小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

故郷・仙台を訪ねて ~被災地をやっと訪れました

2014年06月14日 | 東日本大震災
■先月、久々に故郷・仙台に行くことができました。
母がカナダで他界した2008年に訪れた以来なので実に6年振りです。

こうして仙台駅を眺めるのも久しぶりで変わらない佇まいはやはり嬉しいものでした。

僕の生まれ育ったのは仙台市若林区。
2011年の東日本大震災では津波が襲った地域として大々的に報道されたので、若林区を耳にした方も多いでしょう。
僕の育った地域は海からは離れていて無事でしたが、近くの高速道路(有料道路)の土台まで津波が上がって来ていてとても衝撃的でした。

原発事故もあり、なかなか家族で訪れる機会はありませんでしたが、
今回は長女を信州の山村留学させた迎えに行くついでに単身で仙台を訪れることができました。

懐かしい友人や恩師、親族に会えたことは何より嬉しい事でしたが、
自分が幼いころに遊んだ荒浜や閖上が見る影もなくなっていることに唖然としました。
親族に津波の地域を見に連れて行ってもらいました。

商店や住宅が並んでいたところはこうして家の基礎だけが残り、ひたすら荒野が広がっています。


1階部分は津波に襲われ、2階だけ無事に残っています。
多くの建物や瓦礫が解体され、片付いてる中、今もなおこうして残っているのは家族や関係者が全員津波で亡くなり、片づけの声かけすらできない所が残っていると聞き、返す言葉がありませんでした。


高校生の頃、バイクを飛ばした日本一低い・標高3mの山「日和山」。
以前の面影もなく、一時は津波と地盤沈下で焼失したと言われていましたが、その名残はありました。

寒い風が吹く荒野の中で、一人の老人が小さな畑を世話していました。
この老人の家があったのだろうと思いましたが、その家族の存在がとても気にかかりました。

よく釣りに遊びに行った閖上も同様に荒野と化していました。
震災後の片付け業者のダンプが何台も通り過ぎます。
歩道橋と橋が残っていなければここが閖上であることもわからないほど、並んでいた商店も民家も何もかもが無くなっていました。

津波の爪痕を見て、被害がショックどころか、
景色自体が変わり過ぎていて、元が分からないことがショックでした。
幼いころ遊んだあの地域、声をかけてくれた店先のおばちゃんは今…

そして、今はこの津波の地域は家が建てれなくなっていて、ひたすら土建の業者が動く荒野と化しています。
自然の力の猛威をここまで肌で感じるのは貴重な体験でした。
今後、この地域はどうなっていくのでしょう。

代々、人は海辺や川辺の平地に栄えて暮らしてきました。
しかし、それは長い年月の中、多くの災害に見舞われたことと思います。
それを乗り越えて今日の私たちが在るのです。

一言に「復興!」と言い切れない難しさを感じました。
写真やテレビでは伝わらない、被災した荒野が放つ圧倒的な空気感を感じることができました。

忙しい中、わざわざ車を出して辛い現場を見せに行ってくれた親族に感謝します。

その日の晩は工業高校時代の同級生と恩師に会うことができました。

それぞれ、みんな元気な顔が見れて本当に嬉しかったです!
貴重な話もできたし、僕の人生観の根本となるものを築いてくれ、こうして集まってくれた恩師たちに感謝感激です!
わざわざありがとうございましたm(__)m


■仙台に滞在中の2泊、結局朝は3時に目が覚めてしまうので子供の頃親しんだ広瀬川周辺を散策することにしました。
4月の信州の際、とにかく靴を履くのが嫌になりサンダルで乗り切れたので、温かい5月の仙台、サンダル(ぎょさん)で闊歩しました(笑)。

冷たい川にも入れて、とても気持ちが良かったのですが、仙台の人は誰もそんな人はいませんでした(笑)。
じろじろ変な目で見るのもわかります(*^。^*)
でもやっぱり裸足は気持ち良かったです♪


小学生の頃に一番遊んだ広瀬川の宮沢橋周辺です。


子供の頃よく遊んだ遊具が色までそのままでビックリしました!
そのままというのもほんと嬉しいですが、凄い事のように思います。

母島でも出会えるカモやセグロカモメ、ハクセキレイなどの野鳥にも会えて、なんだかホッとしました♪


しかし、子供の頃よくもぐりこんで遊んだ水門や関は立ち入り禁止となっていました。
今考えると確かに子供は危ないエリアかもしれません。

でもそんなエリアで自由に遊んでいたことは今もなお覚えていて、
魚やエビを獲ったり、探検したり、秘密基地を作ったりと思う存分遊びました。
そうしたドキドキした場所が当たり前に立ち入り禁止になっていて(今回は大人の責任で侵入しちゃいました!)、
子供の遊び場がどんどんなくなっているんだなと感じました。

危険と隣り合わせな分、責任問題で現代では仕方のないことかもしれませんが、
どこか矛盾した淋しさを感じられずにはいられませんでした。

その良く遊んだ川から分かれて、六郷や七郷の田んぼに向けて水路となる堀が始まっています。


舟丁まで来ると、有名な駄菓子屋さんの「石橋屋」が今も変わらず商っていました。

この時点でまだ朝7時なので営業はしていませんでしたが(笑)。


幼少の頃、姉と良く遊びに行った神社が「愛染神社」という名前であることを初めて知りました。
考えてみると、僕の育った地域は面白い名前の地域が今も残っています。
・南材木町
・畳屋丁
・南染師町
・南鍛冶町
・穀町
・新弓ノ町
・南石切町
・河原町
・元茶畑
・舟丁
などです。
祖母に聞くと、この職業がわかる細かい地名は、地域の人が意識して残したそうです。
僕はこの風情のある地名がとても好きです。

6年ぶりに祖父母や姉夫婦、従妹親族にも会うことができました♪

みんな元気で何よりでした☆

夜は平日にもかかわらず中学時代に仲の良かった友人が集まってプチ同窓会となりました♪

みんな家族ができたり、そのままだったり色々変化はありますが、根本的に誰も変わっていないことにみんなで笑いました(^O^)
何でもない他愛もないおしゃべりですが、あっという間に時間が過ぎていきます。

前回は母の危篤後の仙台だったのでそんなにみんなに会うことができなかったので、
それこそ10年以上ぶりの再会でした☆
一緒にバンドやったり、放課後ずっとくだらない話をしたりしていた仲間に会えてとても嬉しくて楽しい夜が過ごせました。
みんなそれぞれが今を一生懸命生きているのがとても伝わってきました。
わざわざ来てくれて本当にありがとう!


そんなこんなで懐かしくて嬉しいが、どこか複雑な6年ぶりの仙台となりました。
久々に訪れて、仙台が初めて好きになりました♪(以前は寒くて閉鎖的で苦手でした)w
また次訪れるのはいつになるか分かりませんが、いつかは家族を連れて訪れたいと思っています。
そんな極めて個人的な仙台滞在期でした♪