小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

母島から硫黄島に向かう兵士たちのおもい

2020年11月09日 | 小笠原 昔話
■「俺たち、明日硫黄島に行くんです。どうか、お父様によろしくお伝えください。」
時は太平洋戦争の真っ只中の1944年後半の事だと思います。

その兵士さん達は、中ノ平の家に帰る通りすがりの兄にそう告げたそうです。

これは僕が2016年に硫黄島で撮った大砲の先から植物が生えている様子です。

無機質な、人を殺すための鉄の兵器が、
風化して、そのわずかな部分に命を宿している…
とても感触深い場面でした。


南国の青空に不釣合いなまでの出で立ちで現れた大砲。
硫黄島という楽園に降りかかる戦争という不条理。

2016年の硫黄島で目の当たりにした、
戦後70年でもはっきりと残った戦争の爪痕。

今回は母島から硫黄島に行く兵士の話です。


■先日、母島のレジェンドの方に話を伺う機会がありました。
その時の話がとても印象的だったので紹介したいと思います。

当時はまだ女学生で、学校のある沖村(今の元地)と家のある中ノ平を歩いて通っていたそうです。
その頃は、戦争は始まっていて、兵隊さんが母島にも大勢来ていて、
至る所に壕を掘っていたそうです。

中ノ平の家に行くマニラ坂の道でも兵隊さんがよく作業していて、
兵隊さんに声をかけられるのが嫌で、
いち、に、のさん!で友達とダッシュして駆け降りた時の事。

「お~い!○○ちゃん!」
と呼び止められ、名前を呼ばれては行かないわけにもいかず、
少し嫌々な感じで近づいていくと、
「どうして何もしないのに、逃げるように行くんだよ~。
 あのさ、○○ちゃん和裁って習ってる?」
まだです、と答えると、ポケットから小さな和服を着た人形を出して、
「着物とか縫えるようになると、こういうのも作れるようになるよ。頑張ってな」
と言って、その人形をくれたそうです。

また別の日には、御嶽神社の下ら辺の通り道で、
中ノ平の家に帰る途中に、よく会う別の兵隊さんに声をかけられたそうです。

「君にこれをあげるよ。兄弟と仲良くしていくんだよ。」
と言って、大きな箱をくれたそうです。

家に帰ってその箱を開けてみると、クッキーが沢山入っていたそうです。

その時はなんでだろう?と思っていたそうですが、
後から兄から冒頭の言葉を聞いて、「ああ、もう硫黄島に行っちゃうんだ」と悟ったそうです。

農協で働いていた父親は恐らく、前浜から見送ったと思うと言っていました。

その後、硫黄島は激戦の地となり、そのほとんどが戦死したので、
恐らくその兵隊さんも戦死したともうとおっしゃっていました。


■さらにこの戦争の時に母島から出兵して、生き残って内地に戻って来れた兵隊さんがいたそうです。
その兵隊さんの隊長は「絶対に命を粗末にするな。捕虜になってでも生き残れ!」と言ってくれたそうで、
まさに捕虜になって生き延びて日本に帰って来れたのだそうです。

当時は鬼畜米兵の捕虜になるくらいなら、自害せよ!
の教えが主流の頃です。

素晴らしい上官だったと思います。

しかし、いざ帰国すると、戦争で夫を亡くした妻は兄弟の妻になっている場合も多く、
もう戦死したと思われていた本人が、
遅れて日本に戻って来て、色々すったもんだがあったとおっしゃっていました。

戦争なんて、自分の関係のない世界からの命令で、
自分の人生を変えられるどころか、死んでさえしまうものです。

上層部は傷一つつかずに、死んで傷ついていくのはいつも一般市民ばかりです。

こんな不条理があっていいのでしょうか?

戦争が無ければ、あの楽園のような硫黄島はどうだったのでしょうか?
硫黄島は気候とその地熱のお蔭で、沢山の熱帯作物を作れていたそうです。

心配される飲み水も、当時は雨と朝露でかなり賄えたそうです。

母島もあの戦争が無ければ、
一体どんな島になっていたでしょうか?

伝統と文化が色濃く残り、
また今とは全く違う島だっただろうと思います。


■今回、この母島から硫黄島に行って散ってしまった兵隊さんのお話しを聞いて、
現代はなんて恵まれているのだろうと感じました。

そりゃ現代だって色んな問題は抱えています。
自殺者だって、年間何万人もいますし、
今は全世界を新型コロナが遅い、今も深刻な影響を及ぼしています。

昔はなかった様々な心の病や、
色んな現代病に苦しんでいます。

それでも、この戦争の時のことを思うと、
ああ、自分は本当に恵まれていて、
ちっぽけな悩みを持っていたなと気付かされます。

アメリカ大統領選挙の話、
今だ解決していない原発の問題、
沖縄の米軍基地の問題、
尖閣諸島に忍び寄る戦の気配、

世界は全然、平和ではありません。

でも世界が平和になるためには、
誰か絶対的なリーダーや社会革命が起こる必要性は無く、
ひとりひとりが己の内面の平和を実践して行くしかないと思うのです。

今、小笠原に来ているヨガの不久先生が語る、
「精神の自立」
これが世界平和への唯一の道だと思うのです。

母島も不久先生は11/10~12とヨガを教えに来てくれます。
ヨガで
教えを学び、
身体を緩め、
己の魂の声に耳を傾ける。

今年もこうして学べることに感謝です♪



戦前の母島の暮らしを支えた若者たち【レジェンド・ストーリー③】

2020年08月25日 | 小笠原 昔話
■戦前の母島沖村。
 毎朝、集落の若者が集まる場所があった。
「朝集まって、組長がそれぞれにその日の仕事を命ずるんだ。
 組長はそのメンバーの資質をすべて把握しているし、
 みんなから一目置かれた人しかなれないから、みんなそれに従うんだ。
 そして、月に一回まとめて給料が支払われる。
 そうして、母島の沖村は運営されていたんだ。若ノ衆組合によって」

母島の90代のレジェンドが雄弁に語ります。
戦前の母島には若者たちが、
見事にみんなの暮らしを支える「若ノ衆組合(わかいのしゅうくみあい)」という組織があったそうです。

当時、そこの若ノ衆組長は奥山組長といって、
若者の誰もが「この人なら」と認める絶対的な存在だったようです。

組長はその日集まった若者の特性や人間関係をしっかり把握し、
その日の仕事を割り振っていたそうです。
大体30人前後はいたといいます。

・サトウキビ狩り
・野良仕事
・カノー(アウトリガーカヌー)大工手伝い
・家大工手伝い
など多岐に渡ります。

専門性の高い
・シュロ葺き(オガサワラビロウの屋根)
・カツオ節加工
・くさや製造
などは若ノ衆組合ではなく、特に上手な人が集まって行っていたそうです。

集合場所は今の学校の畑がある付近の様です。(旧地名:新々町)

数々の小笠原の歴史をまとめている倉田洋二さんの本には、
若ノ衆組合の記述がなく、「あんなに重要だったのに、どうして書かれてないんだろう?」と残念そうでした。


■とあるレジェンドの当時の1日のスケジュールを教えて頂きました。

くさや作りのシーズンの場合(7月~9月)
3時 起床 カノー(海が悪い場合は歩き)で南崎へ
5時 到着 朝食 くさや 作り開始
   順次 漁船が来るたびに水揚げ
       ※漁船は南崎海岸まで入れないのでカノーで魚を受け取りに行く  

昼 合間をぬってサッと昼食 休憩はなし
  順次 くさや作り

夕方 夕食をもらって沖村へ戻る

19時~20時半 青年学校(週3回)

※南崎にはくさやシーズンは新島から女性が来ていて、加工作業を手伝ってくれていた
※新島からの女性はお世話役のおばちゃんと十代の若い娘5人くらい(めっちゃ可愛い子もいたらしいw)
※南崎の新島の人がみんなの分の食事を用意してくれた
※青年学校がない場合は沖村に帰らず、南崎の小屋で寝泊まり
※青年学校の教員は島の漁師などで、話がカタくなく、面白かった(小学校は内地からの教員)
※生徒も教員も昼間肉体労働なので、みんな眠かった
※青年学校(男子)は主に軍事訓練、銃の訓練が多かった
※くさや工場は前田家の持ち物だった


カツオ漁のシーズンの場合(4~6月)
沖村の前田さん、野口さんがカツオ節工場の主だった人だそうです。
場所は今の前浜の大谷川河口周辺だったそうです。

カツオ節の工程を聞いてみました。
①カツオをさばく
②4つに身を切り分ける
③切り分けた身を大釜で茹でる
④中骨を手作業で取る
⑤焙乾(ばいかん、ばいろ)、いわゆる煙で燻す作業
 燠(おき)状態で何日も燻す。ときどき向きを変える、この作業で身の水分を抜く
⑥天日干し
⑦包丁で桐の箱に入る様に形を整える
⑧カビをつける(土蔵の中)

特に大変だったのは⑤の天地返しなどの作業で、
煙で目から涙がこぼれるくらい辛かったそうです。

しかし、子どもとしても、ご褒美として最高に美味しいカツオの心臓などをもらえるので、
それを食べたい一心で手伝うのだそうです。

⑤の薪はメリケンマツやタマナなど、持ちのいい木が使われるのだそうです。

こんなネットの時代なので、「大手にんべんのカツオ節のできるまで」を覗いてみると、
そのほとんどが同じ作業であることに驚きます。

その従事していた頃から70年以上経過しているのに、
なんの記録も見ないで、ほぼ正確に語れるのは何故かと聞いてみたら
「あまりに煙が辛い作業だから、しっかり印象に残ってるんだよ~!」
と最高の笑顔で教えてくれました(*^_^*)

ちなみにうどんなどにおススメのムロ節は、
カツオよりグッと工程がシンプル(②と④の作業がない)なので、楽だったそうです。


■小学生の頃は遊んだ記憶はほとんどなく、
学校以外はひたすらに親の仕事の手伝いをさせられたそうです。

土日は決まって薪拾い。
時間があればランプ拭きや水汲みをしたといいます。

逆に大人は一生懸命に働いてもいたけど、
本気で遊んでもいた様です。

小笠原凧(為朝凧)や太鼓、相撲など盛んだったようですが、
子供にはやらせてくれなかったと言います。

戦前は大神宮(月ヶ岡神社)のお祭りなどでは、神輿はなく、
遠州町のメンバーが見事な芝居を見せて、盛り上げていたそうです。

レジェンドのお話しを聞かせてもらって、
今の時代にのほほんと生きている僕は少し、申し訳ないような気持ちになってしまいました。

日々、仕事も地域活動も盛んにしますが、
間違いなく遊んでいるし、だらけています(笑)。

レジェンドが敗戦後内地に行ってみたら、
どこの誰よりも生活スキルがあって、何でもできて、スーパーマンでモテモテだったと笑顔で語ってくれました(*^_^*)

子供の頃、本当に辛かった仕事ばかりの島暮らしが、
そこですごく報われた、といいます。

僕も先人たち、とまではいかないまでも、
もうちょっと生活スキル習得を頑張ろうと心に誓ったのでした♡

戦前の母島カノー物語【レジェンド・ストーリー②】

2020年06月16日 | 小笠原 昔話
■レジェンドストーリー②は戦前のアウトリガーカヌーの昔話です。

個人的にはとても興味ある分野ですし、
ハワイからアウトリガーカヌーが日本で最初に伝わってきたのが小笠原だそうなので、
ある意味、小笠原のアイデンティティーの象徴がアウトリガーカヌーだと思うのです。

※これは1986年(昭和61年)にヤップ島からタマナで作ったカヌー「ペサウ号」で若者が小笠原に渡ってきた写真。
 くらしくはこちら


丁度、戦前のカノー(カヌーの事)の話を、
忘れないうちに書き留めておきます。

過去のカヌーカテゴリーについてはこちら
→現在の小笠原はカヌーを漕ぐのが主流です。カヌー大会などが毎年開催されています。

小笠原の先史時代についてはこちら
→なんと石器時代に小笠原に人が住んでいたのが分かっています。カヌーを掘っていた石器が見つかっているのです。


■これは父島のビジターセンターに展示されている、カノーです。
戦前に使われていたものを復元したものです。
僕はこの前で1日眺めていられる自身があります(笑)。
それくらい、島の暮らしに根差したカノーは美しい♪

戦前はこうした帆で進むカノーが、島では一般的だったそうです。
帆で進むカノーは向かい風でも追い風でも自在に海を駆けていたとのこと。

現在、母島カノー倶楽部ではハワイ語の名前で各部分を呼んでいますが、
今回は沢山の島ならではの呼び方を沢山教わったのでここに記しておきます。

ちなみに小笠原ではカヌーではなく、カノーと発音するのですが、
なんと青ヶ島でも同様の呼び名だそうです(*^_^*)
なんだか嬉しいです♪

・アウトリガーカヌー…カノー(ヴァア Va'a)
・胴体部分…身ガノー(ハル HALU)
・アウトリガー部分…ウデ(ヤク IAKO)
・浮き部分…ウケ(アマ AMA)
・道具類をひっかける部分…カットリ(マタギ、シャリンバイの枝などを使う。)
・船首部分…オモテ カッパ(マヌイフMANU IHU)
・船尾部分…トモ ガッパ(マヌホペMANU HOPE)
・パドル…カイ(前の漕ぎ手は丸いブレード、舵取りは細長いブレード)
・調理台…コバシ叩き(魚を切ったり、刻んだりする場所)

ビジターセンターの展示の図面とは少し名称が違う部分もありますね。
母島ならではの名称なのでしょうか?
とても興味がある部分です。

写真はトモ部分(船尾)になるのですが、このカイ(パドル)2種類が分かりやすいですね。
丸いのがオモテ側、細長いのが舵取り用だそうです。

父島にはカノーの船首部分に、魔よけの様な仮面飾りを付けていたようですが、
母島では特にそんな飾りは見た記憶はないと言っていました。


■カノーの大きさ
主に漁師は10人くらい乗れるサイズを二人で使っていたそうです。

戦前でも年が上の人が帆でカノー漁。
若い漁師はポンポン船の和船が多かったそうです。

双胴船タイプ(ダブルハル)のカノーは母島にはなかったそうですが、
聞いた事はあるそうです。

現在のベルーガ(6人乗り、レース用カノー)くらいのサイズになるでしょうか?
イメージするよりはずっと大きいのです。

父島のボート置き場にはまだ何隻もカノーが置かれていますし、
今も現役でカノーで漁をしている方がいます。
過去記事で少し書いています。


■漁について
母島のカノーによる漁は、
餌をばらまいて、そこに集まってくる魚を銛で突くスタイルだったそうです。

柄はオガサワラビロウの葉の茎を使い、
銛先に関しては、展示と同じく、片側のみ返しがあるタイプの銛先を使っていたそうです。

片側でないと魚の身を大きく痛めてしまうからだそうです。

銛先も船首方向(オモテ)ではなく、船尾方向(トモ)側に向けていたそうです。
そちらの方が、魚を見つけて手早く突けたそうです。

カノーの胴体に海水を入れて、魚をなるべく生きさせて、鮮度を保っていたようです。

帆でカノーをかけて、船の上から銛を構える様は、創造するだけでゾクゾクしてきます☆

父島の最初に定住した、欧米系の末裔、瀬掘エーブルさんは、生粋のカヌー漁師だったそうです。
僕にとっては畑をして、鼻歌を歌っている、素敵なじーちゃんでした(笑)。

エーブルさんはよく、遠路はるばる母島のサワラ根に寮に来ていたそうです。

彼は晩年、末期がんの体で夢であった父島ー母島間をウインドサーフィンで渡る事を成功させています。

暑い日差しの中、ずっと沖に出るのはしんどいので、
背中はシュロ葉(オガサワラビロウの葉)で日陰を作り、
日傘として、シュロで頭の上に被っていたそうです。


■帆について
帆については、とても重要な部分だと念を押して頂きました。
母島にも帆を裁つ名人がいて、その人にお願いしていたそうです。

素材は綿。
綿が導入される前はタコの葉を使っていたという記録がポリネシアではあるそうです。

帆柱は丈夫で粘りがある杉を使っていたそうです。
島の材では、なかなかいい帆柱は難しいようです。

輪っかで柱に付けて、
時と場合に合わせてめくったり上下できるようになっているそうです。

身ガノ―に座った自分の頭に当たらない高さに調整するのがポイントだそうです。

船尾(トモ)には帆のロープをかける引掛け「シーツかけ」があります。
そこと自分のお尻の下にロープを入れて、加減を調整しつつ、
舵のカイ(パドル)で操船していたそうです。

そうした技術に関して、大人は子供に教える暇なんかなく、
子どもは大人について行って、ひたすら見て、学び、
技術を覚えるしかなかったそうです。


■カノーの材について
ビジターの展示ではハスハギリを材に使うと書いてありますが、
太平洋戦争直前の頃は主に内地のスギを使っていたそうです。

今の漁協ら辺に船工場があり、そこでカノーは作られていたようです。

現在は軽くて丈夫なFRPで作るのが主流ですが、
昔の木のカヌーは木。
とても重くて、どう扱っていたのだろうと思ってしまいます。

特にウケ(浮き部分、アマ)までの曲がったウデ部分(アウトリガー部分、ヤク)は、
とても重要で、ここが折れてしまったら終わりです。

今回お話を伺った方の時代は、
材を内地から取り寄せていたそうですが、
昔は島の斜面に生えて、曲がって伸びている木を使っていたと聞いた事があります。

ビジターセンターに展示されているカノーのウデ部分は、
2つの木を組んで途中で繋いでありますね。

この方法が主流だったようです。

こちらもとても興味がある部分です。

ハワイから伝わってきている小笠原のカノーは、
ウケ部分(浮き)は身ガノ―(船体)に対して左側に付いています。

国によっては両側に受けがあるもの、右側にウケがあるものと分かれていきますが、
小笠原のカノーは全てハワイ式、左側です。


こちらは返還20周年事業(うる覚えです)で作成した島カノー。
新島で5隻。作ってもらったそうです。
現在は父島に2隻、母島に3隻あります。


■危なかったこと
やはり、海でカノーを操っていて、危なかった事は何度もあったそうです。

カノーが沈することを「のもる」と言っていたそうです。
これはひっくり返るのも、浸水して転覆するのも両方のもると言っていたそうです。

ある時、二人で沖に出ていて、急に時化になり、集落に戻って行こうとするとき、
母島の沖港のすぐ外、中岬付近にある「滝の水」(雨の時に滝が出来る評議平の先)で帆柱が折れて、
船体もかなり浸水し、死に物狂いでふたりで漕いで集落に戻ったと言います。

10人乗れる大きなカノーを二人で漕ぐって、相当です。

また、母島の北にある「わんとね」や「南崎瀬戸」はやはり難所だそうです。
すごく神経を使って、通っていたそうです。

でも凄い点は、いざという時はカノーを捨てて泳げば、
絶対に生き残れるという自信があるという部分でした。

島さえ見えれば、どんなに離れていても、流れがあっても、島に戻れる自信があったそうです。
速い流れの中に逆の流れも潜んでいることを知っていました。

僕も依然、若い頃になんと南崎瀬戸で流された経験があります。
その時も海の底を見たら逆方向に流されている魚を見つけたので、
僕も潜ることを繰り返して、ジグザグに戻ってきた覚えがあります。


島のレジェンドに話を聞いていると、本当に驚くことばかりです。

彼曰く、
「足ヒレなんか着けてしまうと疲れて泳げなくなるけど、
裸足ならいつまでも泳ぐ自信があった」
というのです。

毎日、沖村から南崎まで往復4時間歩ける足腰。

現代人とか体の作りが違います。

子供時代には休みに遊ぶなんて感覚すらなかった忙しい日々の暮らしです。

戦後の現代になって、
日本も欧米化が進み、
ものすごいスピードで過去の文化が失われてきています。

ディズニー映画「モアナと伝説の海」のメイキング映像にもあった、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語った言葉が忘れられません。

「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
過去のブログに詳しく書いています。

■自分たちに課せられた、クレアナ(役目)というものを考えさせられる部分です。

きっと、それは先祖が描いていた想い、なのかも知れません。

以前も紹介した、泣くほど感動した32歳のアイヌの女性の物語。
アイヌの歌に関わって生きて来て、これからの自分の生き方に悩んでいた萱野りえさん。

彼女が米国フロリダ州南部に居住する先住民・セミノール族の人々との交流するチャンスが訪れました。
同じ先住民として独自の文化を持つ彼らの姿に、彼女は何を学び、何を見出したのでしょうか。

今、自分がやりたいと思うことは、先祖が思っている気持ちなのかも知れません。

ぜひ、最後まで観てもらえたらと思います。


そんなレジェンドのお話、最後に
戦前は帆で、戦後はエンジンでカノーを操っていたレジェンド。

どちらがいいですか?と聞いたら、
「そりゃあ、エンジンが楽ちんだよ!帆なんて面倒だ(笑)」
凄い環境を生き抜いてきた人の言葉は、とても重く、深く、響いてくるのでした(#^.^#)

ああ、はやくコロナが落ち着いたら、カノーを漕ぎたい!
セーリングに挑戦したい!!!

参考資料として、返還40周年で小笠原で講演してくれた海洋文化学者の後藤明さんの記事もぜひどうぞ!
八丈に伝わったカノーなどが調べられています(*^_^*)

戦前の母島農家話【レジェンド・ストーリー①】

2020年06月04日 | 小笠原 昔話
■小笠原で暮らすに当たり、先人たちの話を幾つも聞いてきました。

それは戦前の話だったり、
戦争中の話だったり、
内地に強制疎開の話だったり、
返還直後の話だったり。

僕は物忘れが激しいので(笑)、
そろそろシリーズものとして書き記して行こうと思います。

沢山思い違いや間違いがあるかもしれませんが、ご了承ください。


■今回は戦前に母島の南部地域、中ノ平に住んでいたお方の話です。
いつもレジェンドの話を伺って思うことですが、
昔の日本人はほんと勤勉で、
今の自分自身から比べると休む、遊ぶなんて選択肢を感じさせません。
「どんな遊びをしていましたか?」
と聞くと、その多くは「遊ぶ暇なんかないよ。親の手伝い、家の仕事、色々やらされた」
と言います。

そんな話を聞いて、今の自分の暮しを改めようと思ったりします。
本当にその誠実な様は尊敬に値します。

当時は男性は昼間労働し、夜に学校に通う暮らし。
女性は午前は家事や労働に従事し、昼以降に学校に通う暮らしだったようです。
なんて勤勉だったのでしょう。

今の様に舗装された道路があるわけでもないし、
車やバイクで通えない時代。

当たり前に徒歩ですし、その多くは裸足と聞きます。

中ノ平の家から沖村の学校まで、当たり前ですが毎日徒歩で通います。
今の私達の足腰から考えると、全然違う運動量。

雨の日はマニラ坂で裸足で赤土を滑って降りて、遊んでいたというのです。

父島の西海岸に住んでいた人は、
扇浦の尋常小学校まで毎日山を徒歩で通っていたので、
運動会の駆けっこでは絶対に負けなかったそうです。

中ノ平から通う農民もかなり足腰は強かったようです。


■マニラ坂にはマニラ麻と呼ばれる繊維の植物があり、どうやら今のサイザルアサの様です。
(今はあまりマニラ坂には生えていません)
葉っぱの先端の棘で、葉っぱに書く(削る)と、あとからしっかりと文字が浮かび上がって来ます。
後から来る人にメッセージを伝えたいときは、
このマニラ麻を使っていたといいます。

きっと、業務連絡以外にも、沢山のユーモアもあったと想像します♡

集落から中ノ平に帰るとき、
運よく沖港からのカヌーに乗せてもらえる場合があり、
その時は便乗していたようです。

それで南京浜や雄さん海岸まで乗せてもらっていたようです。
その頃は帆で進むカヌーの時代です。


■中ノ平のシュロ葉葺きの家には、井戸があり、その井戸で炊事・洗濯をするそうですが、
渇水の時もあり、その時は南京浜の井戸を使いに行っていたそうです。

南京浜の井戸は、中ノ平の井戸よりはいくらか塩分を含んでいた感じだったそうです。

それでも渇水が続いて、どうしようもない時は、沖村の集落に一時的に身を寄せることもあったとのことです。

水道の蛇口をひねれば水が出るだけの時代とは、全然違いますね。


■台所は釜戸があり、だいたい3つが主流だったようです。
ひとつはご飯炊き用、
ひとつはみそ汁用、
ひとつは焼き、炒めなど多用途用。

煙の上には魚や肉がぶら下がっていて、
常に燻製状態。

冷蔵庫のない時代に、タンパク質を保存する為の有効な手段ですね。

正月には大きな塩漬けの鮭がぶら下がっていて、
ちょっとずつ使って味わっていたそうです。


■家畜は沢山養っていたようです。
牛にヤギ、豚にニワトリ、犬にネコ。
馬はいなかったようです。

牛は畑を耕したり、石臼でサトウキビを挽かせたり。
ヤギと豚は食肉と堆肥用。
犬は番犬。
ネコはネズミから食料と作物を守るため。

大きな家畜は海の近くの場でさばいていたようです。
今の前浜の端、評議平になる部分です。


■作物は本当に様々なものを作っていたそうです。
当時は内地にビニールハウスがない時代。

島の冬野菜は内地で高く売れたそうです。
当時の総理大臣並みの収入があった農家もあったとか。
「かぼちゃで家が建ったんだよ」と言われる所以です。

カボチャやトウガン、大玉トマトがその主流の作物だったようです。

昔の方に聞くと、コウモリは沢山いたけど、
作物の被害はあまり聞かないのです。

棲み分けできていたのでしょうか?

時々畑では赤子が泣いたように聞こえる事があったそうです。
「あれ?赤ちゃん?」というと、
「違うよ。ハトだよ」と。

当時はウシバトとも呼ばれたアカガシラカラスバトが、あまり見かけはしないけど、
時々、鳴き声でその存在を伝えていたようです。


■サトウキビを大量に製糖していた時代なので、
様々な副産物がありました。

サトウキビの搾りかすは釜戸の焚き付けに、
絞っている時は甘くておいしい源糖を子供たちが貰いに群がる、
サトウキビのお酒を作る。

どこもキビ酒(いわゆるラム酒?)が大量にあり、
家の瓶(かめ)の中には焼酎がいっぱいだったそうです。

昼間頑張って労働した大人たちは、夕暮れ時にはもう1杯ひっかけていたようで、
目の前に人が通ると「おおい、寄ってけよ~」声をかけ、至る所で酒場が発生していたようです。

なので居酒屋は沖村で1件しかなかったようです。


■学校の帰りには今のB線の下ら辺に「菓子金(かしきん)」というお店があり、
名物女将さんの「ぱんこばーやん」がいて、
きな粉鉄砲やきんつばを食べさせてくれたそうです。

当時の沖村は本当に豊かで、
和菓子屋さん、呉服屋さん、商店、居酒屋(1件だけ)、
共同風呂、豆腐屋、鰹節工場、裁判所など色々あったそうです。

内地からの物資は今ほどの頻度ではないようですが、
月に2~3回は来ていたようです。

当時は船は硫黄島まで行っていたようです。


■今の北港には北村という集落があり、
運動会の時にはそれぞれ出向いて行っていたそうです。

もちろん全て歩きです。
しかも日帰り。
今の様にトンネルもなく、舗装道路もありません。

個人的には行って、帰って来るだけで運動会です(笑)。

乳房山でサトウキビの仕事をしていた親や兄弟に、
毎日お弁当を届けていたというのですから、尋常ではない足腰です。

こんな話を聞いていると、
いつもバイクや車に甘んじてしまう自分のスタイルを改めなければと思ってしまいます(笑)。

そんな島のレジェンドのお話でした(#^.^#)