小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

青ヶ島の風景♪(青ヶ島滞在記⑥)

2020年03月30日 | 青ヶ島 滞在記
その⑤の続き

■いよいよ、長く続いた青ヶ島編、最終回です。
たった1泊でしたが、我が家にとっては2年前の妻の滞在、
去年の愛らんどリーグでの出逢い、
そしてこの1か月の短期留学のクライマックスに行った1泊でした。

まだまだゆっくり味わいたかった青ヶ島ですが、
1泊でもお蔭様でとても濃密に過ごす事が出来ました。

青ヶ島の絶景を望める大凸部(おおとんぶと読みます)付近から見る美しい朝日。

島で対応してくれた友人・知人の皆さん、
小笠原にルーツや親戚のいる青ヶ島の皆さん、
温かく我が家を受け入れてくれた島の皆さんのお蔭です。
どうもありがとうございました♪

最後は青ヶ島の圧倒的な景色を振り返りたいと思います。


■やはり最初に行ったのは絶景の2重カルデラを眺める尾山展望台。

この圧倒的な景色は何度見ても言葉を失います。

尾山展望台から少し奥に行くと東台所神社があります。

こんなところに立派な神社があることにビックリです!!

この神社は1757年、失恋の腹いせに島民7人を殺傷し、入水自殺した朝之助の霊を鎮める為に建てられたそうです。
いわば祟り神を祀る神社ですが、今は縁結びの神様として島民の信仰を集めているそうです。

雰囲気がありますね。

神社の参道は驚くほど急勾配で玉石を登るというもの。
知らずに上った妻から聞いてはいましたし、
案内マップにも表の階段参道はお勧めしないと書かれていました。

なるほど、すごい勾配な上に苔生した玉石!
僕はライトな尾山展望台からの道で参拝しました(#^.^#)

その尾山展望台からの美しい2重カルデラ地形!!

この圧倒的な景色は写真では10%も表現できていないので、
気になる方はぜひ青ヶ島に行ってみて下さい♪

■密かに友人と遊歩道を歩いていてテンションが上がったのは、ナナホシテントウを見つけた時!!

小笠原にはまったくもって存在していないので、見れてすごく嬉しかったです♡

遊歩道にはちらほら椿が落ちていました。

小笠原の椿、ムニンヒメツバキを違い、しっかりと大きな可憐な花でした(*^_^*)


そこら中に自生している明日葉。
これが本当に美味しい♡
これはホントに羨ましい環境です(#^.^#)


たった1泊の唯一の朝は大凸部へ。圧倒的な朝日を拝む事が出来ました♪

■集落から下に降りて、ジョウマンと呼ばれる方に行くと、共同牧場があります。

青ヶ島は牛祭りがあるほど、牛の畜産には力を入れていると思っています。

母島ではもうほとんど牛の飼育はしていないですが、
母島の畜産指導所閉鎖の説明会の時に、東京の島では青ヶ島が主な牛の生産地を言われていたのを思い出します。

最後に島を離れる次女も連れて行き、牛さんとお別れです。


二重カルデラのある内輪山の中にある池之沢にある噴気孔群。
アツい蒸気が立ち上っていました(*^_^*)

青ヶ島に行った日は奇跡的にとても暑い日で、
サウナには入りませんでした(笑)。(前日の八丈は超寒かった!!)


サウナの近くには地熱で調理できる地熱釜「ひんぎゃ~」があります。

次女たちも毎週サウナに来る日があって、ひんぎゃーに芋などを入れて、
サウナで暖まって出た頃には、しっかり調理が終わってるという流れだったようです(*^_^*)

なんと、帰りのははじま丸で船上で初対面の方に
「ひょっとしてお宅の娘さん、青ヶ島のサウナにいませんでしたか?」
と言われ、ビックリしました(笑)。

なんでも少し前に仕事で青ヶ島を訪れ、
サウナで腹筋100回している子供がおり(笑)、←うちの次女ですw
そこで母島の話をしていたというのです(*^_^*)

世界は狭いもんですね~~!
ビックリでした(#^.^#)

近くには地熱を使って自然塩を作る塩工場もありました!

それが「ひんぎゃーの塩」になるわけですね♪
映画「アイランドタイムズ」でも島に帰って来た島っ子が塩工場で働いている場面があります。

有難いことに、お土産で頂きました(*^_^*)


ヘリポートの先に行くと金毘羅神社がありました。

ここは天明の大噴火の後、無人になった青ヶ島に帰島する際、
航海の安全を祈祷した船頭が、その後事故に遭わなかった為に
金毘羅大権現を勧請したとされているそうです。

少し窓越しに中も覗かせてもらいました。
様々な神事の道具、ご神体などが祀られていました。

これまでお世話になった感謝、
この日乗るヘリの無事のフライトを祈りました☆

美しい朝日の木漏れ日の中、帰りの参道を戻ります。

その景色が朝日に照らされて、セピア色であまりに綺麗で、
青ヶ島に祝福されているような、そんな気分になりました。
こういう時、すべてがうまくいきます(#^.^#)

1か月も次女がお世話になり、
こうして無事に最終日を迎える事が出来た…
本当に感謝の気持ちでいっぱいです♪


■こちらは青ヶ島唯一の売店、十一屋酒店です。
まさに島の中心地。
素晴らしい品揃えでした!!

こちらのお母さん、荒井さん夫婦には本当にお世話になりました。
次女も最後挨拶に伺い、本当に大事にして頂いたことが伝わって来て、泣きそうになりました。

離島時には沢山のお土産を頂きました♪
本当に有難うございます!!

やはりひんぎゃーの塩を使ったクッキー。


青ヶ島特産の焼酎、青酎。


チョコレートケーキ。
家族で青ヶ島が舞台の映画「アイランドタイムズ」を見ながら頂きました♪
超美味しかった♡


可愛い青ヶ島手拭い♡


ひんぎゃーの塩ラーメン!!

どれも島の人が一生懸命作っているものばかり。
すごく頑張りが伝わって来て感動しましたし、すごく嬉しかったです♪
ありがとうございました!!

■というわけで、なんと6回にも渡り続いた青ヶ島シリーズこれにて完結です。
これから、その後もあるのですが、とりあえず滞在記としてはこれでおしまいです。

たった1泊なので、全然ゆっくり見ることもできず、
まだまだ足りないです。

僕も関わっている東京宝島事業の島レポートにONE STORYというのがあります。
それで青ヶ島もとてもステキに描かれているのでぜひご覧ください。
個人的には居酒屋もんじの写真が大のお気に入り♪
とってもアットホームなもんじの雰囲気を見事に写真に納めています。

広報青ヶ島2020年3月号には、なんと次女の事が書かれていました(#^.^#)
青ヶ島教育委員会の皆様、ありがとうございます(#^.^#)

本当に家族全員、青ヶ島の皆さんに大変お世話になりました!
自分が行ってみるまで、ここまで母島とご縁があるとは知らなかったし、
次女が「母島と同じ1番大好きな島」と豪語するまでになった青ヶ島。

この繋がりを大切にして、
これから何度も訪問したいと思っています。
お互いの島にとって必ず良いものが生まれると信じています。

どうもありがとうございました!!

母島の緊急搬送を支えてくれる人達。

2020年03月29日 | 母島 日常 日記
■先日、知り合いの緊急搬送に少しだけ関わることがありました。
その関わりで、島で暮らしていて、こうした部分で支えられているんだなぁと再確認する事が出来ました。
本当に感謝です。

母島の急患搬送はヘリコプターです。

何か緊急の搬送が発生した場合、
自衛隊のある硫黄島からヘリコプターがやって来て、患者を乗せ、
硫黄島経由で内地の厚木、羽田などに搬送され、
そこから都内の提携病院(都立広尾病院など)に搬送されます。

内地で救急車を呼ぶのと圧倒的に違う部分は、
かかる時間でしょう。

もちろんこの超遠隔離島において、
費用面、人件費、関わる人の人数はその比ではないですが、
緊急搬送という観点から見ると、圧倒的に時間がかかります。


■緊急搬送を要請して、関係各所に連絡し、調整してヘリが島に来るまでに約6時間近くかかっています。
そこから硫黄島までは2時間くらい?そこから内地までが3時間くらいなはず(まだ調べれてないです)。

つまり、緊急で数十分レベルでの緊急搬送はそもそも難しいのが、
小笠原における現状です。
もの凄い超遠隔離島なので、仕方ない部分なのかもしれません。

父島の場合はヘリだけでなく、昼間は飛行艇で搬送していました(今はヘリだけなのかな?)。

僕も妻のお腹に長女がいた頃に、
1度だけ飛行艇で緊急搬送にお世話になったことがあります。

僕は切迫早産の妻に付き添う形でした。
初めて見た空からの父島の美しさは忘れられません(搬送される本人はタンカー固定なので景色は見れない)
本当に多くの人に助けて頂きました。


■今回、久々に緊急搬送に少しだけ関わることができて、分かったことは、
それに関わる人の多さでした。

休日の搬送にも関わらず、
診療所のスタッフ、村役場、東京都、駐在所の職員の皆様が、
休日返上で関わってくれていました。

僕が把握できる母島側だけでもこんなに沢山の人が関わっています。
そして、その後の中継地の硫黄島、内地での空港、そして病院までの救急隊、
病院側の受け入れと、本当に多くの人々に支えられているのが想像できます。

本当に有難い話です。
この皆様は私達が休日の今も、
何かあったら対応する様に電話で待機の体制を組んでくれているのです。

僕自身も野生動物の救護をする鳥獣保護員として、
24時間電話待機のつもりでいますが(つながらない場合は他メンバーがフォローの体制)、
やはり人命の重さはとても重要です。

今回の件で、その人々に暮らしを支えられていることをまざまざと見せつけられて、
本当に感謝の気持ちが溢れてきました。

日々、私達の暮らしを支えてくれて本当にありがとうございます!

次女も今回は島の緊急搬送を見送れて、学びになったと思います。

搬送された知人も無事の連絡を内地から頂きました。
ほんとホッとしました。

また無事に島に帰って来て、他愛のない話ができる事を祈っています(*^_^*)
当たり前の日常の有難みに感謝です。

今回、世界を揺り動かしている新型コロナウイルス。
万が一、島で感染者が出ても、自衛隊が対応してくれることになりました。
新コロナの話が出たこの1月段階では搬送できない状況だったのです。

これも島の元村議の方がわざわざ内地にまで行って動いてくれた結果です。
本当に感謝です!!
みんなに私達は支えられています。

そんな事を確認させてくれた出来事でした。


■さてさて、中国の武漢から始まった今回の新型コロナウイルス。
イタリア、アメリカ、そして日本と爆発的に感染者が増加しています。

世界保健機構(WHO)がパンデミック宣言を行いました。

東京オリンピックの延期が決定してからは
この1週間で東京の感染者がうなぎ上りに上がっています。

小池東京都知事が不要不急の外出は控えて下さい!と要請を出しました。
実際、渋谷の交差点、成田空港など普段では信じられないほど人がまばらだそうです。

小笠原は現在感染者は出ていませんが、いつ侵入してもおかしくない状況ですし、
もう無症状や潜伏期間という形で入っている可能性もあります。

とても興味深い記事がありました。

【~フランスの感染症の権威が数日前に「ぼくらはこのウイルスを侮っていた。
ここまで凄いウイルスだとは思わなかった。
欧州の医療レベルであれば勝てると思っていたのに、すまない」と番組で謝罪をした時、背筋が凍りついた。

今日、フランスではパリ近郊で16歳の女の子が、イギリスで21歳の健康な女性が死亡した。
決して、若ければ重篤化しないというわけではないのだ。~】


島に新型コロナが入ったら、確実にやばいと思います。
脆弱な医療しかない。
内地よりずっと限られた医療メンバーしかおらず、医療者側の負担でオーバーしてしまうことは目に見えています。

観光客、この年始の内地からの赴任者を一旦止める、
島に戻る島民は一律で全員検査をするはできないのでしょうか?

観光業、サービス業、第1次産業、エンターテイメント、
そして医療、介護の現場、インフラ関係。
ほんとこれが長期化する可能性がある中、本当にキツイと思います。

営業を止めてもらう代わりに、保証はできないのだろうか?

止めれない生活インフラ職の皆さん、イタリアやアメリカの惨状を見るとあまりに酷過ぎます。

新型コロナの現行の法律の位置付けではなかなか強制命令は厳しいようです。
村長権限ではほぼ、そうしたことはできないそうです。

崎で数十分で陽性陰性を高確率で判断できる機械が開発され、保険適用になったそうです。
島でも早急に検査できる機械を導入してほしい。
出来る限りを尽くしてほしい。

間接的にも人の命を脅かしているという現状を理解していかなければと思います。

こちらはアイルランド首相のレオさんのコロナウイルスに関する緊急スピーチ。
各国の首相のスピーチは本当に頑張ろうという気にさせられる。

島でも頑張っていかなければ。


■今、長女が留学しているカナダもどんどん飛行機の運航が停止してきています

八丈ー羽田間も一番人の多い時間帯の昼の便は3/30~4月末まで運行を止めるそうです。
苦渋の決断だったと思います。

やはり小笠原ー東京はもっとシビアになっていい状況なのではと思うのです。
今の検温と問診だけでなく、
なるべく乗るのは必要のある島民だけにして、
乗る島民と船員は全員検査して欲しいと思っています。
(それでも無症状、潜伏期間の人は検出できないかも!?)

留学生の緊急帰国についてもさまざまな問題が発生しています。
留学生は帰国してからもさまざまな障害があるようです。

カナダ留学の長女についても、
まだ未成年の16歳。
最善を尽くすために現在対応中です。

様々な事に言えますが、当事者にならないと分からない事が多いです。
出来る限り最善を尽くすし、余裕がある方は周りをフォローしてほしい。

私達も沢山の人に支えられています!!
本当に感謝です(*^_^*)

■そんな前例のない大変な世の中ですが、やはり大自然に囲まれた人の少ない小笠原は、
実際に有難いことに人に会わずにフィールドで過ごせる場所が豊富にあるので、
とてもとても助かっています。

自宅と山や畑に乗り物で移動する範囲では、
新型コロナウイルスをもらうのも、仮に持っていても人にうつす心配は低いです。

しかし、今回の新コロちゃんは感染力がとても強く、
ちょっとの接触で爆発的に感染が広がっています。

無症状や長い潜伏期間など、事態をより難しくする要因が多いのが厄介ですが、
やはりこれもピンチはチャンス。

色んな事に気付き、学ぶ機会だと思うので、
謙虚に構えつつ、この状況を前向きに捉えて行ければと思います(*^_^*)

フィールドの写真の腕を磨くのもいい機会です。

現在、東港には父島で長く使われていた双胴船が置かれています。

船体の損傷は深刻で、もう使うのは難しいようです。
これは解体するために置かれているとのこと。

私達が父島に住んでいて、夏休みにラジオ体操していた興洋岸壁にいた船です。
近年は繁盛期のダイビングなどに使われていました。

ハワイのホクレア号が復元したように、
太平洋の石器時代の民が遠洋航海したのもこの双胴型のカヌーと言われています。

おそらくこの東港も石器時代に木で作られた双胴船が置かれていたと想像します。
ここから見える山や海の景色はさほど大きく変わっていないでしょう。

昔のスペイン風邪が鳥インフルエンザと言われ、
全世界に多数の死者をもたらしました。

現代は飛行機という道具が仇となり、
あっと言う間に全世界に拡散しています。

しかし、今はインターネットで沢山のフォロー、
自宅にいても自分で情報を集める事が出来ます。

それが逆に悪い面も多々ありますが、
いい面も多々あります。

結局はその人次第、と言ったところでしょう。

新型コロナウイルスが1日も早く収束することを切に願っています。

その東港にいたチュウジャクシギです。
渡り鳥たちはどんな目線で私達ヒトのパンデミックを見つめているのでしょうね?





ありがとう。出逢いとお別れの春。

2020年03月25日 | 母島 日常 日記
■「本当にお疲れ様。どうもありがとう♪」
新コロナウイルスの感染者数が東京で1日で40人以上が増え、ついに感染者が北海道を東京が越えた日。
東京オリンピックの延期が決まり、日本、世界中に様々な影響を与える頃、
密かに母島で10年の幕を閉じるちっちゃな出来事がありました。

次女が使っていたこのランドセル。
小学4年生の次女が3学期の終業式の日に最後を迎えました。
10年間、よく使われたランドセルでした。

この水色のランドセルは長女が6年間使ったランドセルでした。

10年前の2010年、ピカピカのランドセルで入学式を迎えた長女。
丁度、6歳離れている姉妹なので、長女には「このランドセルは次は妹が使うから大事に使うんだよ。」と伝えました。

彼女は6年間、妹の事を想い、本当に丁寧にランドセルを使いました。
雨の日はカバーをかけ、いつも大事にしていました。

お蔭で、踏んずけて、ぶん投げて、最悪の扱いをした記憶しかない僕のランドセルと違い(笑)、
妹に渡したときのランドセルは所々小さなヒビや擦れはあったものの、
驚くほど綺麗な状態でした。

それにお好みのカバーをかけて、次女は小学校に入学しました。
みんな周りは新品のピカピカのランドセル。
次女のは6年も大事に想われて扱われたランドセル。
お金では買うことのできない、とっておきのランドセルでした♪

中学生になったばかりの長女と、
小学生になったばかりの次女が、
並んでB線を投稿する景色はとてもいいものでした(*^_^*)

今度はその景色を次女がひとりで歩きます。

大きく成長したなと感じました。

「いってきます!」と振り返って手を振ります。
毎日、繰り返される日常だけど、今日はなんだか景色が違って見えます。

姉が大事に扱った6年間の気持ちは分かっているのか?
と思ってしまう様な次女のランドセルの扱い。

元々、12年は持たないよ、と島の先輩に言われていたのですが、
やはり、姉の大事な扱いのそれとはやはり違いました。
のびのび育つ末っ子魂、炸裂です(笑)。

もう、入れたものが横から落ちる状態になってしまい、この春でお別れを決めました。

5年生の新学期からは姉の中学生のカバンを使うそうです(*^_^*)
おさがりって、新品じゃない分、どこか恥ずかしい事もありそうなものですが、
大好きなお姉ちゃんのカバンだと、嬉しそうです(*^_^*)


■そして母島の春と言えば、お別れシーズンです。
沢山お世話になった教員や卒業生、離任の仲間が島を去っていきます。

小笠原は週に一度の出港日がそのお別れの日です。
港では花で飾られたレイが渡され、盛大な見送りが毎週続きます。

ホント毎回目頭が熱くなります。

お父さんはもう少し島に残り、奥さんと子供が先に引き揚げる。

船に乗るタラップの上でお父さんとハイタッチ。
「先に行ってるよ!」


保育園のみんなも横断幕を書いて、見送ります♪

卒業生も内地に進学する為に巣立ちです。

これはサッカー部恒例の胴上げ。

母島は子どもだけの人数では足りないので、
大人のサッカー部にも高学年や中学生も一緒に混ぜてもらい、試合をしています。

汽笛が鳴ります。
いよいよお別れです♪

島で長いこと暮らして、本当に島の色んな場面で活躍してくれたファミリーの引き揚げです。
目からは大粒の涙。

ここで過ごした日々を物語っています。


見送り小笠原太鼓です。

太鼓の軽快なリズムが引き揚げの出港を盛り上げます。

「いってらっしゃい!!」
みんなで大声で手を振り見送り、海に飛び込みます。
これが島の見送りです☆


最初に小笠原に住んだ頃(18年前)はこのお別れが本当に辛かったです。
今はどこか慣れてしまっていて、
また縁があってどこかで会える気がするので、
今後のめぐりあわせにワクワクするほどになってきました(*^_^*)


■先日の休日は久々にゆっくり、まったりな時間が過ごせました♡

次女は妻に素敵な双眼鏡をプレゼントしてもらい、早速ホエールウォッチング(*^_^*)

そしてホッピング。
この日はすごい回数を飛んでいました。
恐らく1000回を超えていたのでは(笑)?

なんと両手放しでもできる様になり、すっかりご満悦でした(*^_^*)

頑張り過ぎて、内腿が内出血になったのは内緒です(笑)。


■現在、新型コロナウイルスは全世界をとても深刻な状況に陥らせています。
こちらはドイツのメルケル首相による新型コロナウイルスに対する対応の演説全文です。

とても住民に寄り添った、丁寧な演説だと思います。
すごく参考になります。

カナダ留学中の長女も帰国すべきかどうか、
現在、検討中です。
とても難しい問題です。
後悔しないようにベストを尽くしたいですね。

現在、小笠原は役場や都の施設の利用とイベントの自粛要請のみで、
学校は3/9からほぼ平常通りに行っていました。(大人数の卒業式などは縮小、短縮で実施)

ですが、小笠原も学校再開で、考えないで元通りにせず、
きちんと自分たちで考えて、対応してくべきです。
上から言われるまで待っていてはだめです。

僕が今、会長をさせてもらっている母島青年会は
先日予定していた、毎年恒例の送別会を中止決定しました。

中止決定までに役員会を複数回開き、みんなで夜遅くまで審議しました。

介護の仕事もしている僕であることもそうですが、
島も感染が分からないだけで、かなりシビアな状況にあると思います。

全世界が新コロナの対応に追われている中、
島はあまりに平和なのほほんムードが強いです。

高齢者や疾患持ちの人の命を守るために、
私達もできる限りの事をして、
感染の危険のある絶対数を減らしていかなければいけません。

しかし、ここにきてもやっぱりピンチはチャンスだと思います。
世界的にも人々の行動と判断が試されています。
これを機に色んな事をシフトしていきましょう!!



ひよこ誕生♪母島の春

2020年03月21日 | 母島 農 日記
■うちは畑で烏骨鶏を十数羽飼っています。
なななんと!ついに待望のひよこが生まれました♡

毎年、卵を温めるも、なかなか孵化しませんでした。
今年はその絶対数を増やし、ようやく1匹孵化しました♪

本当に久しぶりです!!

速報を受けて、普段ではあり得ない早起きをして、畑に来た次女ちゃん(笑)。
抱っこした後は「ぴよぴよ♡」しか言わなくなる畑の朝です(*^_^*)

動物の赤ちゃんはほんと全部可愛い。
種別が違っても可愛い♡

ずっと、うっとり眺めています♪

もう、これはみんなに可愛がってもらうためとしか思えないほど、
幼い命は儚く、存在自体が可愛いのです♡

思えば子ヤギも子豚も子犬も仔猫もヒトも、
ちっちゃいころはみんな可愛いのです(*^_^*)

うちの次女さん、もう連日ひよこに会いに畑に通っています(笑)。


■現在、うちの畑ではヤギと一緒に烏骨鶏を飼っています。
今の所、大きな問題もなく、それなりに仲良く過ごしております。

しか~し、可愛い存在が来ると話は別です(笑)。

いつも可愛がってもらっていたのに、急に放っとかれるヤギのゆり。
思わずこんな顔に(笑)。

昔、子猫を拾って、家族中が「きゃあ~♡」になってしまい、
飼っていた犬が尻尾すら垂らして「どうせ、俺なんか、仔猫みたいに可愛くないんだ…」とトボトボ歩き去って行ったのを思い出しました(笑)。
(そんなことないぜ!!遊ぼう!!と言うと、最高の笑顔ではしゃぐ犬の一途さにもヤラれましたw)


■さてさて、そんな3/20は母島小中学校の卒業式でした。
総理大臣による全国一斉休校の要請。
東京の島では小笠原村と青ヶ島村だけがいち早く、体制を整え、学校を再開しました。

卒業生が撮った素敵な瞬間。飾りのブーゲンビリアを空高く舞い上げる!!

しかし、島でも新コロナ感染防止対策の為に
在校生と卒業の保護者以外は会場に入れない厳戒態勢の卒業式。

いつも島の人がみんなの晴れ舞台を見に来て、
感動する式なだけに、見に行けず悔しかったです。

後から校長先生に「校庭でやれば良かったですね!」と言ったら、
「ああ!そうじゃん!!もっと早く言ってよ!!」と悔しがられました。
思いついたのが式の2日前だったのが悔やまれます。

そうすれば兄弟も島の人もみんなで祝福できたのに~~!!
ピンチはチャンス!
もっと柔軟に考えて行動して、楽しんでいこう(*^_^*)

そんな訳で、僕の職場でもある明老会のかえるさんも学校前で祝福の笑顔♡
前日に、去年の台風の影響で咲かなかった島のカンヒザクラを咲かせようと、
利用者さんと作った桜の花も飾られています(*^_^*)

愛の気持ちが大き過ぎて、花弁が通常の10倍くらいのサイズになって、祝福してくれています。

うちの長女が母島中学校を卒業したのが1年前。
もう1年も経つんですね~

今はカナダの高校に留学し、楽しそうに過ごしています。


■そして、なんと!
母島フォトコンテスト2020の優秀賞に応募した写真が選ばれました

タイトルは「虹を越えて」。

ははじま丸の先に虹がかかり、カツオドリが越える光景。
20年近く住んでいて、初めての光景でした♪
一眼レフでなく、小さなコンデジで撮った作品です(笑)。
素直に嬉しいです♡

実はこの写真、カツオドリは虹を越えてますが、
ははじま丸に乗ってる自分たちは、沖港に向かってもどんどん虹が後退し、
虹を越えれてないんです(笑)。

先日は母島島民の受賞者5名と一緒の表彰式がありました(*^_^*)※あとの人は内地の様です。

優秀賞で可愛い賞状(裏が当選作品!)と賞金5000円を頂きました!
わあい!!

早速、その場で母島産のカカオで作られた、超高級チョコレート「TOKYO CACAO」(3000円+税)を購入しました♪

ひとかけら数百円もする超高級チョコレート。
高級すぎて、普段は絶対買えないのですが、
表彰を受けたこれはチャンス!!と思って、観光協会で勢いで購入しました♪

まだ食べずに大事に取ってありますが、とっても楽しみです(*^_^*)


■そしてまたまた嬉しい報告。
2か月遅れでレモンの花芽が来ました!

去年の台風で大ダメージだったからか、いつもの時期には全然花芽が来る気配すらありませんでした。
今年は実を付けないのかもと思っていただけに、本当に嬉しいです♪

自然の力に感謝ですね(*^_^*)!

今年は暖かい冬で不作気味だけど立派な人参も採れています(*^_^*)

本当に有難い限りです☆

これからは夏野菜の作付けシーズンです。
オクラやローゼルがこれからになります。

今の所、玉川農業用水ダムの水はほぼ満水!!

飲料水の乳房ダムは95.8%(2/21現在)若干減ってきているそうです。

水がある事が当たり前でなく、
本当に有難いことを実感しています。

星野道夫さんの名作「旅をする木」の一節
「寒いということが人と人を暖め 遠いということが人と人を近づけるんだ」
そう、離れることで気付く沢山の気付きがあります。

飲み水も、人々と語り触れ合える状況も失ってハッと大切な当たり前と気付かされたものです。

日々に感謝ですね(*^_^*)


空飛ぶ漁船(青ヶ島滞在記⑤)

2020年03月20日 | 青ヶ島 滞在記
→その④の続き

たった1泊の滞在にここまで記事が続くのは珍しいです(笑)。
それだけ、想い焦がれていた青ヶ島に上陸できたのは、本当に嬉しかったです。

■さてさて、今回の記事はようやく青ヶ島観光です。
母島からなんと青ヶ島に移住した友人がいて、お休みを取って青ヶ島の案内をしてくれました♪
島の色んなエピソードを教えてもらいながら、色んなところを案内してもらいました。
本当に感謝です♪

幸運にも滞在中は風もなく暖かい天気に恵まれ、幾つもの素晴らしい景色を見ることができました。
圧倒的なその風景の数々に言葉を失いました。

青ヶ島の友人に色々連れて行ってもらった中で、
幸運にも偶然見ることができたのが有名な「空を飛ぶ漁船」でした。

青ヶ島は周囲が崖で、ビーチがありません。
流れの速い黒潮に囲まれた接岸が厳しい唯一の三宝港。

激しい高波で、高く作った先客待合所も船揚場も大時化時には波をかぶってしまうそうで、
今では漁船は船を毎回毎回クレーンで吊って、高台に納めているのです。

話には聞いていましたが、ちょうど島の唯一の港を見に行ったときに、
漁船が量から帰ってきたので、その場面を一部始終拝見することができました。

港に着き、クレーンに漁船を接続し、岸壁の高さまで上げたら水揚げです。
水揚げされている魚はハマダイに見えました。

クレーンを稼働させる時は、何とも言えないメロディーが流れます。
船置場に行くまでに一般車道の上を通る為、
クレーンゲームのようなやけにシュールなメロディーなんです。☆

見上げて首が痛くなるほどの高さを飛ぶ漁船。

その背景のコンクリートで固められた崖。

周囲を見て回るその先々に、色んな箇所で土砂崩れを見かけます。
青ヶ島の厳しい環境を伺えます。
そして、その中で賢明に生きる島の人の逞しさも同時に垣間見ました♪

こちらは式根島にもあるような急こう配な船置場。
ここでも高波を食らうことがあったようで、現在は使われていません。

近くには古い船客待合所があります。
こちらも高波の影響で閉鎖されています。
屋上は浴場になっていたそうですが、今は使われていません。

港の堤防のすぐそばにまでザトウクジラが来ていて、とてもビックリしました!!

青ヶ島は島の周囲が断崖絶壁で、どこかで土砂崩れが発生したあとがあります。
信じられない数の足場で工事している様を見ると、その厳しさが伝わっています。

集落から海沿いに三宝港に向かう道も土砂崩れで通行止めでした。

■三宝港は南西向きの小さな港。
やはり西風や時化に弱いので、島の東側にも港を作ろうという動きはあったそうです。

大千代港がそれです。

しかし、そこに繋がる道はやはり崖を縫って行くような急な道。
土砂崩れで長い年月、通行止めとなっています。

ここから先は通行止めなのです。

大千代港が使用中止となるきっかけとなったのは、
平成6(1994)年9月27日に発生した村道の崩落事故のようです。
なんと3人の島民が犠牲になっていて、その命を祀られた慰霊碑がありました。


道路からは現在使われていない小さな岸壁が見えました。

青ヶ島の立地の厳しさをまざまざと見せつけられました。
この厳しい環境で暮らしているという強さに身震いしました。
本当に凄いです。


■青ヶ島に着いてから、次女がお世話になった関係各所に挨拶周りをしました。

密かにお気に入りの発電所横の看板です(*^。^*)
素朴な青ヶ島の風景は一目見て、離島好きの妻が好きそうだなぁと思いました。
もちろん、僕も大好きです♪

学校には簡単に挨拶し、午後の次女のお別れ会の際にゆっくり伺うと約束し、
役場と教育委員会に行きました。

急な短期就学にも丁寧に対応してくれ、そのお礼を伝えました。
丁度役場に戻ってきた村長さんにも挨拶できました。
村長さんは以前、ははじま丸船上でお逢いしたことがありました(*^。^*)
母島の共通の知人の話にもなり、「よろしく言っといてくれよ~!」とのこと。
なんだか嬉しかったです♪


役場と学校の近くにはなんと信号機がありました!!
これはやはり子供の教育の為に設置されたそうです。
母島にはないものですね(*^_^*)

柔道などでお世話になった駐在所。

母島では二家族が勤務してくれていますが、青ヶ島は1家族。
ずっと待機状態なわけなので、なかなか大変な環境と思います。
そんな中、色々してもらっていることに頭が下がります。


これは火山活動(1783~1785年)で島外に避難を余儀なくされた青ヶ島島民を、
再び島の暮らしを再開させる「環住」(1835年)を果たすのに成功させた佐々木次郎太夫さんのお墓です。

もの凄い幾多の苦難を乗り越えたと書かれています。
現在の青ヶ島の歴史を再開させた伝説の方です。


以前の記事で書いた、佐々木卯之助・翁の碑です。
これをこの目で見れて、とても感傷的な気持ちになりました。
ようやく、あの人の暮らした目線の島に来れたのですから。


青ヶ島の空の玄関口、ヘリポート。
1993年から運行が開始され、欠航が続きやすい青ヶ島のアクセスに革命がおこったと思います。
たった9人乗りの空の便ですが、霧さえなければほぼ毎日運航できる交通手段というのは、
とても有難いものだと思います。

年間就航率が50%を切る厳しさや、
なかなか整備できない厳しい環境の大千代港を見ると、
空の便の有難さは本当に大事だと思います。

ヘリポートはヘリの運航だけでなく、お祭りや島踊りの舞台としても使われているそうです。

■昨日は青ヶ島小中学校の卒業式。
次女はお祝いのメッセージを一生懸命作り、贈りました♪

青ヶ島小中学校の先生も、快く対応してくれ、飾ってくれたそうです。
みんな見てくれて、喜んでいたとも聞いて、とても嬉しかったです♪
本当に有難うございます!
卒業、おめでとうございます!!

こうして、人はつながっていくんだな、と。

今日は母島の小中学校の卒業式。
新コロナ対策で入場はできませんが、島を巣立つ最後の晴れ舞台を応援したいと思います♡

新コロナ対策で全国一斉休校の流れの中、
東京の島では小笠原村と青ヶ島村だけがいち早く、乗船時の検温や問診、安全対策を行い、
学校再開を果たしました。

お蔭で、無事に迎えれる卒業式です。
本当に感謝ですね(*^_^*)

その⑥へつづく→



父親の年齢に追いついた今。

2020年03月13日 | 家族
■39歳になりました。
沢山のお祝いの言葉をありがとうございました(#^.^#)

朝イチにカナダの長女からおめでとうのメッセージ、
続いて妻と次女におめでとうと言われて、
そしてSNS、母島のみんなにお祝いの言葉を言ってもらえて、とても嬉しいです♪

誕生日であるというだけで、人が相手のことを想って声をかける。
この行為がどんなに有難いことか。
本当にありがとうございます!!


■そんな39歳になったぼくですが、
僕にとってはとても意味のある年齢なのです。
それは父が亡くなったのが39歳だったからです。
僕が中1の時でした。

当時の僕にとっては周囲が「若いのに亡くなって気の毒に…」という言葉の意味が理解できませんでした。
40歳間近である大人の人生のスパンが13歳の僕には想像できなかったのでしょう。

今まさに、その父と同じ歳を迎えてみて、
ようやくその言葉の意味が理解できました。

30代での急逝はあまりに早過ぎます。

今の僕がそうであるように、
子供の成長を見たかっただろうし、
孫の姿も見たかったと思うし、
何より、もっと自分の人生を生きたかったと思うのです。


■少し、自分の父親を振り返ってみたいと思います。
大阪出身の父は秋山雅彦。
母とは仙台の藤崎デパートで出逢ったらしいです(父はお茶の配達、母は店員)

1887年、僕が6歳の頃

僕にとってはとても優しい父だった記憶しかありません。。
色んな所に車で連れて行ってくれて、
豪華な外食に連れていってくれました(今思えば、ただのファミレスw)。

過去の記事で書いたかも知れませんが、
僕の父は僕が保育園年長の時に母と離婚して、隣町に別に暮らしていました。

僕が小学生低学年の頃。昆虫採りと魚ばかり捕まえていた
のんきな男子にとって親の離婚なんて理解できず、
「なんで別に暮らしていたのだろう?」と本気で小5まで離婚を理解できていませんでした(笑)。

母親はいつも別れた父親の悪口ばかり。
子供心に大人の大人気なさに気付いていて「はいはい」と思っていた記憶があります(*^_^*)

母親に禁じられていたファミコンやお菓子を惜しげもなく与えてくれ、
僕は父親の元に行くのがとても楽しみでした♪

栗原にある1両編成の栗原電鉄に乗りに行く旅、

もう廃線になってしまったようですが、たった1両編成のローカルな電車はとても
あのワクワク感は今でもおぼろげに覚えています。


SLが大好きだったので梅小路機関車基地に連れて行っていきました。
SLは完全に男心をくすぐる存在で代表格でもあるD51も実際にありました。


どこかのダムでのキャンプや釣りに連れて行ってもらいました。
臭い練り餌でフナみたいな魚が連れたのを覚えています。


新潟の海のシュノーケリング、キャンプなど。
当時、泳げない僕にとって、初めての綺麗な海での海中観察。
シュノーケルする父親の背中に乗って、思わず父親の呼吸するシュノーケルに息を吹きつけて、
思いっきり咳き込ませて大笑いしたのを覚えています。
テントで1泊だったと思うけど、ワクワクして楽しかったなぁ~

母親とうまくいかないながらも、
一生懸命子どもとの時間を頑張って過ごしていた気がします。

一番奥が母、左右が祖父母、手前が僕です。
車の運転がとても丁寧で(文句ばかりの母が唯一父を褒めていたのが車の運転だけでした)、
とても温厚な人だったと思います。

僕の記憶では父がイライラして怒っていたのは、
岩手の龍泉洞に自家用車で連れて行ってもらった時に、
路肩の縁石にタイヤをぶつけて、パンクさせたとき1回だけでした。


僕の母校仙台市立南材木町小学校。
■僕が小4の時、母親が子宮がんで倒れ、入院している間、
離れて暮らしていた父親の元で姉と二人と共に暮らしました。
どれくらいだったのだろう?
よく覚えていませんが2か月くらいだったのかな?

当時、父は自分の夢を叶え、富沢でケーキ屋とお茶&コーヒー屋をしていました。
毎日ゲームとお菓子三昧で幸せだったはずですが、
野菜嫌いの父の食生活は良くなかったのと、
母親と離れたストレスでしょうか?僕が気管支喘息を患ってしまいました。
夜間など凄い咳で呼吸困難を起こし、顔が紫になって何度も母が助けてくれたそうです(あんまり覚えていない)。

精神的なのか身体が弱くなって、学校では先生と同級生にいじめられてしまい、
すっかり登校拒否になった記憶があります。
退院してすぐの母は慌てて、僕を引き取ったような気がします。

学校に行きたくない僕を急かすことなく、
毎日、台原森林公園や科学館などに連れて行ってもらい、
ゆっくりを遊びまくった記憶があります。
半年くらいは学校をサボったような…

その頃くらいから、毛嫌いしていた野菜もきちんと食べる様になり、
毎週熱を出して、便秘症だった虚弱な僕は強い体に成長してきました。

母は闘病明けの体でできる仕事として自宅での英会話教室を始めていた気がします。
その頃からかな?
今、カナダで長女がお世話になっているケビンが家にいた気がします。
一緒に生活し、僕も英語を話していたらしいです(今は全然ですw)。


当時祖父母が飼っていた犬の茶太郎
■小学校高学年になると、友達との遊びや、
祖母の家に行ってプロレスにハマり、自然番組観賞をするようになり、
あまり父親の元に行かなくなった気がします。

人づてに「父親が寂しがっている」と聞いた気がしたのですが、
遊び盛りの当時の僕には自分の事だけが夢中だった気がします。

子供とも疎遠になり、
父の暮らしはやはりガサツになっていったのだろうと想像します。

僕にはそんな父の気持ちまで考える配慮はなかったと思います。

今、自分の目の前を精一杯生きるだけだったあの頃。

栗駒にて。立ち方が娘そっくり(笑)

■そして中1の頃、父は夏の終わりに突然、音信不通になり、
心配になった叔父から連絡があり、知人がアパートに様子を見に行ったら、変わり果てた姿で亡くなっていたそうです。

周囲の大人たちは当時、中1の僕にそんな姿の父を子どもに見せまいと布で隠していました。
しかし、その布の隙間から黒く変色した足が覗いていたのをかすかに覚えています。
その後、父に会ったのは火葬後の骨になった後でした。

診断は「心不全」。
あまりに腐敗した状態では死因を特定するのは難しかったのと思います。
しかし、生活の不摂生があっただろうとは容易に想像できます。
父は甘いものが大好きで野菜は大嫌いでしたから。

長い掴みにくい木の四角い箸を使って、骨を拾い、骨壺に納めました。
中1の僕に、死体すら見ないでの親の死なんて理解できるわけもなく、
哀しいとか、寂しいとかの感情もなく、
ただ、「いなくなった」「会えなくなった」だけの感触でした。

学校の先生や友達から労いの言葉をかけてもらったのですが、
全然ピンと来ませんでした。

でもちょうどその頃からロックを聞くようになり、
X JAPANに心酔していったので、
きっと自分の心が求めていたものがあったのでしょう。

XのYOSHIKIも幼くして自分の父親の死を経験し、
彼の歌の哀しみの中心は亡くなった父に向けての曲が多いのです。

当時はそうとは知らず、
Xの過激さとバラードの美しさ、その刺激に没頭していきました。
それから間もなく、バンドを始めました。

うちは片親で、母親も病弱だったので、
僕は小5から新聞配達をして、
高校は夜間高校に通い、日中は雪印で働いている勤労学生でした。

周りが思うほど、僕は苦労して育った気は微塵もなくて、
母親との約束で中学まではバイトの半額を家に入れればOKの状態だったので、
貧乏な母子家庭の割に僕が自由に使えるお金は割と多く、自由でした♪

働いたお金はゲームとCDと楽器、マンガになっていきました。
バンドのスタジオ代、沢山のライヴに行くお金にもなりました。

高校になると、大手会社の非常勤職員だったので、
しっかりとした収入となり、親を扶養できるくらいになりました。
なんと今より全然収入があったのです(笑)。

昼は仕事、夜は学校、深夜は遊ぶ生活が4年間、続きました。

「お前、よくグレなかったな」と言われますが、
グレるほど寂しい気持ちも、悲しい気持ちもなく、
ひたすら今を楽しんでいます(それは今も変わらないです)。
逆境を楽しめてしまうセンスは、生まれ持ったものだと思います(*^_^*)


2003年12月。長女が0歳。若いな~(笑)
■そして高校卒業の19歳で旅した小笠原諸島に21歳で住み込みで働くことになりました。
そして小笠原諸島で妻と出逢い、翌年には父親になりました。
あまりに若い父親です。

父親になるどころか、
家庭内での父親象すら自分の体験ですら知らない僕は、
父親とはどんなものなのか、どうあるべきなのか、さっぱりわかりませんでした。

実は今でも全然わかりませんが(笑)、
娘ふたり、妻と一緒に育って今に至る気がします。

全然ちゃんとした父親に慣れてる感は未だにありませんが、
娘たちが心ある行動や発言をしたときに、ああちゃんと子供は育ってくれるんだなぁ~と思わされます。

こんなポンコツな僕でも、
一応、夫婦が17年なんとか維持できて、可愛い娘が無事に育ってくれたのも、
みんなすべて家族、友達、島の皆さんのお蔭です。

あんなに若くてどうしようもない父親になった僕が、
どうにか楽しくやれてこれたのは、
小笠原という素晴らしい人と自然の環境、
とても恵まれた仲間の皆さんのおかげです♪
本当にどうもありがとうございます(#^.^#)

また、父の急逝の際、そして今なお眠る墓地においても、
父が入会していた創価学会の方々には本当に沢山お世話になり、助けて頂きました。
本当に有難うございます。
創価学会の慈愛の心と姿勢にはほんと助けられています。

もし父親が健在であったなら、
男として父親として一人の人間として、
お酒でも飲みながらゆっくり語り合いたかったし、
一緒に旅行してみるなんてのもいいなと思います。

もう両親とも亡くなっている僕にとっては叶わない夢ですが。
もし、これを読んでくれているあなたにご両親が健在なら、
ぜひ色んな話をしてほしいと思うし、
今この世にいるのは間違いなく、親のお蔭なので、
感謝の気持ちを伝えて欲しいと思います。


■さて誕生日の今日、カナダの田舎の高校に留学している長女が、
顔を10針縫う大怪我を負ったと聞きました(ToT)/~~~

僕に誕生日のメッセージを送って学校に行っての事の様です。
命に別状はないようで安心ですが、まったく親に似ておっちょこちょいの娘です(笑)。
誕生日に、遠く離れた土地に暮らす娘の無事をギフトで頂きました(#^.^#)

僕自身も最近は随分と体格が大きくなり、
結婚当初の準ヘビー級に戻ってしまいました(笑)。
父の突然死の事もあるので、僕も気を付けて体重を落とさねばと思っています。(結構マジ!)

そして、今、妻と次女が誕生日パーティーの準備をしてくれています。
準備中なので部屋に入るなと言われています(笑)。

今、夜の21時半!!
いつもとっくに寝ている時間です(*^_^*)

お腹もすいたし、
まったくいつまで待たせるのだろうと思いつつ、
娘のワクワクした声にこちらもドキドキしています。

人の為に一生懸命になれるって素敵だなぁ♪
そんなギフトまで誕生日に家族から頂きました。

そんなすべてに感謝の誕生日でした(#^.^#)
有難うございます!!

あっ、娘がようやく呼んでいる(#^.^#)
ではまた!

青ヶ島と母島のつながり(青ヶ島滞在記④)

2020年03月10日 | 青ヶ島 滞在記
その③の続き

■僕自身初めて訪れた、伊豆諸島最南端の有人島「青ヶ島」。
人口170人の日本で一番小さな村。

2年前に妻が単身で訪れてハマって以来、本当に沢山の話を聞いていたので、色んな想像をしていました♪

今回、次女の短期留学の迎えとしてたった1泊でしたが、ようやくお邪魔することができました。

実際に訪れた青ヶ島は、想像以上の場所でした(#^.^#)♪
断崖絶壁に二重カルデラの美しい景色、
子ども達を本当に宝物のように大事に見守り育ててくれる情け島。

そんな素晴らしい所に次女は1か月もお世話になれたのです。

そして、ここでも色んな繋がりを感じる事が出来ました☆

青ヶ島には有名な青酎(あおちゅう)という焼酎があります。

これは島で作られるサツマイモを原料にオオタニワタリの麹で作る、
青ヶ島の名産品です。

作った杜氏の数だけ、味が違うあおちゅうが存在します。

中にはすべての材料が青ヶ島だけのものでできて、
昔ながらの伝統の製法で作られた「青酎伝承」、

青ヶ島に直接行かないと購入できない伝説のあおちゅう
「初垂れ(はなたれ)」があるそうです。←まだ未経験。超興味ありです!

初垂れは焼酎造りにおいて、
最初に生成されるアルコール度数60度の原酒がほんの少しだけ造られるそうですが、
あまりにも少なすぎて、下限が決められている法律の下では販売できなかったそうです。 
(年間○○リットル以上造らなければ販売禁止)
それが2017年末に特区として内閣総理大臣に認められ、販売可能になった幻の焼酎なのだそうです。


今、我が家にはなんと4本の青ヶ島産のお酒があります♪

1本は2年前、妻が青ヶ島を訪れた時のお土産。
1本は今回の青ヶ島を発つ時に頂いたもの。
右から2番目がかいゆう丸で購入した古酒。
一番右が母島と繋がっているご縁で頂いた、ヤマモモから作ったお酒です♪

後述しますが、泊まった宿「かいゆう丸」の女将さんの親があおちゅうを作っていたそうです。
もう亡くなってしまい、製造はしていないのですが、
10年ものの古酒が売られていたので、もちろん購入しました(#^.^#)

青ヶ島でお世話になった方から頂いたオリジナル手拭い。青ヶ島の魅力が詰まっています!

■東京宝島でもお世話になっている十一屋の荒井智史さん。
青ヶ島を様々な分野で支えている、とても重要なカッコいい人です♪(僕と歳も近い!)

島ではやはり超多忙でゆっくり話す暇はありませんでしたが、
車を貸してもらったり、次女の滞在に色んな分野で沢山の尽力をしてもらっています。
本当にどうもありがとうございました!

僕が青ヶ島に行ったときは丁度、消防団の訓練中でした。
一昨年母島に来てくれた東京消防訓練学校の教官に、
居酒屋で会った時はそのつながりに驚いたほどです(笑)。

日程とヘリのチケットの都合で1泊しかできなかったのがとてもとても悔しいですが、
2度の来島ですっかり青ヶ島ファンになった妻と、
1か月青ヶ島にお世話になった次女のお蔭で、
道行く色んな人に笑顔で話してもらえました♡

本当にありがとうございました(#^.^#)

■今回の青ヶ島における次女の短期留学は様々なつながり(ご縁)があって実現したものでした。

最初は2019年春にハワイに行ったSHIPハワイ研修プログラム
そこで小笠原と八丈の高校生とハワイ島を訪れたのですが、
そこで島っ子が島在学中に敢えて外の島で過ごす経験の意味を確信します。

そして、2019年夏の島嶼サッカー大会「愛らんどリーグ」。
なんと会場は八丈島!

SHIPで仲良くなった八丈のみんなに会えるということで、
頑張ってサッカー練習に望み、八丈島に行き事ができました。
そこで、青ヶ島から参加してきたたった一人の素敵な同級生(小4)に出逢うのです。


■八丈島での愛らんどリーグで出逢った、たった一人で参加してきた青ヶ島のYちゃん。
サッカーチームとしては足りないメンバーを八丈島のメンバーがフォローしていたそうなのですが、
夜に行われた各島のアピール合戦「島自慢」で圧倒的なパフォーマンスを誇り、
会場の多くの人の心を鷲掴みにしたのが、青ヶ島から唯一来ていた彼女でした。
「ぜひみなさんも青ヶ島に来てください!!」
早速、うちの次女は名刺交換をして、その後文通に繋がります。

僕はその時の発表を見れてはいないのですが、
その場にいた色んな人からその素晴らしさを聞いていました。
もちろん彼女が島自慢の最優秀賞を受賞したのは誰も疑う余地がなかったそうです♪

その後、僕自身も東京宝島会議などで青ヶ島の方と出逢うことも意味があり、
どんどん繋がっていきました♪
こういう時の流れというものはいつも本当に不思議なほどです(#^.^#)
そのYちゃん宅にホームステイして1ヶ月過ごせることが決定しました。


■そして僕が青ヶ島でお世話になった宿「かいゆう丸」。
こちらはなんと今年オープンしたばかりの新しい宿。
とても食事も美味しくて、綺麗で素晴らしい宿でした♪

料理が本当に豪華で美味しいのです♪
青ヶ島は居酒屋が2件、日中の飲食店はゼロなので、
宿は3食を提供してくれます。

これは夕食に出てきた島魚の酢漬け。
なかなか冬は海が悪くて漁に出れなかったそうで、
お客さんの食事の為にこうして島の魚を準備してくれていました♪

小笠原の郷土料理にもピーマカと言われる、魚の酢漬けがあります。
それにそっくりです(#^.^#)


自家製大根葉のご飯も超おいしかった♡

料理上手な女将さん曰く、「青ヶ島料理は八丈島の料理とは違う所があるのよ」と言っていました。


イカリングフライも絶品(#^.^#)
お盆から溢れんばかりの料理に舌鼓を打ちました(#^.^#)


宿の女将さんのお母さんが作っていた自慢のあおちゅうも頂きました♪
さすが10年以上前に作られた古酒、芋焼酎なのに甘く、マイルドでした(#^.^#)

遠くに出かける場合はお弁当にもしてくれます。

今年、宿を始める前からずっと島のお弁当やオードブルを作っていたそうで、
僕が着いた日も島の懇親会の料理を娘さんと一緒に一生懸命に作っていました(#^.^#)

お部屋もすごく綺麗でWifiまで完備!!
お勧めのお宿です☆

なんとその宿の女将さんのおばあちゃんが母島出身らしく、
意外に繋がっていることにとても驚きました☆
冒頭のヤマモモのお酒もそんなご縁からぜひ!と言って頂きました。
本当にありがとうございます!

母島にも随分と前になるそうですが、来たことがあるそうです(#^.^#)
これを機に、また行きたいと言ってくれていました♡
ぜひ来てほしいです☆

あおちゅうに描かれた地図。みんなつながっています♪

■また、僕が父島時代に最初にお世話になった小笠原ユースホステル。
そこの初代・故「佐々木卯ノ助」さんはなんと青ヶ島出身。
まだ親戚の方がいらっしゃるということで訪問してきました。

マツミ荘を経営している、前・村長さん佐々木宏さんです。
訪問をすご~く喜んでくれて、本当に行って良かったと思います♪
僕も逢えてすごく嬉しかったヽ(^o^)丿

小笠原YHの初代・佐々木卯之助さんの名前は、
青ヶ島に名を残す英雄から頂いた名前なのだそうです。

「佐々木卯之助さん」の名前は実はとても有名です。
集落には佐々木卯之助翁の碑がありました。

佐々木卯之助さんは、江戸幕府の大筒役で、
当時は天保の大飢饉が発生しており、卯之助の計らいで
農民が立ち入り禁止の相州炮術調練場で耕作を黙認していたため、
青ヶ島遠島の刑に処せられ、そのまま青ヶ島で過ごし、死去した人物なのだそうです。

そんな役人よりも庶民を大事にして飢饉から農民を救ったとして、
農民にとても感謝されていたそうで、記念碑が作られたそうです。

前・村長さんはその末裔とのことです。

そしてなんと現・青ヶ島村長さんも母島に親戚がいる方なのです!

母島のうちの近所に住む農家さんに宜しく伝言を頂く連続でした(#^.^#)
予想もしないところで沢山繋がっていて、驚くことばかりでした。


■青ヶ島の物資の流通は基本的に船です。
しかし、湾のない黒潮の海流に囲まれた絶壁の青ヶ島。
就航率は50%以下といいます。
海が時化る冬にいたっては1週間以上も船が来ないこともザラのようです。

9人乗りのヘリは霧がない限りはほとんど毎日就航するようですが、
そのチケットは購入が本当に困難で、空くかどうか分からないキャンセル待ちに頼らざるを得ません。
(今回の僕のお迎えも1ヶ月前の朝9時の繋がらない怒濤の予約電話でキャンセル待ちを経てから得られた奇跡の切符でした)

そこで初めて就航率90%を越える、
小笠原の父島の二見港、母島の沖港の有り難みを知ることになりました。
小笠原は航空路こそありませんが、台風がない限りはほぼ予定通り船は就航しています。
これがこんなにも有り難いものだったとは。

以前の記事にも書きましたが、青ヶ島と八丈島を繋ぐ「あおがしま丸」は
ははじま丸と同じ伊豆諸島開発(株)が運航しています。

伊豆諸島開発はははじま丸、あおがしま丸、他にはゆり丸(基本的に貨物船)を運営しています。(ゆり丸は、ははじま丸がドック中の代船にもなってます)
船員さんたちも交代で回っているそうで、
こんなところにも繋がりを感じました♪

次女はあおがしま丸で青ヶ島に辿り着きましたが、
ヘリで往復している僕はまだあおがしま丸は未経験です。

いつか必ず乗ってみたいと思います☆

そんな青ヶ島が繋ぐ航路の先に八丈島が見えます。
この滞在時はその見える八丈島に妻が来ています。

1か月離れていた母親が見える隣島にいる感覚は次女にとってはどうだったのでしょう?


■次女が1ヶ月お世話になった青ヶ島は、人も暮らしも景色も本当に圧巻でした。

次女は柔道もしていたので、青ヶ島の駐在の方に柔道でお世話になったり、
サッカー練習にも混ぜてもらったり、とても充実した日々だったと思います。

慣れない環境の中での生活で色々苦労したと思いますし、
お世話になった学校やホームステイ先でお世話になったことは数知れないと思います。

その中で沢山の多様な価値観を学び、
色んな自信を身につける事になったと思います。

母島よりも子供の数が少ない青ヶ島にとっても、
子供が一人増えることはとても大きな事だったと思います。

12月に連絡し、1月には訪問してしまうタイトなスケジュールの中、
前例のない他島の島の子供を受け入れるという事を、
とても丁寧に対応してくださった青ヶ島の学校の皆さん、教育委員会と役場の皆さん、そして青ヶ島の地域の皆さん、
それをフォローしてくださった母島の先生方、校長先生の皆さん、
そしてホームステイを快く受け入れてくださったYちゃんファミリー、
本当にありがとうございました!

この短期留学が子供たちだけでなく、
青ヶ島や母島、さらには他の島の未来にとって有意義な物になることを祈っています。
どうもありがとうございました!!

その⑤につづく→


新型コロナと母島の春

2020年03月08日 | 母島 日常 日記
■青ヶ島に次女を迎えに行ってから、ブログでも青ヶ島尽くしでしたが、
母島に戻ってから2週間、島の日常が続いています。

しかし、新型コロナウイルス拡散防止に伴う総理大臣からの休校要請で、
小笠原諸島ですら様々な対応に追われる前代未聞の事態になっています。
次女の青ヶ島滞在も半月時期がずれていたら、まるで違うものになっていたと思うと、
本当に絶妙なタイミングだったと思います。

うちの次女さんも15m上の樹上でご満悦になってしまうほど、非常事態です(*^_^*)

我が家では有難いことに休校要請はまったく困っておらず、
次女が久々にゆっくり畑で過ごせる事態となりました♪

保育園の頃、よく登った地上20メートルくらいの畑のそばの木。
久々に登って、色んな秘密基地を作って超楽しんでいます(*^_^*)
「ねぇ、明日も畑行こうね♡」

次女の場合は、学校ない方が活き活きしているように見えます(笑)。


思わず、ヤギと一緒に葉っぱを食べてしまうほど畑をくつろいでいます(*^_^*)

次女にとっては久々の火との戯れ。
新型コロナがなければ普通に友達と遊んでいた時間ですが、
久々に畑に来ることとなり、存分に楽しんでいます。


僕もそんな次女との機会はとても楽しく、
思わず、海岸で拾ったロープを駆使して、
新たに畑ブランコを作成。

新型コロナは色んな新しい機会を与えてくれました(*^_^*)

■母島小中学校は3月3日(火)より休校となりました。
そして、9日(月)から学校再開となりました。
村長がそのメッセージを公開しました。

理由と責任の所在をしっかり書いていて、良いと思いました。

それでもやっぱり思う、毎便500人来る観光客。

我が家は休校でもまったく困っていませんでしたが、
観光客が集落を自由に行き来し、子どもは外に出るなの違和感は凄かったです。
僕個人は観光客を止めれないなら、休校は意味がないと思っていたので、この判断はアリかなと思います。

ですが、現状では全部開いたままです。

長い潜伏期間のケース、無症状の人が多い場合もある新コロナは
なかなか検温と問診だけでは食い止めるのは正直難しいのだろうなと素人目でも思います。

インフルエンザ同様に手洗いとうがいを頑張って、
あとは食生活と運動と笑顔で免疫を上げていこう!と思います。

新コロちゃんの影響で学校休校になったので、
家の外の布団の下でぽかぽか読書に励む次女ちゃん。

毎日、自分で課題を決めて、
やりたいことをしっかりと学んでおりました(*^_^*)
なかなか現状を楽しめる10歳です♡

学校の休校が空けた翌日の出港日。

「はは丸と競争しようぜ!!」
小さな男の子達の勝負です。
しかもみんな裸足!
このあまりに単純な発想とドキドキ感。

ああタマンナイです♡
船の汽笛と共にスタート!!の瞬間です♪

子どもはほんとこういう場面で心底活き活きできる存在と思います。
新コロナ拡散防止で室内に閉じ込めたエネルギーが一気に爆発した気がしました。

事態は全然解決はしていません。
でも子供が子供らしくある場は用意しないといけないと思います。

島は自然が多いので、こういう場合に本当に有難いと思います。
そんな事に気付かされるのは新コロちゃんのお蔭です。
ピンチはチャンス!
色々、学んで楽しむしかないと思います。


■そんな最中、先日は2日間、東京消防庁の教官が来島し、消防団の訓練を行いました。
遠路はるばる来てくれて、役場の担当の方も土日返上で訓練に参加してくれ、
ほんと感謝の気持ちでいっぱいです♪

消防教官との訓練は毎年、2日間だけの実施ですが、いつも本当に多くの学びがあります。
消防署のない小笠原における消防団の意義というのはとても大きいのです。

いざという時に備えて、私たちも頑張って日々、訓練、点検を頑張っています。

近年は診療所も一緒に訓練に関わり、
本番さながらのシュミレーションを行っています。
診療所スタッフも休日なのに、すごく積極的に関わってくれて、本当にカッコいいのです♪

凄く頼もしくて、有難いです。
うちらも訓練に気合が入ります。

母島の消防団は現在も団員を募集中です!
我こそはという方はぜひお越しください(*^_^*)


■そして、今回、母島初の試みがありました!
母島前田商店横になんと父島30sキッチンカー参上!!

これは母島のみんなも一気にテンションが上がりました♡


みて下さい、この長蛇の列!!
母島ではレアですよ~


1日目はは美味しいお好み焼きともつ煮込み!!

2日目はホットドックにアップルパイ♡

赤字覚悟で来てくれていて、
2日間とも売切れてくれて、ほんと良かったです♪
どうもありがとうございました!!
新コロちゃんで自粛ムードいっぱいの最中、雰囲気が明るくなりました☆

なお、このキッチンカー手作りだそうです。
キッチンカー横に建設写真ファイルがありますよ~


■そして、毎年恒例の北港海岸清掃。

新型コロナ対策でどうなるか心配でしたが、
屋外イベントということで予定通りの実施となりました。

今、問題になっている海洋プラスティック。

解決する一つの方法として、漂着ゴミの回収があります。
レジ袋やストローを使わなかったり、色々使わないことも重要です。

多くの村民のお蔭であっという間に北港が綺麗になりました♡
さすが人海戦術!!


この機会をもっと多く設けて欲しいと思いました☆
美しい海岸にして、少しでも野生動物に人の暮らしの影響が軽減しますように。
今回だけでなく、常日頃も拾って綺麗にしていこうと思います。

主催してくれた母島観光協会、支援した地域各団体、島の参加者の皆さん、ありがとうございました!

青ヶ島から帰ってから、いつものように忙しいの変わらないですが、
やはり外からの目線が加わると日常が変わります。

当たり前の母島の日常がとても有難く思えます。

そして最後にななななんと!!
今回、母島フォトコンテストの優秀賞に選ばれました♡
やった~~!!

ははじま丸の先に虹がかかり、
カツオドリが越える感動の光景。
20年近く住んでいて、初めての光景でした♪

その瞬間をシャッターで捉えることができて本当に有難かったです(#^.^#)

そんな色々な母島の春でした。
チャンチャン♪

おもうわよう!青ヶ島!!(青ヶ島滞在記③)

2020年03月01日 | 青ヶ島 滞在記
→その②の続き
■「おもうわよう」
次女が1か月お世話になった青ヶ島を離れる時、
島のみんなが見送ってくれてる中、横断幕に書かれたこの言葉。

青ヶ島の方言で「思うわよ(想うわよ)」で「いつまでも心の中で大切に思っています」という意味だそうです。
出会いと別れがある島ならではの言葉ですね(*^_^*)

そんな感動のお見送りまでですが、
僕の青ヶ島の滞在はたった1泊でした(泣)。

そんなわけで、
いよいよ1ヶ月ぶりに出逢う次女。
その再会は学校のまさに次女のお別れ会でした。

■学校の先生に案内された僕にとって初めての青ヶ島小中学校。
エントランスに行って、僕に気付いた他の小学生に声をかけられ、
次女はサッと隠れます。

みんなニヤニヤとしています(*^_^*)
とても暖かい空気が流れます。

次女はこんな空気の中、お世話になったのだなぁと、じんわり感じることができました。

教室では他の子がお別れ会の準備をしています。
階段で隠れて待機する次女は、
1ヶ月前の彼女とは別人のようにしっかりした顔でした。

親元を離れて、慣れない土地で一生懸命過ごしてきた日々。
それがとても充実していたのが伝わってきます。

お世話になった先生方も最後の登校日をとても大事にしてくれているのが分かり、
感謝の気持ちが溢れてきました。


■始まった次女を送る会は小学生全員による、様々なレクレーションでした。
僕も一緒に混ぜてもらいながら、青ヶ島カルタ大会、ハンカチ落としや、
パプリカの歌と踊りなど。

終盤にみんなから、青ヶ島の見送りの歌「旅ゆく君へ」を歌ってもらっている場面。
先生が奏でる心地良いギターの音色。
子供たちが、先生が本当に次女の滞在を大事に温かくしてくれたことがすごく伝わってきました。
僕も目頭が熱くなります。

まさに卒業式のような場面でした。

※この曲は青ヶ島が舞台の映画「アイランドタイムズ」の挿入歌です。青ヶ島の景色も楽しめます♪
歌詞は少しだけ青ヶ島スペシャルにいじってあります(*^_^*)

たった1ヶ月の滞在でしたが、
お別れの言葉で涙ぐんでスピーチしてくれるお友達の言葉。
本当に貴重な時間を過ごさせてもらったと感じることができました。

そんな言葉に対しての次女の挨拶に僕はこの1ヶ月の成長を感じることができました。
こんなにも「自分の言葉」で人前で話すのを初めて見たからです。
先生が求めるような模範解答ではなく、自分の内から沸き出してくる自然な言葉の挨拶。

久々の再会で、そんな所から色んな事を感じました。

※島の絶景ポイント大凸部からの朝日です♪

■お別れ会の後は、この短期留学にとても尽力して頂いた副校長先生に校舎を案内してもらいました。
3学年ずつに大きく分けられた、開けた教室。

中学校も音楽室や、美術&技術室、母島はにはない給食を食べる食堂など、
とても素晴らしい学校の施設を見学させて頂きました。

次女にとって初体験の給食を作る厨房の皆さんのにもお礼を伝えることができました。

学校訪問の後にも、
道行く人や出逢う人すべてに温かい言葉を頂き、
ほんと有り難い時間を過ごさせてもらったことを実感しました。

夜にはホームステイでお世話になった家族と友人と
島の居酒屋「もんじ」にお邪魔しました。

なんと小笠原村の村長も写真に写っていて、
知っている消防訓練所の教官までいました(笑)。
ちょうど青ヶ島の消防団の訓練の時期でした(#^.^#)

そんな場所でも物怖じせずにカラオケしまくる子供たち(笑)。
村長も元村長もいて、
島の皆さんが沢山声をかけてくれました♪

マスターもすごく優しくて、沢山暖かい言葉をかけてもらいました♡

母島もそうですが、
本当に子どもの事を心底大切にしてくれる島ですね~


■青ヶ島を出発する最後の日。
滞在先に次女を迎えに行き、荷物を郵便局に出しに行きます。

次女は郵便局で青ヶ島のスタンプを熱心に押しています☆

その後は青ヶ島唯一の商店「十一屋」に挨拶に伺います。

ここは妻も次女も本当にお世話になったところで、
店の女将さんが次女に素敵なTシャツをプレゼントしてくれました。
丁度、村長さんも現れ、母島の知人の話をしつつ、沢山のお土産を頂きました。

保育園児、小学生に中学生、地域の皆さん、友人の皆さん、
多くの人が次女の見送りのためにヘリポートに集まってきてくれました。

みんながお別れの歌を歌ってくれるとき、
その情景を見つめているとき、
ああ、なんて素晴らしい経験を、なんて素晴らしい出逢いをさせてもらったのだろうと感動していました。

僕が小学四年生の頃には微塵も感じることのできなかった経験を次女はしています。
ホームステイさせてもらったとても素敵な家族とは、これからもずっと繋がっていくことでしょう。

母島に縁のある人にも青ヶ島で沢山出会うことができました♪

そんな感傷に浸っていたら、お迎えのヘリが着陸して来ました。

母島の船のお別れに比べて、
とてもあっという間の離陸。

なかなか気持ちが追いついてきません。

冒頭の「おもうわよう」まさに、そんな感じです。
青ヶ島を発って、1週間が経過していますが、毎日“おもうわよう”です。

離陸して離れる青ヶ島を見つめながら、
傍らで大泣きする次女の肩を抱きながら、
新しいことに挑戦する事の素晴らしさを教わった気がしました。

八丈島に着く20分間の空の旅。
何度も嗚咽しながら、肩を震わせて泣く次女。
僕も、そんな時間を過ごさせてくれたすべてに感謝しながら涙を流していました。

どうもありがとう。
青ヶ島のみなさん。

その④につづく→