのを覚えています。

すごくお腹も空いていたので(朝から何も食べてない?、かもw)
食べながら、
全然、父親になった気もしなかったのですが、
確かにこの手で赤ちゃんを初めて触って、
家族が無事に夫婦から、もうひとり子供が来てくれたのだと感じれたのです。

これは妻が先に先行して10か月お腹の中にいるのに比べて、
圧倒的に遅れてくる感覚な気がします。

この鈍い男の感覚をハッとさせるために、
妊婦は深刻な悪阻(つわり)で事の重大さを宣言していると、
今でも思っています。

借りていたマンスリーマンションに着いて、
命を産み落とした妻に比べられないであろう、
僕なりの精一杯の疲労感を感じながら、
その日はぐっすり眠った気がします。

そして、翌朝からまた昨日とは全然違う1日が始まるのです。

よく寝て、よくおっぱいを飲み、よく笑う赤ちゃんでした♪

次回は長女誕生編、最後の「その④長女産後編」です。
お楽しみに~(*^_^*)


高井戸で暮らす日々 ~二人の娘たちへ② 長女出産まで編

2020年10月27日 | 娘たちの誕生物語
■娘たちの誕生日を記念しての娘たちが生まれるまでのエピソード。
前回①の続き②です。

2003年夏。
妊娠中期に内地搬送となり、東京日赤医療センターに入院となった妻。
50日間の寝たきりの入院を経て、9月下旬にようやく妊娠36週となり、めでたく退院となりました。
これから希望していた助産院で出産を迎える為に新たな困難に立ち向かう事になります。

まず驚いたのが、病院を退院して地下鉄に降りる時に妻が
「か、階段が降りれない!!」
と呟いていました。

これには驚きました。

なんと基本、寝たきりで平たいフロアとエレベーターで移動していただけの50日間。
階段で降りる筋肉が驚くほど衰えていたのです。

そして今思えばそれは氷山の一角で、その後様々な影響を及ぼします。

ひとまず、なんとか出産する助産院近くの住まいに移動します。

場所は杉並区の高井戸でした。

今思うと、出産で内地に滞在した5か月の中で、一番平穏だったのがこの時期だった気がします。
当時は必至で分かりませんでしたが(#^.^#)。

■若くして結婚し、夫婦双方の実家にステイするのも難しい状況の私達。
入院中は僕も妻も病院にステイしていたので、問題ありませんでしたが、
退院後の住まいを助産院の近くで見つける必要がありました。

内地の勝手すら知らない超田舎者の僕。
しかし、若さというものは色んな事を物怖じなく突入させてくれます。

色々模索した結果、黄ーファンー助産院(成田西)と井の頭線で数駅隣の高井戸のマンスリーマンションを借りることになりました。
家賃は月16万円。
普通のワンルームマンションです。

結婚したばかりの22歳の若い僕にはべらぼーな金額ですが、
赤ちゃんと妻の命がかかっていると考えれば背に腹は変えられません。

赤ちゃんが生まれた後の鳴き声、
お風呂に入れることを考えて、
トイレとお風呂が一緒のユニットバスは避けて、
台所がしっかりあって、防音がしっかりした部屋を選ぶことになりました。

現在、小笠原で出産できない事への処置として、40万円のお金が村から支給されますが、
これも当時は20万円でしたし、(その後の活動で増額できました!)
結婚して1年経過した後の出産にしか適応されないので、私達はその恩恵すら受けれませんでした。



■そんなこんなで、ようやく搬送後初めての夫婦で寝れる日常が帰って来ました。
僕も広尾商店街の弁当屋の仕事は辞めて、本格的に出産に向けて夫婦で取り組んで行く事になりました。

今思うと、初めての結婚や妊娠、仕事で必死過ぎて、
ゆっくり向き合えなかった私達夫婦にとって、
とても大事な時間だったと思います♪

助産院での様々なレクチャー、
とにかく歩いて、出産に必要な体力、日常に必要な筋力の回復、
いいお産に繋げるための助産院で学ぶ食生活。
色んな新しい生活が始まりました。

最寄りの駅は富士見ヶ丘です。
少しさびれた商店街があり、小さいけど有名な「神田川」が流れる静かな閑静な住宅街です。

慣れてくれば、交通量の少ない裏路地を沢山見つける事ができて、
大きなお腹と、弱った筋肉を労わりながら、
できる限り歩いて、夫婦で過ごしました。

「人生に和菓子あり」と書かれた踏切近くの柳谷という和菓子屋さん、
何故かいつもかに玉ロール3つだけが棚に置かれているだけ(笑)の謎の総菜屋さん、
ただ皮ごとミカンを4つに大雑把に切って試食を提供する、商売する気もないようなSEIYU、
神田川を泳ぐ錦鯉たち。
どれも新鮮で愛おしい日々でした。


料理担当は基本的に僕でした。
有難いことにそれまでユースホステルで教わって来た料理もあったので、
何の抵抗もなくトライできました。
この部分も、ユースのペアレントの等史さんに本当に感謝です♪

当時はゆっくり夫婦一緒に食事できる日々を噛みしめていました。
仕事しながらの父島での生活に比べて、とてもゆっくりとした時間だった気がします。

当時得意だった野菜たっぷりのうどん。
これはチャンスとばかりに色んな料理に挑戦した気がします。

品数は今より全然多く(笑)、
なんというか、とても頑張っている感を感じます(#^.^#)


退院した日から使っていた手作りカレンダー。
1日1日を数えながら、お産の日に備えて行きます。

この時間とプロセスが、未熟な私達を親へと近づけていってくれた気がします。
今でもまともな親になれてるかは疑問ですが(笑)。


■黄ーファンー助産院は妻が妊娠初期で探し出した、とても有名な小さな助産院です。

妻が妊娠初期で体が辛い中、
島から何とか出産できる助産院を探しに内地に行っていました。

今は分かりませんが、
当時の訪問した助産院は、【妊娠初期からの経過が見れないから、お産を受ける事はできない】という回答ばかりだったそうです。

助産院としては医療機関なわけではなく、
正常分娩のみを扱うものだから、
妊娠の経過をずっと見れてないというのは、高リスクになります。

元助産師の妻としても、そんな事は分かっちゃいるけど、
子供が住めない島に住んでいるからといって、
自分が主体的に産む「アクティブ・バース」ですら選択できない理不尽に打ちのめされて絶望の淵にいました。

とにかく自分たちが子供が産めない遠隔離島に住んでいて、
とても困っているけど、大事な命の誕生を妥協したくない、その気持ちを分かってもらいたかったのだと思います。

内地からの電話越しに泣きながら「今日もダメだった…」と言われ、
島で必死で働いている僕にもその辛さが伝わって来ていました。(きっと現実的にはピンと来ていなかったと思います)

しかし、ファン助産院に訪問した時に院長の杉山先生が、
満面の笑顔で「いいでしょう。うちでお産を受けましょう」と一言で承諾してくださったそうです。

それまでの経緯や一般常識からすると信じられない言葉です。
聞くと「だってあなたがそうしたいと思ってるんでしょう?」と。

あまりの受け入れてもらえた嬉しさに、
助産院から泣いて帰って来た妻からの連絡を忘れられません。

その時は、まさかその後に搬送・入院になるとは夢にも思ってなかったのですが、
入院生活を通して、その先に「受け入れてくれる助産院がある」というのはとても有難い目標となりました。

妻が日赤に入院中も1度、僕が現状を伝える為に伺いました。
本当に親切で、「ああ妻が嬉しかったわけがわかった」と思いました。

その後も杉山富士子先生の笑顔には沢山救われました♡


■助産院で畳の上で好きな姿勢で産む。
フリースタイル出産というやつだそうです。
妻から聞いてはいたけど、僕にとってはまったくの想像以上の世界です。

出産に立ち会う事すら想像してなかった22歳の僕も、
次第に出産に立ち会わないのがあり得ない、と思えるほどになってきました(笑)。

河合欄さんが提唱するイメジェリー
・幕の内さんの「粗食のススメ」
・大野明子さん「分娩台よさようなら
・管理される出産でなく、自然の時を待つお産

もう17年も前の事なので、沢山抜けているとは思いますが、今思い出せるトピックはこんな感じです。
本当にすべてが新鮮で、若くて頭の柔らかい当時の僕(笑)は、どんどん吸収して行ったと思います。


■「イメジェリー」は出産ジャーナリストの河合蘭さんが日本に紹介した、
「誘導されたイメージ」のこと。つまりイメージトレーニングです。

非常に珍しい男性バースエデュケーター・カール・ジョーンズさん。
蘭さんによると、「男性なのに奇妙なくらいに妊産婦の心理が分かる人」と書かれています(笑)。

蘭さんはファン助産院の杉山富士子先生ともよく一緒に様々な著書、活動をしていて、
私達も1度一緒に食事したことがあります。

妻が目をつぶり、僕が読み上げる、お産に向けて色んなうまくいくイメージのトレーニングをしていきました。
自分にとって特別な場所ースペシャルプレイスーを想像し、
色んな想像をしていた日々を思い出します。

色んな事を考え込んで、色々心配になってしまう妻にとって、
このイメジェリーを夫婦で行うことはとても意味のあることだったと思います。

次女が生まれる頃は、もう長女の世話やらでそんな暇はありませんでしたが(笑)。


■その後の食生活の変化に大きな影響を及ぼしたのが、幕の内秀夫さんが書いた「粗食のススメ」です。
これもファン助産院で紹介してあって、さっそく購入しました。

日本人の根本となるその季節に採れる作物で、
その素材を生かした簡単な調理で食べて暮らす。

その粗食こそがまさに成人病の割合が低い、日本人の秘密だというのです。

欧米食化した若い現代人ではなく、
質素な和食で暮らしている高齢者がなぜ健康で長生きなのかに触れていました。

私達が食べるもの、子どもの食べさせるもので、
その子供の体が出来上がっていく、
そこに粗食というエッセンスが加わり、
その後、無農薬や在来の野菜をその土地、その気候に合った時期に食べることの意味を意識するようになりました。

人参の葉っぱも大根の葉っぱも食べるようになりました。

その後、家族で自給自足を学びに旅に出たのも、この食生活の学びがあったからだと今でも思います。


■とても有名な著書「分娩台よ、さようなら(大野明子・著)」。
これは分娩台が当たり前と思っていた僕には衝撃の考えでした。

お産と言えば夫は手術中のランプを見ながら廊下で待機、
「おんぎゃあ~!」の鳴き声で生れたことに気付くものだと思っていました(思いっきりTVのイメージ)。

本来、人はずっと分娩台ではなく、何かに掴まったり自由な姿勢で子どもを産んできたそうです。

それがいつの日か、分娩台という明るいライトに照らされて、いきみにくい仰向けで、産むのが主流になっていきます。
しかも誘発剤などで出産日ですらコントロールさせる場合もある、現代のお産。

でもそれは赤ちゃんや妊婦の為ではなく、
すべて医師の為の管理である場合が多いというのです。

よく考えれば分かる事なのですが、
現代では疑問すら持たずにそれが当たり前にまかり通っていると。

その現代に痛烈にメッセージを与えた本だと思います。

妻は落ち着いた照明の畳のお部屋で、
自分と赤ちゃんの自然なタイミングで、
丁寧にお産をする事が出ました。

その事を理解するには十分な本だと思います。

ちなみに著者の大野明子先生は産科の医師であり、
なんと当時僕たちがステイしていた高井戸で「お産の家 明日香医院」をやっています。

元助産師の妻曰く、
「現代医療の中で究極の自然が残されているのがお産の世界だと思う」というコメントがとても響き納得できました。


そんな色んなご縁のお蔭で、当時はこんな食生活になっていきました。
独り暮らし用のお部屋なので、足りない食器は100円ショップで揃えました。

そんな今でも続く、色んなご縁を頂いて、
全ては初めてばかりの中、新しい夫婦の僕たちは一生懸命に、
来たるべきお産の日を待っていました。

10月中旬のとある日の朝早くに、妻が叫びました。
「起きて!破水した!!」
そこからついにフィナーレともいえるお産が始まりました。

続きの③長女誕生編 は次回をお楽しみに(#^.^#)

Hau`oli la Hanau~ 二人の娘たちへ① 長女搬送編

2020年10月16日 | 娘たちの誕生物語
■ハウオリ・ラ・ハナウ( Hau'oli la hanau)、これはハワイ語でHappy Birthdayの意味があります。
我が家には二人の娘がいるのですが、誕生日は10月の中旬に1日違いで生まれています。

この写真は2010年6月、長女が6歳、次女が0歳8か月の頃の写真です。可愛い~♡

今回は長女がカナダ留学しているおかげか、日本とカナダの時差があって、
二人の誕生日がなんと同じ瞬間に重なっている時間があります。(日本がカナダ西部より16時間進んでいるのです。)

母島との距離を測ってみたらなんと約7,777㎞も離れていました)^o^(

それを記念して、6歳離れた二人の娘が生まれるまでの思い出を書いてみようと思います。
どちらも平坦な道のりではありませんでした。

我が家に可愛い娘が二人も授かったことは、
奇跡であり、本当に有難いことです。

22歳という、若くして父親になった僕は、
最初から大人だ、父親だなんて自覚は微塵もなく(笑)、
子供達と一緒に過ごす日々のお蔭で、一緒に成長させてもらって来ています。

今でも全然まともな父親にも、大人にもなれている気は一切しないのですが(笑)、
間違いなく素敵で魅力たっぷりな娘に育ってくれていると思っています。

共に育ててくれている、
この家族、
島のみんな、
この大自然と、
ご縁のある出来事すべてに深く感謝します。

どうもありがとうございます。


日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕です(笑)

■さて、今年17歳に長女は2003年に東京の杉並区にあるーファンー黄助産院で産声をあげました。
しかし、その無事に生まれるまでが波乱万丈でした。

当時22歳の若い僕は、結婚したばかりで何も分からずにがむしゃらに生活をしていました。
仕事は父島の小笠原ユースホステルで働いていました。
お金のない僕たちは、父島の元飯場の部屋を間借りし、
お風呂とトイレが共同の中で暮らしていました。

当時は、等身大の僕が一生懸命というか、精一杯に生きていたのですが、
本当に何もかもが初めてで、今思っても幼い父親の僕は何も分からない故に、
色々自由だった気がします(笑)。

妻は初めての妊娠で悪阻(つわり)や体の変化にとても戸惑い、苦労していたように思います。

今でもよく覚えているのは
「何か体に悪いものが食べたい!!」
と事あるごとに妻が言っていたのを思い出します(笑)。

つわりで痩せ続ける状況の中、
食べれるものは何でも食べた気がします。

当時、ちょうど食生活に気をつけようと思い始めた矢先のことでした。
お菓子や、衣が付いた揚げ物を特に好んでいた気がします(*^_^*)

つわりというものは、
女性自身には体に新しい命が宿り、大きな変化の為にあると思うのですが、
パートナーに対しては、全然事の重大さに自覚できない男に対して、
【緊急事態発生!フォローすべし!】のためのメッセージを伝える為につわりはある気が勝手にしています(笑)。


■さて、妻のお腹が目に見えて膨らんできている最中、(妊娠28週くらいだったかな?)
お腹の張る状況が続き、診療所で「切迫早産」の診断を受けました。

つまり、早産してしまう兆候が見られるので、なるべく安静にして十分な週数まで過ごしてくださいというものだと思っています。
妻は家で横になって、あまり立ち歩いてはいけない日々が始まりました。

今も当時も小笠原では出産できる施設はなく、
皆、妊婦は32週までに定期船おがさわら丸に乗らなければいけません。

しかし、切迫早産で症状が少しずつ悪化している中、
診療所の医師が揺れる可能性のあるおがさわら丸での上京は厳しいと判断し、
内地に飛行艇で緊急搬送されることが決まりました。

急な展開に、大慌てした記憶があります。
確か午後に診断されて、診療所に入院し、翌日昼前くらいに搬送するというものだった気がします。

日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕。この頃はよく頭にタオルを巻いていました

■暖かいユースホステルのオーナーと同僚、お客さんたちが色々贈り物をくれたり、
自衛隊基地から飛び立つときに、青灯台で見送りダイブをしてくれていました(#^.^#)

初めての飛行艇もドキドキでしたが、それ以上にドキドキしていたのが一緒に同乗してくれていた、
産科の研修医のドクターでした。

ポケットに沢山の参考書を詰めて、
万が一搬送中に出産の可能性も考え、色んな用意をして内地から乗って来てくれていました。

その為か、顔が青白く緊張がMAXの表情でした。
貼り止めの点滴している状態での搬送でしたが、点滴のペースをコントロールする機械がカテーテルと合わず、
悪戦苦闘していました。
研修医のTさんは頭真っ白だったと思います。

そこで、元助産師の妻が、「何秒に1滴のペースを維持して下さい」みたいな指示を出していました。
すると、研修医Tさんはギョッとして「ひょっとして医療関係者ですか?」と聞いてきて、
そうだと知った瞬間の安堵した表情が忘れられません。

本当に急にわざわざ内地から飛行艇で乗って来てくれて、感謝です。
ありがとうございます。

タンカーに縛り付けられている妻はまったく動けない状態ですが、
ただの付添いの僕は外の初めて見る父島の美しい空の景色を眺めていました。

この搬送には本当に沢山の人が関わり、多額の費用がかかっています。
本土まで1000kmという超遠隔離島の暮らしを支えてくれている
搬送に携わってくれた自衛隊、村役場、診療所の皆さん、
沢山のフォローをしてくれたユースの皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

妻も僕も妊娠期間中、お腹の子の命が絶対大丈夫という確信はなく、
ずっと不安がある中、過ごしていました。
新しい命が生まれるということは、少しも当たり前の事ではなくて、
本当に奇跡なんだなと今はさらにそう思えるようになってきました。



■飛行艇は羽田空港(厚木基地だったかも)に島を離陸して3~4時間くらいで着陸しました。
普段24時間かかる距離をあっという間に渡ったものなので時差ボケを起こすほどでした(笑)。

飛行場から搬送される予定の広尾の日赤医療センターまでは救急車で運ばれていきました。
この救急車がまあ飛ばすし、揺れるので、切迫早産の妻にはとても辛かったようです。

一生懸命搬送してくれている消防庁の方も、
どいてくれない一般車や周囲の愚痴を漏らしていて、なんだかとてもイライラしていました。

正直、そんなに急ぐよりも、揺れないで搬送してほしい、そう伝えてからは少しマシになった気がします。

日赤の病室からの景色。ほとんど動けない妻にとっての変わらない広尾の景色です

のどかな島から、一気に都会に降り立った僕たちは、
暮らしている人たちの大きな変化に戸惑っていました。

無事に日赤医療センターについて、参加のドクターに
「私は助産院で出産したい希望があります」と伝え、それを承諾してもらいました。
生まれても大丈夫な36週までの50日間、日赤に入院することになったのです。

日赤医療センターはお産、産科にとても力を入れていて、
希望者にはフリースタイル出産、産後母子同室も実施していて、
産科病棟で働く看護師はみんな助産師の資格を持っているという徹底ぶりでした。

僕は日赤のお見舞い家族関係者の一時滞在用のお部屋をお借りすることができて、
超有難い低価格の滞在をすることができました。

ワンルームのお部屋で病院の裏手にありました。
トイレもバスも台所もついていて、お金のない僕たちにはとても助かる滞在先でした(*^。^*)

妻の面会は毎日あるのですが、
広尾商店街のお弁当屋さんで働くことになり、
新しい土地での生活が始まりました。

丁度、初めてのデジカメを買ったのもこの頃です。
写真が主に入院以降なのはその為です。
携帯電話はあったけど、SNSもスマホもない時代です。
そんな日々がなんか懐かしく思えます。


■「助産院で畳の上で子どもを産みたい」
これが妻が妊娠してから言っていたことでした。

お産なんて何も分からない22歳の僕。
病院の廊下で手術中のランプを眺めて、産声を聞いて誕生を知る程度しか知識がない僕にとって、
妻からの申し出はまるっきり未知なるものでした。

助産師であった妻はアクティブバース、つまり受け身ではなく、主体的にお産に臨みたいという姿勢でした。
超新米パパの僕にとっては何もかもが新鮮過ぎる日々でした。

しかし、あまりの若さというものは
時に色んな現象を素直に受け止めれる心の柔軟さがある気がします。

次第に助産院で畳の上で産みたいという意味が分かって来ました。
病院で管理されたお産ではなく、できるかぎり自然な現象として、
そして自分の力で新しい命を迎えたい。

36週に退院するまでは、
面会に来てくれる友人や、慣れない共同の病室での日々、
都会での暮らしに戸惑いながらも楽しく日常が過ぎて行きました。

変わらない景色の中。お腹の張りが辛くて、寝たきりの妻は腰が痛くなったり、
色んな辛い状況もあった気がします。

お腹の上からも動いている赤ちゃんを僕も感じながら、
一生懸命にその日々を生きていた気がします。

50日間の入院を経て、ようやく退院する日を迎えることができました。

日赤から歩いて麻布十番の浪速屋総本店のたい焼きをよく買いに行った覚えがあります。
同じ病室の皆さんにも届けたりした気がします。
当時、同室だった妊婦同士は今でも年賀状とかで交流が続いています(*^。^*)

妊娠、搬送、退院、出産、産後、
どの場面でも大変ですが、この退院するまでが一つの節目だった気がします。

二人の娘のダブル誕生日をきっかけに書いてみましたが、
いつも通りあまりに長くなりそうなので、複数回に記事を分けることにします。

続きは次回②をお楽しみに(#^.^#)