■物事を進める時、うまくトントンと事が進み、すべてがうまくいく事があります。
逆に、何をやってもうまくいかない時もあります。
この時はまさにすべてがうまくいき、奇跡が起きて、その波にうまく乗れたなと思った瞬間がありました。
それは2025年2月。
小笠原発見のルーツを探す旅で起こった出来事でした。

■あなたは「嶋谷市左衛門(しまやいちざえもん)」という名前の人を知っていますか?
小笠原諸島に関わっていれば「小笠原貞頼(おがさわらさだより)」という名前は聞いたことがあると思います。
小笠原諸島の名前の由来にもなっていますし、父島の扇浦には小笠原貞頼神社があります。
しかし、小笠原貞頼について、今は伝説の存在となっている説が有力で、その存在は定かではありません。
実は今から丁度350年前の江戸時代1675年(延宝3年)に江戸幕府の命を受け、
歴史上初めて小笠原諸島を巡検して、しっかりと記録を取り、幕府に報告したのが嶋谷市左衛門さんなのです。
その確かな記録のお陰で、小笠原諸島は明治9年に国際的に日本領土と認められることとなりました。

↑長崎歴史文化博物館にあるレストランの壁に飾られた古地図
お陰で今は僕たちが住むことができていますし、
排他的経済水域はなんと世界で第6位にまでなっているのは、
小笠原諸島(硫黄島などの火山列島、沖ノ鳥島、南鳥島を含む)の存在がとても大きくなるのです。

↑レストランの古地図には小笠原も描かれてる?
■この重要な巡検はとある船乗りたちの漂流からの帰還がきっかけとなっています。
嶋谷が小笠原を巡検する5年前の1670年2月(寛文10年)、母島に漂着した船乗り達がいました。
彼らは徳島県海陽町浅川の船乗りで前年の11月に和歌山県有田市宮崎でみかんを積んで、江戸に向かう途中でなんと漂流してしまい、母島の海岸に辿り着いたのです。

↑徳島県海陽町の阿波海南文化村にある海陽町立博物館の玄関前にある冥福の碑
船頭の勘左衛門さんは、漂流の疲れからか、母島に着いた翌朝に亡くなってしまったそうですが、残りの船乗りたちは壊れた船を修復し、なんと自力で本土の下田に帰還しているのです。
その報告を聞いて、幕府は八丈島の遥か南に無人島があることを知ります。

↑描かれた母島
東京都公文書館に所蔵されている江戸~明治期の小笠原の資料「小笠原島記事」より
■当時、バリバリの鎖国真っ只中で、遠洋航海も禁じられている時代でしたが、
30代まで遠洋航海をしていて技術を持っていた当時69歳の嶋谷市左衛門さんに、八丈のはるか南にある無人島への巡検という白羽の矢が立ったのです。
当時で69歳の船頭というのはかなり高齢だったとは思うのですが、
漂流して帰還した船乗りたちの情報のみで、八丈より700㎞南の小さな島を見つけて、
調べて帰ってくるのですから、すごい偉業だと思います。

↑描かれた母島列島
東京都公文書館に所蔵されている江戸~明治期の小笠原の資料「小笠原島母島列島圖」より
■今回、2024年12月議会で小笠原諸島巡検350周年記念事業実行委員会が発足し、僕も委員に選ばれ、長崎に視察に行ってくることができました。
まさに小笠原発見のルーツを巡る旅です。
このカテゴリーではその報告をしたいと思います。

↑長崎から羽田に帰ってくる際の飛行機からの美しい景色
■まず、この嶋谷関係の小笠原発見のルーツを探る旅というものは、
沢山の奇跡と出逢いがありました♪
あまりに偶然が必然を呼んでいるので、これはもう神様の采配としか思えないほどです。
これらの過去の出来事、先人たちの暮らしがなければ、
今私たちが幸せに島暮らしをすることはできていないと思うので、
関係してきているすべてにリスペクトの気持ちを込めて書いていこうと思います。
元々、嶋谷市左衛門については小笠原貞頼に比べて有名ではありませんが、
過去に出版された本や展示で時々触れられていました。

↑国立公文書館に所蔵されている江戸~明治期の小笠原の資料「小笠原島記事」
しかし、それだけではこの巡検350周年の事業には至ってなかったと思うのです。
まず、事のきっかけは父島の郷土研究家でのある延島さんが、
2024年の5月に滋賀県東近江にある博物館「西堀榮三郎記念 探検の殿堂」の企画展「小笠原諸島の探検家・嶋谷市左衛門」を見に行ったことが大きなきっかけだと思います。
延島さんはインターネット上でこの企画展の情報を発見し、上京時に行く計画を立てます。
しかし、行く予定の日を都合により1日ずらしたそうですが、この予定変更のお陰で、奇跡の出逢いが発生します。
その日、博物館に長崎から「嶋谷市左衛門を顕彰する会」のメンバーがたまたま来ていたのです。
そこで偶然にも延島さんに出会い、挨拶と情報交換を行ったのです。

↑咸臨丸と父島
東京都公文書館に所蔵されている江戸~明治期の小笠原の資料「小笠原島記事」より
その後、小笠原の渋谷村長も延島さんから話を聞いて、企画展を見に行き挨拶を行い、僕も5月の内地出張の帰りに船の中で延島さんにこの出会いの話を聞くことになり、そのご縁もあり9月議会での嶋谷に関する一般質問に繋がっていきます。
そのやり取りの中で、僕も嶋谷市左衛門を顕彰する会の方と繋がることができました。
そして12月議会で小笠原諸島巡検350周年記念事業実行委員会が発足の補正予算が認められました♪
僕も実行委員を務めることになりました。

↑アウトリガーカヌーが描かれています。
東京都公文書館に所蔵されている江戸~明治期の小笠原の資料「小笠原島記事」より
そして、今回2月に実行委員会の事業部会メンバーが長崎視察に行ってきたのですが、
そこでも沢山の奇跡が起こりました!
まずは長崎行きまでに東京到着から土日などがあり、
日程に空きがあったので、
僕は個人行動で最初に漂着したみかん船の徳島県海陽町に行くことにしました。
ほぼ5日前に行く事を決めて、いきなり行った強行スケジュールだったのに、
なんとそこでは母島に漂着した船頭・勘左衛門さんのご子孫さんに逢うことができたのです!
さらには長崎でも逢えると思っていなかった嶋谷市左衛門さんのご子孫にまで逢うことができたのです!
→詳しくは続き②をどうぞ
※ゆっくりアップしていきます。
・小笠原島記事21(眞景図)
・小笠原島記事22(島真景図)
・小笠原ゆかりの人々/田畑道夫・著(小笠原村教育委員会)