小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

島の容器包装プラの行く末を追って (ごみ処理レポ①)

2024年05月21日 | ゴミ問題
【小笠原村の容器包装プラを処理してくれている、日鉄リサイクル様を訪問してきました!】
「プラスティックはこちらの処理で、ほぼ原料と同じくらいに戻せています。」
目玉が飛び出るほど、驚いた1日でした。

■場所は千葉の房総半島にある君津市。
君津市は日本製鉄関連でできているといっても過言ではないほど、
広大で大きな敷地で、さまざまな資源の処理を行っていました。
小笠原の人口を軽く超えています(^^♪

製鉄所ならではの、大きな工業機械やパイプが並ぶ景色。
敷地内に汽車も走り、特殊なナンバーで走る車、一般道路は走れない大型重機など、
日常の景色とはまるで違う規模と、その光景に圧倒させられました。

プラ容器包装は製品に↑プラ↓マークが印されているものが対象になっている品目で、
同じ素材のプラスティックでもメーカーがその処理費用等を負担しているものになるそうです。

■今回、見学させてもらった「日鉄リサイクル プラスティックリサイクル工場」は、
製鉄に使われる設備を利用して、プラスティックを限りなく原料に近い状態までに処理をしているというものでした。
 これまで知っていた、プラスティックを固形燃料に加工して、発電や焼却燃料にするのとは違い、
またプラスティックにする原料にできるというのは強いなと思いました。
工場内に発電所もあり、その燃料にも使われているそうです。

そもそもCO2を減らすという意味でも、
同じ10トンのプラを燃料にして燃やすよりは、CO2の発生はだいぶ抑えられるとのことでした。
日本全国で発生するプラごみが約70万トンなのだそうですが、
日鉄グループで処理しているのが約20万トン、
この君津では約8万トンを処理しているそうです。
 1日に換算すると約200トンのプラごみを処理していることになります。

■ちなみに小笠原村から搬出されている容器包装プラのゴミの量は
令和4年 1,280kg/年になります。(約1.3トン)
全体量に比べれば微々たる量ですが、
今年度(令和6年度)の4月から小笠原村もしっかりと広報した形で、容器包装プラの拠点回収が始まりました。
これから焼却ゴミが減り、プラスティックゴミの搬出が増える見込みです。

理想としてはプラごみを出さないが一番ですが、
すぐにそこにシフトするのは厳しいと思うので、
こうしたゴミではなく資源化、原料に戻すというものはとても重要だと思います。

■こちらの施設でもやはりバッテリー等の混入は問題となっており、
火災の危険性があるので、昨今増えているリチウムイオンバッテリー類はしっかりと分別して出して欲しいと願っていました。

他にはプラスティックリサイクルだけでなく、
製鉄などの施設など広範囲で案内してもらい、
日々生活に関わっている鉄やプラスティックの在り方、見え方が広くなりました!
こうした視察を通して、私たちのゴミがどうなっているのかが、
初めて具体的に見えてきました!

日本製鉄のホームページ内で、
プラスチックリサイクルに関する紹介があります。参考にどうぞ!
日本製鉄株式会社 発見!
製鉄所のプラスチックリサイクル



本当にありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします☆





神津島の離島留学視察‼

2024年05月13日 | 離島留学
■小笠原でも離島留学を導入したい!そんな想いを胸に、
すでに離島留学を実践している神津島に自主視察にお邪魔してきました。

教育長、教育係長、寮長さん、副校長が対応してくださり、
そして現役の島出身の在校生と留学生にもお話を聞かせて頂きました。
実際に実施している方々、支えてくれている方々、通っている皆さんの話が聞けて、
とても参考になる事ばかりでした♪
本当にありがとうございました!

僕が住む母島には高校がなく、50㎞隣の父島には高校があり、
母島出身の高校生が生活する寄宿舎「ぎんねむ寮」があります。

東京の島では神津島、新島、八丈島が島外から離島留学生を受け入れていて、
大島は都立大島海洋国際高校で外部から生徒を受け入れています。
小笠原は現時点では島外からの生徒の受け入れはしていません。

地域の保護者や先生、他の島嶼のからはぜひ!と沢山の声があります。
離島留学は島の高校生はもちろん、島の未来につながる可能性を秘めていますので、
小笠原もぜひ導入できればと思っています。(母島も!)


■都立神津高校では離島留学の目的として、
学校の活性化、生徒の学力向上、村の活性化を図ることに実施しているそうです。

神津高校で離島留学が開始となったのが平成28年。
始まった背景としては、
高校のひと学年の生徒数がひと桁になったことの危機感が始まりだったそうです。

最初の留学生は1名から始まり、2年目からは3名、
その後は3~5名の高校生を毎年受け入れているそうです。

受け入れ対象は東京都の本土に住む高校生。
3年間通しで在籍する形だそうです。
他の島からの受け入れはしてないそうです。

開始当初はホームステイ型から留学生受け入れを始めて、
平成31年の4期生からは村が「しらすな寮」という寄宿寮ができて、
そこから寮一本で離島留学が続いているそうです。
現在は寮長さんが2名いて、調理の方が2名いらっしゃるそうです。

学校は都立ですが、寮は神津島村が運営しているのもポイントと思います。
(都立小笠原高校の母島出身者向けのぎんねむ寮は都が運営しています)
今回はその「しらすな寮」の共用部分にお邪魔させて頂きました。

普段も生徒たちが食事をしたりする食堂部分が、
外部からの人との交流の場にもなるコミュニティールームにもなっていました。
共同の浴室やトイレ、男女別で棟が分かれていて、
一人一部屋の個室(6畳くらい)が割り振られているそうです。

↑これくらいの広さが一人部屋だそうです。
とても綺麗でよく考えられて作られているなぁと感じました。

寮の生活は規則正しく、掃除も洗濯も自分たちでやっているそうです。

↑こちらが「しらすな寮」

■今回は離島留学を担当する職員の方のお話も聞かせて頂きました。
本当に多岐にわたる質問をさせていただいて、参考になる話ばかりでした♪
外部から未成年である子供を預かるという、責任も伴い、とても大切な部分です。

しっかりと事前にその生徒自身と対話し、島で暮らしていけるかを図る意識も伺いました。
7月の見学、12月の面接を経て、3年間を神津島で過ごす離島留学生を受け入れるということ。
受け入れ側としては、人様の生徒を3年間預かることになるわけですから、
そのコンタクトする場はすごく重要な場になります。
親元を離れての慣れない島生活で適応できるかがポイントとなります。

覚悟を持って親元を離れて島に来て暮らすわけですから、多くの留学生の意識は高いそうです。
子供の頃からあまり面子が変わりにくい、というのが島の子供たちあるあるなのですが、
こうして外部から意識の高い同世代が来て、一緒に過ごすということは、
本当に島の高校生にとってもいい刺激となっているようです。

↑神津島の集落を望む

■そして、今回は現役の在校生と留学生と話をする場も設けて頂きました。
本当にありがとうございます!

本土で一大決心をして、本土の生活では得られない高校生活を送るためにも、
親元を離れてやってきたそうです。
生徒自身からも面接の話を聞いてみました。
やはりすごく緊張感をもって、しっかりと臨んでよく話したと伝えてくれました。

初めての島暮らし。
神津島に来てからは規則正しい生活で勉強の成績が上がった、
自分の生活を自分で意識してできるようになったなど、
色んな手応えを感じて、とてもいい笑顔で話してくれました。

島を卒業してからは、この島での経験を活かして将来を頑張りたい!としっかりと話していました。
将来がとても楽しみです(^^♪
この春、島に来たばかりの9期生にも話を聞く機会があり、
「島に来て、とても楽しく、本当に来て良かった!」と笑顔で言っていました。
「この美味しすぎる新鮮な空気と美しい景観を知ってしまうと、
もう本土では満足できなくなってしまいます!」と嬉しそうに語っていたのが印象的でした(^_-)-☆

在校生にとっても子供の頃からあまり変わらないメンツに、新しい風が吹く期待があり、
とても意識が変わり、相乗効果があると感じているようでした。

神津高校のグラウンド

■留学生は寮生活との兼ね合いでなかなかバイトなどができない現状だそうですが、
道端で島の人と挨拶をしたり、スポーツをしたり、
勉強する時間をしっかりと確保できる生活なのだそうです。

今は地域との交流が薄いのが課題だそうで、もっと絡んでいきたい気持ちはあるそうです。
神津島の鈴木佑典議員が大島高校のボランティア部みたいな形の、
部活動で地域と関わるのも興味深いと思いました。
いずれにせよ、離島留学は島の在校生の数にもいい影響があるし、
地域にとっても色んなメリットがあるようです!

9年目ということで、これからその卒業していた生徒たちが、
留学した島に関わっていくのかが見えてくる年月だと思い、そこも興味深い部分でした☆
まだ島に就職する生徒は出てないそうですが、夏などよく遊びに来てくれて、
一緒にスポーツなども行って交流しているそうです。

その留学生達を支える寮長さん夫婦や、賄いを調理する島の方々、先生たち、
村長さん、教育委員会の皆様、
成人式にひとりひとりに20年分(留学生は3年分)のドキュメンタリー映像DVDを村がプレゼントする取り組みなど、
色んな人たちが島の宝である高校生を育んでいるのをしっかりと感じさせてもらえる視察となりました。

なんと小笠原高校にいた元教員の方もおり、小笠原の今後も踏まえたお話も含めて、色んな意見交換をすることができました。

小笠原で離島留学を実施するのに重要な沢山のヒントを頂けました。
どうもありがとうございました!


硫黄島の暮らしの跡 ~ 8年ぶりの硫黄島②

2024年05月07日 | 硫黄島
①硫黄島行政視察のつづき

■前回の硫黄島記事からだいぶ間隔があいてしまいました☆
春は特に目まぐるしく、色んな島の日常があるので、
仕方ないと自分に言い聞かせつつ、
硫黄島視察の報告は自分のクレアナ(使命、責任)と思っているので、
ちょこちょことやっていきたいと思います。

さて、今回は今回の視察のメインとなった、
島暮らしの跡を巡る部分を書きたいと思います。

今までの視察では、戦跡などがメインだったそうですが、
今回は渋谷村長のご意向で、
旧島民の会の1世、2世、3世の皆さんと共に、
戦前の暮らしを意識しながら巡るという、
とても貴重な視察となりました。

過去の視察に参加してきた議員先輩も、
「今までない視察だよ~」と言っていました。

特に印象深いのが硫黄島で生まれて、
11歳で強制疎開で島を離れた奥山登喜子さんのお話でした。


自衛隊員の方に支えられながらも、
色んな場所について、昔は自分の家があった場所だったなど、
色んな話をしてくれたのです。

今の硫黄島はほとんどがジャングル化していて、
こんな景色が続きます。


■今回の視察では、自衛隊の隊員さんたちが、
旧島民の皆さんから聞いた話を参考に、
硫黄島の様々な場所を開墾してくれていて、
新たに見つかった集落跡がいくつもあり、
そこを重点的にめぐりました。

上記の写真のように、硫黄島は圧倒的なギンネムと桑の繁茂で、
普通ではその中に何があるかなんて見当もつきません。

しかし、過去の硫黄島訪島の時もそうでしたが、
旧島民の方はそのジャングルの中に入って行って、
自分の集落跡を発見し、トウガラシやパイナップルなどを手に
戻ってくるのです。

本当に硫黄島は楽園だったのだなと感じさせられました。


これが硫黄島の唐辛子です。
大きさはネズミの糞ほどですが、
その小ささでは計り知れないほど、辛みがあり、旨味があります♪

僕はあまり辛いのが得意なタイプではないのですが、
硫黄島唐辛子の青い状態の旨味と辛みのバランスが好きで、
お刺身の醬油に入れて、箸の先で潰すと最高の味が出てきます♡

唐辛子は雨が少ない地域ほど辛みが増すと言われています。
父島にも母島にも自生(母島は少ない)していますが、
世界に誇る香辛料なのではないかと思っています(^^♪



■こちらは硫黄島でこの1年以内に開墾して発見された、
暮らしの跡です。
サトウキビを擂るための設備だそうです。

母島では石臼が多いのに対して、
こちらの臼は鋼鉄製でした。


隊員さんが視察に合わせて、
島に残るサトウキビも用意してくれていいました。
本当にありがとうございます!


この溝はサトウキビを絞った汁が流れていく部分で、
その先で受け止めて、煮込んでいく行程に入っていきます。
小笠原で外来種として問題になっているアカギは、
このサトウキビを煮るための薪として導入されたそうです。


そんな暮らしの跡にもしっかりと弾痕が残っていました。
悲しい事ですが、硫黄島の岩やコンクリートに
弾痕がない場所がほとんどないほど、
島はそのすべてが戦場になっていたのだと感じます。


開墾にあたって、出てきた瓶などの暮らしの残骸も、
集められていました。
父島でも母島でも同様に山の中に瓶などがあったりします。
畑からライフルの弾が出てきたりします。



戦争というものがどれだけ暮らしに影響を与えているのか、
そこで暮らしていて、戦後80年経っても未だ島に戻れていない方と
硫黄島を巡っていると、
その圧倒的な理不尽さに言葉を失います。


「どうか、硫黄島を忘れないでください!」
硫黄島から返ってきた翌日の明治大学で行われた
シンポジウムでの登喜子さんの言葉が、
ずっと僕の頭の中でリフレインしています。
生涯、忘れられない言葉です。


■大きなガジュマルがある場所に案内してもらいました。
こちらも最近の開墾で集落の跡が見つかったといいます。


小笠原は沖縄と同じく、防風林としてガジュマルが植えられてきた経緯があります。
大きなガジュマルがある場所は人が暮らした場所であった事が多いのです。


近くには墓地がありました。
硫黄島のお墓ではとにかく水をよくかけて供養します。
戦争当時、みんな飢えと渇きで苦しんだからです。

僕も母島のレジェンドから頼まれた分も含めて、
沢山の水を撒いてきました。
先人たちのおかげで、今の暮らしがあるのです。


これは登喜子さんが住んでいた集落近くに残っていた、
硫黄島のパイナップルです。
今の母島ではあまりみかけない細い葉っぱの品種です。
こうして、代が変わりつつも今も戦前のものが残って息吹いている。
これってとてもすごいことだと思うのです。


■こちらは硫黄が丘にある船見台という岩です。
以前はここから海が見えたはずだといいますが、
硫黄島の活発な火山活動の隆起の影響か、
今はここからは海が見えないとのことでした。


近くにはレモングラスがありました。
これは戦前の硫黄島の産業の原料の一つで、
レモングラスから油を搾っていたようです。


その際にはこの硫黄が丘の常に沸き立っている
地熱や蒸気が使われていたそうです。
今もなお火山活動が続き、
8年前の景色とは全く変わっていた硫黄島。
島が生きている、とはまさにこの事と感じる瞬間です。


硫黄が丘ではトケイソウが美しい花を咲かせていました。
これは今小笠原の主要作物であるパッションフルーツの原種です。
8年前は6月だったので実が実っていて、
薄いですがほのかに甘いパッションの風味がしました。


これは硫黄島の各所に散らばる実です。
これは何の身なのでしょう?
あまり植物の生えない硫黄が立ち込めるエリアにも多くて、
いったい何なのかわかる人、教えてください‼


■集落跡を巡ると、今まで見えてこなかった硫黄島の素顔が見えてきます。

こちらは硫黄島で月下美人と呼ばれるもの。
母島ではドラゴンフルーツと呼んでいるものにそっくりです。
(逆に母島で月下美人と呼ばれるものは、
 花はドラゴンフルーツににていますが、葉っぱがもっと薄いです)


実際の学名よりも、その土地で呼ばれている名前に僕はドラマを感じているので、
クロアシアホウドリが硫黄島ではクロアホウドリと呼ばれている、
その部分を大事にしたいと思っていまします。


自衛隊の方の案内で、今までになかった景色を見ていると言う先輩議員。
普段は自衛隊の業務があるので、
休日にこうした開墾や発掘の作業をしてくれているそうで、
本当に頭が下がりっぱなしでした。

硫黄島の自衛隊の方々は、
島の急患搬送の為にとても重要な役割を課せられています。
本当にありがとうございます‼

こうした最近は近自然工法と呼ばれる様な、
みんなが歩きやすいような道の整備まで
やってくれているのです。

メインの滑走路付近には学校の跡が発見され、
そこではこうしたトイレの残骸もみつかっていました。


ここも同じく学校跡です。
このような丸い形のものは何に使われているかわかりませんが、
明らかに人が暮らしていた場所だそうです。
約80年前、11歳まで過ごしていた登喜子さんの記憶力は
本当にすごいです!


こちらは硫黄島の遺骨収集の中心的人物になっている方の
一族が暮らしていた集落の生活跡だそうです。


お釜の跡なども残っていました。
この生々しい暮らしの跡の数々が、
まだ硫黄島が戦後が終わっていないことを感じさせてくれます。


大きな大きなパパイヤの木。
硫黄島は楽園だったことを行くたびに感じさせられます。

そんな故郷に帰れないでいる旧島民も戦後80年になり、
1世が硫黄島に来れるにはギリギリの時代になっています。

僕たちはこうした機会に視察に伺わせて頂いているので、
できる限り多くの人に伝えなければいけないと感じています。

「どうか、硫黄島を忘れないでください」
小笠原に住んでいる人はもちろん、
多くの人々に知っていただきたい硫黄島です。