小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

青ヶ島の風景♪(青ヶ島滞在記⑥)

2020年03月30日 | 青ヶ島 滞在記
その⑤の続き

■いよいよ、長く続いた青ヶ島編、最終回です。
たった1泊でしたが、我が家にとっては2年前の妻の滞在、
去年の愛らんどリーグでの出逢い、
そしてこの1か月の短期留学のクライマックスに行った1泊でした。

まだまだゆっくり味わいたかった青ヶ島ですが、
1泊でもお蔭様でとても濃密に過ごす事が出来ました。

青ヶ島の絶景を望める大凸部(おおとんぶと読みます)付近から見る美しい朝日。

島で対応してくれた友人・知人の皆さん、
小笠原にルーツや親戚のいる青ヶ島の皆さん、
温かく我が家を受け入れてくれた島の皆さんのお蔭です。
どうもありがとうございました♪

最後は青ヶ島の圧倒的な景色を振り返りたいと思います。


■やはり最初に行ったのは絶景の2重カルデラを眺める尾山展望台。

この圧倒的な景色は何度見ても言葉を失います。

尾山展望台から少し奥に行くと東台所神社があります。

こんなところに立派な神社があることにビックリです!!

この神社は1757年、失恋の腹いせに島民7人を殺傷し、入水自殺した朝之助の霊を鎮める為に建てられたそうです。
いわば祟り神を祀る神社ですが、今は縁結びの神様として島民の信仰を集めているそうです。

雰囲気がありますね。

神社の参道は驚くほど急勾配で玉石を登るというもの。
知らずに上った妻から聞いてはいましたし、
案内マップにも表の階段参道はお勧めしないと書かれていました。

なるほど、すごい勾配な上に苔生した玉石!
僕はライトな尾山展望台からの道で参拝しました(#^.^#)

その尾山展望台からの美しい2重カルデラ地形!!

この圧倒的な景色は写真では10%も表現できていないので、
気になる方はぜひ青ヶ島に行ってみて下さい♪

■密かに友人と遊歩道を歩いていてテンションが上がったのは、ナナホシテントウを見つけた時!!

小笠原にはまったくもって存在していないので、見れてすごく嬉しかったです♡

遊歩道にはちらほら椿が落ちていました。

小笠原の椿、ムニンヒメツバキを違い、しっかりと大きな可憐な花でした(*^_^*)


そこら中に自生している明日葉。
これが本当に美味しい♡
これはホントに羨ましい環境です(#^.^#)


たった1泊の唯一の朝は大凸部へ。圧倒的な朝日を拝む事が出来ました♪

■集落から下に降りて、ジョウマンと呼ばれる方に行くと、共同牧場があります。

青ヶ島は牛祭りがあるほど、牛の畜産には力を入れていると思っています。

母島ではもうほとんど牛の飼育はしていないですが、
母島の畜産指導所閉鎖の説明会の時に、東京の島では青ヶ島が主な牛の生産地を言われていたのを思い出します。

最後に島を離れる次女も連れて行き、牛さんとお別れです。


二重カルデラのある内輪山の中にある池之沢にある噴気孔群。
アツい蒸気が立ち上っていました(*^_^*)

青ヶ島に行った日は奇跡的にとても暑い日で、
サウナには入りませんでした(笑)。(前日の八丈は超寒かった!!)


サウナの近くには地熱で調理できる地熱釜「ひんぎゃ~」があります。

次女たちも毎週サウナに来る日があって、ひんぎゃーに芋などを入れて、
サウナで暖まって出た頃には、しっかり調理が終わってるという流れだったようです(*^_^*)

なんと、帰りのははじま丸で船上で初対面の方に
「ひょっとしてお宅の娘さん、青ヶ島のサウナにいませんでしたか?」
と言われ、ビックリしました(笑)。

なんでも少し前に仕事で青ヶ島を訪れ、
サウナで腹筋100回している子供がおり(笑)、←うちの次女ですw
そこで母島の話をしていたというのです(*^_^*)

世界は狭いもんですね~~!
ビックリでした(#^.^#)

近くには地熱を使って自然塩を作る塩工場もありました!

それが「ひんぎゃーの塩」になるわけですね♪
映画「アイランドタイムズ」でも島に帰って来た島っ子が塩工場で働いている場面があります。

有難いことに、お土産で頂きました(*^_^*)


ヘリポートの先に行くと金毘羅神社がありました。

ここは天明の大噴火の後、無人になった青ヶ島に帰島する際、
航海の安全を祈祷した船頭が、その後事故に遭わなかった為に
金毘羅大権現を勧請したとされているそうです。

少し窓越しに中も覗かせてもらいました。
様々な神事の道具、ご神体などが祀られていました。

これまでお世話になった感謝、
この日乗るヘリの無事のフライトを祈りました☆

美しい朝日の木漏れ日の中、帰りの参道を戻ります。

その景色が朝日に照らされて、セピア色であまりに綺麗で、
青ヶ島に祝福されているような、そんな気分になりました。
こういう時、すべてがうまくいきます(#^.^#)

1か月も次女がお世話になり、
こうして無事に最終日を迎える事が出来た…
本当に感謝の気持ちでいっぱいです♪


■こちらは青ヶ島唯一の売店、十一屋酒店です。
まさに島の中心地。
素晴らしい品揃えでした!!

こちらのお母さん、荒井さん夫婦には本当にお世話になりました。
次女も最後挨拶に伺い、本当に大事にして頂いたことが伝わって来て、泣きそうになりました。

離島時には沢山のお土産を頂きました♪
本当に有難うございます!!

やはりひんぎゃーの塩を使ったクッキー。


青ヶ島特産の焼酎、青酎。


チョコレートケーキ。
家族で青ヶ島が舞台の映画「アイランドタイムズ」を見ながら頂きました♪
超美味しかった♡


可愛い青ヶ島手拭い♡


ひんぎゃーの塩ラーメン!!

どれも島の人が一生懸命作っているものばかり。
すごく頑張りが伝わって来て感動しましたし、すごく嬉しかったです♪
ありがとうございました!!

■というわけで、なんと6回にも渡り続いた青ヶ島シリーズこれにて完結です。
これから、その後もあるのですが、とりあえず滞在記としてはこれでおしまいです。

たった1泊なので、全然ゆっくり見ることもできず、
まだまだ足りないです。

僕も関わっている東京宝島事業の島レポートにONE STORYというのがあります。
それで青ヶ島もとてもステキに描かれているのでぜひご覧ください。
個人的には居酒屋もんじの写真が大のお気に入り♪
とってもアットホームなもんじの雰囲気を見事に写真に納めています。

広報青ヶ島2020年3月号には、なんと次女の事が書かれていました(#^.^#)
青ヶ島教育委員会の皆様、ありがとうございます(#^.^#)

本当に家族全員、青ヶ島の皆さんに大変お世話になりました!
自分が行ってみるまで、ここまで母島とご縁があるとは知らなかったし、
次女が「母島と同じ1番大好きな島」と豪語するまでになった青ヶ島。

この繋がりを大切にして、
これから何度も訪問したいと思っています。
お互いの島にとって必ず良いものが生まれると信じています。

どうもありがとうございました!!

空飛ぶ漁船(青ヶ島滞在記⑤)

2020年03月20日 | 青ヶ島 滞在記
→その④の続き

たった1泊の滞在にここまで記事が続くのは珍しいです(笑)。
それだけ、想い焦がれていた青ヶ島に上陸できたのは、本当に嬉しかったです。

■さてさて、今回の記事はようやく青ヶ島観光です。
母島からなんと青ヶ島に移住した友人がいて、お休みを取って青ヶ島の案内をしてくれました♪
島の色んなエピソードを教えてもらいながら、色んなところを案内してもらいました。
本当に感謝です♪

幸運にも滞在中は風もなく暖かい天気に恵まれ、幾つもの素晴らしい景色を見ることができました。
圧倒的なその風景の数々に言葉を失いました。

青ヶ島の友人に色々連れて行ってもらった中で、
幸運にも偶然見ることができたのが有名な「空を飛ぶ漁船」でした。

青ヶ島は周囲が崖で、ビーチがありません。
流れの速い黒潮に囲まれた接岸が厳しい唯一の三宝港。

激しい高波で、高く作った先客待合所も船揚場も大時化時には波をかぶってしまうそうで、
今では漁船は船を毎回毎回クレーンで吊って、高台に納めているのです。

話には聞いていましたが、ちょうど島の唯一の港を見に行ったときに、
漁船が量から帰ってきたので、その場面を一部始終拝見することができました。

港に着き、クレーンに漁船を接続し、岸壁の高さまで上げたら水揚げです。
水揚げされている魚はハマダイに見えました。

クレーンを稼働させる時は、何とも言えないメロディーが流れます。
船置場に行くまでに一般車道の上を通る為、
クレーンゲームのようなやけにシュールなメロディーなんです。☆

見上げて首が痛くなるほどの高さを飛ぶ漁船。

その背景のコンクリートで固められた崖。

周囲を見て回るその先々に、色んな箇所で土砂崩れを見かけます。
青ヶ島の厳しい環境を伺えます。
そして、その中で賢明に生きる島の人の逞しさも同時に垣間見ました♪

こちらは式根島にもあるような急こう配な船置場。
ここでも高波を食らうことがあったようで、現在は使われていません。

近くには古い船客待合所があります。
こちらも高波の影響で閉鎖されています。
屋上は浴場になっていたそうですが、今は使われていません。

港の堤防のすぐそばにまでザトウクジラが来ていて、とてもビックリしました!!

青ヶ島は島の周囲が断崖絶壁で、どこかで土砂崩れが発生したあとがあります。
信じられない数の足場で工事している様を見ると、その厳しさが伝わっています。

集落から海沿いに三宝港に向かう道も土砂崩れで通行止めでした。

■三宝港は南西向きの小さな港。
やはり西風や時化に弱いので、島の東側にも港を作ろうという動きはあったそうです。

大千代港がそれです。

しかし、そこに繋がる道はやはり崖を縫って行くような急な道。
土砂崩れで長い年月、通行止めとなっています。

ここから先は通行止めなのです。

大千代港が使用中止となるきっかけとなったのは、
平成6(1994)年9月27日に発生した村道の崩落事故のようです。
なんと3人の島民が犠牲になっていて、その命を祀られた慰霊碑がありました。


道路からは現在使われていない小さな岸壁が見えました。

青ヶ島の立地の厳しさをまざまざと見せつけられました。
この厳しい環境で暮らしているという強さに身震いしました。
本当に凄いです。


■青ヶ島に着いてから、次女がお世話になった関係各所に挨拶周りをしました。

密かにお気に入りの発電所横の看板です(*^。^*)
素朴な青ヶ島の風景は一目見て、離島好きの妻が好きそうだなぁと思いました。
もちろん、僕も大好きです♪

学校には簡単に挨拶し、午後の次女のお別れ会の際にゆっくり伺うと約束し、
役場と教育委員会に行きました。

急な短期就学にも丁寧に対応してくれ、そのお礼を伝えました。
丁度役場に戻ってきた村長さんにも挨拶できました。
村長さんは以前、ははじま丸船上でお逢いしたことがありました(*^。^*)
母島の共通の知人の話にもなり、「よろしく言っといてくれよ~!」とのこと。
なんだか嬉しかったです♪


役場と学校の近くにはなんと信号機がありました!!
これはやはり子供の教育の為に設置されたそうです。
母島にはないものですね(*^_^*)

柔道などでお世話になった駐在所。

母島では二家族が勤務してくれていますが、青ヶ島は1家族。
ずっと待機状態なわけなので、なかなか大変な環境と思います。
そんな中、色々してもらっていることに頭が下がります。


これは火山活動(1783~1785年)で島外に避難を余儀なくされた青ヶ島島民を、
再び島の暮らしを再開させる「環住」(1835年)を果たすのに成功させた佐々木次郎太夫さんのお墓です。

もの凄い幾多の苦難を乗り越えたと書かれています。
現在の青ヶ島の歴史を再開させた伝説の方です。


以前の記事で書いた、佐々木卯之助・翁の碑です。
これをこの目で見れて、とても感傷的な気持ちになりました。
ようやく、あの人の暮らした目線の島に来れたのですから。


青ヶ島の空の玄関口、ヘリポート。
1993年から運行が開始され、欠航が続きやすい青ヶ島のアクセスに革命がおこったと思います。
たった9人乗りの空の便ですが、霧さえなければほぼ毎日運航できる交通手段というのは、
とても有難いものだと思います。

年間就航率が50%を切る厳しさや、
なかなか整備できない厳しい環境の大千代港を見ると、
空の便の有難さは本当に大事だと思います。

ヘリポートはヘリの運航だけでなく、お祭りや島踊りの舞台としても使われているそうです。

■昨日は青ヶ島小中学校の卒業式。
次女はお祝いのメッセージを一生懸命作り、贈りました♪

青ヶ島小中学校の先生も、快く対応してくれ、飾ってくれたそうです。
みんな見てくれて、喜んでいたとも聞いて、とても嬉しかったです♪
本当に有難うございます!
卒業、おめでとうございます!!

こうして、人はつながっていくんだな、と。

今日は母島の小中学校の卒業式。
新コロナ対策で入場はできませんが、島を巣立つ最後の晴れ舞台を応援したいと思います♡

新コロナ対策で全国一斉休校の流れの中、
東京の島では小笠原村と青ヶ島村だけがいち早く、乗船時の検温や問診、安全対策を行い、
学校再開を果たしました。

お蔭で、無事に迎えれる卒業式です。
本当に感謝ですね(*^_^*)

その⑥へつづく→



青ヶ島と母島のつながり(青ヶ島滞在記④)

2020年03月10日 | 青ヶ島 滞在記
その③の続き

■僕自身初めて訪れた、伊豆諸島最南端の有人島「青ヶ島」。
人口170人の日本で一番小さな村。

2年前に妻が単身で訪れてハマって以来、本当に沢山の話を聞いていたので、色んな想像をしていました♪

今回、次女の短期留学の迎えとしてたった1泊でしたが、ようやくお邪魔することができました。

実際に訪れた青ヶ島は、想像以上の場所でした(#^.^#)♪
断崖絶壁に二重カルデラの美しい景色、
子ども達を本当に宝物のように大事に見守り育ててくれる情け島。

そんな素晴らしい所に次女は1か月もお世話になれたのです。

そして、ここでも色んな繋がりを感じる事が出来ました☆

青ヶ島には有名な青酎(あおちゅう)という焼酎があります。

これは島で作られるサツマイモを原料にオオタニワタリの麹で作る、
青ヶ島の名産品です。

作った杜氏の数だけ、味が違うあおちゅうが存在します。

中にはすべての材料が青ヶ島だけのものでできて、
昔ながらの伝統の製法で作られた「青酎伝承」、

青ヶ島に直接行かないと購入できない伝説のあおちゅう
「初垂れ(はなたれ)」があるそうです。←まだ未経験。超興味ありです!

初垂れは焼酎造りにおいて、
最初に生成されるアルコール度数60度の原酒がほんの少しだけ造られるそうですが、
あまりにも少なすぎて、下限が決められている法律の下では販売できなかったそうです。 
(年間○○リットル以上造らなければ販売禁止)
それが2017年末に特区として内閣総理大臣に認められ、販売可能になった幻の焼酎なのだそうです。


今、我が家にはなんと4本の青ヶ島産のお酒があります♪

1本は2年前、妻が青ヶ島を訪れた時のお土産。
1本は今回の青ヶ島を発つ時に頂いたもの。
右から2番目がかいゆう丸で購入した古酒。
一番右が母島と繋がっているご縁で頂いた、ヤマモモから作ったお酒です♪

後述しますが、泊まった宿「かいゆう丸」の女将さんの親があおちゅうを作っていたそうです。
もう亡くなってしまい、製造はしていないのですが、
10年ものの古酒が売られていたので、もちろん購入しました(#^.^#)

青ヶ島でお世話になった方から頂いたオリジナル手拭い。青ヶ島の魅力が詰まっています!

■東京宝島でもお世話になっている十一屋の荒井智史さん。
青ヶ島を様々な分野で支えている、とても重要なカッコいい人です♪(僕と歳も近い!)

島ではやはり超多忙でゆっくり話す暇はありませんでしたが、
車を貸してもらったり、次女の滞在に色んな分野で沢山の尽力をしてもらっています。
本当にどうもありがとうございました!

僕が青ヶ島に行ったときは丁度、消防団の訓練中でした。
一昨年母島に来てくれた東京消防訓練学校の教官に、
居酒屋で会った時はそのつながりに驚いたほどです(笑)。

日程とヘリのチケットの都合で1泊しかできなかったのがとてもとても悔しいですが、
2度の来島ですっかり青ヶ島ファンになった妻と、
1か月青ヶ島にお世話になった次女のお蔭で、
道行く色んな人に笑顔で話してもらえました♡

本当にありがとうございました(#^.^#)

■今回の青ヶ島における次女の短期留学は様々なつながり(ご縁)があって実現したものでした。

最初は2019年春にハワイに行ったSHIPハワイ研修プログラム
そこで小笠原と八丈の高校生とハワイ島を訪れたのですが、
そこで島っ子が島在学中に敢えて外の島で過ごす経験の意味を確信します。

そして、2019年夏の島嶼サッカー大会「愛らんどリーグ」。
なんと会場は八丈島!

SHIPで仲良くなった八丈のみんなに会えるということで、
頑張ってサッカー練習に望み、八丈島に行き事ができました。
そこで、青ヶ島から参加してきたたった一人の素敵な同級生(小4)に出逢うのです。


■八丈島での愛らんどリーグで出逢った、たった一人で参加してきた青ヶ島のYちゃん。
サッカーチームとしては足りないメンバーを八丈島のメンバーがフォローしていたそうなのですが、
夜に行われた各島のアピール合戦「島自慢」で圧倒的なパフォーマンスを誇り、
会場の多くの人の心を鷲掴みにしたのが、青ヶ島から唯一来ていた彼女でした。
「ぜひみなさんも青ヶ島に来てください!!」
早速、うちの次女は名刺交換をして、その後文通に繋がります。

僕はその時の発表を見れてはいないのですが、
その場にいた色んな人からその素晴らしさを聞いていました。
もちろん彼女が島自慢の最優秀賞を受賞したのは誰も疑う余地がなかったそうです♪

その後、僕自身も東京宝島会議などで青ヶ島の方と出逢うことも意味があり、
どんどん繋がっていきました♪
こういう時の流れというものはいつも本当に不思議なほどです(#^.^#)
そのYちゃん宅にホームステイして1ヶ月過ごせることが決定しました。


■そして僕が青ヶ島でお世話になった宿「かいゆう丸」。
こちらはなんと今年オープンしたばかりの新しい宿。
とても食事も美味しくて、綺麗で素晴らしい宿でした♪

料理が本当に豪華で美味しいのです♪
青ヶ島は居酒屋が2件、日中の飲食店はゼロなので、
宿は3食を提供してくれます。

これは夕食に出てきた島魚の酢漬け。
なかなか冬は海が悪くて漁に出れなかったそうで、
お客さんの食事の為にこうして島の魚を準備してくれていました♪

小笠原の郷土料理にもピーマカと言われる、魚の酢漬けがあります。
それにそっくりです(#^.^#)


自家製大根葉のご飯も超おいしかった♡

料理上手な女将さん曰く、「青ヶ島料理は八丈島の料理とは違う所があるのよ」と言っていました。


イカリングフライも絶品(#^.^#)
お盆から溢れんばかりの料理に舌鼓を打ちました(#^.^#)


宿の女将さんのお母さんが作っていた自慢のあおちゅうも頂きました♪
さすが10年以上前に作られた古酒、芋焼酎なのに甘く、マイルドでした(#^.^#)

遠くに出かける場合はお弁当にもしてくれます。

今年、宿を始める前からずっと島のお弁当やオードブルを作っていたそうで、
僕が着いた日も島の懇親会の料理を娘さんと一緒に一生懸命に作っていました(#^.^#)

お部屋もすごく綺麗でWifiまで完備!!
お勧めのお宿です☆

なんとその宿の女将さんのおばあちゃんが母島出身らしく、
意外に繋がっていることにとても驚きました☆
冒頭のヤマモモのお酒もそんなご縁からぜひ!と言って頂きました。
本当にありがとうございます!

母島にも随分と前になるそうですが、来たことがあるそうです(#^.^#)
これを機に、また行きたいと言ってくれていました♡
ぜひ来てほしいです☆

あおちゅうに描かれた地図。みんなつながっています♪

■また、僕が父島時代に最初にお世話になった小笠原ユースホステル。
そこの初代・故「佐々木卯ノ助」さんはなんと青ヶ島出身。
まだ親戚の方がいらっしゃるということで訪問してきました。

マツミ荘を経営している、前・村長さん佐々木宏さんです。
訪問をすご~く喜んでくれて、本当に行って良かったと思います♪
僕も逢えてすごく嬉しかったヽ(^o^)丿

小笠原YHの初代・佐々木卯之助さんの名前は、
青ヶ島に名を残す英雄から頂いた名前なのだそうです。

「佐々木卯之助さん」の名前は実はとても有名です。
集落には佐々木卯之助翁の碑がありました。

佐々木卯之助さんは、江戸幕府の大筒役で、
当時は天保の大飢饉が発生しており、卯之助の計らいで
農民が立ち入り禁止の相州炮術調練場で耕作を黙認していたため、
青ヶ島遠島の刑に処せられ、そのまま青ヶ島で過ごし、死去した人物なのだそうです。

そんな役人よりも庶民を大事にして飢饉から農民を救ったとして、
農民にとても感謝されていたそうで、記念碑が作られたそうです。

前・村長さんはその末裔とのことです。

そしてなんと現・青ヶ島村長さんも母島に親戚がいる方なのです!

母島のうちの近所に住む農家さんに宜しく伝言を頂く連続でした(#^.^#)
予想もしないところで沢山繋がっていて、驚くことばかりでした。


■青ヶ島の物資の流通は基本的に船です。
しかし、湾のない黒潮の海流に囲まれた絶壁の青ヶ島。
就航率は50%以下といいます。
海が時化る冬にいたっては1週間以上も船が来ないこともザラのようです。

9人乗りのヘリは霧がない限りはほとんど毎日就航するようですが、
そのチケットは購入が本当に困難で、空くかどうか分からないキャンセル待ちに頼らざるを得ません。
(今回の僕のお迎えも1ヶ月前の朝9時の繋がらない怒濤の予約電話でキャンセル待ちを経てから得られた奇跡の切符でした)

そこで初めて就航率90%を越える、
小笠原の父島の二見港、母島の沖港の有り難みを知ることになりました。
小笠原は航空路こそありませんが、台風がない限りはほぼ予定通り船は就航しています。
これがこんなにも有り難いものだったとは。

以前の記事にも書きましたが、青ヶ島と八丈島を繋ぐ「あおがしま丸」は
ははじま丸と同じ伊豆諸島開発(株)が運航しています。

伊豆諸島開発はははじま丸、あおがしま丸、他にはゆり丸(基本的に貨物船)を運営しています。(ゆり丸は、ははじま丸がドック中の代船にもなってます)
船員さんたちも交代で回っているそうで、
こんなところにも繋がりを感じました♪

次女はあおがしま丸で青ヶ島に辿り着きましたが、
ヘリで往復している僕はまだあおがしま丸は未経験です。

いつか必ず乗ってみたいと思います☆

そんな青ヶ島が繋ぐ航路の先に八丈島が見えます。
この滞在時はその見える八丈島に妻が来ています。

1か月離れていた母親が見える隣島にいる感覚は次女にとってはどうだったのでしょう?


■次女が1ヶ月お世話になった青ヶ島は、人も暮らしも景色も本当に圧巻でした。

次女は柔道もしていたので、青ヶ島の駐在の方に柔道でお世話になったり、
サッカー練習にも混ぜてもらったり、とても充実した日々だったと思います。

慣れない環境の中での生活で色々苦労したと思いますし、
お世話になった学校やホームステイ先でお世話になったことは数知れないと思います。

その中で沢山の多様な価値観を学び、
色んな自信を身につける事になったと思います。

母島よりも子供の数が少ない青ヶ島にとっても、
子供が一人増えることはとても大きな事だったと思います。

12月に連絡し、1月には訪問してしまうタイトなスケジュールの中、
前例のない他島の島の子供を受け入れるという事を、
とても丁寧に対応してくださった青ヶ島の学校の皆さん、教育委員会と役場の皆さん、そして青ヶ島の地域の皆さん、
それをフォローしてくださった母島の先生方、校長先生の皆さん、
そしてホームステイを快く受け入れてくださったYちゃんファミリー、
本当にありがとうございました!

この短期留学が子供たちだけでなく、
青ヶ島や母島、さらには他の島の未来にとって有意義な物になることを祈っています。
どうもありがとうございました!!

その⑤につづく→


おもうわよう!青ヶ島!!(青ヶ島滞在記③)

2020年03月01日 | 青ヶ島 滞在記
→その②の続き
■「おもうわよう」
次女が1か月お世話になった青ヶ島を離れる時、
島のみんなが見送ってくれてる中、横断幕に書かれたこの言葉。

青ヶ島の方言で「思うわよ(想うわよ)」で「いつまでも心の中で大切に思っています」という意味だそうです。
出会いと別れがある島ならではの言葉ですね(*^_^*)

そんな感動のお見送りまでですが、
僕の青ヶ島の滞在はたった1泊でした(泣)。

そんなわけで、
いよいよ1ヶ月ぶりに出逢う次女。
その再会は学校のまさに次女のお別れ会でした。

■学校の先生に案内された僕にとって初めての青ヶ島小中学校。
エントランスに行って、僕に気付いた他の小学生に声をかけられ、
次女はサッと隠れます。

みんなニヤニヤとしています(*^_^*)
とても暖かい空気が流れます。

次女はこんな空気の中、お世話になったのだなぁと、じんわり感じることができました。

教室では他の子がお別れ会の準備をしています。
階段で隠れて待機する次女は、
1ヶ月前の彼女とは別人のようにしっかりした顔でした。

親元を離れて、慣れない土地で一生懸命過ごしてきた日々。
それがとても充実していたのが伝わってきます。

お世話になった先生方も最後の登校日をとても大事にしてくれているのが分かり、
感謝の気持ちが溢れてきました。


■始まった次女を送る会は小学生全員による、様々なレクレーションでした。
僕も一緒に混ぜてもらいながら、青ヶ島カルタ大会、ハンカチ落としや、
パプリカの歌と踊りなど。

終盤にみんなから、青ヶ島の見送りの歌「旅ゆく君へ」を歌ってもらっている場面。
先生が奏でる心地良いギターの音色。
子供たちが、先生が本当に次女の滞在を大事に温かくしてくれたことがすごく伝わってきました。
僕も目頭が熱くなります。

まさに卒業式のような場面でした。

※この曲は青ヶ島が舞台の映画「アイランドタイムズ」の挿入歌です。青ヶ島の景色も楽しめます♪
歌詞は少しだけ青ヶ島スペシャルにいじってあります(*^_^*)

たった1ヶ月の滞在でしたが、
お別れの言葉で涙ぐんでスピーチしてくれるお友達の言葉。
本当に貴重な時間を過ごさせてもらったと感じることができました。

そんな言葉に対しての次女の挨拶に僕はこの1ヶ月の成長を感じることができました。
こんなにも「自分の言葉」で人前で話すのを初めて見たからです。
先生が求めるような模範解答ではなく、自分の内から沸き出してくる自然な言葉の挨拶。

久々の再会で、そんな所から色んな事を感じました。

※島の絶景ポイント大凸部からの朝日です♪

■お別れ会の後は、この短期留学にとても尽力して頂いた副校長先生に校舎を案内してもらいました。
3学年ずつに大きく分けられた、開けた教室。

中学校も音楽室や、美術&技術室、母島はにはない給食を食べる食堂など、
とても素晴らしい学校の施設を見学させて頂きました。

次女にとって初体験の給食を作る厨房の皆さんのにもお礼を伝えることができました。

学校訪問の後にも、
道行く人や出逢う人すべてに温かい言葉を頂き、
ほんと有り難い時間を過ごさせてもらったことを実感しました。

夜にはホームステイでお世話になった家族と友人と
島の居酒屋「もんじ」にお邪魔しました。

なんと小笠原村の村長も写真に写っていて、
知っている消防訓練所の教官までいました(笑)。
ちょうど青ヶ島の消防団の訓練の時期でした(#^.^#)

そんな場所でも物怖じせずにカラオケしまくる子供たち(笑)。
村長も元村長もいて、
島の皆さんが沢山声をかけてくれました♪

マスターもすごく優しくて、沢山暖かい言葉をかけてもらいました♡

母島もそうですが、
本当に子どもの事を心底大切にしてくれる島ですね~


■青ヶ島を出発する最後の日。
滞在先に次女を迎えに行き、荷物を郵便局に出しに行きます。

次女は郵便局で青ヶ島のスタンプを熱心に押しています☆

その後は青ヶ島唯一の商店「十一屋」に挨拶に伺います。

ここは妻も次女も本当にお世話になったところで、
店の女将さんが次女に素敵なTシャツをプレゼントしてくれました。
丁度、村長さんも現れ、母島の知人の話をしつつ、沢山のお土産を頂きました。

保育園児、小学生に中学生、地域の皆さん、友人の皆さん、
多くの人が次女の見送りのためにヘリポートに集まってきてくれました。

みんながお別れの歌を歌ってくれるとき、
その情景を見つめているとき、
ああ、なんて素晴らしい経験を、なんて素晴らしい出逢いをさせてもらったのだろうと感動していました。

僕が小学四年生の頃には微塵も感じることのできなかった経験を次女はしています。
ホームステイさせてもらったとても素敵な家族とは、これからもずっと繋がっていくことでしょう。

母島に縁のある人にも青ヶ島で沢山出会うことができました♪

そんな感傷に浸っていたら、お迎えのヘリが着陸して来ました。

母島の船のお別れに比べて、
とてもあっという間の離陸。

なかなか気持ちが追いついてきません。

冒頭の「おもうわよう」まさに、そんな感じです。
青ヶ島を発って、1週間が経過していますが、毎日“おもうわよう”です。

離陸して離れる青ヶ島を見つめながら、
傍らで大泣きする次女の肩を抱きながら、
新しいことに挑戦する事の素晴らしさを教わった気がしました。

八丈島に着く20分間の空の旅。
何度も嗚咽しながら、肩を震わせて泣く次女。
僕も、そんな時間を過ごさせてくれたすべてに感謝しながら涙を流していました。

どうもありがとう。
青ヶ島のみなさん。

その④につづく→

母島と同じくらい大好きになった島(青ヶ島滞在記②)

2020年02月28日 | 青ヶ島 滞在記
①の続き
■「今まで、どこに行っても一番母島がいいと思っていたけど、
 今は母島と青ヶ島が同じくらい一番と思えたんだ~♪
 早くまた青ヶ島に行きたいなぁ~!」
1か月の青ヶ島滞在を終えて母島に帰って来た、次女の言葉です。
母島小学校の青ヶ島発表の時間でも言っていました。

※次女が母島小学校で青ヶ島の説明をする場面。
驚きました。
そんな言葉を聞けるなんて、なんていい時間を過ごしたのだろうと思います♪
母島のみんなの前でも言えるなんて…
本当にみんなに大事にしてもらったと思うし、
共に過ごした家族、友達や学校、青ヶ島の皆さんがとても優しく、素晴らしかったのでしょう♪


■そんな言葉に集約されるような青ヶ島滞在。
多くの人に支えられて、次女にとって初めて降り立つ青ヶ島の生活が始まりました。
ホームステイを受け入れてくれたお宅にお邪魔し、
慣れない土地での生活。

なんと青ヶ島に着いた翌日は、
青ヶ島小中学校のロードレース大会。
次女は前日夜に初めてコースを車で回って見ただけでの出場。
多くの島の人に応援されながらのロードレースだったようです。

※僕が青ヶ島で密かに好きな島唯一の商店「十一屋」に続く景色。ここを走っていたようです。

50時間以上も船で揺られ続けた次女さん。
母島では同学年7人中、1番でしたが、青ヶ島では3人いる中での最下位。
とても悔しがっていたそうです☆
レース後に先生の「満足できた人!」にひとりだけ手を挙げなかったそうです。

大人や先生から見ると、
ほぼコースも分からない、ぶっつけ本番で臨んだ割に、いいタイムだったと思うのですが、
本人は納得いかなかったようです(*^_^*)
いい経験ですね~

青ヶ島小学校から母島小学校へ次女の走る写真が送られてきました(*^_^*)
本当に有難いです☆

そんなこんなで青ヶ島生活のスタートを切りました。
青ヶ島が大好きな妻も、次女のチャレンジを応援するために敢えて2泊で島を離れました。

それから迎えに行く1ヶ月間、一切次女の声を聞くことはなく、
ホームステイ先から時々送ってもらえる写真やメッセージで様子を知る程度でした。

時々聞く様子からは、本当に貴重な体験を沢山してもらっているなぁと感じました。
母島に帰って来てから教えてもらったことですが、
実は親と離れて2晩くらいは寂しくて泣いていたそうです。

10歳で親元を離れてのチャレンジ。
ほんとよく頑張っていたのだなぁと思います。

そんな次女を暖かく受け入れてくれた
青ヶ島の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。


※尾山展望台から集落を望む。

■有難いことに、ホームステイでお世話になったファミリーに
沢山の青ヶ島の場所に連れて行ってもらったようです。
世界的にも貴重な2重カルデラが見える絶景の尾山展望台や大凸部。

地熱を利用したサウナや、

地熱を使って調理できるひんぎゃあ釜。

※僕も行ったときは肉まんとソーセージを蒸して、超おいしく頂きました♡

色んな観光スポットもですが、
何よりも青ヶ島の日常にお邪魔させてもらっている事が、
言葉にできない、何よりの経験だと思います。


保育園の先の道路の上を渡り廊下が橋渡す、すごく素敵な青ヶ島小中学校。
母島の小中学校より大きいですね(#^.^#)
すべての教室から海が見えて、とても気持ちのいい教室ばかりです♪


滞在の終盤には小学校の自然体験学習として、
島の方の案内で、幻の大杉に連れて行ってもらったそうです。

そこの御神木までの道のりは、
たどり着くまでの過程のすべてに、
青ヶ島が重ねてきた年月と培ってきた風土文化が眠っているそうです。

青ヶ島の焼酎「あおちゅう」の麹に使われるオオタニワタリの群生地を抜けて大杉に向かいます。

大杉に行くまでのプロセス、学習、姿勢にとても大事な意味があり、
ただ大杉を見に行くだけでは全然、意味がないと案内の方が言うほど神聖な場所に連れて行って、
学習させてもらった事、本当に有難いことです。

次女がひとり増えた事で、みんなが楽に手を繋いで大杉を取り囲むことができたと、喜んでいました♪
本当にありがとうございました!!


■次女が入って小学生6人、中学生5人の青ヶ島小中学校。
次女が着いてさっそく、みんな一緒に遊んでいたそうです。
たった11人の子どもの世界。
次女ひとりが増えることはとても色んな影響があったと思います。

その中で、みんなに暖かく迎えてもらった事は
私たちにとって、ずっと忘れられない宝物になっていると思います。
本当に感謝してもしきれません。

1ヶ月後にお迎えとして初めて僕も青ヶ島にお邪魔した訳ですが、
道行く人、出逢う人みんなからその暖かい気持ちを感じました♪

「もう、あんたとお子さん、ずっと島にいることになってるから(笑)」
と何度声をかけてもらったことか(笑)。
嬉しい限りです(*^_^*)

※青ヶ島には色んな所に神社があり、祀られています。

僕は次女のお迎えで2泊するつもりでしたが、
熾烈(しれつ)なヘリのチケット争いで手に入れたのは、
たった1泊の滞在(行きと帰りの両方のチケットを取れないと成り立たない)でした。

しかし、そのたった1泊でも溢れんばかりの島の人の愛を沢山感じることができました(*^_^*)
次女はなんて素晴らしい時間を過ごさせてもらったのだろうと思います。

次女を送るときに同行し、青ヶ島に2泊した妻から、
青ヶ島の学校の先生方の熱意や素晴らしい姿勢を聞いていたので、
僕自身、この初めての青ヶ島訪問をとても楽しみにしていました。


■生まれて初めて親元から離れた1ヶ月を過ごした次女。
1ヶ月ぶりの再会は招待を頂いた小学校の5時間目。
次女のお別れ会の授業でした。
会ってすぐに彼女の成長が分かりました♪

濃密な日々を過ごしたのが伝わってきます。

その③に続く→

次女の大チャレンジ!!(青ヶ島滞在記①)

2020年02月26日 | 青ヶ島 滞在記
■2月中旬。ここは伊豆諸島の最南端の島、青ヶ島。
世界でも珍しい二重カルデラ地形の島です。

島の唯一の空路でもある、ヘリポートの上で愛らんどシャトルというヘリコプターに乗っています。
離陸しました。
さっきまで確実に地球の重力にいたことを体感できる浮遊感。

僕の隣には溢れる涙を堪えきれずに大泣きしている次女がいます。
その窓の向こうにはお世話になった青ヶ島のすべての子供たち。
暖かい笑顔で手を振る青ヶ島の人達が見えます。

さっきまでのお別れ会ではさっぱりとしていて、
涙一つ見せなかった小学4年生の次女。

親からみて、意外とドライなんだなぁ、
まあそれが次女らしいかと思っていたのが嘘のように、
ヘリのプロペラの轟音にかき消されながら八丈島に渡る約20分間、
彼女はずっと泣き続けていました。

八丈空港に降り立って、
「青ヶ島に帰りたい…」
そう言ってまた大泣きする次女を見て、僕も目頭が熱くなります。

人生において、出逢いというかけがえのない宝物を頂けたんだなと思いました。
心から青ヶ島の皆さんに感謝します。


■小学4年生の次女は1月中旬から2月中旬にかけて、
伊豆諸島の青ヶ島にお邪魔させてもらいました。
人口450人の母島から、人口170人の青ヶ島へ。

10歳で親元を離れて、1ヶ月間違う土地で生活し、学校に通う。
彼女がそれにチャレンジすることを決めて、早急に準備を進めました。

人見知り、場所見知りをする次女にとって、もの凄い挑戦だと思います。
そして青ヶ島にとって他の島の子どもが1か月滞在し、
学校に通うということは前代未聞のことだったようで、
本当に多くの方々に事前の調整をお願いすることになりました。
慣れない手続きで本当に大変だったと思います。
快く対応してくれて、本当に有難かったです。

そして、10歳の子どもを1か月間もホームステイを受け入れてくれるファミリーがあって、
受け入れてくれる青ヶ島の学校、地域、役場の皆さんの協力があって初めて実現したものでした。

事前に下見というか、2年前に妻が1週間お邪魔し、
青ヶ島を知り、とても気に入ったのも、
このチャレンジを実現するのに大きな意味をもたらしました。

青ヶ島の小学校の最後の授業、お別れ会で、
ヘリポートでみんなが歌ってくれた青ヶ島の見送りの歌「旅ゆく君へ」。

その傍らで僕は聞いていると、みんなが本当に大事に次女に接してくれていて、
本当に愛されていたのだなぁとひしひしと伝わってきました。

それが本当に有り難くて、僕自身も涙を堪えることはできませんでした。
母島に帰ってきた今も、この曲を聴くと、涙が溢れてきます。
あの時の情景が浮かんできてしまいます。
本当にありがとうございます♪


■遡る事、今から1ヶ月前、
1月中旬のおがさわら丸が3週間のドック入りするタイミングで妻と次女が母島を発ち、
青ヶ島に向かいました。

海が時化る冬の大海原。
おがさわら丸はなんと3時間遅れになるほどの大荒れでした。

青ヶ島に渡るには、一度八丈島に渡る必要があります。

しかし、竹芝桟橋から八丈島に向かう橘丸はなんと
2晩連続で条件付き運行(船は運航するが、港に接岸できずに折り返す可能性がある運行)でした。

簡単に渡れる空路ではなく(チケットは争奪戦ですがw)、
敢えて大海原を船で渡って青ヶ島の遠さを知って欲しいという願いから、
妻は海の道にこだわりました。

しかし、冬の海は困難を極め、2晩とも橘丸は八丈島に接岸できず、
残念ながら竹芝桟橋に戻ってしまいました。

3時間もかかったははじま丸、27時間の大揺れのおがさわら丸、2晩続けて乗り続けた橘丸。
次女と妻が乗った船旅はなんと60時間を超えるまでになってしまいました((+_+))

このまま頑張ることもできたのですが、
電話で聞こえる声からは母子共に疲労困憊は否めませんでした。

僕は母島から羽田→八丈島のフライトを勧め、
最後は空の便を使いました。

あれだけ困難を極めた八丈入りですが、
拍子抜けするほど無事にあっという間に八丈島にたどり着きました(笑)。

八丈島にたどり着いて、友人の家から送られてきた妻と次女の写真は、
とてもリラックスした顔で、心底ホッとしたのを覚えています。


■揺れることのない八丈島で1泊、骨を休め、いよいよ翌日は青ヶ島です。
八丈島→青ヶ島もできる限り船で渡りたい!
そう願う妻の想いが伝わったのか、
1週間欠航を続けていたあおがしま丸は、翌日運行する事ができました。

次女にとっての初めてのあおがしま丸は、
意外にもははじま丸と同じ顔ぶれの船員さんたちがいました(笑)。

そう、ははじま丸と同じ伊豆諸島開発(株)が運行しているのです。
船員さんたちが「クジラでも見に来たの?」と声をかけてくれたそうです。

そんな報告も、どこか僕をホッとさせてくれました。

まずは辿り着くだけでもこんなに困難を極めました。

航空路こそありませんが、
年間の就航率が90%を超える小笠原の航路に比べて、
青ヶ島のあおがしま丸の就航率は50%。

海の悪い冬だと、週に1度接岸できればいい方だそうです。
小笠原は元々週に1度のアクセスですが、台風がない限りは欠航はありません。
青ヶ島はなかなか予定通りにいかない船と、チケットが取りにくいヘリのみのアクセスの島。
その点が、大きく違う部分と思います。

そんな青ヶ島で、一体どんな新生活が待っているのか?
これから次女は生活する舞台も変わり、
青ヶ島小学校生活がスタートします。

その②へ続く→