小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

硫黄島訪島記⑦ ~硫黄島の生き物たち

2016年07月30日 | 硫黄島
■もう長らく続いています硫黄島シリーズ(笑)。
一生に一度の事であろうと思うのと、
やはりそれ以上に圧倒的な戦争の爪痕と自然の美しさが今も忘れられません。

今回はようやく好きな分野の生物に行きたいと思います。

最後の突撃壕への道の上空を何度も飛び交う美しい白い鳥。

シロアジサシのペアでした。

最後の突撃の時期は島の春です。
その時はどんな渡り鳥が硫黄島の空を飛んでいたのでしょう。

亜種でもあるイオウトウメジロの他にはオガサワラヒヨドリも見かけました♪


すり鉢山の山頂にいた時はなんとアカオネッタイチョウが飛んでいました!

その名の通り、長くて赤い尾羽が特徴的な海鳥です。
日本では北硫黄島、南硫黄島、西ノ島、南鳥島、仲ノ神島で営巣が確認されています。
繁殖地でもある南硫黄島に向かっているように見えました。

ふと足元を見ると、立派なマメ科の植物がありました。


とても少ないですが、小笠原固有種で「村の木」にも指定されているタコノキもありました。

これは根っこの一部が地上に露出していて、タコの足のように見えるから付いた名前です♪
沖縄のアダンとは親戚関係みたいなものですね☆

■硫黄島には危険な生き物もいます。

硫黄島と言えばサソリというほど有名なマダラサソリ。

小さめで体長は5cmくらいでしょうか。
3回ほど遭遇しました。
意外とゲジゲジの様に足が速くてビックリしました(笑)。
毒はミツバチ程度とされていて、人を指すことは滅多にないそうです。

人を指すと言えば、このナンヨウチビアシナガバチ。

硫黄島で仕事をしていた友人に「すごく刺されると痛いから気を付けて!」と言われて、恐れていました。
この蜂は米軍の物資にまぎれて1980年代に入り込んだと言われています。
小笠原諸島に分布が拡大した場合、
在来種の昆虫に悪影響を与える恐れがあるめ、外来生物法によって要注意外来生物に指定されています。

もう一種人に影響を与えて、要注意なのがアカカミアリです。

これは別名火蟻(ヒアリ)とも呼ばれ、噛まれると腫れて大変らしく、
その為に僕はぎょさんではなく靴で行きました。
刺されると、アルカロイド系の毒によって非常に激しい痛みを覚え、水疱状に腫れるとか。
これも米軍の物資に紛れて移入し、硫黄島の優占種となっています。

そして大ムカデ。
体長は30cm位もありました。

森の中や壕の中で何度も遭遇しました。
壕の中で潜んでいて、噛まれた兵士さんもきっといたことと思います。

ヤスデも大きかったですが、特に人畜無害な感じがしました。



■米軍のお土産として今や硫黄島の多くの2次林を覆い尽くしているギンネム。

戦争中に島中が爆撃に遭い、無くなってしまった元の植生は戻ることはないでしょう。

ある鳥類学者さんが行ってましたが、
「戦争は究極の自然破壊である」と言っていました。

戦争は人の心のゆとりを無くし、
他の生き物に対して寛大な気持ちを無くし、
保護よりも自分たちの命が優先になるからだと。

そして、平和を維持し、目指すのであれば、
まずは己の周囲(友人や家庭)から平和を築きあげれば、
いずれみんな平和になれると信じていると語っていました。


硫黄島に来て、こんなに変わってしまった自然の中に儚く生きる命を見て、
戦争をしない世の中を作っていかなければと強く思いなおしました。


足元には小さな可憐な花。
きっと昔の島の子どもも花を摘んで遊んでいたことと思います。

■そして硫黄島を周っているとよく目についたのがリュウゼツランの花茎です。

ちょうど花期にあたり、見事な群生を見せてくれました。

リュウゼツランの花の蜜は鳥たちも大好きですが、
小笠原諸島唯一の在来哺乳類のオガサワラオオコウモリも大好物です。

自衛隊の方にオオコウモリを見るかと聞いてみると、
夕方によく見かけるとのことでした。

船から海を望めば、クロアジサシも飛んでいました。


硫黄島の到着の朝にはアカアシカツオドリの幼鳥も迎えてくれました。

船から見える海鳥の数がとても多い!ということは…
魚影がとても濃いことを指しています。
海が豊かな証拠です。

すり鉢山を背景になんて美しい所だなと心底思いました。

何度も言ってしまいますが、
こんなにも美しい島に暮らす人たちを強制疎開させ、
島の暮らしと自然を破壊した戦争という行為。

もう二度とこんな過ちを起こさぬようにしていかなければなりません。

本日は母島は東京知事選挙の投票日です。
(一般は明日の7/31が投票日です☆)

硫黄島の遺骨収集も国や都が大きく関わっています。

僕は三宅洋平さんほどガツンと支持したい候補者がいないのが現実ですが、
都政をこの人に託したいと思う人に投票したいと思います。

戦争も原発もいらない世界に一日でも早く近づけますよう、
東京のみなさんもぜひ投票に行って下さい!

訪島記⑧に続く



夏休み2016 子供には旅をさせよう♪

2016年07月23日 | 母島 暮らし 子供
■ついに夏休みがスタートしました!
なんと妻と子ども達は夏休み開始と同時に内地に上京…
というわけで、僕は8月中旬まで母島でひとりでお留守番です。

自由を満喫し、楽しむつもりですが、
家にひとりはやっぱり寂しいものです(笑)。
みんなが遊ぶ分、精一杯働かなくてはっ!!

ローゼルもこんなに大きく育ってくれています。
頑張るぞ~!!
勿論、毎日海で泳ぐことはしていますが(*^。^*)


家族出発後、家に帰ってみると玄関の外に長女がイラストを描いてくれました♪
毎朝、仕事に行くときに嬉しくなります♡

長女はこの夏、すごい冒険が待っています。
今までも、山村留学や旅行、遠征はしていましたが、
この夏はとびっきりの大冒険を控えています♡


次女も小学生になり、乗船名簿も覚えたての字で自分で書きました。

次女は保育園の頃から「はやく字をよめるようになりたい。かけるようになりたい」
とずっと言っていました。

小学校に入学し、字を学べるのが本当に嬉しそうでした♪


■せっかくなので、家族が母島にいた頃を振り返ろうと思います(笑)。

1学期最後の日の午後は次女と脇浜に泳ぎに行きました。
これでしばらく美しい海ともお別れです☆


小さなカニを捕まえては、遊びます。

島は本土に比べて昆虫がとても少ないです。
子どもの頃昆虫で遊びまくった身としては、少し淋しい感があります。
しかし、海は生き物豊富です♡

カツオドリは優雅に舞います♪

泳ぎが日々進化する今年の次女の目標は潜って、海底に隠れているエイを驚かせること!

シュノーケルにも慣れ、すっかり島っ子魂ばく進中です!


もう2mは潜れるようになりました☆


夏の終わりの頃、またどこまで進化しているか楽しみです♪


夕日をバックに姉妹のシルエットを撮ってみました。
う~ん、シルエットでも結構分かるもんです(笑)。
さあ、どっちがどっちでしょうか?







硫黄島訪島記⑥ ~硫黄島の暮らし

2016年07月15日 | 硫黄島
■たった1泊2日の滞在だったのにあまりに思うことが多過ぎた硫黄島。
今回は硫黄島の暮らしに標準を定めていきたいと思います。

硫黄島は行ってみて、その大地に立ってみると、
そこが戦争さえなければ楽園であったと容易に想像ができる場所でした。

美しい花。
平坦な地形。
温暖な気候。
夜露のみで作物は育つ風土。
火山灰質の扱いやすい土。
魚影の濃さ。

たった2日間の滞在でしたが、それを感じるには十分な島でした。
戦争というもっとも愚かな行為をこんなにも悲しく感じる場所もなかなかないと思いました。

あんなに楽園であったであろう硫黄島ですが、
その頃の面影はほとんど残っていないのです!!

道路やダートの周囲のほとんどはギンネムやシマグワの雑木林でした。

ですが、僅かに残っている作物(パイナップルやレモングラス等)が、
旧島民の集落跡に残っており、
訪れた遺族や旧島民の皆さんは、それらを収穫していました。

藪の中から嬉しそうにパイナップルを持って出てきた姿を見て、
まだ戦後が終わっていないことを痛感しました。

戦前は良質な硫黄の採掘はもちろん、
他には製糖、レモングラス栽培で油を摂ったり、
パイナップル等の熱帯果実や綿花も有名だったようです。

もちろん飲み水や生活用水に苦労することはあったようですが、
それ以外は本当に住みやすい島だったようです。


■そんなかすかな戦前の爪痕をお伝えして行ければと思います。

至る所に戦前に製糖が盛んな時期に栽培されたサトウキビが残っていました。


硫黄島トウガラシも発見しました!

小さいながらも旨味も辛味もある、妻が大好きなトウガラシが自生していました。

また、パッションフルーツの原種!?、仲間でもあるクサトケイソウが実っていました。


試しに実を割ってみると、白いパッション!

味はほんのり甘くないパッションでした♪


花もまさにパッションフルーツでした!


これは硫黄島神社です。

戦前に建てられましたが、戦争で破壊されたために、戦後に建て直されたそうです。


鳥居の奥には小さな祠がありました。

とある場所には貯水槽がありました。

船の中でお話しできた旧島民の方によると、
米軍や日本軍は水道管を引いて水道を作ろうとしたけど、
熱くて飲めず、
硫黄島では雨水を貯める貯水槽が大事なんだと言っていました。

コンクリートの貯水槽の水は冷たく、フタをすればボウフラもわかず、
有効利用できたと言っていました。

雨水を有効に貯める為に屋根はシュロ葺き屋根からみんなトタンに変わっていったそうです。
壕を掘っている兵士たちも、雨の時は作業を止めて、
全員で器を持って水を集めたというから、
水の切実さが伝わりますね。
(兵隊は2万人以上いたので、圧倒的に足りなかった様です)


■硫黄島の名の通り、至る所で硫黄の匂いがして、
噴煙を上げている箇所がありました。

今もなお蒸気が立ち上り、海上からも観察できます。


絶えずずっと蒸気を出しています。
この熱気で卵やイモを蒸して食べていたそうです。

ここは「硫黄ヶ丘」という、硫黄成分と熱で全く植物が生えていない荒野でした。



■硫黄島の玄関口のすぐそばにはガソリン給油施設がありました。

硫黄島は現在も隆起が続いていて、地殻変動が激しいので、
給油施設とタンクを結ぶパイプラインがよく破損してしまうそうです。

道のりが面白いように凸凹していたのも頷けます。


硫黄島からは南硫黄島が望めました。
東京島嶼最高峰の高さを誇る南硫黄島の山がそびえていました。

きっと戦前も戦闘中も変わらず見える風景の一つなのではないでしょうか。


一直線の道ばかりが島の周囲を走っています。
戦前の景色を一度は見てみたかったです。

ほとんど戦前の名残りが残っていないのがとても切ない硫黄島。
そのわずかな戦前の暮らしを垣間見ると、
それらを失わせた戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。

訪島記⑦に続く

硫黄島訪島記⑤ ~訪島事業を支える人々と自衛隊

2016年07月07日 | 硫黄島
■硫黄島訪島事業は多くの方に支えられていました。
おがさわら丸、食事を作る人、
自衛隊、通船の作業員、
その他多くの人が関わって初めて私たちが安全に硫黄島に上陸できました。

今回はそんなかけがえのない皆さんを紹介していきたいと思います。


■まずは通船作業を行う、小笠原建設の皆さんです。

隆起の激しい硫黄島はなかなか大きな船を着ける桟橋が作れません。
なので、おがさわら丸から小さな船に乗り換えて上陸をします。


硫黄島に着いたらまずその子船群が降ろされます。

まずはおがさわら丸のロープをブイに付けるところから活躍してくれていました。


半身海に浸かりながらも、懸命に係留ロープを繋いでくれていました。


その後は浮き島から小舟に乗り換えて行きます。


海況次第ですが、桟橋と砂浜上陸の2通りがある様です。

どちらも乗客が濡れないようにとても気を遣ってくれていました。


黒い砂浜に長く伸びる足場。
硫黄島ならではの光景ではないでしょうか。


何度も何度も往復します。


そして無事に上陸することができました!

年によっては悪天候で上陸できず、
洋上慰霊祭だったり、
2日間上陸のうち1日だけ上陸のことも過去にあったそうです。

小笠原建設の皆さん、どうもありがとうございました!


■次は自衛隊がマイクロバスを持って来てくれていて、
そちらに乗り込みます。

硫黄島にはこうした受け入れ用に5台以上のマイクロバスが準備されていました。


まず待ち受けていたのは自衛隊の歓迎の阿波踊りとエイサー集団でした!

これを通船している1時間以上ずっと炎天下の中踊ってくれていたのです!!!
本当にありがとうございます!

硫黄島に到着して2日目は自衛隊の施設を見学させて頂きました。

硫黄島は立派な滑走路があるので、色んな意味で重要です。
戦時中に、最前線基地として狙われたのもうなずけます。


見学中には大きな輸送機が着陸、離陸しました。

だいたい週3回来るそうです。


同じ島なのに地平線が見える硫黄島。
人が暮らすのに平らであることほど楽なものはないのではと思ってしまいます。


その他には父島の夜間や母島の緊急搬送用のヘリが待機していました。

島の島民の命を支える、とても有難い存在です。

コクピットに載せてもらい、少しハンドルを動かさせてもらいました♡


少し近くには管制塔があり、
離陸、着陸の際の状況やコースを制御する部屋がありました。


部屋を出てすぐのレーダーで島の周囲の状況をサーチし、
操縦の誘導やパイロットに指示を出すそうです。


飛行場で何らかの火事が発生しても、頼れる消防署はありません。
自前で何機も消防車が待機していました。
放水もみんなにさせてくれていました(*^。^*)


■「厚生館」という所には、硫黄島唯一の売店がありました。

硫黄島のお土産はここでしか買えません。

しかし、今回は数日前に米軍が来ていて、
ほとんどのお土産が買われてしまい、売り切れ続出でした(笑)。

土産物以外は一般雑貨が売られていました。


船に戻ってからのおつまみを買おうとした人は
「お土産以外は買わないで下さい」
と注意をうけていました(笑)。

結構色々置いていました。


入口に書かれた看板がなかなか特徴的でした。

やはり限りある品物なので注意書きが独特です。

服装や履物、飲み物の本数制限がありました。

基本的に普段は週に一度、金曜日の夕方1時間のみ営業しているそうです。


自販機は中身ゼロ!


値段はなんと…!!

懐かしの1コインの値段でした。


帰りにはまたエイサーと阿波踊りで見送ってくれました。


海岸では釣竿を使っての見送り凧揚げが行われていました。

大きな凧が硫黄島の美しい空を飛んでいます。

この美しい空も、かつては戦闘機が埋め尽くし、
空襲の嵐だったのです。


最後に丸1日島を案内してくれた自衛隊の隊員の方にお礼をして、島を後にしました。

島を離れる際には通船で使ったボートもおがさわら丸に載せます。


こうして硫黄島訪島事業は多くの人に支えられて、
今年も無事に終えることができました。

本当にありがとうございました!

訪島記⑥に続く



ははじま丸の交代式 2016.07.01

2016年07月02日 | 母島 船舶
■「ありがとう~!」「元気でね~!」「寂しいよ~!!」
子供達の素直な声が響き渡ります。

目から涙を流している人もいます。


Photo by MISA.M
2016年7月1日は「ははじま丸」の交代式でした。
25年間という長い期間、
述べ47万人の人を運んだははじま丸。

この日、新しいははじま丸と交替し、
父島~母島航路を引退しました。

左が旧ははじま丸、右が新ははじま丸です。

朝は雨が降り、心配した交代式でしたが、
いざ予定の時刻になってみれば素晴らしい天候に恵まれました!

本来は父島で交代し、
母島に初就航する予定だったようですが、
「母島のための船だから、母島で交代式をして欲しい!」
との声に応えてくれて、母島で実現した経緯があります♪
ありがとうございます!!


小学生が船員さん達に花束を贈呈し、

中学生がレイを贈ります。


最後はみんなで記念撮影。


雨の日も風の日も安全に運航してくれました。
冬の海の悪い時期に乗り、下の2等船室は泣き叫びながらも吐く子供達の阿鼻叫喚の状態の時もありました。

14年前、母島のユースで働くために初めて乗ったのがこの船でした。

それから一体何度お世話になったか分からないほどです。

子供を上のデッキで抱きながら
海鳥を見たり、
イルカやクジラを見たり、
色んな思い出が詰まった船でもあります。


沢山のテープを切りながら離れていくははじま丸。

長い長い汽笛を鳴らすと、
それに応えるかのように新ははじま丸が長い汽笛を鳴らします。
その汽笛の音で「最後なんだな」と分かり、グッときてしまいました。

「ありがとう~~!」
「元気でね~~!!!」
涙ぐむ人の姿も見えました。

次女(小1)は淋しくて大号泣でした。←予想外
その後、夜まではは丸の絵葉書を見ては、
なんども泣く始末。

まさかそんなに思い入れがあったとは!

考えてみれば、
子供にとっても何度も見送りをした、
何度も乗った
思い出深い船だったのですね♪

旧ははじま丸はまずはそのまま静岡のドックに入り、
船員さんは休暇となるそうです。

本当にお疲れ様でした!

その後はソロモン諸島で第二の人生を送るそうです。
25年間、本当にどうもありがとうございました!