小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

海岸清掃① 10年以上ずっとゴミだらけだった海岸がっ!!編

2022年09月27日 | 海洋プラスティック
■母島に通称❝ゴミ海岸❞と呼ばれてしまう海岸があります。
それは風向きや海流などの影響で漂流ゴミが辿り着きやすい海岸なのです。

その中でも母島北部にある【大沢海岸】は、道路からも離れていて、
かつ船で来るにも沖港から特に離れている海岸で(航行距離15㎞ほど)、
なかなか海岸清掃実施にまで至らない海岸なのです。
(無人島の平島や向島の海岸清掃は毎年実施されている)

大沢海岸は母島の北にある北港から、遊歩道を歩いて1時間程度で着く海岸なのですが、
山道が急で頑張って辿り着いた先にゴミだらけの海岸というのが、
島民としてもとても残念だったのです。

それが今回、

これがですよ、

こんなに綺麗になったんです!!

参加メンバーも
「少なくともここ10年以上はどの組織も大沢海岸の清掃は実施してないと思う。」
「色んな場面で大沢海岸を掃除しようって案は挙がるんだけど、なかなか実施まで至らないよね」
といいます。

去年は平島や向島を海岸清掃を実施した環境省事業の海岸清掃
今年は他の無人島がすでに他の組織で清掃され、綺麗であるということから、
大沢海岸の清掃をすることになりました。

そこにはとある友人の声が大きかったのです。


■去年の冬位でしょうか、
島の自然をこよなく愛する友人が、
「私は大沢海岸が大好きでよく行くんだけど、ホントにゴミが多いんだよ!すごく悲しくなる。どうにかならないかな?」
と切実に訴えていました。

大沢海岸。
小笠原に住んで約20年の僕ですが、大沢海岸は数えても5回は行ってないです。
そのどれもがゴミが多かった印象は確かにあります。
しかし、海岸清掃するには敷居が高い事もよく分かるのです。

遊歩道も案内看板もある海岸ですが、島民にとってはあまり行く事の少ないマイナー海岸。
今回、海岸清掃に参加した島出身のふたりもなんと初めて来たとか(笑)。

30年以上島にいるメンバーですら初めてという、
道路から離れていて、山道の険しい海岸はなかなか綺麗にしようという流れに乗りにくいのです。

今回、僕はスタッフとして関わりながら、
友人のその切望する言葉がずっと忘れられなくて、
事前にSUPでも見に行き、そのゴミの多さに唖然としました。

しかし、今回も見送ればさらにゴミは増えたり、
海上に戻って行ってしまうことは明白です。

ちょうど他の海岸も綺麗にしてもらったというタイミングだったので、
大沢海岸清掃に踏み切ることが出来ました☆


■チャーターした漁船に乗り、沖港から15㎞先の大沢海岸まで約1時間。

普段、あまり母島の北部というのは西回りで行く事は少ないので、
参加してくれたみんなで母島の景観を楽しみながら、現地へ到着。

大きな漁船で大沢海岸に接近することはできないので、
伝馬船に乗り換えて向かいます。

これが何だかとてもアドベンチャー気分♪

車で北港まで来て、歩いても来れる大沢海岸を海から来るのはとても新鮮でした(#^.^#)

■しかしまあ、さすが10年以上清掃に着手されない海岸です。
凄まじいボリュームのゴミたちが迎えてくれます(#^.^#)

海岸に着いて、みんなでゴミ回収を始めると、
あっという間に沢山のプラごみが集まりました!

漁網に浮き、網、ペットボトル、マスクetc..
ありとあらゆるプラスティックが漂着しています。

あと50年以内に海は魚よりもプラスティックの方が多くなるという報道も頷けます。
ものすごい量です。

特に漁網やロープなどは重くて絡んでいて、
作業もとても大変です。

1日目はこれだけのゴミが集まりました。
ここまでやってみて、あと1日やればなんとかなるかも…という状況でした☆

浜に着いた最初は唖然とするほどの光景でしたが、
みんなで頑張ると見違えるほどになるものです!!

みんなで記念撮影♪

その後、そのゴミを伝馬船に載せて、漁船に運ぶのが一苦労です。
この9/24,25は奇跡的に台風と台風の狭間で、凪の日。
と言っても、途中からうねりも入ってきて、
波打ち際はなかなか手強い状態でした。

みんなでリレー形式で運んで、ピストンで漁船へと運びます。

1日目と2日目は半分くらいは違うメンバーになるのですが、
10人以上で実施すると、素晴らしいマンパワーが発揮されて、
あんなにゴミだらけだった海岸がかなり綺麗になりました☆
本当に感謝です(#^.^#)

帰りには沢山頑張ったご褒美にイルカちゃんが沢山来てくれて、
みんな幸せな帰路となりました☆
それについては次回、ご褒美編で書きたいと思います(#^.^#)

漁船は足の踏み場もないほど、大漁の海ゴミで山になっていました!

母島に着いたら、
みんなでゴミをトン袋に詰め込みます。
1日目は8袋になりました!(この時点で去年より多い☆)


■1日目は半分しかやれなかったので、
2日目も大沢海岸で実施することを決定し、2日目も同様に頑張りました☆

1日目の経験も活きて、2日目はかなりスムーズな運びとなりました。

1日目は重くて厄介な漁網が多く、
2日目はかさばって運びにくい浮きが多かった印象です。

ボリューム的には1日目を凌ぎました。

2日間もかけたみんなの猛烈な頑張りのお陰で、
ゴミ海岸と呼ばれた大沢海岸が見事に美しい海岸に戻りました!!

これらのゴミはすべて人の暮らしの影響で出たゴミです。

海のすべてのプラごみには程遠い量ですが、
確かな、かつ大きな1歩になったと思います。
「こんな綺麗な大沢海岸は初めて見た!!」
清掃後の僕の素直な感想です。

それくらい嬉しい光景でした♡
やった~~~!!

最初はこれだけのゴミの量、本当に片付けれるのか?と思うほどでしたが、
参加してくれたみんなの頑張りのお陰で、見事に美しい大沢海岸になりました♡
本当に有難うございます!

2日目は行きも帰りもハシナガイルカの歓迎に逢い、ウットリして帰路につきました。

2日目のゴミも港でトン袋に詰めるとなんと9袋!!
1日目と合わせて17袋になりました!

これは凄い量です!
(後日、長物も入れて18袋、合計1350kgになりました!!)

そして両日とも母島出身で生態系を学んでいる大学生が、
島の生態系に海のゴミがどう影響するかの資料を作成してくれて、
レクチャーも実施することができました♪


今回参加してくれたメンバーには色んな方がいて、
子供達に伝えたい学校の先生や、
島に来たばかりのメンバー、
翌日の出港日のおがさわら丸に乗って離島するメンバー、
15年以上島にいるメンバー、
島出身の島っ子メンバー、
とても多様なメンバーで海ゴミについて考えながら、
母島に恩返しのできる機会となりました。
本当に有難うございました!!

次回は海岸清掃②ご褒美編に続きます(#^.^#)

最後に去年、海岸清掃実施後に開催したオンライン対談を紹介します。

これは母島やミクロネシア、ハワイでの海洋プラスティックの問題にフォーカスした座談会です。
色々と今回の海岸清掃にも繋がる興味深い内容ですので、良かったらご覧になってみてください☆

母島部活堂@海洋プラスティック座談会 2021.11.13



前浜の朽ちたヤシから始まる命 ~島で暮らすということ

2022年09月15日 | 島で暮らすということ
■母島の前浜に1本の朽ちかけたヤシがあります。
数年前の凄い台風で折れてしまったのか、ハッキリと覚えていません。

だけど車でもバイクでも、自転車でも通れない、
母島の徒歩でしか歩けない景色の中に、このココヤシは立っています。

僕は知人の見送りの為に港に行った帰りに、
このヤシの先端に新たな命が芽吹いているのを見つけました。

一体いつから生えていたかは不明ですが、
朽ちたヤシの胴を栄養に、
そのガジュマルは力強く生きていました。

土なんかどこにあるのだろう?と思ってしまうほど、
コンクリートの隙間から生えてきて、
力強く生きる植物たち。

この朽ちたココヤシに生えるガジュマルを見た時に、
色んな事を思い出しました。

硫黄島で天を見上げる大砲の先端から、
新しい命が芽吹いていた時に感じた希望。

大好きな星野道夫がクイーンシャーロット諸島(現ハイダ・グワイ)で見た、
人が埋葬されたと考えられる朽ちたトーテムポールから、
1本の生えて来ているトウヒを見た時の気持ち。

ふと、「島で暮らすということ」にフォーカスしてみようと思いました。
取り留めのない、意識が流れるように、
思いついたままに時々書こうと思います。



■島で暮らすということ。
それは古代から伝わるカノー(アウトリガーカヌー)に乗るということ。
島はカヌー、カヌーは島というハワイの諺のように、
島の暮らしは、島というカヌーをみんなで漕いでいるように流れています。
色んな漕ぎ手がいて、色んな価値観があっても、みんなで前を向いて漕ぎ続けるのが大切と教わりました。

日本で最初にアウトリガーカヌーが伝わったという小笠原。
石器時代にもあった小笠原のカヌー。

今カノーを漕いでいる僕たちは、先祖たちとどれだけ同じ感覚で景色を見ているのでしょう?



■島で暮らすということ。
見事な虹を見かけて、たまたま自分の周りにいる人に僕は声をかけました。
「にじだよ!」
ニヤリとニヒルな笑顔で彼は「ばか、今はよじだろ(笑)」と言って、バイクで走り去った。
そんな一コマがあるのも島の暮らしです。



■島で暮らすということ。
それは仕事の合間の昼休みに海にざぶんと入れる暮らしということ。
家から5分程度の海の中に、竜宮城がありました♪
最初は昼休みに海に入ったら、疲れて午後は仕事にならないと思っていたのに、
入ってみたら一気にリフレッシュできて、さらに午後は活き活きと動けることに気付いてしまいました。



■島で暮らすということ。
ライブハウスもコンサートホールもないので、
音楽好きのみんなで手作りでライヴを行えるということ。
音楽好きの先輩たちが一生懸命機材を揃えてくれていて、
今もその準備をしてくれる先輩がいて、島でリアルな音楽に触れることができます♪



■島で暮らすということ。
母島には商店が3店舗だけで、お菓子屋さんもありません。
だから手作りを持ち寄って、とても豪華なひと時になることがあります。
宴会やパーティーでそれぞれが自慢の手料理を持って集まるのがとても素敵です☆



■島で暮らすということ。
それは獲物を自分で獲って来れるということ。
以前企画した島っ子タコ捕り大作戦で学んだ子供たちは、
磯場で立派なアナダコを撮れるハンターになっていました。

ちなみにアナダコは世界一美味しいタコだと思います(#^.^#)

マシュマロを焼きつつ、獲ったばかりのタコも焼いて食べる島の子供達。
「やばい!過去イチ美味い!!」
そんな声を聞いて嬉しくなってしまいます☆



■島で暮らすということ。
それは島で仲良くなった家族や仲間が、その後も繋がっていくということ。
島を離れてから久しぶりに島に帰って来た仲間がいると、
あっという間に当時に戻って、心地よい時間になってしまいます♪


それぞれの時間やそれぞれのタイミングで過ごす島暮らし。
ずっと島で暮らす人もいれば、
数年間、数か月過ごす人もいます。

そのどれもが一期一会で、大事な出逢いです。

島は昔からその土地だけで完結せずに、
つねに外からの影響を受けて、
変化し続けてきました。

どんな島暮らしをしていこうかな♪

そんな今はオガサワラゼミが母島の北部で鳴いています。





ゆずり葉 ~死ぬってなんだろう?

2022年09月11日 | 大切にしていること
■エリザベス女王が亡くなり、ゴルバチョフ元大統領が亡くなり、
そして自分の身近な人が亡くなり、ふと死について、
なんだかだいぶ自分自身の感覚が変わってきているのを感じて、
大切な友人に話を聞いてもらいました。

そうしたら、とても素敵な言葉と詩を贈ってくれました。
僕が知らなかった詩、
知っていたけど日常で忘れかけていた言葉、
大好きな物語の世界を思い出させてくれました。

悲惨だ、
悲しいと思っていた死が、
厳かで、
誰にも平等にやってくる死というものを、
理屈ではなく、
感覚で少し捉えるようになってきた、そんな気がしています。

せっかくなので教えてもらった素敵な詩を紹介したいと思います。

ゆずり葉】

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。


作者の河井醉茗(かわいすいめい)さんは、
1874年(明治7年)生まれ、 1965年(昭和40年)1月17日に亡くなっている日本の詩人です。

母島の石門に僕が好きな「ユズリハワダン」という固有植物があります。
これといって、あまり個性的な特徴が見えにくい植物です。
なぜこの植物に僕が惹かれたのか自分でも分からなかったのですが、
今回のこの詩を読んで分かった気がしました。

僕たちは意図していても、意図していなくても、
次の世代に譲って生きている。

ステキな詩を教えてくれて本当に感謝です♪


■僕自身、両親を亡くしていますし、
僕が中1の頃に亡くなった父親は、
母とは離婚していて一人暮らしだったので、
真夏に亡くなってから発見されるまで時間がかなり経過していて、
本当に多くの人に助けてもらったと思います。

その恩返しとも思っていますが、
僕自身も生きていて、亡くなった人に関わる仕事や発見した経験も幾つかあって、
最初は人の死って、
もっとなんか恐ろしくて、怖いものなイメージでした。

だけど今は違ってきた気がします。
悲しみや恐ろしさや、怖さが薄れてきていて、
ああ、逢えないんだという寂しさが残る、そんな感じです。

孤独死だったり、発見が遅れてしまったり、
病気やケガで亡くなっても、
何だか以前に比べて死に対する感覚が変わってきているのを感じます。

自分自身が人生の折り返し支店でもある40歳を過ぎたからでしょうか?



■過去に書いたかもしれませんが、
良く知った人が亡くなっていて、第1発見者になったことがあります。

すごく気持ちが落ち込んで、気が重い時間を過ごしていたのですが、
海でSUPをしていて、1羽のカモが死んで海面にプカプカと浮かんでいるのを見つけました。

普段、よくサップをしていても、そんな光景を見つけるってあまりありません。
何故か、ご遺体を発見した翌日の昼に、そんな光景に出くわしました。

その時にストンと心に落ちたものがありました。
「ああ、これが自然なんだ」と。

亡くなった方は一人暮らしで、
いわゆる孤独死と言えるとおもうのですが、
思いっきり好きなように生きているような人で、
カッコいいなと思っていました。

どんな死に方であれ、
好きなように生きて死ぬのって、最高で自然なのではないかと今は思えるのです。


■そして今日は9.11。
アメリカの世界貿易センタービルやペンタゴンにハイジャックされた飛行機が突っ込んだ日です。
その後2つのビルは倒壊し、沢山の人が亡くなりました。
当時僕は友人とTVを見ていて、陳腐なB級映画と思ったら、現実でビックリしたのを覚えています。

そして、今もロシアとウクライナの戦争は続いているし、
チベットやウイグル、各紛争の地などでも毎日沢山の命が奪われ、苦しんでいます。

冒頭に書いた死はいわば自然死だと思います。
だけど戦争や侵略で失われる命は、怒りや悲しみが残って、あまりに違う死な気がします。

東日本大震災や台風、
天災でも沢山の命が奪われて悲しい、辛い事は事実ですが、
権力者の利権やプライド、資源や宗教の為に人殺しをする戦争とは、
まったく違うものと思います。

私たちは戦争というもの、侵略というものをなくしていこうとしなければと思うのです。
その為には、自分のお金の使い方、選挙の選び方、暮らし方、
そしてごく身近な家族との平和を維持することをやっていかなければと思います。


■Mement Moriメメント・モリ。
今回、友人が贈ってくれたこの言葉、
僕も最初にこの言葉に出会ってから、久しく忘れていました。

ラテン語で、
「自分が必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」「死を想え」という意味と言われています。

友人もそうでしたが、
俺もはこの言葉をポジティヴに捉えてて、
まさに全ての人に平等に訪れる死を受け止めて、
だからこそ今を生きるって捉えています。

この言葉を最初に意識したのは藤原新也さんの写真集を見た時だったと思います。
インドの魂の抜けた人の体が燃やされ、丸焦げになり、犬に喰われ、カラスが見つめているのを描写していて、
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」とコメントが添えてあり、
とても印象深い写真集でした。

その後、Mr.ChildrenやBUCK-TICKも曲のタイトルにしていたりしていて、
一時期、この言葉をいつも意識している時期がありました。

久しくこの言葉を忘れていたのですが、
友人が再び思い出させてくれました♪
どうもありがとう!


■最後に僕のバイブルの一つである「リトル・トリー」(フォレストカーター著)の世界がその真髄な気がします。
僕自身がこの本を紹介した友人が、
今回、このリトルトリーのいのちの話をしてくれて、
僕自身がまた再確認することができました☆

インディアン達が
「今日は死ぬのにもってこいの日だ。次もきっといいだろう」って言って、
身体の心(ボディマインド)が抜けていって、
霊の心(スピリットマインド)だけになっていく…

そしていつまでも霊の心は生き続けていて、
生まれ変わっていく。

リトルトリーのおばあちゃんが彼に教えてくれた、
霊の心を鍛え、愛と理解を教えるシーンが僕はとても大好きです♡

中学校の頃に学校の図書館で気になった本が、
今もこうして僕の中で生きています。

先住民の言葉を歌にして有名な「千の風になって」。

「私のお墓の前で泣かないでください」の歌い出しで知られるこの曲は、
アメリカ発祥の詩『Do not stand at my grave and weep』に、
小説家の新井満が日本語での訳詩を付け自ら作曲した歌です。

人の死について考えて、
自分の死についても考えた時、
自分がどう捉えて、どう受け入れていきたいか。

僕も妻も娘たちもいつかは死ぬのです。
次の代にすべてをゆずりながら、千の風になっていく…

あまりに儚い命のセミたちが、
今、母島の北部で大合唱をしています。

何年も幼虫で土の中で過ごした後、
ほんのわずかな時間、成虫として過ごして、
次の世代の卵を産み、土に還っていく…

自然界を見ていてもハッとさせられるし、
人の営みも結局はやはり自然なのだと思い知らされました。
そしてそれらすべてが、有難いと思えます。

そんな母島の夏の終盤、9.11でした。

全ての命にご冥福を祈ります。

想定外を楽しむ津軽海峡・梅雨景色 竜飛岬編 (資格取得ツアー⑦)

2022年09月07日 | 資格取得ツアー2022
前回(五能線編)⑥からの続き

■東北生まれの僕が、41歳で人生初の青森をたった2泊過ごした7月。
そこには想定外でたまらないギフトが詰まっていました。
だから旅はやめられない(#^.^#)
思い通りに行くだけの旅が味気ないなと思うのは、マイノリティなのでしょうか?(一言で言うとドМ)

合計3200㎞を走ったカブ90の旅の中の東北旅編。
人生初の秋田と青森を感じるのが今回の東北旅のメインでした。
そしてたった2泊の青森はブログ記事が三部作になってしまうほど、
濃厚な時間でした♪


想定外なハプニングのお陰で、
ずっと妻がお勧めしてくれていた竜飛崎の階段国道に行く事も出来ました。
元々行くつもりはなかったのに、です(#^.^#)

旅は予定通りに行かなかった時、より味わい深くなる気がします。
なので想定外をガッカリするどころか、ワクワクしてしまうのです(#^.^#)

バイクのマフラーが根元から折れるハプニングですら、
ドキドキワクワクで、結果素晴らしい出逢いに繋がっているので、
やはり八百万の神様の采配はすごいなぁと思ってしまいます。

■白神山地の青池や美味しいイカ焼きを堪能したあと、
僕は一路下北半島に向かうフェリーに乗るべく、
蟹田を目指しました。

フェリーでバイクとともに下北半島に渡り、下風呂温泉か恐山で野営をするつもりでしたが、
なんと蟹田に行ったら渡るフェリーがまだ夏ダイヤではなくて、
この日はもう下北に渡る便がないことが判明しました。(午後15時の時点)

天気も久しぶりの霧雨で、雨模様のキャンプは大変なので、
それを口実に今回の東北旅で初めてちゃんと宿を取ることにしました。

ここでも下北半島に渡れず、キャンプできずガッカリしている暇はなく、
さっさと気持ちを切り替えて、津軽半島を楽しむモードに切り替わっています(笑)。

ここまで来たら津軽半島の先端、竜飛崎に行きたくなるのは人の性です☆




■竜飛崎は青森の西側の半島、津軽半島の最北部にある岬です。

飛崎」は「飛崎」と表記する場合もあり、どちらも混在しているようです。

名前はアイヌ語のタム・パ(刀の上端)で「突き出た地」の意味、
龍が飛ぶかのように強い風が吹くことが由来など諸説あるようです。

有名な石川さゆりの演歌「津軽海峡・冬景色」でも歌われていますね。
印象的な歌詞に特徴的な旋律は子供の頃に聴いて、強烈に覚えていました。


下北半島の超お目当ての下風呂温泉の宿(さつき荘)も満室で取れなかったし、
天気と船のダイヤの想定ミスでむつ湾を渡れなかった直後、
妻と電話で話しながら、いい宿を探していて、
ふと目に留まる宿がありました。
半分諦めの気持ちで龍飛旅館に連絡してみました。

「ちょうど空いてますよ~」
なんと、気持ちのいい返事が返って来ました!

宿仕事をしていたので、いきなりの飛び込みの客に対して
食事の用意が無理があるのは十分知っていたので、
夕食は付けれるかと聞いてみたら、
「ちょうどこれから準備するところだから大丈夫ですよ~♪」
とまたまた最高のお返事♡

一体どんな宿なのだろうと思って、ドキドキしながらバイクを飛ばして向かうと、
風情のある漁港の町に歴史がありそうな素敵な佇まいでありました♪

今どきの綺麗でおしゃれな景観ではなく、
昭和の落ち着いた雰囲気でした。

宿に着くと、なんとも上品で笑顔が素敵なお茶目なベテラン女将さんが対応してくれました。
これがまた話が弾むように面白いのです☆

ホスピタリティとユーモアに溢れ、
湧き出る水のように青森愛と旅人への真心が籠っていて、
今日はフェリーと天気で下北半島に渡れなかった悔しさは消し飛んでしまい、
一気にこの宿のファンになってしまいました(#^.^#)

屋内にもバイクを置かせてくれる場所を用意してくれていて、
お隣には見事なハーレーがいました☆

部屋もむつ湾を見渡せる、落ち着いた和室のお部屋でした♪

この後、まだ時間があったので竜飛崎に行くのですが、
感動したのがこの龍飛旅館の豪華な夕食でした。

こちらは夕方は地元の食堂もしていて、地元の方が飲み食いに来ていて、
とてもアットホームな夕飯でした☆

厨房では若い夫婦が押しい料理を作ってくれていて、
ステキなベテラン女将さんが絶妙な声掛けとトークで、
素晴らしい料理を運んでくれていました。

美味しかった大好きなお刺身も、聞いたのにコブダイ以外は忘れてしまいました😢

美味しいビールを飲みながら、最高の食事を食べつつ、
色んな地元の話を聞く、こちらは小笠原の話をする。
もう最高でした☆

ほろ酔いで素晴らしい青森ヒバで作られたお風呂に入って、気持ちよくなり、
もう一度食堂に飲みに行こうと思っていたら、気持ちよくて部屋でぐっすり寝てしまいました。

なんて素敵な老舗の宿なのだろう。

旅先の宿にあってほしいなと思う条件がすべて揃っていた気がします。
これは母島でお客さんを迎える時にもいい気付きの連続でした(#^.^#)

早朝は宿の周囲の海辺を散歩しました。
このひなびた漁村というものは何とも言えない雰囲気と風情があり、とても好きな情景です。

散歩していた地元の方と色んなお話して、深刻な過疎化の話などを聞いていました。
津軽半島に来て、驚くほど子供を見かけなかったからです。


■感動した龍飛旅館の夕食前に少し時間があったので、本州最北端の竜飛崎にカブで行ってきました。
そこにあったのが有名な日本唯一の階段国道!

僕は東北旅好きの妻に聞くまで知らなかったのですが、
何度も何度もこの本州の最北端にある階段の国道の話を聞いていたので、
今回初めて行くことが出来て「ここの事を言ってたんだなぁ~」としみじみ感じていました(#^.^#)

調べてみると国道は道路でなければならないと決まってないらしいです。
この階段が国道に指定されたのは1974(昭和49)年。
当時は坂道の中腹に中学校、上に小学校があったそうです。
つまり通学路だったようです。

国道指定は坂の上から下へのルートを途中で分断させないよう、とりあえずこの区間も指定したのではないかとのことです。
車が通れるように拡幅する検討はしたそうですが、勾配がきつすぎることなどから、断念したようです。



■そんな念願の階段国道を上っていくと、龍飛崎灯台があります。
まさに石川さゆりの津軽海峡冬景色の世界。

この龍飛崎灯台は津軽海峡を航行する船舶にはとても重要な灯台で昭和7年(1932年)に設置されたそうです。

海面からは119m、地面からは14mの高さがあります。

天気のいい日はここから北海道が見えるようですが、
僕が行った日はわずかにチラッと見える程度でした。

おかげで今度は家族で龍飛旅館に泊まり、
いい天気の竜飛崎にリベンジする宿題ができました☆



■龍飛旅館で美味しい夕食を食べてぐっすり寝て、翌日はいい天気でした。
旅館の素敵な女将さんに「源義経のお寺があるから寄っていくといいわよ」とアドバイスを頂き、
蟹田に向かう途中に立ち寄ってみました。
龍馬山 義経寺(りゅうばざん ぎけいじ)です。

源平合戦でも有名な源義経。
彼は色んな伝説、色んな最後が言われています。

奥州平泉の衣川で自刃したといわれていますが、源頼朝に追われ、
竜飛崎まで逃げて、荒れ狂う海を前に観音像に祈ると、3頭の龍馬が現れ、海峡を渡ることができたという伝説が残っているお寺です。

ここには義経が祈りを捧げたという観音像が安置されています。
義経が海を渡った500年後、厩石を訪れた円空は、義経の守り神だった観音様が岩の上で光っているのを見つけたそうです。

そこで流木で仏像を彫りその中に観音像を納め、小さなお堂を建てて祀りました。
そのお堂がこの龍馬山 義経寺となり、円空仏は1963年(昭和38年)に青森県重要文化財の指定を受けています。

長い月日を遡って、当時の義経の心境や当時のこの場所の雰囲気を想像するだけで、
色んな情景が目に浮かびます。
そんなすごくいい場所でした(#^.^#)


■下北半島に行くはずが津軽半島に一泊し、竜飛崎、龍飛旅館に泊まって本当に良かった♡
想定外がもはや必然に思えてくるから旅は不思議です☆
天気も良くなり、最高のコンディションで蟹田に戻り、むつフェリーに乗り、ついに下北半島へ!!

ライダーさんもちらほらいて、僕と同じように天気で昨日渡らなかった方もいました。
「昨日何回かすれ違ったね」とヤエーをしあった仲でした(#^.^#)

一緒に旅をしている愛車とフェリーに乗って1時間の船旅。

船の上でライダー同士はもちろん色んな会話をするのもいい時間でした。
下北半島に着いてからのコース、
大間でのいい食事処、
リタイヤして夫婦で旅する人達、
僕はやっぱりそんな会話のできる船旅が大好きです♪

■なんと過去に沖縄のやんばる、辺野古に先祖のルーツがあると知り、
驚いたのですが、今回はなんと津軽藩もご先祖の誕生の地だったそうです。

山鹿さんは幕末に津軽で産まれ、アメリカに渡って牧師になったそうです。
祖父母が結婚の挨拶で横浜に行った時に当時90代でご健在だったそうです。
東北学院設立にも関わったそうです。

その従妹の方が政府から賞をもらったり、宮中でお茶を賜ったりしたそうです。
祖母の先祖の動産は大河ドラマの主人公になったとか、
色々面白い先祖が揃った家計の様です(#^.^#)
そんな想定外も楽しめています♪

そんな訳で、
自分の先祖と津軽のご縁を知ったりしましたが、
次回の下北半島編で青森編三部作はおしまいです。

まだまだ3週間の資格取得ツアーは出来事が多すぎて、書ききれません(笑)。
僕の危うい記憶力でどこまで覚えていられるのか☆

ゆっくりと書いていきますので、お楽しみに♡

前回の記事
青の世界へようこそ!! 五能線編(資格取得ツアー⑥)