小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

17回目の結婚記念日を迎えて

2020年06月26日 | 家族
■今年、なんと17回目の結婚記念日を迎える事ができました。
間違いなく、平坦ではない17年でしたが(笑)、
とても彩り濃く、実りの多い17年だったと思います。

こんな赤の他人と色々ありましたが、17年も一緒に過ごしてくれて、妻には本当に感謝です。

「パートナーは幸せにしてくれる存在と言うより、成長の課題をくれる相手である」
という言葉を頂きましたが、まさにその通りだと思います。

今年は介護の職場でピンクのバラを1輪頂き、記念にプレゼントすることにしました♪
恥ずかしいですが、相手に薔薇を贈るのは人生で初めてかも(笑)。

バラの花ことばは「愛」だそうです。
ピンクの薔薇の花言葉は「上品」「気品」「しとやか」「暖かい心」「恋の誓い」「感謝」とあります。
職場でも同僚や利用者さんの熱烈な応援を受けて(笑)、色々と調べましたが、
この花言葉の中で一番大事にしたいのが「暖かい心」と「感謝」です。

個人的にはとても喜んでもらえたと勝手に思っています。
それを見た長女が涙を流して感動しており(笑)、なかなかいい雰囲気だったと思います♪

これからもどうぞよろしくお願いします。


■その長女は、結婚記念日の翌日に父島で様々なミッションをこなすために渡っていきました。

様々なコロナで帰国中の長女。
もう巣立った身ですし、こんな最中でもあまり実家に長居してはお互いによくないと思っています。

いっぱい父島で経験させてもらって、
いっぱい吸収して生きて行ってほしいです。

母島にいつ戻るかは不明です(笑)。
戻ってくるよりも、
このコロナの渦中に逞しく、生きて行ってほしいです。

親的にはしばら~く、外で学んできてほしいですね(笑)。
がんばれ~


■今年はなんと梅雨が明けてからのヒメツバキ満開期。
いつもは梅雨の象徴のような花なのですが、
今年は少し遅れての開花です。

ムニンヒメツバキは小笠原固有の可愛い花の木です。
可憐な小さな花が高い樹冠を飾ります。

道路には一面のヒメツバキの花が敷き詰められ、
いつもこの花が大好きな次女が、
「B線(通学路)にヒメツバキが落ちてたよ♪」
と報告してくれます♡

村の花に指定されていて、
密かに僕も大好きな花のひとつです(#^.^#)


■小笠原は先日の「勝手な梅雨明け宣言」以降、ずっと晴れ続き。
日中はもの凄く暑いので、昼過ぎは基本、毎日海で泳いでクールダウンしています。

上は大好きな北港の写真。
すっかり夏の空、夏の色になりましたね♪

戦前は沢山の民家が並んでいた北港のメインストリート。
今も僕はこの母島で一番長くまっすぐな道が大好きです☆


北港のストレートの脇にとても目立つ観葉植物があります。

キャットテールやベニヒモと呼ばれる植物だそうです。

不思議な目立つ存在です(*^_^*)


■もう一つ、大好きでよく泳ぐ石次郎海岸。
集落からすぐに行けるプライベートビーチです♪

先日は次女が水切りに挑戦していました。
最高4回でした。

親父は最高5回です。
そろそろヤバいです(笑)。

夏は暑いかっら泳ぐ!
こんな贅沢な当たり前を過ごさせてもらっていて、ほんと感謝です♪

今年も10月くらいまで泳ぎ続けることでしょう(笑)。


■そして、今回はいつも春にやっていた味噌作りを初夏に行いました。
コロナのお蔭で家族4人揃っているので、ワイワイとやりました。

ほんと不思議なのですが、ガスで豆を煮るのと、薪で煮るのは全然仕上がりが違います。

ビックリするほど短時間で柔らかく中まで火が通るのが薪の凄さです。

豆を煮た後は、袋に入れてみんなで足で潰します。

子供達は熱いので、こんな足に(笑)。


妻が米麹と塩を混ぜて、程よく冷めて潰した豆と混ぜてこねます。
これがまた美しい♡


こんな遊びもアリです(笑)。

混ぜた味噌を器に投げ入れて、空気を抜いて、一丁上がり。
毎年やっているので、みんな手慣れたものです。

仕上げに前シーズンの味噌で蓋をして終了。

妻がこうした丁寧な暮らしに重きを置いてくれているおかげで、
家族でこうした過ごし方ができるし、美味しい手前味噌も味わう事ができます♪
ありがとうございます(*^_^*)

■畑の方も着々と夏の状態になってきました。

母島ローゼルも今の所、順調です☆

こちらは3尺ささげ豆の花です。

長くて美味しい、不思議な夏の豆です♡


■また先日はコロナで活動を自粛していたカノー部の活動を久しぶりに再会しました☆

久々に青空の下でみんなで漕ぐカノーは最高でした(#^.^#)
子供達も大喜び♡

白、赤、黄の島カノーも脇浜の定位置に戻せました☆

ずっとカバーをかけて休んでいたベルーガもみんなで磨いて綺麗にできました(#^.^#)

これからまた、カノーボヤージングの日々が始まります。

カノーを漕ぎながらもコロナの事に関しては、色々気を付けながらやっていきたいと思います♪
(一緒の飲食は控える、距離を置く、室内で集まらない、面と向かって近い距離で話さないなど)

こうして目まぐるしく母島の夏は始まりました!
無事に17回目の結婚記念日を迎える事ができて良かったです♪
家族に支えてくれるみんなに感謝の気持ちでいっぱいです(*^_^*)

いつまで続くか分かりませんが(笑)、
モノ好きな変人同士が、こうして何とか一緒に暮らせているので、
お互い学びつつ、楽しく過ごしていければいいなと思います♪

どうもありがとうございます(*^_^*)


戦前の母島カノー物語【レジェンド・ストーリー②】

2020年06月16日 | 小笠原 昔話
■レジェンドストーリー②は戦前のアウトリガーカヌーの昔話です。

個人的にはとても興味ある分野ですし、
ハワイからアウトリガーカヌーが日本で最初に伝わってきたのが小笠原だそうなので、
ある意味、小笠原のアイデンティティーの象徴がアウトリガーカヌーだと思うのです。

※これは1986年(昭和61年)にヤップ島からタマナで作ったカヌー「ペサウ号」で若者が小笠原に渡ってきた写真。
 くらしくはこちら


丁度、戦前のカノー(カヌーの事)の話を、
忘れないうちに書き留めておきます。

過去のカヌーカテゴリーについてはこちら
→現在の小笠原はカヌーを漕ぐのが主流です。カヌー大会などが毎年開催されています。

小笠原の先史時代についてはこちら
→なんと石器時代に小笠原に人が住んでいたのが分かっています。カヌーを掘っていた石器が見つかっているのです。


■これは父島のビジターセンターに展示されている、カノーです。
戦前に使われていたものを復元したものです。
僕はこの前で1日眺めていられる自身があります(笑)。
それくらい、島の暮らしに根差したカノーは美しい♪

戦前はこうした帆で進むカノーが、島では一般的だったそうです。
帆で進むカノーは向かい風でも追い風でも自在に海を駆けていたとのこと。

現在、母島カノー倶楽部ではハワイ語の名前で各部分を呼んでいますが、
今回は沢山の島ならではの呼び方を沢山教わったのでここに記しておきます。

ちなみに小笠原ではカヌーではなく、カノーと発音するのですが、
なんと青ヶ島でも同様の呼び名だそうです(*^_^*)
なんだか嬉しいです♪

・アウトリガーカヌー…カノー(ヴァア Va'a)
・胴体部分…身ガノー(ハル HALU)
・アウトリガー部分…ウデ(ヤク IAKO)
・浮き部分…ウケ(アマ AMA)
・道具類をひっかける部分…カットリ(マタギ、シャリンバイの枝などを使う。)
・船首部分…オモテ カッパ(マヌイフMANU IHU)
・船尾部分…トモ ガッパ(マヌホペMANU HOPE)
・パドル…カイ(前の漕ぎ手は丸いブレード、舵取りは細長いブレード)
・調理台…コバシ叩き(魚を切ったり、刻んだりする場所)

ビジターセンターの展示の図面とは少し名称が違う部分もありますね。
母島ならではの名称なのでしょうか?
とても興味がある部分です。

写真はトモ部分(船尾)になるのですが、このカイ(パドル)2種類が分かりやすいですね。
丸いのがオモテ側、細長いのが舵取り用だそうです。

父島にはカノーの船首部分に、魔よけの様な仮面飾りを付けていたようですが、
母島では特にそんな飾りは見た記憶はないと言っていました。


■カノーの大きさ
主に漁師は10人くらい乗れるサイズを二人で使っていたそうです。

戦前でも年が上の人が帆でカノー漁。
若い漁師はポンポン船の和船が多かったそうです。

双胴船タイプ(ダブルハル)のカノーは母島にはなかったそうですが、
聞いた事はあるそうです。

現在のベルーガ(6人乗り、レース用カノー)くらいのサイズになるでしょうか?
イメージするよりはずっと大きいのです。

父島のボート置き場にはまだ何隻もカノーが置かれていますし、
今も現役でカノーで漁をしている方がいます。
過去記事で少し書いています。


■漁について
母島のカノーによる漁は、
餌をばらまいて、そこに集まってくる魚を銛で突くスタイルだったそうです。

柄はオガサワラビロウの葉の茎を使い、
銛先に関しては、展示と同じく、片側のみ返しがあるタイプの銛先を使っていたそうです。

片側でないと魚の身を大きく痛めてしまうからだそうです。

銛先も船首方向(オモテ)ではなく、船尾方向(トモ)側に向けていたそうです。
そちらの方が、魚を見つけて手早く突けたそうです。

カノーの胴体に海水を入れて、魚をなるべく生きさせて、鮮度を保っていたようです。

帆でカノーをかけて、船の上から銛を構える様は、創造するだけでゾクゾクしてきます☆

父島の最初に定住した、欧米系の末裔、瀬掘エーブルさんは、生粋のカヌー漁師だったそうです。
僕にとっては畑をして、鼻歌を歌っている、素敵なじーちゃんでした(笑)。

エーブルさんはよく、遠路はるばる母島のサワラ根に寮に来ていたそうです。

彼は晩年、末期がんの体で夢であった父島ー母島間をウインドサーフィンで渡る事を成功させています。

暑い日差しの中、ずっと沖に出るのはしんどいので、
背中はシュロ葉(オガサワラビロウの葉)で日陰を作り、
日傘として、シュロで頭の上に被っていたそうです。


■帆について
帆については、とても重要な部分だと念を押して頂きました。
母島にも帆を裁つ名人がいて、その人にお願いしていたそうです。

素材は綿。
綿が導入される前はタコの葉を使っていたという記録がポリネシアではあるそうです。

帆柱は丈夫で粘りがある杉を使っていたそうです。
島の材では、なかなかいい帆柱は難しいようです。

輪っかで柱に付けて、
時と場合に合わせてめくったり上下できるようになっているそうです。

身ガノ―に座った自分の頭に当たらない高さに調整するのがポイントだそうです。

船尾(トモ)には帆のロープをかける引掛け「シーツかけ」があります。
そこと自分のお尻の下にロープを入れて、加減を調整しつつ、
舵のカイ(パドル)で操船していたそうです。

そうした技術に関して、大人は子供に教える暇なんかなく、
子どもは大人について行って、ひたすら見て、学び、
技術を覚えるしかなかったそうです。


■カノーの材について
ビジターの展示ではハスハギリを材に使うと書いてありますが、
太平洋戦争直前の頃は主に内地のスギを使っていたそうです。

今の漁協ら辺に船工場があり、そこでカノーは作られていたようです。

現在は軽くて丈夫なFRPで作るのが主流ですが、
昔の木のカヌーは木。
とても重くて、どう扱っていたのだろうと思ってしまいます。

特にウケ(浮き部分、アマ)までの曲がったウデ部分(アウトリガー部分、ヤク)は、
とても重要で、ここが折れてしまったら終わりです。

今回お話を伺った方の時代は、
材を内地から取り寄せていたそうですが、
昔は島の斜面に生えて、曲がって伸びている木を使っていたと聞いた事があります。

ビジターセンターに展示されているカノーのウデ部分は、
2つの木を組んで途中で繋いでありますね。

この方法が主流だったようです。

こちらもとても興味がある部分です。

ハワイから伝わってきている小笠原のカノーは、
ウケ部分(浮き)は身ガノ―(船体)に対して左側に付いています。

国によっては両側に受けがあるもの、右側にウケがあるものと分かれていきますが、
小笠原のカノーは全てハワイ式、左側です。


こちらは返還20周年事業(うる覚えです)で作成した島カノー。
新島で5隻。作ってもらったそうです。
現在は父島に2隻、母島に3隻あります。


■危なかったこと
やはり、海でカノーを操っていて、危なかった事は何度もあったそうです。

カノーが沈することを「のもる」と言っていたそうです。
これはひっくり返るのも、浸水して転覆するのも両方のもると言っていたそうです。

ある時、二人で沖に出ていて、急に時化になり、集落に戻って行こうとするとき、
母島の沖港のすぐ外、中岬付近にある「滝の水」(雨の時に滝が出来る評議平の先)で帆柱が折れて、
船体もかなり浸水し、死に物狂いでふたりで漕いで集落に戻ったと言います。

10人乗れる大きなカノーを二人で漕ぐって、相当です。

また、母島の北にある「わんとね」や「南崎瀬戸」はやはり難所だそうです。
すごく神経を使って、通っていたそうです。

でも凄い点は、いざという時はカノーを捨てて泳げば、
絶対に生き残れるという自信があるという部分でした。

島さえ見えれば、どんなに離れていても、流れがあっても、島に戻れる自信があったそうです。
速い流れの中に逆の流れも潜んでいることを知っていました。

僕も依然、若い頃になんと南崎瀬戸で流された経験があります。
その時も海の底を見たら逆方向に流されている魚を見つけたので、
僕も潜ることを繰り返して、ジグザグに戻ってきた覚えがあります。


島のレジェンドに話を聞いていると、本当に驚くことばかりです。

彼曰く、
「足ヒレなんか着けてしまうと疲れて泳げなくなるけど、
裸足ならいつまでも泳ぐ自信があった」
というのです。

毎日、沖村から南崎まで往復4時間歩ける足腰。

現代人とか体の作りが違います。

子供時代には休みに遊ぶなんて感覚すらなかった忙しい日々の暮らしです。

戦後の現代になって、
日本も欧米化が進み、
ものすごいスピードで過去の文化が失われてきています。

ディズニー映画「モアナと伝説の海」のメイキング映像にもあった、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語った言葉が忘れられません。

「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
過去のブログに詳しく書いています。

■自分たちに課せられた、クレアナ(役目)というものを考えさせられる部分です。

きっと、それは先祖が描いていた想い、なのかも知れません。

以前も紹介した、泣くほど感動した32歳のアイヌの女性の物語。
アイヌの歌に関わって生きて来て、これからの自分の生き方に悩んでいた萱野りえさん。

彼女が米国フロリダ州南部に居住する先住民・セミノール族の人々との交流するチャンスが訪れました。
同じ先住民として独自の文化を持つ彼らの姿に、彼女は何を学び、何を見出したのでしょうか。

今、自分がやりたいと思うことは、先祖が思っている気持ちなのかも知れません。

ぜひ、最後まで観てもらえたらと思います。


そんなレジェンドのお話、最後に
戦前は帆で、戦後はエンジンでカノーを操っていたレジェンド。

どちらがいいですか?と聞いたら、
「そりゃあ、エンジンが楽ちんだよ!帆なんて面倒だ(笑)」
凄い環境を生き抜いてきた人の言葉は、とても重く、深く、響いてくるのでした(#^.^#)

ああ、はやくコロナが落ち着いたら、カノーを漕ぎたい!
セーリングに挑戦したい!!!

参考資料として、返還40周年で小笠原で講演してくれた海洋文化学者の後藤明さんの記事もぜひどうぞ!
八丈に伝わったカノーなどが調べられています(*^_^*)

夏が来た!!~勝手な梅雨明け宣言♡

2020年06月08日 | 母島 日常 日記
■「もうこれは明けたでしょ?」
「雲が高くなったよね」
「空の色が違う!」
「湿気が下がったよね~」
しきりにこんな会話が島の人の間で聞こえてきます。

そう、島の梅雨明けです♪
待ちに待った、大好きな夏シーズンの到来です(#^.^#)
いやっほう♡

小笠原は沖縄の様に、気象庁による梅雨明け宣言がありません。
なので明確には「梅雨明け」とは言えず、「雨季の終り」なのかもしれません。

しかし、毎年「あ、今日明けた!」と思える明確な日があるのです。
入道雲が出てきて、
空と海の色が一気に蒼くなり(ボニンブルーと呼ばれる)、
湿気200%だった空気がかすかにさわやかになる日があるのです。

僕はそんな日に、いつも勝手な梅雨明け宣言をします(笑)。
今回は6月5日だったのではないでしょうか?


■こちらは北港です。
個人的には母島の車でギリギリまで行けるビーチの中で、ナンバーワンの海だと思っています♡

珊瑚も魚影も海の色も最高です♡

先日は久々に長女と二人で泳いできました。

カナダ留学がコロナで中止となり、
紫外線と湿気に飢えていた長女にとっては最高の夏です♡

今はオンラインで授業を受けながら、農園でバイトし、カナダに戻れる日を日々待っています。

竜宮城のような海の中を泳いでいると、
本当に有難いなぁと、感謝の気持ちが湧いてくるのが分かります。

この日常に感謝です(*^_^*)


■日常的に昼休みは体をクールダウンさせるために基本、毎日海で泳いでいます。

午後の一番日差しが暑い時間帯は海の中と夢の中へ。
少し、お日様が優しくなったら畑へ。

僕のアイランド・スタイルです♪

コロナで医療は脆弱だけど、
映画館も、
コンサート劇場も、
すぐに外国に行ける空港もないけど、
小笠原の島暮らしは有難い環境だと思ってます☆


■こちらは午前の山のお仕事現場。
断崖絶壁で夏らしい海の色を味わっていました♪

叫びだしたいほどの美しい景色の中で仕事できる有難みを感じてます。
(ちなみに日差しは超アツいです♡)


■突然ですが、有難いの反対の言葉はわかりますか?
昨日、畑で草刈りしながらヨガの不久先生の言葉を音源を聞いていました。

その中で、冒頭の質問に。
すっかり忘れていて、答えられませんでした(笑)。

分かりますか?

「有難い」の反対は
「有難くない」ではなく、
「当たり前」なんです。

そう、当たり前と思っていた日常が、
実は奇跡の連続で、有難いということに気付く…

今日生きて、息しているのも、
子供たちが元気で、家族がいるのも、
美しい自然があって、鳥が飛んでいるのも、
当たり前なんかじゃなく、
有難いものだった。

そう気づくだけで、
毎日当たり前と思っていた景色が変わりました。

感謝です☆


■母島の前浜に突然、賽の河原のようなオブジェが…

ヤツだ。
ヤツの仕業に違いない。
犯人は俺とタメのあの男だ(笑)☆

相変わらず、芸術的なやつめ。


アオウミガメの産卵の跡も沢山見れるようになってきました。
これも夏が来たことを感じさせてくれる部分です。


■そんなこんなで大好きな夏シーズンの到来です♪
新型コロナで大変な世の中ですが、逆に気付かされることも多いです。

今年の夏休みは内地に行く事はできないでしょう。
その分、島の夏を存分に楽しめればと思います♪

今年は予想していなかった、家族が4人みんな揃う夏です。
これも一つのギフトと思って楽しみたいと思います♪







戦前の母島農家話【レジェンド・ストーリー①】

2020年06月04日 | 小笠原 昔話
■小笠原で暮らすに当たり、先人たちの話を幾つも聞いてきました。

それは戦前の話だったり、
戦争中の話だったり、
内地に強制疎開の話だったり、
返還直後の話だったり。

僕は物忘れが激しいので(笑)、
そろそろシリーズものとして書き記して行こうと思います。

沢山思い違いや間違いがあるかもしれませんが、ご了承ください。


■今回は戦前に母島の南部地域、中ノ平に住んでいたお方の話です。
いつもレジェンドの話を伺って思うことですが、
昔の日本人はほんと勤勉で、
今の自分自身から比べると休む、遊ぶなんて選択肢を感じさせません。
「どんな遊びをしていましたか?」
と聞くと、その多くは「遊ぶ暇なんかないよ。親の手伝い、家の仕事、色々やらされた」
と言います。

そんな話を聞いて、今の自分の暮しを改めようと思ったりします。
本当にその誠実な様は尊敬に値します。

当時は男性は昼間労働し、夜に学校に通う暮らし。
女性は午前は家事や労働に従事し、昼以降に学校に通う暮らしだったようです。
なんて勤勉だったのでしょう。

今の様に舗装された道路があるわけでもないし、
車やバイクで通えない時代。

当たり前に徒歩ですし、その多くは裸足と聞きます。

中ノ平の家から沖村の学校まで、当たり前ですが毎日徒歩で通います。
今の私達の足腰から考えると、全然違う運動量。

雨の日はマニラ坂で裸足で赤土を滑って降りて、遊んでいたというのです。

父島の西海岸に住んでいた人は、
扇浦の尋常小学校まで毎日山を徒歩で通っていたので、
運動会の駆けっこでは絶対に負けなかったそうです。

中ノ平から通う農民もかなり足腰は強かったようです。


■マニラ坂にはマニラ麻と呼ばれる繊維の植物があり、どうやら今のサイザルアサの様です。
(今はあまりマニラ坂には生えていません)
葉っぱの先端の棘で、葉っぱに書く(削る)と、あとからしっかりと文字が浮かび上がって来ます。
後から来る人にメッセージを伝えたいときは、
このマニラ麻を使っていたといいます。

きっと、業務連絡以外にも、沢山のユーモアもあったと想像します♡

集落から中ノ平に帰るとき、
運よく沖港からのカヌーに乗せてもらえる場合があり、
その時は便乗していたようです。

それで南京浜や雄さん海岸まで乗せてもらっていたようです。
その頃は帆で進むカヌーの時代です。


■中ノ平のシュロ葉葺きの家には、井戸があり、その井戸で炊事・洗濯をするそうですが、
渇水の時もあり、その時は南京浜の井戸を使いに行っていたそうです。

南京浜の井戸は、中ノ平の井戸よりはいくらか塩分を含んでいた感じだったそうです。

それでも渇水が続いて、どうしようもない時は、沖村の集落に一時的に身を寄せることもあったとのことです。

水道の蛇口をひねれば水が出るだけの時代とは、全然違いますね。


■台所は釜戸があり、だいたい3つが主流だったようです。
ひとつはご飯炊き用、
ひとつはみそ汁用、
ひとつは焼き、炒めなど多用途用。

煙の上には魚や肉がぶら下がっていて、
常に燻製状態。

冷蔵庫のない時代に、タンパク質を保存する為の有効な手段ですね。

正月には大きな塩漬けの鮭がぶら下がっていて、
ちょっとずつ使って味わっていたそうです。


■家畜は沢山養っていたようです。
牛にヤギ、豚にニワトリ、犬にネコ。
馬はいなかったようです。

牛は畑を耕したり、石臼でサトウキビを挽かせたり。
ヤギと豚は食肉と堆肥用。
犬は番犬。
ネコはネズミから食料と作物を守るため。

大きな家畜は海の近くの場でさばいていたようです。
今の前浜の端、評議平になる部分です。


■作物は本当に様々なものを作っていたそうです。
当時は内地にビニールハウスがない時代。

島の冬野菜は内地で高く売れたそうです。
当時の総理大臣並みの収入があった農家もあったとか。
「かぼちゃで家が建ったんだよ」と言われる所以です。

カボチャやトウガン、大玉トマトがその主流の作物だったようです。

昔の方に聞くと、コウモリは沢山いたけど、
作物の被害はあまり聞かないのです。

棲み分けできていたのでしょうか?

時々畑では赤子が泣いたように聞こえる事があったそうです。
「あれ?赤ちゃん?」というと、
「違うよ。ハトだよ」と。

当時はウシバトとも呼ばれたアカガシラカラスバトが、あまり見かけはしないけど、
時々、鳴き声でその存在を伝えていたようです。


■サトウキビを大量に製糖していた時代なので、
様々な副産物がありました。

サトウキビの搾りかすは釜戸の焚き付けに、
絞っている時は甘くておいしい源糖を子供たちが貰いに群がる、
サトウキビのお酒を作る。

どこもキビ酒(いわゆるラム酒?)が大量にあり、
家の瓶(かめ)の中には焼酎がいっぱいだったそうです。

昼間頑張って労働した大人たちは、夕暮れ時にはもう1杯ひっかけていたようで、
目の前に人が通ると「おおい、寄ってけよ~」声をかけ、至る所で酒場が発生していたようです。

なので居酒屋は沖村で1件しかなかったようです。


■学校の帰りには今のB線の下ら辺に「菓子金(かしきん)」というお店があり、
名物女将さんの「ぱんこばーやん」がいて、
きな粉鉄砲やきんつばを食べさせてくれたそうです。

当時の沖村は本当に豊かで、
和菓子屋さん、呉服屋さん、商店、居酒屋(1件だけ)、
共同風呂、豆腐屋、鰹節工場、裁判所など色々あったそうです。

内地からの物資は今ほどの頻度ではないようですが、
月に2~3回は来ていたようです。

当時は船は硫黄島まで行っていたようです。


■今の北港には北村という集落があり、
運動会の時にはそれぞれ出向いて行っていたそうです。

もちろん全て歩きです。
しかも日帰り。
今の様にトンネルもなく、舗装道路もありません。

個人的には行って、帰って来るだけで運動会です(笑)。

乳房山でサトウキビの仕事をしていた親や兄弟に、
毎日お弁当を届けていたというのですから、尋常ではない足腰です。

こんな話を聞いていると、
いつもバイクや車に甘んじてしまう自分のスタイルを改めなければと思ってしまいます(笑)。

そんな島のレジェンドのお話でした(#^.^#)

本当に大丈夫?小笠原の夏のコロナ対策

2020年06月01日 | 新型コロナ(COVID-19)
■6月になりました。
5月25日に東京などの緊急事態宣言が解除となり、
段階的に新型コロナに対する規制が緩くなってきています。
それは島の生活でも感じられるものです。

6/1現在、
個人的に少し小笠原の中で、コロナ対策の方向性が分かれてきたのを感じました。
今回はその点に触れたいと思います。

父島の小笠原観光協会と小笠原村の方針に相違が発生してきているように思えるのです。
母島観光協会にも確認したのですが、母島観光協会は小笠原村の方針に従うとのことでした。

父島の小笠原観光協会が5/29の段階で村とは別の方針を打ち出しているように感じました。
父島の方に確認しても「母島とは別の方針」ということでした。

要約すると
・6月は3航海以上滞在できる人は来島OK(2週間は宿に基本隔離)
・7月からは通常通り、すべてのお客さんを歓迎する!

ということになると思います。
(もちろん事態が悪化した場合は、この限りではないと書かれています)

おがさわら丸の7月のチケットの発売(5/28)に合わせて発表したようです。
それを受けて、7月のおが丸のチケットの状況をネットで見ました。

見事に7/21東京発から特2以下が満席になって来ています。
(その前の7/19内地行きも満席!!島の人も内地!?)

おが丸とはは丸は新コロナ対策で定員を半分としました。(おが丸800→400人、はは丸160人→80人)
明日6/2入港のおが丸も20人以下と聞いているので、この増加の仕方は恐ろしいほどです。

島の人が7月に内地に大勢行くのも、心配なところです。
これは夏休みの遊びだけでなく、緊急事態宣言が解除されたことによる通院などもあるそうです。

今、北九州などで無症状のクラスター(集団感染)が発生している状況です。
こんなたった1か月後に通常通りお客さんを受け入れるのが、正直とても不安です。

そして、父島は通常通り受け入れ、母島は基本宿は受け入れない体制のです。
(厳密には、どちらの島も両方の意見が挙がっているそうです。)

この差に僕はとても不安を感じました。
現在も父島から母島への仕事の出張は続いているからです。
その人達に対して、母島に来ることに怯えなければいけないのでしょうか?


■ここで少し整理してみます。

私達が済む小笠原村では内地とは状況が違うので、独自の方針を打ち出しています。
それが現段階の2つです。
5/22発表 新型コロナウイルス感染症に係る今後の村内生活・経済活動の対応について
5/29発表 小笠原村における社会生活・経済活動の再開に向けた行動指針について

村の施設利用に関しては、6/1に発表になりました。段階的に使えるようになってきました。
村民の行動指針についてはこちらです。

4月からの他の島を先駆けて発信された小笠原村、両島の観光協会の自粛要請の内容は、
とても慎重できめ細やかな先鋭的ものだったと思います。

6/1段階で今の所、小笠原で新型コロナを疑われる感染発生はゼロです。
無症状とかあるかもしれませんが、これはとても有難いことです。

これらもすべて4月上旬からの強い不要不急の来島、上京を自粛するよう要請してきた成果、
それに従って来て、それぞれが気を付けてきた成果だと思います。
ありがとうございます!

特に観光業に関しては壊滅的な経済的損失を受けており、とても深刻な現状です(もちろん第1次産業も)。
まだ休業補償すらされていない方も沢山いるようです。
しかし、自分たちの生業よりも、島民の命を優先してくれた父島と母島の観光業の皆さんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございます。

そんな中、小笠原観光協会が発信した内容がこちらです。



■僕は観光業ではないし、コロナの影響で収入が激減してもいない立場です。
本当に無責任な立場だと思います。
観光業の人達が本当に切迫しているのはよく分かります。
その補償を僕が担えるわけでもありません。
なので強い意見なんて言えるわけもなく、ただ心情を伝えたくてこの記事を書きました。

だけど、450人の小さな母島に住む人間として、
介護の仕事に携わる身として、
この小笠原観光協会の方針はとても不安になったことは事実です。

何故なら、その6月の受け入れも7月の“通常通り受け入れる”も、
その来島者が感染していないという前提で構えているように感じるからです。

仮に感染していても、2週間外出自粛すればいい、という意見もありますが、
おがさわら丸という公共交通を24時間利用する、2時間ははじま丸を利用するのは避けられないのです。

父島の観光業の方とも連絡を取りましたが、
補償に頼ってばかりじゃ続かないし、
第2波が来ることも覚悟している。
でも、その隙間でもいいから経済活動しないと厳しい。
とのことでした。

丁寧に答えてくれて、すごく理解できました。
すごく村とも観光業者とも揉んだと聞きました。

行政任せでなく、自分たちできちんと考え行動する観光業の皆さんを素晴らしいと思います。
来島自粛の発信の開始も終了も行政より先に観光協会が発信しているのです。

僕はそこに対して、もちろんNOと言える立場ではありません。
だけど、そこに不安を感じていることは事実なのです。

その7月から通常通り受け入れることで、仮に島で感染が広がったらどうするのか?と。
逆に観光どころか、島の全ての活動が止まってしまう危険、島のお年寄りなどの命を脅かす危険をはらんでいると思うのです。
怖がり過ぎでしょうか?
僕はただのイチ島民でしかないので、大した効力はないと思うのですが、
今一度、このままでいいのかをみんなが考えることが必要と思うのです。


■これだけ、無症状や長い潜伏期間が伴うやっかいな新型コロナにおいて、
島の医療環境はとても脆弱です。
人工呼吸器の数も少ないし、緊急搬送は要請から到着まで10時間近くかかる僻地です。
島ではPCR検査ですら、まともにできない状況のままなのです。

僕個人的には
・まず観光業の人達、コロナで経済活動に困っている人達を補償で十分に補償する。
・島の医療体制を強化する(島内PCR検査の導入)
・島内で感染者が出た場合の具体的なシュミレーションを実施し、可能な限り穴を埋める。
・島民のコロナに対する意識のアンケートを取りまとめる(どう不安かを聞く)
・内地からの不要不急の来島、内地への上京を内地が落ち着いてから最低2ヶ月は待ってから判断する。
・おが丸+ははじま丸乗船時の検温、PCR検査の徹底(唾液で検査できるものが開発されている)。
・内地から来た来島者は島民であれ、業者であれ2週間は宿で隔離(家族がいる自宅に入れない)
・以上を島民にきちんと周知する
・島民がいたずらに不安にならず、正しい怖がり方が出来るようにオンラインでレクチャーを実施する
以上を実施して、初めて安心して暮らせる気がするのです。

それでも、内地と人が行き来している事実はあるので、
島にコロナが入る可能性はゼロにはなりません。

でも可能な限りゼロに近づける事ができると思うのです。

そして同時に、島にコロナが入った時のシュミレーションを行うこともとても重要だと思います。
役場などの行政機関の機能、
農作物、海産物の流通、
学校など教育機関、
医療機関に介護施設、
水道や電気、ガスを支えるインフラの皆さん、
保育園やちびっこ、
貴重種を守る自然保全の活動
etc.....
それぞれが島であらゆる感染が広がった時に対処する準備をしなければいけないと思います。

今、大丈夫な時だからこそ、
ワクチンの開発がまだまだ先となる長期化が予想される状況の今、
気たるべきその時を可能な限り先延ばしにする意味もあるし、
島内感染に備えて準備するタイミングだと思うのです。


■行政がしてくれることを受け身でただ文句を言ってまっているだけ、
これはあまりにもったいないと僕も思います。

コロナの今だからできることを最大限やっていっていいと思います。
赤木でキーホルダーを作ったり、

Youtubeで動画配信してみたり、
オンラインで情報発信、
島の探索、
内地から人が呼べない業者の人材として手伝う、
色んなスキルを通信で学ぶ、
島の達人に色んなスキルを学ぶ、
島で色んな有料の勉強会を行う、
普段なかなかやらない別業者の仕事にチャレンジetc

ピンチはチャンスだと今でも思っているので、どんどん新しいことにチャレンジしていけばいいと思うのです。
そこに人に不安を与えない範囲で。
今は外部から人を呼ばない範囲でがベストと僕は思っています。


■最後に父島の観光協会の発信は
すごくみんなで考えた答えであることはよく分かりました。

確かに補償は有限だし、まったくもって持続可能ではない。
島外に資本もエネルギーも食料を依存している自立していない小笠原です。
まさに課題でしょう。

だからこそ、島が真の自給を目指す必要性はよりハッキリとしたと思います。

第2波までのほんの少しに観光客を呼び、利益を得るのも、
仮に感染が島で発生するのも、ワクチンがすぐにできない現状で、
いつまでも補償できないでしょうから、現実的に考えれば致し方ないとも思います。

そこに対して、とても不安があると伝えたいのです。

そして、仮に島で感染が広がった場合について、本当に丁寧にシュミレーション、
訓練を行い、今何が足りなくて、何を用意できるのかをみんなで動きながら考えたいです。

現在、緊急事態宣言が解除できるほど新規感染者が減ったのは、
みんなが外出自粛をした結果が2週間遅れで出ているに過ぎません。
緩んだ今、また2週間以内に一気にぶり返すと僕は心配しています。

暖かくなれば落ち着くインフルとは違い、今はまだワクチンもない新型コロナ。
すぐにまたパンデミックになると思うのです。

ロックダウンと解除を繰り返して、緩やかに抗体を持った人を増やし、
少しずつ経済を回していく手法は理解できるのですが、
医療の乏しい小笠原の島においてはもっと慎重にしなければいけないと思うのです。


とてもバランス、調和が大事だと思うのです。
ほんとやってみないと分からない現状だと思います。
今回の父島の観光協会も、沢山論議した上での苦渋の決断だったと思います。

自粛警察と言われるように、人を責めるのもよくないと思います。
何が正しいかなんて、人それぞれだからです。
みんなが幸せに暮らせることを目指して、提案していけれればと思っています。

何かを否定する時は、必ず現実的な提案を添えてしようと心掛けています。
島のみんなが無事にコロナを乗り切れることを祈ってます。

この決定が吉と出るか凶と出るか…
これはやってみないと分からないです。
僕は通常に戻すのは早すぎると思っています。

充分な補償をして、夏をしっかり島外に出ない、入れないがベストと思っています。
色んな意味で島はこれからが本当の勝負だと思います。

自分たちにできることはより3密を避け、
屋外でも人が集まらないようにして、集まるところには行かないようにして、ソーシャルディスダンスを守り、
屋外で体を動かし、健康で仮に罹患しても乗り越えられる抵抗力を備えていかなければいけないと思います。



追伸
5/21 ついに母島にもアベノマスクが届きました!

相当、みんなマスクを手作りできているので、
今さら感は拭えませんが、見た感じはさほど酷い品質でもなく、
何度も洗って使えそうな普通の品質に思えます。

島の商店ですが、サージカルマスクを普通に販売できている状況ですが、
緊急事態宣言が解除されて、緩んだ後、おそらくまた感染者は増えて、再度、緊急事態宣言が発令されると思います。

島は、緩んだその時こそが本当の勝負と思います。
その時の為にこのマスクは有難く、大事に取っておこうと思います。

あの世界中でマスクが不足している中、布マスクを全国民に配布する事自体はいいことだと思います。

しかし、その時の業者やお金の不透明さ、政府の休業補償もしない中での長期の自粛要請をした中で、マスク2枚を配布しただけ政策はあまりに陳腐でした。

逆に各都道府県がそれぞれに一気に活動したわけですが、
トップの力量が見事にそれを露呈したと思います。

これもみんなが選挙で選んできた結果だと思います。

コロナで大変な最中、賭博麻雀をしていたという黒川・東京高検検事長の辞任も、
あれだけ定年延長をごり押ししようとして、却下し、
その挙句に辞めれば済む問題なのかと思います?問題はそこではなく、マスコミとの癒着なのでは?

「私が責任をとればいいというものではない。この事は真摯に受け止める」など、問題をスルーして、
議事録を廃棄して、まるで責任を取らないスタンスの政府は、無関心な国民の象徴だと思います。
マスコミの視聴率優先の情報鵜呑みもそろそろ見限ってほしいと思います。

このコロナのお蔭でさらに色々あぶりだされましたと思います。
私達は、子ども達の平和な未来を築くために次の世界の段階にシフトしていかなければと思います☆

目指せ、精神の自立です(#^.^#)


●新型コロナウイルス感染症に係る今後の村内生活・経済活動の対応について
2020年5月22日(金)小笠原村

基本的な考え方
 政府による緊急事態宣言は、5月末で解除される可能性がありますが、新型コロナウイルス感染症への警戒は引き続き必要な状況にあります。
 政府や東京都の方針においても、緊急事態宣言解除後の様々な行動の緩和については、感染防止対策をとったうえで段階的に行っていくことが示されております。
 本村では皆様のご協力のもと、様々な感染症防止策を講じ、これまでのところ感染の疑いがある事例は発生しておりません。

 また、新型コロナウイルス感染者が発生したときに村で取り得る医療面での対策は、徐々に改善されており、感染疑いについても問診や検査などで総合的に判断できる体制になっています。しかしながら、しっかりとした治療は、中等症以上の症状の方は本土への急患搬送に頼らざるを得ないなど、医療体制に限りがあることに変わりはありません。

 したがって、国内では多くの地域で緊急事態宣言が解除され、社会生活、経済活動の再開の動きが活発になっていますが、小笠原村では慎重な見極めが必要です。

 3月の連休明けの感染者増や韓国での集団感染の再発生を見ても、手放しで、制限のない村民生活の再開や小笠原に来島者を迎えることはできません。国や都においてもワクチンの開発や治療法の確立による新型コロナウイルス感染症の克服には時間がかかると考えており、少なくとも今後一年程度は水際対策や個別の感染対策など、あらゆる関係機関、そして個々人が新型コロナウイルス感染症と付き合いながら対応することを前提に立つ必要があります。

 したがって、小笠原村では、
「国内の感染リスクが大幅に減少し、村民の協力のもとに村内の感染リスクをさらに減らし、かつ一方で日々刻々変化する状況に迅速に対応する姿勢を持ちながら、段階的に小笠原村における社会生活、経済活動を再開する。」 ことを基本とします。


当面の対応
6月は来島自粛、上京自粛を継続
 国内では緊急事態宣言が解除され各地で人出が戻り始めたり、閉店していた施設・店舗等が再開されたりしている一方、それぞれの施設や店舗などでは業態ごとのガイドラインが示されるなど感染対策も引き続き行われています。

 ただ、人出が戻る結果としてコロナ感染の第2波が発生するのではないかという懸念も伝えられており、そのこともしっかりと見極める必要があると考えています。また発症までの期間が2週間以内といわれていることも踏まえ、小笠原村では6月中は引き続き来島自粛、上京自粛の要請を継続します。

 ただし、村内において疑い患者も発生していない状況であることから、引き続きマスクの着用などの感染予防対策と、いわゆる3つの密となる活動の制限を行った上で、村施設の利用制限を一部解除します。

 なお、村内の緩和措置等については、今後の国内や村内での感染者の発生状況等によっては即座に緩和措置の打ち切りや休業要請を打ち出すことを前提とします。

7月以降について
 6月以降も、現状の収束傾向がさらに進んだ場合は、400人前後を上限とした来島者の受け入れ態勢を構築し、さらにその後の国内および村内状況を見ながら徐々に受け入れ上限を上げていくこととします。

 なお、これも安易に上げていくものではありません。

 小笠原海運には乗船券販売の制限、船室の感染症対策の徹底をお願いしました。

 村内にあっては、宿、ガイド、飲食店、商店、各種観光サービス事業者の徹底した感染症対策の実施をお願いします。

 また、竹芝桟橋における検温体制を維持するなどの水際対策を行うとともに、来島者にも強く感染症対策を求め、村民の皆様にも自らの感染対策をお願いします。

 なお、この来島者受け入れも、国内および村内の状況によっては直ちに撤回することを前提とします。

 村は村民皆様の安心安全を考えながら、経済活動再開をめざし、かつ臨機の対応を行ってまいりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。