小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

当たり前の日常の有難み

2016年06月30日 | 母島 農 日記
■玉砕の島、硫黄島から帰って来て早2週間が経ちました。
秋に出荷予定のローゼルもだいぶしっかりとした樹になってきました。

最近は雨が全然降らないので、
土壌の乾燥防止と生物多様性維持の為にしっかり青草でマルチをします。

今年はラニーニャの影響か、
まだ台風が発生しておらず、比較的穏やかです。
これからの台風が心配です。
今のところ、渇水の心配はしばらくは大丈夫なようです。

仕事ではガイドブックに載っていない海岸に行ったりしました。

谷間にそびえる1本のタコノキを超えて…

雄さん海岸です。

ここの地名の由来にもなった「雄さん」は実在の人物で、
父島でそのお孫さんにお会いしたことがあります。
なんでも最初は「雄ちゃん海岸」だったけど、年を取ってさん付けに変わったとか(笑)。

人があまり来ない海岸だからか、
オオイワガニもあまり逃げません。


美しい海中には逃げないお魚もいます。


南崎のはずれにある唐茄子海岸にも行きました。
沖ではハシナガイルカが大群で泳ぎ、時折見事なジャンプを魅せてくれました。


戦争の爪痕を肌で感じた後に、
この自然の美しさに触れていると、
人の行いの愚かさに切なくなってきてしまいます。

今度の7/10の参議院選挙は改憲かどうかの選挙でもあると言えます。
僕は三宅洋平さんを応援しています。
彼の演説はとてもカッコいいと感じます。
だれもが良く考えて一番いい人と思う人に投票してもらえればと思います。



■夕方には次女と秘密のテトラポット遊び☆


天気のお休みにはもちろん海に入ってばかりですヽ(^o^)丿


美しい島の景色を見ていると、
この世は実は夢なのではないかと思ってしまうほどです。


御幸之浜展望台で、
とても美しい満月を見ることができました♪

娘はそんな景色は当たり前らしく、
リュウゼツランの花にくるネズミを見たり、足元ばかり観察していました(笑)。

僕「きっと島を出て大人になったら、この景色の良さが分かるよ~」
次女「ふ~ん。あっそう!そうですね~w!!」
…どうなることやら…(笑)。

家族とこうして平和に暮らせる有難みをヒシヒシと感じます♪
返還祭もとっても楽しんだようです☆

長女たち中学生のダンスも凄かった!!
やっぱ島のお祭りは最高ですヽ(^o^)丿

明日は「ははじま丸」が新旧交代する日です。
この写真は試験航海で母島に来ていた新ははじま丸です。

新しいははじま丸は色々スペースも増えて、乗るのが楽しみです♪

でっかいのどち○こがチャームポイントですね☆

硫黄島訪島記④ ~戦没者慰霊祭と慰霊碑

2016年06月21日 | 硫黄島
■激戦の地、硫黄島では太平洋戦争時に日米合わせて2万人を超える戦死者を出しています。
そして1万柱を超えるご遺骨が今も硫黄島で眠ったままだそうです。

年に一度、硫黄島訪島事業で戦没者慰霊祭が
「硫黄島旧島民平和記念墓地公園」で執り行われました。


まずは村長の式辞から始まります。


そして平和の鐘を鳴らし、全員で黙祷します。

微かな硫黄の匂いがする海風を感じながら、
戦闘時の心境を想い、
無念にも散った兵士の皆さんの魂に黙祷を捧げる。

爆撃で轟音が轟く戦場だった硫黄島も、
今は鳥がさえずる静かな島になっています。
黙祷を捧げながら、色んな感情が込みあげて来ました。

そして、
小笠原村村議会議長、
硫黄島旧島民代表
硫黄島戦没者遺族代表、
が追悼の言葉を述べました。

「硫黄島に帰ってくるまで、
最後のご遺骨を見付けるまで、
私達の戦後は終わらない」
そんな感情が伝わってくる言葉でした。

その後はその場にいる全員が献花を行いました。

少しでも安らかに眠ってくれることを祈り、
今平和に生きれることを感謝し、
これからの未来に平和を築くことを約束して、1本1本、花を添えました。


そして、
小笠原中学2年生、母島中学2年生が
これからの未来を生きる身として、「誓いの言葉」
を述べました。

硫黄島で亡くなった兵士、
島に帰れない旧島民に思いを馳せて、
その気持ちを忘れずに、
これからを生きていくという、
素晴らしいスピーチだったと思います。

手には子供達の手で折られたものでしょうか、美しい千羽鶴が供えられました。

私の子供達も中2になったらこの地で、
慰霊祭に参加するはずです。
どのような体験になり、
どんなおもいで過ごすのでしょうか…


最後に「故郷の廃家」を全員で献歌しました。

この歌は硫黄島でも少年兵たち(15~16歳)が壕の中から顔を出し、
夕陽を見ながら故郷を想い歌っていたそうです。
歌っていると本当に故郷を想う淋しい気持ちになってきます。

「故郷の廃家」
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく

昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や

作詞: 犬童球渓(いんどう・きゅうけい/1884 - 1943)
 ※1907年発表の日本の唱歌。
原曲:W.S.ヘイス作曲『My Dear Old Sunny Home』(1871年)


こうして、
硫黄島の旧島民の皆さん、
硫黄島で家族の命を失った遺族の皆さん、
私も含め、硫黄島訪島事業に参加した一般の村民の皆さん、
関係者の皆さんが追悼の意を表しました。



■この場所には硫黄島に住んでいて、
強制疎開で内地に渡らず、そのまま軍属(兵隊として戦うのではなく、軍の為に働く人の事)として島に残り、
そのまま亡くなった方全員の名前が祀られていました。

硫黄島で命を落とした82名の硫黄島島民軍属の島民の命を含む、
日本軍 20,129名
米軍 6,821名
という多くの方が硫黄島で命を落としました。

太平洋戦争の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死者+戦傷者)が
日本軍を上回った稀有な戦いだったそうです。

硫黄島上陸後わずか3日間で
対ドイツ戦における「史上最大の上陸作戦」と言われるノルマンディー上陸作戦
における戦死傷者数を上回るなど、
フィリピン・沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られています。


天皇陛下も来島したことがあり、
真偽は不明ですが、天皇陛下が硫黄島に参ってからは、
無念に散った兵士たちの心霊現象が格段に減ったと言います。


平和を願い、大きな記念碑もありました。

母島でもなかなかお目にかかれないほどの生き生きとしたプルメリアが
墓参に訪れた人たちの心を癒してくれていました。



■島全体が激戦の地となった硫黄島は各所に慰霊碑や地蔵が置かれています。

古山のあった天山には
大きな硫黄島戦没者の碑が祀られています。


周囲には壕もあり、

地蔵や慰霊碑が沢山祀られています。

参拝した私たちは
水が不足した硫黄島なので、
水に飢えて亡くなったであろうと察して、
多くの水をかけて参拝しました。


ここは鎮魂の丘です。
米軍上陸の浜の近くの南付近にあります。
すり鉢山を望むは水と花をイメージして作られていました。
天山の慰霊碑もそうですが、
多くの兵士が飲み水に飢えて亡くなったことから、
水が絶えず注がれている慰霊碑が建てられています。


すり鉢山山頂にも慰霊碑があります。

本当に多くの命がここで失われたのです。


一方米軍の方は、星条旗を立てた場所に記念碑が建てられていました。

有名な硫黄島山頂に星条旗を立てるあの写真が掘られていました。


アメリカにとっても硫黄島はとても特別な場所らしく、
毎年10万人近くのアメリカのご遺族や兵士が島を訪れ、

太平洋戦争で最も多くの犠牲となった戦友に向けて、
こうして自分の軍証などを置いていくそうです。


■硫黄島訪島事業の最後の夕方、
硫黄島を離れるときに島を一周し、

最後に長い、本当に長い汽笛を流しながら
みんなで一斉に洋上献花を行いました。


すり鉢山山頂では、
村役場の職員が日の丸と村旗を振ってくれていました。


この最後に硫黄島を離れるときの雰囲気は言葉にできません。
何とも言えない感情が自分の心を揺さぶりました。

こんなにも美しい島の暮らしを破壊した戦争。
今も眠るご遺骨。
本土に帰れたご遺骨。
同じ船に乗っているご遺族と旧島民。

ただただ圧倒されるばかりでした。


あまりに美しい硫黄島の夕暮れは、
こうして夜の帳の中に消えていきました。



映画や写真、映像で知っていた硫黄島。
しかし、実際にその地に立って空気を吸い、
壕の暑さを体感し、亡くなったその場所で祈っていると、
こうして硫黄島に来れて、
本当にいい体験だったと思います。

決して忘れることはないと思います。

本当に多くの人に来島してもらい、
戦争と平和について感じ、考えてもらいたいです。

小笠原に住んでいれば、
旧島民でも遺族でなくても来れる可能性はあります。
ぜひ1度は硫黄島に足を運んでみることをお勧めします。

訪島記⑤に続く

硫黄島訪島記③ ~戦跡パートⅡ

2016年06月19日 | 硫黄島
戦跡パートⅠの続き

■哀しいことに島全体が要塞化しているので、至る所に壕や大砲跡があります。

7.すり鉢山
標高約150m。
活発な火山活動のお蔭で標高は1年の間に数メートルも変わるそうです。
平らな硫黄島で唯一の山です。

硫黄島と言えば摺鉢山(すりばちやま)と言えるほど、
象徴的な山です。

米軍が最初に上陸してきた二ッ根浜から見上げると、
上陸の時の凄惨な情景が頭の中でよぎります。


山頂から見るとこのような大きな浜であることが分かります。
上陸作戦の上で、一度に多量の舞台の上陸を可能にする浜ですので、
日米ともにここから来ると確信できるに値する場所だった様です。


少し離れた場所からもすり鉢山はよく見え、
日本にとっても米軍にとっても、
そして戦前暮らしていた島民にとっても大切な山であったと感じます。

山頂から眺めると、
艦砲射撃で山の形が変わったという場所がよく分かりました。

この凹んだ部分が爆撃でえぐれた場所です。

爆撃の凄まじさが伺えます。

太平洋戦争中、日本軍はグアムなど他の島々で「水際作戦」という、
敵の上陸を阻止すべく、海岸で攻防を繰り返してきたそうですが、
米軍の圧倒的な火力と物量の多さに一瞬の全滅を繰り返してきたそうです。

硫黄島の兵団を率いた栗林中将は
過去のせん滅を教訓に、
硫黄島では水際作戦ではなく、
相手をできる限り上陸させてから一気に攻撃し、
その後は地下に潜んで長期的に戦闘を続ける戦法を選んだそうです。

それは自分が生きて本土に帰れない事を分かりつつも、
家族や友人のいる本土上陸を1日でも遅らせる算段だったようです。

結果、広島と長崎に原爆が落とされ、
多くの一般市民が亡くなり、
太平洋戦争は終結します。
きっと名将・栗林中将でもそこまでは読めなかったのではと多くの方が語っていました。


8.兵団司令部壕(栗林壕)
有名な栗林中将がここから兵団を指揮していたとされる壕です。

硫黄島の至る所にこのように場所の名前を記された碑が設置されています。

入口には観音様が祭られていました。

凄まじい戦闘だったと想像ができます。

階段を下りてすぐに屈まないと入れない狭い通路になります。
敵の侵入や火炎放射を防ぐために、
様々な工夫がされていました。


狭い通路を抜けて進むと、
水と共に栗林中将の写真が祭られていました。

部屋の上部には排気口があり、神棚が祀られています。

ここが栗林中将が指揮をしていた居室だそうです。

当時はここに机があり、執務にあたっていた場所そのものとのこと。

そんなに広くはなく、一部屋が4畳半より広いくらいで、
高さは2mもないほどの狭い部屋が奥まで続いていました。

さらに奥には広くて作戦会議に使っていた部屋もあるそうです。

当時の状況を想像するには十分すぎるほどの場所でした。


硫黄島の戦闘の貴重な実際の映像です。

9.医務科壕

いわゆる野戦病院となった壕です。

ここは陸軍の穴掘りの専門部隊が建造したらしく、
通路も部屋も広く、空気の流れを考えて作られていました。
沢山の道具も遺されていました。


これは鍋でしょうか?


硫黄島では何より貴重であった水はドラム缶に蓄えられていたそうです。

しかし、その水も飲むと硫黄臭く、
余計に喉が渇いたといいます。
それでも飲まずにはいられないほどの状況だったそうです。

この壕の奥でミイラが2体見つかった場所というのを案内されました。
そこはカメラが曇り、
眼鏡が曇って何も見えないほどの灼熱地獄でした。

具合悪い体で、
飲み水もなく、
苦しんで亡くなっていったのだと思います。

「英雄なき島/久山忍 著」という、
大曲覚氏(元海軍中尉)の証言によると、
壕の中は熱さと遺体の腐敗臭、糞尿の匂いが充満していて、
他の人をかばう気力もなく、死体はそのままだったと書いています。

この場所もとても悲惨な状況だったと書いています。

壕の中には大きなムカデもいました。


大きなハナダカクモもいました。

こんな中で戦闘で傷ついた人たちが収容されていたのかと思うと、
とても切なくなります。


場所によっては上部に排気口が開いていて、
そこ付近はとても涼しくなっていました。

硫黄島の壕は深い所では30m以上あり、
そこの暑さはサウナ以上だったといいます。
私が体験した場所はせいぜい50度くらいだったのでまだまだ暑い壕が沢山あるのだと想像できます。

島の壕の全長はなんと約17kmにも及ぶそうです。
それもほとんどがつるはしとスコップによる手掘りだったそうです。
重機はなく、陸軍は少しダイナマイトを使って掘っていたとのこと。

すり鉢山と島中央部の元山地区を地下で繋ぐ予定をしていたそうですが、
米軍上陸までに完成せず、それがすり鉢山が上陸後4日で没落してしまった背景だそうです。

もし地下で繋がっていたら水や兵器の補充が可能で、
栗林中将は10日は持ちこたえる計算だったと言います。

いずれにせよ、空襲と艦砲射撃の最中、ここまでの規模の壕を昼夜休まずに掘り続けた兵隊の労働の辛さは図り知れません。
しかし、自分たちの身も守る壕でもあったので必死だったと思います。
中年以降の兵士は壕作りでどんどん倒れていったと言います。
戦争というものが引き起こす悲劇に他なりません。


10.最後の突撃壕
硫黄島の兵団を率いた栗林中将が最後の突撃を行う時に
最後まで使っていた壕です。

入口付近には沢山のヘルメットが置かれていました。

内部は迷路のようになっていて、
左右には小さな部屋が作られています。

5日で攻略されると米軍が考えていた硫黄島ですが、
最終的には1か月かかったとされています。

太平洋戦争で唯一、
日本軍の死傷者よりも米軍の死傷者が多く、
今も伝説の戦場となっています。

日本ではあまり知られていませんが、
今もご遺骨が日米合わせて1万以上も埋まったままです。

遺族にとってももちろん、
私たちにとっても
戦後は終わっていないと強く思い知らされました。


11.高射砲
青空を見上げる高射砲です。

こちらは最近車で来れるように整備されたばかりだそうです。

2基、近い距離で並んでいました。
美しい硫黄島の景色と空に突然現れる高射砲の圧倒的な存在感。
こんなものを何基も設置する戦争というものの愚かさを垣間見ました。


12.捕虜収容所(米軍)
これは捕虜となった日本兵を収容していた米軍の施設だそうです。


島と思えないほど地平線が続く、空港周辺。
かつての電信柱が等間隔で残っていました。

風景も地平線が見える場所もあり、
ここは小笠原の島なのかと我が目を疑いました。



13.壁画

米軍がすり鉢山を占領し、
星条旗を上げた有名な写真を描いた壁画がありました。

ここにも沢山の弾痕がありました。

自衛隊の案内の方の話によると、
「英雄はこの者たちだけではない」とこの壁画に銃を撃った方もいたそうです。


英語や日本語で沢山の書き込みがされていました。
遺族や兵隊のものなのか、
来島者の落書きかは不明ですが、
心ない落書きでない事を祈ります。

太平洋戦争の硫黄島の戦闘当時、
アメリカではこれ以上兵士の犠牲が増えない様に、
戦争反対の世論も多く、
多くの兵器で経済的にも苦しく、
アメリカの上層部は国債を市民に買わせようと躍起だったようです。

しかし、この硫黄島のすり鉢山の写真で、
市民は興奮し、一気に戦争を進めれる雰囲気になったそうです。

戦争というのは単なる経済行為なのでしょうか?
多くの親や子供、家族が泣き、
生き残ってもその後遺症に悩まされます。

机上で作戦を立てる役人。
現場で命を懸ける命令された通りに動く兵隊。

いかなる場合でもこんな理不尽な戦争というものはあってはならないものだと強く思いました。
訪島記④に続く


参考までに人時通信の取材の映像も貼っておきますね。

硫黄島訪島記② ~戦跡パートⅠ

2016年06月17日 | 硫黄島
■小笠原に住んで14年。
初めて行った硫黄島。
沢山の事を体験することができました。
言葉では語りつくせないほどの経験でした。

その中でやはり一番印象に残っているのは生々しい戦跡の数々です。

父島や母島も戦争当時は島が要塞化され、
各地に壕や大砲跡が残ります。

空襲や病死、餓死で人が亡くなったといいます。

しかし、硫黄島は違います。
激しい地上戦となり、日米合わせて2万人以上の人が亡くなりました。
そして、今も1万の人のご遺骨が発見されず、埋まったままになっています。

そんな戦跡の数々をめぐる時、
彼らがどんな心境で戦争に駆り出されていたのか…
とても胸が苦しくなりました。

別名「パイプ山」と呼ばれるすり鉢山です。
この景色の広がる釜岩から訪島事業で上陸しました。

1.沈没船の跡

硫黄島訪島事業の玄関口、
釜岩でまず目に付くのは錆びた船体でした。

これは戦後、アメリカが港湾施設を建設しようと船を沈め、
そこにコンクリートで固めようとしたそうですが、
島の隆起が激しく、断念した後だそうです。

今も着実に隆起し続ける硫黄島を象徴するかのような景色です。


2.大阪山壕


ここは平らな硫黄島の中でも少し盛り上がった地形があるところです。
その為に壕や大砲が点在していました。

このアームストロング社製の大砲の横腹には
なんとアメリカの艦砲射撃の弾が刺さったままになっていました。

砲身から覗くと…

見事に貫通しています。
こんな弾が飛び交うのが戦争なのだと訴えている様に、
そのままでした。


近くにはコンクリート製の崩せかけた建物跡もありました。
爆撃でボロボロです。


美しい森を抜けると、


壕が点在しています。


中からは熱風が流れてきます。

硫黄島は火山活動の影響で、
常に地熱が高い所が多いのです。

そんな中、ずっと潜んでいたこと、
なによりこんな壕を沢山掘る労力を考えると言葉がでません…


平成24年度の遺骨収集で発見された遺品の数々です。


ここの壕の中はじっとり汗をかく程度の暑さでした。
その後に行く壕はあっという間に眼鏡が曇ってしまうほどでした。


壕を周る時、
慰霊碑を拝む時、
暑さに耐え、
水と空腹に飢えていった兵士の皆さんを弔い、
水とお米をお供えして周りました。


硫黄島は壁という壁すべてに弾痕があります。
悲しいことに弾痕がない岩はほとんどありません。

弾が刺さったままの箇所も多数ありました。
戦闘の激しさを物語っています。

3.釜場
兵士が食事を作っていた跡地です。

陸軍は基本的に材料を支給され、各自自炊。
海軍はまとめて作って、各自に配給する仕組みだったようです。
この玉名山にある釜場は海軍の204設営隊のものだったそうです。

煙は場所を敵に教えることになるので、
煙を出さない工夫がされていたそうです。

4.飛行機利用のトーチカ


これはなんと飛べなくなった飛行機を骨組みにしたトーチカです。
そのままコンクリートで固めて壕にしています。

中に入ると飛行機であることが分かりました。

近くには水平砲台もありました。
「摺鉢山14糎水平砲」と呼ばれています。摺鉢山の麓に設置されていました。

大きな弾が散乱していました。

米軍艦艇を砲撃したため、米軍の艦砲射撃と爆撃の標的にされ、
この砲を含め13門の火砲が破壊されたそうです。
砲台周辺には、およそ200名が埋葬されていることが判明し、その内152柱が収容されています。
また周辺の壕で有名な日本兵の遺した手紙が発見されたそうです。


5.米軍の戦跡
少し離れたところには米軍のシャーマン戦車が横たわっていました。

この圧倒的な存在感。

どんなに恐ろしいものだったのでしょう。
内部はぼろぼろでしたが、

戦後70年経った今も綺麗に形が残っていることから、
頑丈さが伝わってきます。


米軍の輸送機も羽と胴体が残されていました。
(船首部分は再利用の為に持って行かれたそうです)

内部も圧倒的な広さでした。
こんなものが多くの人と荷物を載せて空を飛ぶのが不思議でなりません。


これはB29のプロペラです。
人の身長より遥かに大きな代物でした。

6.その他
硫黄島のあちこちには今も弾が落ちていました。

地熱と硫黄成分で草木が育たない荒野の場所があり、
そこにただ弾が転がっている…

戦闘時、一体とんな情景だったのでしょうか…


ついこの間空港付近で掘り出されたばかりの機銃台。


上空を見上げたままの機銃台。


艦砲射撃の弾でしょうか?
とても大きな鉄の塊です。

そんな数々の戦跡を巡りました。
見れば見るほど気は重くなり、
戦争の凄まじさを肌で感じました。

亡くなった兵士の皆さんのご冥福を祈ります。


硫黄島の戦闘のドキュメント映像がありましたので、
良かったらご覧ください。

戦闘の凄まじさが伝わっていきます。

戦跡パートⅡに続きます。

硫黄島訪島記① ~はじめての硫黄島

2016年06月15日 | 硫黄島
■6月11日~6月14日、硫黄島訪島墓参に参加してきました!!
小笠原にに住んで14年。
初めて訪れた硫黄島でした。

下の写真は米軍が初めて上陸したという二ツ根浜です。

奥にはすり鉢山がそびえます。

今回は、
本や映像で見てもなかなか伝わることができない島の佇まいや雰囲気、
きっと戦前は本当に豊かな楽園だったと思わせる名残り、
硫黄の匂い、
壕の中の灼熱の熱気、

生々しい戦争の爪痕、
等を肌で感じる事が出来ました。
行ってみて、本当に良かったと感じます。



■こんな戦後70年経っても残る戦争の爪痕…
下の写真は米軍のシャーマン戦車の写真です。


今、こうして平和に暮らせているのは、
多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないと強く思ったと同時に、

これから二度とこのような
愚かで多くの哀しみを生み出す戦争と言うものをしない世界を築いていかなければと強く思わさせました。


すり鉢山を望む鎮魂の丘では献花を行い、
亡くなった兵士の皆さんに追悼のお祈りをします。



海岸の沈船の跡です。
これは米軍統治時代の遺物だそうです。


■父島と母島の中学二年生が学習に来ていました。
初めて訪れた硫黄島で何を感じたでしょうか?

旧島民、遺族の話を聞いて、これからの社会を担う彼らは何を感じれたでしょうか。

教科書では分からない多くのものを学べたのではないでしょうか?
本当に貴重な機会だったと思います。


慰霊祭にも参加して来ました。

■そして、無事3泊4日を経て、
多くの方々のお陰で無事に帰ってくることができました。
どうも有難うございました。


最後におがさわら丸は硫黄島を周って、献花を行いました。
最後の長い汽笛が脳裏から離れません。

無事に母島に帰って来て、
元気な家族の顔を見れて、
今こうして平和に暮らせていることの幸せを有難く感じました。

また少しずつ写真と
感じた事をアップしていきたいと思います!

パート②に続きます。







西之島クルーズに行ってきました!2016.05.31

2016年06月02日 | 世界自然遺産と自然
■久々にブログ記事を再開します!

なんと今、日本で一番新しい島「西ノ島」を見に行ってきました!!

正直、自分がここまで感動すると思っていませんでした(笑)。
写真ではなかなか表現できませんが、
その圧倒的な雰囲気が言葉にならないほどでした。

心配されていた天候も海況も問題なく、(父島母島は雷を伴う土砂降りだったそうです)
無事に行ってくることができました☆

初めて見る西之島は
地球の息吹を感じさせる佇まい、
生き物を寄せ付けない黒々とした躍動的な大地、
想像以上に美しい島のフォルムで、
僅かに残された、旧西之島は沢山の海鳥の楽園でした。

写真の中央左に写っているのはアオヅラカツオドリです☆


■西之島は海底の火山活動により生じたばかりの火山島。
つまり小笠原諸島の父島や母島と同じく、
大陸と陸続きになったことがない「海洋島」です。

海洋島では生物の行き来がとても少ない分、
固有の生態系が生まれやすいのです。

10年以上前は、島は800m×600m、標高25mの小さな島でした。
しかし、3年前に40年ぶりの噴火を起こし、1年半に渡り噴火を続けました。
そして今は1900m×1990m、標高142mの島に成長しました。

今から40年前にも噴火を起こした西之島。
流れ出た溶岩や噴石物で島はすべて覆い尽くされ、
一度は生き物のいない「無の世界」となりました。

そして、そこから島にどのように命が根付いていくのか。
それは小笠原諸島の大自然が一体どのようにできたかを示すことに他なりません。
西之島は私たちが住む小笠原の誕生のルーツを表す島だと確信しました。


上空から見た西之島
(2016.05.20 海上保安庁撮影 海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部より)

■企画された西ノ島クルーズ。
母島からは2泊の旅程で参加しなくてはなりません。

そのお陰か、今回も母島からの参加は10名程度。
僕は船に乗りたくない家族を母島に残し、単身で行ってきました(笑)。

でも本当に行った甲斐がありました!
生まれたばかりの島は雰囲気が半端なかったのです!

小雨降りの父島を離れ、一路西之島へ。
9時発で丁度お昼に到着の予定です。

その間、火山研究者と海鳥研究者の講演が船内で行われました。

事前にNHKスペシャルで放送されていたこともあり、
船内レンストランでのレクチャーは満員御礼でした!

これがまた面白い(笑)!!

そのほとんどが熱を帯びていて、
生き物がいない、生まれたばかりの大地です。

(2015.12 海上保安庁撮影 海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部より)

今、西ノ島は直径約2km。
主に安山岩で構成されているとのこと。
今も温度が高い部分があるが、活発な活動はもう終わりの段階との見方が強いようです。

そうこうしている間に12時を周り、
何もなかった海原に突然、西之島が顔を出します。


周囲の海は2000mの深さがあり、
突然の火山で隆起した西之島は最高の漁礁となり、
本当に多くの海鳥が集まって来ていました。

ここまでの大群のカツオドリを僕は初めてみました!!


船もコンテナを積んでいないので、
後部デッキも開放してくれました。


そこからみんなで西之島や貴重な海鳥を眺めます。

この写真は直径約2kmの西之島が分かりやすい構図かもしれませんね。


■2013年11月から開始された噴火で旧西ノ島のほとんどが呑み込まれてしまいました。
しかし、わずか1haだけ残った旧西ノ島の場所は海鳥の一大繁殖地として残っています。

写真の中央部分です。

海保の上空写真で見ると分かりやすいですね。
たったこれだけが奇跡的に残った旧西ノ島の部分です。

(2016.05.20 海上保安庁撮影 海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部より)


今の西之島で緑があり、生き物の気配があるのはここだけです。

そこの周辺で貴重な海鳥を沢山見ることができました!

まずはアオヅラカツオドリ!

国内では西之島と尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている貴重な存在です。

西之島の象徴のような海鳥ですね。

今回は幼鳥も確認することができました。

現在抱卵中の普通のカツオドリとは繁殖時期が少し違うようです。
これは限られた繁殖地を別種で使い分ける鳥達の知恵の様です。
譲り合いの精神ですね(笑)!

他の人が間違えて「青空カツオドリ」と言っていて、そっちの方が気に入ってしまいました(笑)。


こちらはオオアジサシ。

これもなんと国内では尖閣諸島と西之島でのみ繁殖が確認されています。
本当に大きくて美しいアジサシでした!

もちろん普通のカツオドリもたっくさんいました♪

途中、島の人に「普通のカツオドリはもういいから、他の種が来ないかな~」と言われていたのですが(笑)、
なんとその直後にトビウオを空中でキャッチしていて、歓声があがりました。
「あいつ、それを聞いて見せどころを作ったね~!!」
さすがです☆

他に撮影は出来ませんでしたが、
・アカアシカツオドリ
・クロアジサシ
・ヒメクロアジサシ
・クロウミツバメ(小笠原の固有の海鳥です!)
・アナドリ
・シロハラミスナギドリ
・オナガミズナギドリ
を確認することができました。

いつもは母島に不時着し、保護してばかりの海鳥なので、
こうして野生で飛んでいる姿を見れたのはとても嬉しかったです♪

■この火山活動が活発な西之島。
熱も火山灰も土石流も、危険がいっぱいです。

なのになぜ空を飛んで他に移れる海鳥たちが、居残るのか?

「仮説の域をでませんが…」午後の鳥の研究者は語ります。

それは「他でもない、西之島にはメリットがある」と言います。
外来の生物による捕食がない。
周辺の海が豊かで餌に困らない。
(過去の調査でカツオドリが2個卵を産んで、通常は1羽のヒナを育てるのに、ヒナを2羽とも育てる=エサが豊富)
など.....

火山活動よりもメリットのほうが勝っているのではと言っているのがとても印象的でした。


■山頂付近では雨の後のせいか、水蒸気が沢山上がっていました。

頂上付近のこの黄色い部分は硫黄だそうです。

上空写真を見ると尚更、硫黄の部分が顕著に見ることができます。飛んで見たい(笑)!!

(2016.05.20 海上保安庁撮影 海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部より)

150mまで隆起した後、
現在は標高142mまで下がって来ています。

まさに絵で書く「島」のようなルックスはとても美しく、
形そのものにシビれました♡

ところどころに岩ばかりの海岸、
黒砂の海岸、
浸食されて断崖絶壁がありました。

どれも地球の新しい息吹を感じさせてくれます。


以前の西ノ島を見ている島民の方は、
以前との雰囲気の違いに感動していました。
やっぱり地球は生きているのですね!

4月に開催された西ノ島クルーズに参加した人に聞くと、
「あの時は晴天で島の地形が良く見え、
べた凪で最高だった。

でも今回は海鳥の数が半端なかった!
硫黄三島クルーズより、鳥を見れた感がある。」
とのことでした。

予報で海況も心配していましたが、
あまり揺れを感じず、とても楽しく過ごせました♪

帰りの航路では
マッコウクジラやハシナガイルカなどの鯨類も確認されたとの事です!
やっぱり小笠原はすごい地域なんだなぁ~と感じさせられました。

ちなみに母島の船待ち屋ではオリジナルの西ノ島Tシャツを販売しています(笑)!



■西之島の詳しい情報は海上保安庁のHPで詳しく見ることができます。
このブログに掲載している西之島の上空写真、グラフ等も海上保安署のHPより転載しました。
画像を他で使いたい方は上記のHPより出典を表記して利用して下さい。




今までの地形変化図です。

そしてこんなに大きくなりました!
(2015.12 海上保安庁撮影 海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部より)

そしてこれから何百年、何万年とかけて地形が変わり、
海鳥の死骸や糞を栄養として草木が茂り、
土が出来て、
そして多くの生き物が住み、
そして最後は浸食されて島がなくなる…

その壮大なストーリーのはじめの一部分だけでもこうして見て、感じる事が出来たのは幸いでした!

今回の西之島クルーズ、
とても貴重な体験となりました!
企画してくれた海運と小笠原村役場のみなさん、
沢山盛り上げてくれた島の皆さん、
本当にありがとうございました!

また行きたいぞ~!!
家族にも見てもらいたい!(でも船酔いが…)

★おまけ
活動が活発な時のTV映像です。
この頃では父島や母島でも爆発音や振動が伝わって来ていました。