小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

自由と責任を以て~18歳と12才の誕生日

2021年10月16日 | 家族
■10月はとにかく忙しい。
ローゼルの収穫、冬野菜の作付、御嶽神社例大祭、
ハロウィン、そして娘たちの誕生日。

我が家のふたりの娘たちはなんと同じ10月生まれなのです。
今回、カナダ留学中の長女は18歳を迎えました。

カナダに数週間前に妻が送った荷物が、
なんとその誕生日ジャストに届き、
長女から次女への誕生日の荷物が船便で届きました。

コロナ禍で航空便がそもそも少なく、時間がかかる昨今、
1か月以上前に相手の事を考えて送った荷物が、
7777kmの移動をして丁度に届くなんて、
なんて嬉しい事なのでしょう(#^.^#)

■そんな親父からはまず長女にメッセージを送りました。
娘たちの誕生物語にも書きましたが、
島で結婚して、子供を授かり、
切迫早産で色んな人に支えられて、
内地に緊急搬送されて入院しての誕生。

その娘が遠く離れた地で18歳を迎える。
こんなに有難いことはありません。

少しプライベートな部分はカットしてますが、
概ねこんなメッセージを送りました。

【18歳の誕生日おめでとう!!】
誕生日おめでとう。
あなたが生まれた頃、
親の僕が想像もできなかった世界に今あなたはいます。

僕が18歳の頃は、昼間仕事をして、
夜間の工業高校に通っていて、
海外で学ぶなんて選択肢すら思いついていませんでした。
これから生きる少し先の未来と、
趣味の音楽と友人、異性の事ばかり考えていた(笑)18歳だった気がします。

あなたはこの秋に、コロナ禍でありながらも、
ようやくカナダ留学の3年目を迎えることができました。
日本の多くの同級生は来春以降の進路を決めて動いている時期です。
あなたは高校を卒業する来秋以降をどう考えているのか楽しみです。

今の日本では18歳から選挙権を得ることが出来るようになりました。
あなたの代から成人式も18歳になります。
つまり、自分の行動に対して、親が責任を取るのではなく、
あなた自身が責任を取れるという年齢に達したことになります。

親のお金や親の人脈に頼らずも、
自分の意志と行動で自由に生きていけるという、
素晴らしいターニングポイントだと思います。
これからはより自由に、
自分の意志で世界に羽ばたいて行ってください。
ありったけの自由とともに、
責任も一緒に伴っていきます。

どの学校に行け、
どの職種に就け、
どんな人と付き合え、
元々そうですが、
今後も一切、干渉する気はありません。

自分で決めて、自分で行動して、自分でその責任を負ってください。
あなたはあなたのものであって、
決して親のものではありません。

どこで何をしても構わないけれど、
親としてはいつもあなた自身がハッピーで過ごせて、
死ぬときに笑顔で死ねるようであることを祈ってます。

海外にいてもメールやSNSでこうして、
簡単にやりとりができる時代だけれど、
あまりやり取りがないときは、楽しんでいるんだなと思っています。

ただ、自分で対処できないほどに辛いとき、
心底困った時はいつでも頼ってください。

元々生まれ持った宝物、
その天性の人柄、人を思いやれる心、優しさ、芸術性、
それらを大切に健やかに生きていってください。
そしていつも多くの人に支えてもらっていることを忘れないで、
常に感謝の気持ちを持っていてほしいなと思います。

僕は今でもちゃんとした大人にもなった気はしませんが、
妻のお陰で夫婦となり、
あなたともう一人の妹のお陰で親になることが出来ました。
最初から親だったわけではなく、
間違いなくあなたの成長とともに、
僕も親として成長させてもらいました。

自分が立派な親と思ったことはないけれど、
あなたの父親になれて嬉しいです。
本当にどうもありがとう。

あなたは小笠原が大好きだし、
島の暮らしに憧れることもあると思うけれど、
親元に帰って生きていくという選択肢は、
基本的にはありません。
島で暮らしたいならば、
自分で住まいと仕事を手配してください。
あなたはもうそれができる年齢です。

カナダに行って、
日本ではなかなか学べない、
主体的に生きるということを学べていると信じています。
日本では当たり前に進学か就職しかありえない風潮があります。
あなたはその流れの中にいると思っていますか?
僕はもっと主体的で自由にいれてると思っています。

自分の責任で生きていける年齢の今、
自分で決めて自由に生きていってください。
日本はもちろん、
世界の国、色んな土地に旅に出るのもいいでしょう。
お金がないだろうから、各地で住み込んで働くのもいいでしょう。
頑張って奨学金や市民権を得て、
働きながら進学するもいいでしょう。

よく日本の大人や先生に押し付けられる
「将来の夢」なんてものに縛られず、
その時に興味のあること、好きな事、やりたい事に
どんどんチャレンジしてください。
それを実現するための環境を自分で作ってください。

最後にあなたが困った時に沢山の人が助けてくれています。
その恩返しはあなたが出逢う目の前で困った人の力になることで恩返しになると思っています。
人と人はそんな形で世界を作っていると思っています。

世界は本当に美しくて素晴らしい♪
改めて、誕生日おめでとう。

いつも遠く離れた小さな島からあなたの健やかな日々を願っています。



■そして友人達からも沢山のお祝いのメッセージを頂きました♪
世界中、様々な年齢の友人から祝福されていて、本当に有難いなと思います。

僕も妻も娘たちも、
日々沢山の人に支えられて生きています。
本当に感謝です☆
自分に余裕があるときは、
できる限り、困った人達のフォローをして、
恩返ししていこうと日々思っています。

感謝して、労って、リスペクトしていく…
そうして世界は少しずつ平和になっていく気がするのです♪


■長女の誕生日の翌日は次女の誕生日。
6歳離れている姉妹で、次女は小学6年生。
来年には中学生になり、あと3年半で島を巣立っていきます。

なんと1日違いの誕生日の姉妹。
長女がカナダにいる今、時差で同時刻にお互いが誕生日という不思議な現象になるのも3年目です♪

姉が巣立って3年。
いつも大好きで尊敬している姉が暮らしの中から離れ、
次女もバリやカナダ、ハワイに青ヶ島と外の世界の人と交流し、
姉とは真逆の人見知り、場所見知りだったながらも、
色んな視野を持ち、挑戦してきました。

来年からは中学生。
しっかりと大人の理不尽さにも納得できずに、
モヤモヤとする時期を経て、巣立っていってほしいと思います。

魚を捌いて、刺身を盛りつけできる。
ゴキブリを素手で掴める。
クライミングが大好き。
東港で頭飛び込みができる。
絵が上手い。
歌と踊りが大好き。
お菓子作りなど料理も好き。
超頑固もの。
ストイック。
怖がり。
などなど、慎重派な次女さん。

僕からは3年分の写真アルバムをプレゼントしました。
デジカメの時代に子供が手に取って見れる写真があればいいなと思って、
長女が6歳になった時から3年ごとに親元にいる15歳まで作成して贈っています。

アルバムを作りながら、3年間を振り返って、
子供の成長速度に驚くばかりです♪

子供に負けないように成長しようと思っていますが、
横にしか成長しないお年頃の僕(笑)。
精神面での成長を目標に、
娘たちの誕生を祝いたいと思います。
誕生日おめでとう!!


人生のほぼ半分を共に過ごして

2021年06月24日 | 家族
■先日、18回目の結婚記念日を迎えることができました!!

日々、色んな事があるけれど(笑)、
こうして一緒に過ごせてきて、
本当に良かったと思っています。

自分にはないものばかりを持っていて、
石橋が無くても気付かずに渡ってしまう僕(笑)と、
石橋を叩いて壊してしまう妻(笑)。

磁石のS極とN極の様に
惹かれあったのだと思います(*^_^*)

初めて会ったのは19年前(2002年)の父島の宮の浜で、
僕が海で魚を獲っていて、
陸に上がったら網に大きなミズダコがくっついていて、
それをはがして地面に打ち付けている様を
ぼーっと見ていた女性。
それが妻との最初の出逢いです(笑)。

その後、僕が母島のユースホステルで働いていたら、
その女性がはは丸運休の日に貨物船・共勝丸で渡って現れました。
すでに普通の行動ではない彼女☆
僕はそこで初めて貨物船の存在に気付いたほどです(#^.^#)

当時、全く宿の食事を取らずに、
シリアルとパン、ヨーグルトなどで日々過ごし、
他の客とは全く違う動きをしていた印象的な彼女。

そして、一緒に暮らし事になり、
それから20年近く経ちました。
僕は40歳なので、人生のほぼ半分を一緒に過ごしています。

有難いことに、
ふたりの可愛い娘に恵まれ、
夫婦の間もグランドキャニオンのような地形な時期(笑)から、
最近は四季折々の日本の風景になってきた気がします(*^_^*)。

まだまだ、モンゴルの平原の様にはなかなかたどり着けませんが、
日々とても彩り豊かに過ごす事が出来ています♪

まったくの赤の他人と暮らすということが、
ここまでバンドの様にマジック&ミラクルを
産み続けることになろうとは思いもよりませんでした(*^_^*)

ひとまず、
19年間、こんなヘンテコな僕と一緒に過ごしてくれてありがとう。
これからも続く限りでいいので(笑)一緒に居ましょう(*^_^*)

母島での子育てもあと3年ちょい。
子どもが巣立ちしたら、
BOØWYの氷室と布袋の様にそれぞれの活動になるのか、
B'zの稲葉と松本の様になるのか、
まったく別の間柄になるのか、
なってみないとわかりません(笑)。

カナダの長女が書いてくれた、
ほんわかした夫婦の絵でも見ながら、
日々頑張ろうと思います。


■結婚とは、
ゴールインなどではなく、
間違いなくただのリスタートだと思っています。

よく、芸能人の結婚などでゴールインと報道されますが、
「これからじゃん!」と思っていました(*^_^*)
達成!終了ではなく、これから真価が問われるんですよね。

そして結婚は人生で必ず必要なものではないけれど、
他人とお互いを想いながら過ごす事で、
人生は深く、様々な色合いに満ちたものになると感じています。

さらには子どもを授かる事で、
親の意識に触れ、
さらに人生の視野が深まりました。

以前、職場の同僚に言われた言葉ですが、
「子どもを持つまで、今までこんなにも未来に対して無責任だという自覚がなかった。
夫婦でいて、そこそこ幸せに暮らしていればいいと思っていた。
でも、子どもを授かったら、その子供の未来に対して責任を感じれるようになった。
それはね、すごく大きなことなんだよ」

という言葉を聞いて、とても感動したのを覚えています。

結婚も子育ても通過しなければ、
ある意味、平穏で気ままに暮らせて素敵だなと思います。
どちらも間違いなく楽ではないのです(笑)。
僕も恐らく、相当好き放題生きたと思います。

だけど、こうして比較的周りよりは若く父親となり、
約20年共に過ごしてみて、
色んな経験をさせてもらいました。
沢山の学びの連続です(これからも!)。
そして、最近ではSUPや音楽、開業など存分に好き放題させてもらっています。

本当に有難いことだなと思います。
妻と共に過ごして来て、
子ども達に恵まれて、
本当に幸せだと思います♪

どんな形やスタイルであれ、
日常に感謝できて、そこそこ生きていれば、
人生はOKな気がします(*^_^*)


■先日の共勝丸で開業した便利屋「こまわりさん」用に購入した軽トラがついに届きました(#^.^#)
手配してくれたのは、
以前、震災避難で数年間母島で暮らした素敵なファミリーです(*^_^*)

島の塩害防止仕様にしてくれて、
家族でメンテしてくれて、
発送してくれて、どうもありがとう♪

大切に使わせてもらいます☆
これでバリバリ運搬も働きます☆

軽トラ到着してから、早速便利屋としてフル稼働です(#^.^#)

開業宣言をしてから(実はする前から)、
沢山のご依頼が届いています。
「ホントに助かります!」
「ありがとう!」
とこちらが嬉しくなる励みの言葉が沢山(#^.^#)
やってよかった!
島の便利屋こまわりさん。

共勝丸は、なんと予定日の前日に接岸し、
「この日は載せるだけ、降ろすのは翌日」と聞いていたのだけれど、
軽トラを降ろせるかと聞いたら、快く降ろしてくれた上に、
共勝丸Tシャツまで頂きました♡
よ~し、頑張るぞ~!


■先日は脇浜で久々にグンカンドリ若鳥(コグンカンドリかも知れない)を見かけました。

1日中漁港~脇浜を行ったり来たり。
ほぼ羽ばたきませんでした(#^.^#)
あれは楽なんだろうなぁ~

なかなかのレアな鳥さんです。
やっぱり悠々と飛んでいる様が、超カッコいいのです!!

よく島でもフラでグンカンドリの曲を踊っているのを見かけます。
ハワイでは普通に見かける鳥なのでしょうね。

空中戦が大得意で、
羽のはっ水が弱く、水に濡れるのを嫌う海鳥。

どうやら3日前から来ていたらしく、
今日くらいまではいるかな~

どうしていつも海が大時化の時ばかり来るのだろう?
不思議いっぱいのカッコいいグンカンドリさんでした♪

赤道らへんから、遠路はるばる渡って来ていて、いつも凄いなぁと感心します。

仕事と仕事の合間に、
こうして大型の海鳥を撮りに行ける島暮らし。
地下鉄も、コンビニも、映画館もないけど、
こういう日々が実は僕は好きです(#^.^#)

40歳。亡き父を超える齢を迎えて

2021年03月14日 | 家族
■先日、ついに40歳の誕生日を迎える事が出来ました。
沢山の方にお祝いの言葉をかけてもらい、とても嬉しかったです♪
みんなの存在が本当に有難いです(^^♪

とりわけ、家族に言われるのが、じんわりと嬉しい年頃になってきました(*^_^*)
本当にありがとうございます☆

そんな誕生日でしたが、慌ただしい1日でした(笑)。

母島に残された原生林、石門に次女のクラスと先生を案内する役(5年の保護者はガイド資格を持っている人が複数います!)、
夜は東京11島が集まって話をする母島部活動のイベントの主催。

朝から夜までバタバタの誕生日ですが、とても充実していました(*^_^*)

ヨガの不久先生に教わったことですが、
「有難い」の反対は「当たり前」だそうです。

今日も1日、無事に過ごせるのは当たり前ではなく、
有難いものであると感じさせられます。

本当に有難うございます(#^.^#)


■人生80年と言われる時代ですが、
その折り返しでもある40歳。

僕には大きな意味のある年齢でした。
それは、父が亡くなった39歳という年齢を超えるからでした。

父が生きれなかった年齢を生きる。
これがひとつの目標というか、目安でした。

別に長生きしたいとは思ってはいませんが、
次の目安は母が亡くなった55歳というのが目安です。

年々、持ち前の忘却力が日々進化する中(笑)、去年に自分が39歳を迎えた時に書いた記事を思い起こしてみました。
全然覚えていませんでしたが、亡くなった父の事を書いていました。

今回は僕が生まれた頃のことを記してみようと思います。
実は出生直後に死にかけていたのです。


■僕は昭和56年3月に仙台で生まれました。
確か河原町にある松永産婦人科で産声をあげたのだと思います。

母から聞いた話では、
とにかく朝早くから掃除とかをしていて、
陣痛が始まったから、自転車で産婦人科に行ったら、先生に怒られたと言っていました(笑)。

そりゃそうだ(笑)。
これからお産って人が自転車で来るのは、非常識でしょう(*^_^*)。
自転車で病院に着いたときにはすでに、頭が少し出かかっていたといいます(^_^.)

これも母から聞いたうる覚えですが、
出産予定日は5月だったけど、急に早まって3月生まれたから、未熟児だったというのです。

ってことは妊娠32週頃に早産で生まれてしまったということでしょうか?

出生体重が2200g。
これはかなり小さいし未熟児です。
すぐに保育器に入れられたそうです。

問題はその後です。

なかなか経過が厳しかったらしく、
ドクターから死の宣告を受けたそうです。

早く生まれて、助からない、と。


■しかし、そこはさすがうちの母親です。
「じゃあ、自宅で看取ります」と言って、病院を退院し、
超小さい僕を家に連れて帰ったそうです。

そして、諦めずに、ストーブをガンガンに炊いて、
部屋を暖め、蘇生を促したそうです。

すると、次第に元気になったというのです!

あの時、ドクターの言うままに任せて、諦めていたら今の僕はいないのです。
母の諦めの悪さのお蔭で僕は命拾いできたことになります。
感謝ですね♪

先日、仙台の祖母から連絡がありました。
まだこの生まれる時の母の行動を知らないなら、
伝えなくちゃと思ってくれていたとのこと。
本当にありがたいです。

祖母ももう90歳直前ですが、
スマホにFacebookデビューと、
新しい分野に果敢に挑んでいて、本当にカッコいいと思います☆


■1歳年上の姉に可愛がられながら(記憶の範囲では可愛がられた記憶はないですがw)、
その後はすくすくと育ったようです。
父と母は色々折り合わずに、
僕が保育園の年長の時に離婚してしまいます。
(僕が離婚というのを理解したのは小学5年生の頃でした)

小学校1~4年の僕はしょっちゅう熱と便秘に悩まされる、
病弱児だった記憶があります。

母が子宮癌で倒れて、
僕と姉が父の元に行って、
そこで気管支炎喘息をこじらせるまで、
僕は野菜が嫌いで、病弱でした。

丁度、母の入院ということもあり、
きっとストレスがかかったのでしょう。

僕は気管支炎喘息と動物タンパクアレルギーになりました。
夜はよく呼吸困難(チアノーゼ)状態になり、
とても母親に心配をかけたようです。
寝ていると顔が紫になって苦しんでいたので、
気が気じゃなく、心配でよく寝れなかったと言っていた気がします。

母が癌の手術後に、
僕と姉を迎えた後は、
何故か嫌いだった野菜を食べるようになり、
身体がメキメキと丈夫に、大きくなっていきました。

祖母と一緒の僕

■今でこそ身長は176㎝、体重は準ヘビー級となりましたが、
未熟児とは思えない生育ですよね(笑)。
決して大きくない両親でしたので、いつの間にか親を超していました。
遺伝ってなんなんでしょう(笑)?

ほんと、沢山の人に支えられての今があると思います。

自分の娘二人も決して大きく生まれたわけではありませんが、
今こうして無事に立派に成長してくれています。

当たり前に思えますが、
本当に奇跡で有難いことだと思います。


唯一の兄弟でもある姉は、
現在も仙台で元気に過ごしているようです。
高齢の祖父母の家にもよく通ってくれています。

まさに年子の姉は、
小笠原に移住してしまった僕とは真逆の生活をしているようですが、
母がカナダで危篤になった時にも一緒に行きました。

子供の頃は喧嘩の様な記憶しかありませんが(笑)、
お互い、子どもを持つ身になって大人になると、
今はよき同志になっている気がします(*^_^*)


■最後に現在カナダの高校に留学している長女から、
嬉しい誕生日メッセージを頂いたので、ここに載せちゃおうと思います。

*お父さんついに40歳*
東日本大震災から10年。。。
あの日私は小学1年生が終わるころだった。
夜は消防団員である父が避難所に駆けつけたり村の支援をしにいっていて、
父に何かあったらという不安と初めての大きな地震への怖さに妹と母と薄暗い明かりをつけた部屋で布団にくるまって寝れないでいた。
その翌々日は父のお誕生日だったがもちろんそんなことがあったばかりで対してお祝いができなかったのを覚えている。

そんな10年前、慌ただしく30歳になった父が日本時間でー昨日の3月13日に40歳を迎えた。
我が家の親は少しどころか結構変わっている親である。

さらに母島の私の学年の親の中で1番若い父親と1番(お年寄り、というときっと怒るから)年長な母親なのである。
私の両親はぴったり10歳の年齢差があり、父が23、母が33のときに私が生まれたそうだ。

年上の母の話は置いておいても、若い父親を持つと親の年齢の話題になるたびに誇らしかったものである。
特に周りの親が40代の頃父は30代だというとよく驚かれたものである。
そんな父がついに40代の入り口に立ってしまった!

これでもう親の歳でそれほど誇らしくはなれないのだろうかと思うと少し寂しいが
父が父の父親が亡くなった年齢である39歳を無事に終えて40歳になれたのだと思うと
娘ながらもなんだか感慨深くめでたいものだなあと思う。
今年の誕生日は父は宝島事業、山ガイドと40代の体力にはハードな予定があり😂、リアルタイムで電話はできなかった。
でも、そこで元気に生きていてくれるだけでいいのだ。

特にこんないつ誰が倒れるかわからないご時世で、無事に笑顔でいてくれるだけでもう十分嬉しい。
父は人がだいすきで積極的にご縁の輪を次から次へと繋げて、みんなの笑顔を回してくれる笑顔のバトンランナーだ。
内地からの定期便に頼りきった島で持続可能な暮らしを目指していて、いろんなものが近代化された現代で
1人ガラケーのままノネコや野鳥を助けるため野山をかけまわりながら、
農薬を使わず堆肥や古くからの農法や知恵をつかい、その土地にある土の質をあげることで
小さいけれど甘くて美味しい人参やトマト、美しいローゼルやオクラを作る素敵な百姓でもある。

伝えたい父の魅力は沢山あるし、感謝していることも数えきれないほどあり、
逆にださいな、もっとこうしたらいいのにって思うところも勿論ある。
だって人間だものね。
でも、やっぱり彼を父親として育つことができて世界一幸せな娘だといつも思う。
そして前側はビールっ腹になりつつはあるものの、やはり野山で鍛えられたその逞しい背中をとても尊敬している。
お誕生日おめでとう。

素敵な光でいっぱいの一年でありますように!
2021年3月13日 
カナダ バンクーバー時間 お父さんの誕生日に。


なんだか、
長女には沢山の大事なものが伝わっていて嬉しいです。
ありがとう☆

そうか、若い父親というのは誇らしいものだったのか(笑)。
まったく自覚がなかったです(笑)。
確かに同級生の男子では僕は親になるのはトップバッターでした。

親の自覚はある程度はあるのですが、
大人の自覚は未だにございません(#^.^#)

僕は間違いなく立派な完全な大人ではないけれども、
人として大事にしたい、大事にして欲しい部分を、
長女はすでに持っていると感じます。

学校の成績やいい学校、
いい企業に就職するよりも、
もっと大事と思っているものを彼女は小さなころから身に着けていました。

僕が同じ年頃の時代には、持てなかった目線です。
(高校生の頃は生徒会長とかはしていましたが、基本アッパラパーです★)
だけど、僕が高校生の頃は話ができる父親はこの世にいませんでした。

17歳の長女とこうして色々話せるまで生きられたことも、
本当に奇跡で有難いことですね。

そんな高校生の娘からもらった言葉が、
とっても嬉しい誕生日でした♪



 


17回目の結婚記念日を迎えて

2020年06月26日 | 家族
■今年、なんと17回目の結婚記念日を迎える事ができました。
間違いなく、平坦ではない17年でしたが(笑)、
とても彩り濃く、実りの多い17年だったと思います。

こんな赤の他人と色々ありましたが、17年も一緒に過ごしてくれて、妻には本当に感謝です。

「パートナーは幸せにしてくれる存在と言うより、成長の課題をくれる相手である」
という言葉を頂きましたが、まさにその通りだと思います。

今年は介護の職場でピンクのバラを1輪頂き、記念にプレゼントすることにしました♪
恥ずかしいですが、相手に薔薇を贈るのは人生で初めてかも(笑)。

バラの花ことばは「愛」だそうです。
ピンクの薔薇の花言葉は「上品」「気品」「しとやか」「暖かい心」「恋の誓い」「感謝」とあります。
職場でも同僚や利用者さんの熱烈な応援を受けて(笑)、色々と調べましたが、
この花言葉の中で一番大事にしたいのが「暖かい心」と「感謝」です。

個人的にはとても喜んでもらえたと勝手に思っています。
それを見た長女が涙を流して感動しており(笑)、なかなかいい雰囲気だったと思います♪

これからもどうぞよろしくお願いします。


■その長女は、結婚記念日の翌日に父島で様々なミッションをこなすために渡っていきました。

様々なコロナで帰国中の長女。
もう巣立った身ですし、こんな最中でもあまり実家に長居してはお互いによくないと思っています。

いっぱい父島で経験させてもらって、
いっぱい吸収して生きて行ってほしいです。

母島にいつ戻るかは不明です(笑)。
戻ってくるよりも、
このコロナの渦中に逞しく、生きて行ってほしいです。

親的にはしばら~く、外で学んできてほしいですね(笑)。
がんばれ~


■今年はなんと梅雨が明けてからのヒメツバキ満開期。
いつもは梅雨の象徴のような花なのですが、
今年は少し遅れての開花です。

ムニンヒメツバキは小笠原固有の可愛い花の木です。
可憐な小さな花が高い樹冠を飾ります。

道路には一面のヒメツバキの花が敷き詰められ、
いつもこの花が大好きな次女が、
「B線(通学路)にヒメツバキが落ちてたよ♪」
と報告してくれます♡

村の花に指定されていて、
密かに僕も大好きな花のひとつです(#^.^#)


■小笠原は先日の「勝手な梅雨明け宣言」以降、ずっと晴れ続き。
日中はもの凄く暑いので、昼過ぎは基本、毎日海で泳いでクールダウンしています。

上は大好きな北港の写真。
すっかり夏の空、夏の色になりましたね♪

戦前は沢山の民家が並んでいた北港のメインストリート。
今も僕はこの母島で一番長くまっすぐな道が大好きです☆


北港のストレートの脇にとても目立つ観葉植物があります。

キャットテールやベニヒモと呼ばれる植物だそうです。

不思議な目立つ存在です(*^_^*)


■もう一つ、大好きでよく泳ぐ石次郎海岸。
集落からすぐに行けるプライベートビーチです♪

先日は次女が水切りに挑戦していました。
最高4回でした。

親父は最高5回です。
そろそろヤバいです(笑)。

夏は暑いかっら泳ぐ!
こんな贅沢な当たり前を過ごさせてもらっていて、ほんと感謝です♪

今年も10月くらいまで泳ぎ続けることでしょう(笑)。


■そして、今回はいつも春にやっていた味噌作りを初夏に行いました。
コロナのお蔭で家族4人揃っているので、ワイワイとやりました。

ほんと不思議なのですが、ガスで豆を煮るのと、薪で煮るのは全然仕上がりが違います。

ビックリするほど短時間で柔らかく中まで火が通るのが薪の凄さです。

豆を煮た後は、袋に入れてみんなで足で潰します。

子供達は熱いので、こんな足に(笑)。


妻が米麹と塩を混ぜて、程よく冷めて潰した豆と混ぜてこねます。
これがまた美しい♡


こんな遊びもアリです(笑)。

混ぜた味噌を器に投げ入れて、空気を抜いて、一丁上がり。
毎年やっているので、みんな手慣れたものです。

仕上げに前シーズンの味噌で蓋をして終了。

妻がこうした丁寧な暮らしに重きを置いてくれているおかげで、
家族でこうした過ごし方ができるし、美味しい手前味噌も味わう事ができます♪
ありがとうございます(*^_^*)

■畑の方も着々と夏の状態になってきました。

母島ローゼルも今の所、順調です☆

こちらは3尺ささげ豆の花です。

長くて美味しい、不思議な夏の豆です♡


■また先日はコロナで活動を自粛していたカノー部の活動を久しぶりに再会しました☆

久々に青空の下でみんなで漕ぐカノーは最高でした(#^.^#)
子供達も大喜び♡

白、赤、黄の島カノーも脇浜の定位置に戻せました☆

ずっとカバーをかけて休んでいたベルーガもみんなで磨いて綺麗にできました(#^.^#)

これからまた、カノーボヤージングの日々が始まります。

カノーを漕ぎながらもコロナの事に関しては、色々気を付けながらやっていきたいと思います♪
(一緒の飲食は控える、距離を置く、室内で集まらない、面と向かって近い距離で話さないなど)

こうして目まぐるしく母島の夏は始まりました!
無事に17回目の結婚記念日を迎える事ができて良かったです♪
家族に支えてくれるみんなに感謝の気持ちでいっぱいです(*^_^*)

いつまで続くか分かりませんが(笑)、
モノ好きな変人同士が、こうして何とか一緒に暮らせているので、
お互い学びつつ、楽しく過ごしていければいいなと思います♪

どうもありがとうございます(*^_^*)


父親の年齢に追いついた今。

2020年03月13日 | 家族
■39歳になりました。
沢山のお祝いの言葉をありがとうございました(#^.^#)

朝イチにカナダの長女からおめでとうのメッセージ、
続いて妻と次女におめでとうと言われて、
そしてSNS、母島のみんなにお祝いの言葉を言ってもらえて、とても嬉しいです♪

誕生日であるというだけで、人が相手のことを想って声をかける。
この行為がどんなに有難いことか。
本当にありがとうございます!!


■そんな39歳になったぼくですが、
僕にとってはとても意味のある年齢なのです。
それは父が亡くなったのが39歳だったからです。
僕が中1の時でした。

当時の僕にとっては周囲が「若いのに亡くなって気の毒に…」という言葉の意味が理解できませんでした。
40歳間近である大人の人生のスパンが13歳の僕には想像できなかったのでしょう。

今まさに、その父と同じ歳を迎えてみて、
ようやくその言葉の意味が理解できました。

30代での急逝はあまりに早過ぎます。

今の僕がそうであるように、
子供の成長を見たかっただろうし、
孫の姿も見たかったと思うし、
何より、もっと自分の人生を生きたかったと思うのです。


■少し、自分の父親を振り返ってみたいと思います。
大阪出身の父は秋山雅彦。
母とは仙台の藤崎デパートで出逢ったらしいです(父はお茶の配達、母は店員)

1887年、僕が6歳の頃

僕にとってはとても優しい父だった記憶しかありません。。
色んな所に車で連れて行ってくれて、
豪華な外食に連れていってくれました(今思えば、ただのファミレスw)。

過去の記事で書いたかも知れませんが、
僕の父は僕が保育園年長の時に母と離婚して、隣町に別に暮らしていました。

僕が小学生低学年の頃。昆虫採りと魚ばかり捕まえていた
のんきな男子にとって親の離婚なんて理解できず、
「なんで別に暮らしていたのだろう?」と本気で小5まで離婚を理解できていませんでした(笑)。

母親はいつも別れた父親の悪口ばかり。
子供心に大人の大人気なさに気付いていて「はいはい」と思っていた記憶があります(*^_^*)

母親に禁じられていたファミコンやお菓子を惜しげもなく与えてくれ、
僕は父親の元に行くのがとても楽しみでした♪

栗原にある1両編成の栗原電鉄に乗りに行く旅、

もう廃線になってしまったようですが、たった1両編成のローカルな電車はとても
あのワクワク感は今でもおぼろげに覚えています。


SLが大好きだったので梅小路機関車基地に連れて行っていきました。
SLは完全に男心をくすぐる存在で代表格でもあるD51も実際にありました。


どこかのダムでのキャンプや釣りに連れて行ってもらいました。
臭い練り餌でフナみたいな魚が連れたのを覚えています。


新潟の海のシュノーケリング、キャンプなど。
当時、泳げない僕にとって、初めての綺麗な海での海中観察。
シュノーケルする父親の背中に乗って、思わず父親の呼吸するシュノーケルに息を吹きつけて、
思いっきり咳き込ませて大笑いしたのを覚えています。
テントで1泊だったと思うけど、ワクワクして楽しかったなぁ~

母親とうまくいかないながらも、
一生懸命子どもとの時間を頑張って過ごしていた気がします。

一番奥が母、左右が祖父母、手前が僕です。
車の運転がとても丁寧で(文句ばかりの母が唯一父を褒めていたのが車の運転だけでした)、
とても温厚な人だったと思います。

僕の記憶では父がイライラして怒っていたのは、
岩手の龍泉洞に自家用車で連れて行ってもらった時に、
路肩の縁石にタイヤをぶつけて、パンクさせたとき1回だけでした。


僕の母校仙台市立南材木町小学校。
■僕が小4の時、母親が子宮がんで倒れ、入院している間、
離れて暮らしていた父親の元で姉と二人と共に暮らしました。
どれくらいだったのだろう?
よく覚えていませんが2か月くらいだったのかな?

当時、父は自分の夢を叶え、富沢でケーキ屋とお茶&コーヒー屋をしていました。
毎日ゲームとお菓子三昧で幸せだったはずですが、
野菜嫌いの父の食生活は良くなかったのと、
母親と離れたストレスでしょうか?僕が気管支喘息を患ってしまいました。
夜間など凄い咳で呼吸困難を起こし、顔が紫になって何度も母が助けてくれたそうです(あんまり覚えていない)。

精神的なのか身体が弱くなって、学校では先生と同級生にいじめられてしまい、
すっかり登校拒否になった記憶があります。
退院してすぐの母は慌てて、僕を引き取ったような気がします。

学校に行きたくない僕を急かすことなく、
毎日、台原森林公園や科学館などに連れて行ってもらい、
ゆっくりを遊びまくった記憶があります。
半年くらいは学校をサボったような…

その頃くらいから、毛嫌いしていた野菜もきちんと食べる様になり、
毎週熱を出して、便秘症だった虚弱な僕は強い体に成長してきました。

母は闘病明けの体でできる仕事として自宅での英会話教室を始めていた気がします。
その頃からかな?
今、カナダで長女がお世話になっているケビンが家にいた気がします。
一緒に生活し、僕も英語を話していたらしいです(今は全然ですw)。


当時祖父母が飼っていた犬の茶太郎
■小学校高学年になると、友達との遊びや、
祖母の家に行ってプロレスにハマり、自然番組観賞をするようになり、
あまり父親の元に行かなくなった気がします。

人づてに「父親が寂しがっている」と聞いた気がしたのですが、
遊び盛りの当時の僕には自分の事だけが夢中だった気がします。

子供とも疎遠になり、
父の暮らしはやはりガサツになっていったのだろうと想像します。

僕にはそんな父の気持ちまで考える配慮はなかったと思います。

今、自分の目の前を精一杯生きるだけだったあの頃。

栗駒にて。立ち方が娘そっくり(笑)

■そして中1の頃、父は夏の終わりに突然、音信不通になり、
心配になった叔父から連絡があり、知人がアパートに様子を見に行ったら、変わり果てた姿で亡くなっていたそうです。

周囲の大人たちは当時、中1の僕にそんな姿の父を子どもに見せまいと布で隠していました。
しかし、その布の隙間から黒く変色した足が覗いていたのをかすかに覚えています。
その後、父に会ったのは火葬後の骨になった後でした。

診断は「心不全」。
あまりに腐敗した状態では死因を特定するのは難しかったのと思います。
しかし、生活の不摂生があっただろうとは容易に想像できます。
父は甘いものが大好きで野菜は大嫌いでしたから。

長い掴みにくい木の四角い箸を使って、骨を拾い、骨壺に納めました。
中1の僕に、死体すら見ないでの親の死なんて理解できるわけもなく、
哀しいとか、寂しいとかの感情もなく、
ただ、「いなくなった」「会えなくなった」だけの感触でした。

学校の先生や友達から労いの言葉をかけてもらったのですが、
全然ピンと来ませんでした。

でもちょうどその頃からロックを聞くようになり、
X JAPANに心酔していったので、
きっと自分の心が求めていたものがあったのでしょう。

XのYOSHIKIも幼くして自分の父親の死を経験し、
彼の歌の哀しみの中心は亡くなった父に向けての曲が多いのです。

当時はそうとは知らず、
Xの過激さとバラードの美しさ、その刺激に没頭していきました。
それから間もなく、バンドを始めました。

うちは片親で、母親も病弱だったので、
僕は小5から新聞配達をして、
高校は夜間高校に通い、日中は雪印で働いている勤労学生でした。

周りが思うほど、僕は苦労して育った気は微塵もなくて、
母親との約束で中学まではバイトの半額を家に入れればOKの状態だったので、
貧乏な母子家庭の割に僕が自由に使えるお金は割と多く、自由でした♪

働いたお金はゲームとCDと楽器、マンガになっていきました。
バンドのスタジオ代、沢山のライヴに行くお金にもなりました。

高校になると、大手会社の非常勤職員だったので、
しっかりとした収入となり、親を扶養できるくらいになりました。
なんと今より全然収入があったのです(笑)。

昼は仕事、夜は学校、深夜は遊ぶ生活が4年間、続きました。

「お前、よくグレなかったな」と言われますが、
グレるほど寂しい気持ちも、悲しい気持ちもなく、
ひたすら今を楽しんでいます(それは今も変わらないです)。
逆境を楽しめてしまうセンスは、生まれ持ったものだと思います(*^_^*)


2003年12月。長女が0歳。若いな~(笑)
■そして高校卒業の19歳で旅した小笠原諸島に21歳で住み込みで働くことになりました。
そして小笠原諸島で妻と出逢い、翌年には父親になりました。
あまりに若い父親です。

父親になるどころか、
家庭内での父親象すら自分の体験ですら知らない僕は、
父親とはどんなものなのか、どうあるべきなのか、さっぱりわかりませんでした。

実は今でも全然わかりませんが(笑)、
娘ふたり、妻と一緒に育って今に至る気がします。

全然ちゃんとした父親に慣れてる感は未だにありませんが、
娘たちが心ある行動や発言をしたときに、ああちゃんと子供は育ってくれるんだなぁ~と思わされます。

こんなポンコツな僕でも、
一応、夫婦が17年なんとか維持できて、可愛い娘が無事に育ってくれたのも、
みんなすべて家族、友達、島の皆さんのお蔭です。

あんなに若くてどうしようもない父親になった僕が、
どうにか楽しくやれてこれたのは、
小笠原という素晴らしい人と自然の環境、
とても恵まれた仲間の皆さんのおかげです♪
本当にどうもありがとうございます(#^.^#)

また、父の急逝の際、そして今なお眠る墓地においても、
父が入会していた創価学会の方々には本当に沢山お世話になり、助けて頂きました。
本当に有難うございます。
創価学会の慈愛の心と姿勢にはほんと助けられています。

もし父親が健在であったなら、
男として父親として一人の人間として、
お酒でも飲みながらゆっくり語り合いたかったし、
一緒に旅行してみるなんてのもいいなと思います。

もう両親とも亡くなっている僕にとっては叶わない夢ですが。
もし、これを読んでくれているあなたにご両親が健在なら、
ぜひ色んな話をしてほしいと思うし、
今この世にいるのは間違いなく、親のお蔭なので、
感謝の気持ちを伝えて欲しいと思います。


■さて誕生日の今日、カナダの田舎の高校に留学している長女が、
顔を10針縫う大怪我を負ったと聞きました(ToT)/~~~

僕に誕生日のメッセージを送って学校に行っての事の様です。
命に別状はないようで安心ですが、まったく親に似ておっちょこちょいの娘です(笑)。
誕生日に、遠く離れた土地に暮らす娘の無事をギフトで頂きました(#^.^#)

僕自身も最近は随分と体格が大きくなり、
結婚当初の準ヘビー級に戻ってしまいました(笑)。
父の突然死の事もあるので、僕も気を付けて体重を落とさねばと思っています。(結構マジ!)

そして、今、妻と次女が誕生日パーティーの準備をしてくれています。
準備中なので部屋に入るなと言われています(笑)。

今、夜の21時半!!
いつもとっくに寝ている時間です(*^_^*)

お腹もすいたし、
まったくいつまで待たせるのだろうと思いつつ、
娘のワクワクした声にこちらもドキドキしています。

人の為に一生懸命になれるって素敵だなぁ♪
そんなギフトまで誕生日に家族から頂きました。

そんなすべてに感謝の誕生日でした(#^.^#)
有難うございます!!

あっ、娘がようやく呼んでいる(#^.^#)
ではまた!