小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

愛と理解~リトル・トリーより

2014年02月28日 | 名言集
◆僕が大好きな本の中にチェロキー・インディアン少年と祖父母の物語を描く「リトル・トリー/フォレスト・カーター著」という本があります。
これはとても美しい描写の言葉と自然の織り成す世界で慈愛に満ちた風景を感じさせてくれる素敵な本です。

著者については様々な諸説がありますが、
僕はどうしても原文を読みたくなるほど美しいその言葉に惹かれています。
インディアンの文化についてもこれは真実と違うなど、色々と言われていますが、僕は祖父の必要な時に必要なだけ得ることや、自然の掟を重んじる姿勢がとても好きです。
フィクションと思って、文自体の情緒性を楽しめればと思います。

最近は小学4年生の娘に夜寝る前に朗読しています。
彼女がどれほど理解できているかは分かりませんが、子供に知っていてほしい学びが多くある物語です。
娘も聞くのをとても楽しみにしてくれていて、なんだかとても嬉しいのです。

ほとんどの図書館にあると思いますので、ぜひおすすめします♪



◆大好きな場面が幾つもあるのですが、少し紹介したいと思います。

祖母は麝香虫(じゃこうちゅう)の匂いを嗅ぐと、僕を上回る興奮ぶりをあらわにした。
「こんな素敵な香りは初めてよ!
 今まで麝香虫のことを知らなかったなんてどうしたわけかしら?」

祖父もやはりびっくりした顔になって、
「70年生きてきたが、こんな匂いはついぞ嗅いだ事がない!」とうなった。

祖母が言った
「おまえはとっても正しいことをしたんだよ。
 なにかいいものを見つけたとき、まずしなくちゃな らないのはね、
 それをだれでもいいから、出会った人に分けてあげて、いっしょに喜ぶことなの。
 そうすれば、いいものはどこまでも広がっていく。
 それが正しい行いってものなんだ。」

リトル・トリーが麝香虫(じゃこうちゅう)は甘い匂いがするということを発見して、
祖父母に教えてあげた時に祖母が心底感心して言ってくれた言葉です。



◆もうひとつはお祖母さんがリトル・トリーに人が持つ二つの心、愛と理解について聞かせてくれる話です。

「だれでもふたつの心を持っているんだよ。

ひとつはね、からだの心(ボディ・マインド)、
つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。

からだを守るためには、家とか食べものとか、
いろいろ手に入れなくちゃならないだろう?

おとなになったら、お婿さん、お嫁さんを見つけて、
子どもをつくらなくちゃならないよね。

そういうときに、からだを生かすための心を使わなくちゃならないの。

でもね、人間はもうひとつの心を持っているんだ。

からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。

それは、霊の心(スピリット・マインド)なの。

いいかい、リトル・トリー、もしもからだを守る心を悪い方に使って、
欲深になったり、ずるいことを考えたり、人を傷つけたり、
相手を利用してもうけようとしたりしたら、
霊の心(スピリット・マインド)はどんどん縮んでいって、
ヒッコリーの実よりも小さくなってしまうんだよ。


からだが死ぬときにはね、
からだの心(ボディ・マインド)もいっしょに死んでしまう。

でもね、霊の心(スピリット・マインド)だけは生きつづけるの。

そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。

ところが生きている間、
ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心(スピリット・マインド)しか
持ってなかったらどうなると思う?

生まれ変わっても、やっぱりヒッコリーの実の大きさの
霊の心(スピリット・マインド)しか持てない。

だから、なにも深く理解することはできないんだ。

それで、からだの心(ボディ・マインド)がますますのさばるから、
霊の心(スピリット・マインド)はますます縮んじゃって、
しまいには豆粒ぐらいになって、見えなくなっちゃうかもしれない。

もう霊(スピリット)をなくしちゃったのとおんなじだよね。


そうなったら、生きてるくせに死んでる人ってことになるの。
いくらでも見つかるわ。
そういう人はね、女の人を見るといやらしいことしか考えない。

他人を見ると、なんでもケチをつけたがる。
木を見ると、材木にしたらいくらもうかるかってことしか考えない。

きれいなことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。
そんな人がうようよしてるよね。


霊の心ってものはね、ちょうど筋肉みたいで、
使えば使うほど大きく強くなっていくんだ。

どうやって使うかっていうと、
ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。

それしかないの。

からだの心(ボディ・マインド)の言うままになって、
欲深になったりしないこと。

そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。

努力すればするほど理解は深くなっていくんだよ。

いいかい、リトル・トリー、理解というのは愛と同じものなの。」


他にも犬たちとの戯れ、
密造酒を役人から守る話、
ガラガラヘビから守る大きな手、
「ちくしょう!今日も遊んじまった!!」
などなど....
おススメ場面が満載です♪

ぜひ読んでみてください☆

尊厳死~自分の死に方を想う

2014年02月22日 | 大切にしていること
◆島で介護の仕事をしていて、先日父島の老人ホームに家族で遊びに行って色々感じ、
日々日常を暮らしていて、最近自分の終末期について考えます。

どんな死に方をしたいかはやはり考えておくべきと思ってます。
遺される家族、子供たちにどう死にたいか伝えておくのはその人たちのためにも大切です。
「リビングウィル」というやつですね。

僕は小さなころから母親に
「私が何か病気や怪我で生命維持装置を必要とする場面になったら、それを止めるようにしてほしい」
と言われ続けていました。
小さな僕にとってはあまり現実的には考えれてなかったかもしれませんが、心の根底には残っていました。
そしてそれがとても意味あるものになったのです。

ちょっと重いテーマですが、人はいずれ必ず死を迎えます。
そのときに自分の心や周りの人たちの為にできることは何かを考えました。


◆父は39歳の時に心不全で亡くなりました。
僕が中学1年生ときです。

親は僕が6歳の時に離婚していたので別に暮らしていました。
父は自分の夢を叶え、小さなケーキ・お茶屋さんを経営していました。
よく1歳上の姉と一緒に地下鉄に乗って遊びに行き、家では禁じられているファミコンや滅多にない外食を子供心に楽しんでいました♪
しかし、今考えると共に暮らしていたときから父は偏食家で野菜をあまり食べない人だった気がします。
その影響か、成人病に侵されていたのかも知れません。

1週間連絡が取れず、不審に思った伯父が大家さんに連絡して死亡を確認したのです。
原因は心不全としか言われませんでした。
夏場の死亡して1週間という月日は遺体を腐敗させるには十分な月日で、子供だった僕は死んだ父をこの目で見ることはできませんでした。
父と再会したのは火葬場で骨となってからでした。
ひとつひとつ、大きな角ばった箸で骨を拾った覚えがあります。
そのせいか、僕はずっと肉親の死というものを実感できずにいました。
ただ、逢えなくなっただけといった印象です。

父はずっと夢を追う男性だったのだと思っています。
家庭的には不器用だったのだなと勝手に想像しています。
ほとんど家で共に過ごした記憶はありませんが、遊びに行くとうちにはなかった自家用車を駆使して郊外へのドライヴ、釣り、スキーに連れて行ってくれました。
家庭の中で僕が父親のいる雰囲気を知らないので、自分が父親になるときはとても戸惑いました。
心のどこかに穴が開いて、それは今も埋まらないままです。



◆一方、母はカナダで55歳のときに亡くなりました。
僕が26歳の時です。
母は子育てを終えて、カナダ人のパートナーと幸せにカナダで暮らしていました。
1度は小笠原にも来て孫と対面し遊ぶことができました♪

しかし、2008年2月カナダで急に記憶障害や言語障害が発生し、病院に搬送されました。
その後、意識不明となり動脈瘤破裂→脳死状態と診断されたのです。

当時父島に住んでいた僕は週に1度の定期船おがさわら丸出港後に連絡を受け、運良くその後に出港予定であっの貨物船「共勝丸」に飛び乗ったのです。
48時間の航海の中、地元が同じ宮城県の船員さんからはずっと温かい言葉で励まされ、役場の方はパスポートの緊急発行に動いてくれました。
そして、東京に来てくれた姉と合流し、飛行機でカナダ、エドモントンへ飛びました。

空港に着くとマイナス40度の雪景色!
外に出ると一瞬で鼻毛が凍ります(笑)。
パートナーのKちゃんがお迎えしてくれます。

最愛の母が危篤状態なのに、いつも冗談ばかりで笑わせてくれて、英語が不自由で外国初の僕たちの不安を和らいでくれます。
病院近くの用意されたホテルに着くと、一足先に来ていた伯父も迎えてくれました。

エドモントンは立派な都市でした。

そして大きなエドモントン州立病院へ。

脳死状態の母と対面しました。

触れば柔らかく温かいのに、もう会話ができない状態の母。
中を見て、目の焦点が合わない母。
頭からは溜まった体液を抜くためのドレインが繋がれ、喉に開けた穴からは人工呼吸器が繋がっています。
まさに機械で生かされている状態でした。

状況は知っていて覚悟はしていましたが、やはりショックでした。
しばらく母と接した後、みんなで食事をしてホテルに戻りました。

あのときの綺麗な景色を忘れられません。

夜に姉と色々話をしました。
お互い成人してから初めての真剣な会話だったかも知れません。
そして、母がずっと示していた「尊厳死」というものを子供である私たちからドクターとパートナーに伝えなければなりませんでした。
母が尊厳死協会というのにも入会していて、書面でもリビングウィルを残していたのも大事でした。

数少ない事例の中には何年もの脳死状態から奇跡的に復帰した例もあったりします。
しかし、母の場合はそれは絶望的であると、脳の損傷具合を見たドクターは言いました。
でも僕たちには人工呼吸器や頭のドレインを外すことにあまり迷いはありませんでした。
それは生前からずっと母に尊厳死を選びたいと言われていたからです。

早口の英語の優しくないドクターと優しくて頼もしいナース相手に、つたない英語で説明します。
僕らは尊厳死=Peaceful deathをなんとか伝え、そう処置してもらいました。

そしてなんと自発呼吸にまで復帰した母は、4月にパートナーに見守られ、静かな死を迎えました。
仲の良いインディアンが遺言にあった湖に散骨に行き、見送りの祈りを捧げるとハクトウワシの珍しい群れが上空に舞い上がり、母の魂は無事に行ったと伝えてくれたそうです。

いつか、その湖に家族と訪れたいと思っています。

ちなみに母は僕と姉が巣立つまでパートナーのいるカナダへ行くことはずっと何年も待っていたのです。
待ち焦がれていた最愛のパートナーとの幸せな時間はとても充実しているようでした。
時々くるエアメールからその雰囲気は感じ取れました。

ですがそんな時間もたった数年でこうして幕を下ろしてしまったことが残念でなりません。
心臓も眼も婦人科系も患いながらも、私たち子供の為に尽力してくれた母にはもっと自分の為に生きる時間が欲しかった気がします。

そんなこの世にはいない父と母には感謝の気持ちでいっぱいです。
今も尚、私たちの暮らしを見守ってくれているものだと信じています。


◆そんな自身の体験を踏まえつつ、日々野生動物に関わる仕事もしていると、潔い彼らの死に様を垣間見ます。
皆、たったひとりで静かに最後を迎え、骸は自然の分解者の肥やしとなり、土に還ります。

なんてシンプルなのでしょう。
そんな時も色々なメッセージを感じます。

畑でも海でも山でも色んな自然が生への営みが様々な教えを伝えてくれます。
私たちはその教えを真摯に受け止め、学んでいければと思います。

◆父親の死は早過ぎたと思いますが、母親の死は受け止めるのは容易でした。
21歳の時に仙台を引き払って小笠原へ移住するときに
「このままお互いが死ぬまで会えなくても後悔しないね」
と言って、僕は父島へ、母はカナダへ渡りました。

両親どちらもその親より先に亡くなっているので、そういう意味では親不孝だなと思います。
やはり自分より先に子供に死んでほしくないです。
もっと子育て後の楽しい時間を過ごしてほしかったと思います。

そして僕もなるべく周りが分からなくなる前に、気持ちよく最後は笑顔で死にたいと思います。
アメリカ先住民のインディアンは死ぬときに
「今日は死ぬには最高の日だ。次はもっといいだろう」
と言って笑顔で死ぬそうです。

僕もそんなカッコいい死に方ができればいいなと思います。
その為には今を精一杯生きなければ行けませんね!!

そして母がしてきたように、僕も遺される家族や子供たちの為にどう死にたいか日頃から意思を伝えていかなければと思います。