小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

父親の年齢に追いついた今。

2020年03月13日 | 家族
■39歳になりました。
沢山のお祝いの言葉をありがとうございました(#^.^#)

朝イチにカナダの長女からおめでとうのメッセージ、
続いて妻と次女におめでとうと言われて、
そしてSNS、母島のみんなにお祝いの言葉を言ってもらえて、とても嬉しいです♪

誕生日であるというだけで、人が相手のことを想って声をかける。
この行為がどんなに有難いことか。
本当にありがとうございます!!


■そんな39歳になったぼくですが、
僕にとってはとても意味のある年齢なのです。
それは父が亡くなったのが39歳だったからです。
僕が中1の時でした。

当時の僕にとっては周囲が「若いのに亡くなって気の毒に…」という言葉の意味が理解できませんでした。
40歳間近である大人の人生のスパンが13歳の僕には想像できなかったのでしょう。

今まさに、その父と同じ歳を迎えてみて、
ようやくその言葉の意味が理解できました。

30代での急逝はあまりに早過ぎます。

今の僕がそうであるように、
子供の成長を見たかっただろうし、
孫の姿も見たかったと思うし、
何より、もっと自分の人生を生きたかったと思うのです。


■少し、自分の父親を振り返ってみたいと思います。
大阪出身の父は秋山雅彦。
母とは仙台の藤崎デパートで出逢ったらしいです(父はお茶の配達、母は店員)

1887年、僕が6歳の頃

僕にとってはとても優しい父だった記憶しかありません。。
色んな所に車で連れて行ってくれて、
豪華な外食に連れていってくれました(今思えば、ただのファミレスw)。

過去の記事で書いたかも知れませんが、
僕の父は僕が保育園年長の時に母と離婚して、隣町に別に暮らしていました。

僕が小学生低学年の頃。昆虫採りと魚ばかり捕まえていた
のんきな男子にとって親の離婚なんて理解できず、
「なんで別に暮らしていたのだろう?」と本気で小5まで離婚を理解できていませんでした(笑)。

母親はいつも別れた父親の悪口ばかり。
子供心に大人の大人気なさに気付いていて「はいはい」と思っていた記憶があります(*^_^*)

母親に禁じられていたファミコンやお菓子を惜しげもなく与えてくれ、
僕は父親の元に行くのがとても楽しみでした♪

栗原にある1両編成の栗原電鉄に乗りに行く旅、

もう廃線になってしまったようですが、たった1両編成のローカルな電車はとても
あのワクワク感は今でもおぼろげに覚えています。


SLが大好きだったので梅小路機関車基地に連れて行っていきました。
SLは完全に男心をくすぐる存在で代表格でもあるD51も実際にありました。


どこかのダムでのキャンプや釣りに連れて行ってもらいました。
臭い練り餌でフナみたいな魚が連れたのを覚えています。


新潟の海のシュノーケリング、キャンプなど。
当時、泳げない僕にとって、初めての綺麗な海での海中観察。
シュノーケルする父親の背中に乗って、思わず父親の呼吸するシュノーケルに息を吹きつけて、
思いっきり咳き込ませて大笑いしたのを覚えています。
テントで1泊だったと思うけど、ワクワクして楽しかったなぁ~

母親とうまくいかないながらも、
一生懸命子どもとの時間を頑張って過ごしていた気がします。

一番奥が母、左右が祖父母、手前が僕です。
車の運転がとても丁寧で(文句ばかりの母が唯一父を褒めていたのが車の運転だけでした)、
とても温厚な人だったと思います。

僕の記憶では父がイライラして怒っていたのは、
岩手の龍泉洞に自家用車で連れて行ってもらった時に、
路肩の縁石にタイヤをぶつけて、パンクさせたとき1回だけでした。


僕の母校仙台市立南材木町小学校。
■僕が小4の時、母親が子宮がんで倒れ、入院している間、
離れて暮らしていた父親の元で姉と二人と共に暮らしました。
どれくらいだったのだろう?
よく覚えていませんが2か月くらいだったのかな?

当時、父は自分の夢を叶え、富沢でケーキ屋とお茶&コーヒー屋をしていました。
毎日ゲームとお菓子三昧で幸せだったはずですが、
野菜嫌いの父の食生活は良くなかったのと、
母親と離れたストレスでしょうか?僕が気管支喘息を患ってしまいました。
夜間など凄い咳で呼吸困難を起こし、顔が紫になって何度も母が助けてくれたそうです(あんまり覚えていない)。

精神的なのか身体が弱くなって、学校では先生と同級生にいじめられてしまい、
すっかり登校拒否になった記憶があります。
退院してすぐの母は慌てて、僕を引き取ったような気がします。

学校に行きたくない僕を急かすことなく、
毎日、台原森林公園や科学館などに連れて行ってもらい、
ゆっくりを遊びまくった記憶があります。
半年くらいは学校をサボったような…

その頃くらいから、毛嫌いしていた野菜もきちんと食べる様になり、
毎週熱を出して、便秘症だった虚弱な僕は強い体に成長してきました。

母は闘病明けの体でできる仕事として自宅での英会話教室を始めていた気がします。
その頃からかな?
今、カナダで長女がお世話になっているケビンが家にいた気がします。
一緒に生活し、僕も英語を話していたらしいです(今は全然ですw)。


当時祖父母が飼っていた犬の茶太郎
■小学校高学年になると、友達との遊びや、
祖母の家に行ってプロレスにハマり、自然番組観賞をするようになり、
あまり父親の元に行かなくなった気がします。

人づてに「父親が寂しがっている」と聞いた気がしたのですが、
遊び盛りの当時の僕には自分の事だけが夢中だった気がします。

子供とも疎遠になり、
父の暮らしはやはりガサツになっていったのだろうと想像します。

僕にはそんな父の気持ちまで考える配慮はなかったと思います。

今、自分の目の前を精一杯生きるだけだったあの頃。

栗駒にて。立ち方が娘そっくり(笑)

■そして中1の頃、父は夏の終わりに突然、音信不通になり、
心配になった叔父から連絡があり、知人がアパートに様子を見に行ったら、変わり果てた姿で亡くなっていたそうです。

周囲の大人たちは当時、中1の僕にそんな姿の父を子どもに見せまいと布で隠していました。
しかし、その布の隙間から黒く変色した足が覗いていたのをかすかに覚えています。
その後、父に会ったのは火葬後の骨になった後でした。

診断は「心不全」。
あまりに腐敗した状態では死因を特定するのは難しかったのと思います。
しかし、生活の不摂生があっただろうとは容易に想像できます。
父は甘いものが大好きで野菜は大嫌いでしたから。

長い掴みにくい木の四角い箸を使って、骨を拾い、骨壺に納めました。
中1の僕に、死体すら見ないでの親の死なんて理解できるわけもなく、
哀しいとか、寂しいとかの感情もなく、
ただ、「いなくなった」「会えなくなった」だけの感触でした。

学校の先生や友達から労いの言葉をかけてもらったのですが、
全然ピンと来ませんでした。

でもちょうどその頃からロックを聞くようになり、
X JAPANに心酔していったので、
きっと自分の心が求めていたものがあったのでしょう。

XのYOSHIKIも幼くして自分の父親の死を経験し、
彼の歌の哀しみの中心は亡くなった父に向けての曲が多いのです。

当時はそうとは知らず、
Xの過激さとバラードの美しさ、その刺激に没頭していきました。
それから間もなく、バンドを始めました。

うちは片親で、母親も病弱だったので、
僕は小5から新聞配達をして、
高校は夜間高校に通い、日中は雪印で働いている勤労学生でした。

周りが思うほど、僕は苦労して育った気は微塵もなくて、
母親との約束で中学まではバイトの半額を家に入れればOKの状態だったので、
貧乏な母子家庭の割に僕が自由に使えるお金は割と多く、自由でした♪

働いたお金はゲームとCDと楽器、マンガになっていきました。
バンドのスタジオ代、沢山のライヴに行くお金にもなりました。

高校になると、大手会社の非常勤職員だったので、
しっかりとした収入となり、親を扶養できるくらいになりました。
なんと今より全然収入があったのです(笑)。

昼は仕事、夜は学校、深夜は遊ぶ生活が4年間、続きました。

「お前、よくグレなかったな」と言われますが、
グレるほど寂しい気持ちも、悲しい気持ちもなく、
ひたすら今を楽しんでいます(それは今も変わらないです)。
逆境を楽しめてしまうセンスは、生まれ持ったものだと思います(*^_^*)


2003年12月。長女が0歳。若いな~(笑)
■そして高校卒業の19歳で旅した小笠原諸島に21歳で住み込みで働くことになりました。
そして小笠原諸島で妻と出逢い、翌年には父親になりました。
あまりに若い父親です。

父親になるどころか、
家庭内での父親象すら自分の体験ですら知らない僕は、
父親とはどんなものなのか、どうあるべきなのか、さっぱりわかりませんでした。

実は今でも全然わかりませんが(笑)、
娘ふたり、妻と一緒に育って今に至る気がします。

全然ちゃんとした父親に慣れてる感は未だにありませんが、
娘たちが心ある行動や発言をしたときに、ああちゃんと子供は育ってくれるんだなぁ~と思わされます。

こんなポンコツな僕でも、
一応、夫婦が17年なんとか維持できて、可愛い娘が無事に育ってくれたのも、
みんなすべて家族、友達、島の皆さんのお蔭です。

あんなに若くてどうしようもない父親になった僕が、
どうにか楽しくやれてこれたのは、
小笠原という素晴らしい人と自然の環境、
とても恵まれた仲間の皆さんのおかげです♪
本当にどうもありがとうございます(#^.^#)

また、父の急逝の際、そして今なお眠る墓地においても、
父が入会していた創価学会の方々には本当に沢山お世話になり、助けて頂きました。
本当に有難うございます。
創価学会の慈愛の心と姿勢にはほんと助けられています。

もし父親が健在であったなら、
男として父親として一人の人間として、
お酒でも飲みながらゆっくり語り合いたかったし、
一緒に旅行してみるなんてのもいいなと思います。

もう両親とも亡くなっている僕にとっては叶わない夢ですが。
もし、これを読んでくれているあなたにご両親が健在なら、
ぜひ色んな話をしてほしいと思うし、
今この世にいるのは間違いなく、親のお蔭なので、
感謝の気持ちを伝えて欲しいと思います。


■さて誕生日の今日、カナダの田舎の高校に留学している長女が、
顔を10針縫う大怪我を負ったと聞きました(ToT)/~~~

僕に誕生日のメッセージを送って学校に行っての事の様です。
命に別状はないようで安心ですが、まったく親に似ておっちょこちょいの娘です(笑)。
誕生日に、遠く離れた土地に暮らす娘の無事をギフトで頂きました(#^.^#)

僕自身も最近は随分と体格が大きくなり、
結婚当初の準ヘビー級に戻ってしまいました(笑)。
父の突然死の事もあるので、僕も気を付けて体重を落とさねばと思っています。(結構マジ!)

そして、今、妻と次女が誕生日パーティーの準備をしてくれています。
準備中なので部屋に入るなと言われています(笑)。

今、夜の21時半!!
いつもとっくに寝ている時間です(*^_^*)

お腹もすいたし、
まったくいつまで待たせるのだろうと思いつつ、
娘のワクワクした声にこちらもドキドキしています。

人の為に一生懸命になれるって素敵だなぁ♪
そんなギフトまで誕生日に家族から頂きました。

そんなすべてに感謝の誕生日でした(#^.^#)
有難うございます!!

あっ、娘がようやく呼んでいる(#^.^#)
ではまた!


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