小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

40歳。亡き父を超える齢を迎えて

2021年03月14日 | 家族
■先日、ついに40歳の誕生日を迎える事が出来ました。
沢山の方にお祝いの言葉をかけてもらい、とても嬉しかったです♪
みんなの存在が本当に有難いです(^^♪

とりわけ、家族に言われるのが、じんわりと嬉しい年頃になってきました(*^_^*)
本当にありがとうございます☆

そんな誕生日でしたが、慌ただしい1日でした(笑)。

母島に残された原生林、石門に次女のクラスと先生を案内する役(5年の保護者はガイド資格を持っている人が複数います!)、
夜は東京11島が集まって話をする母島部活動のイベントの主催。

朝から夜までバタバタの誕生日ですが、とても充実していました(*^_^*)

ヨガの不久先生に教わったことですが、
「有難い」の反対は「当たり前」だそうです。

今日も1日、無事に過ごせるのは当たり前ではなく、
有難いものであると感じさせられます。

本当に有難うございます(#^.^#)


■人生80年と言われる時代ですが、
その折り返しでもある40歳。

僕には大きな意味のある年齢でした。
それは、父が亡くなった39歳という年齢を超えるからでした。

父が生きれなかった年齢を生きる。
これがひとつの目標というか、目安でした。

別に長生きしたいとは思ってはいませんが、
次の目安は母が亡くなった55歳というのが目安です。

年々、持ち前の忘却力が日々進化する中(笑)、去年に自分が39歳を迎えた時に書いた記事を思い起こしてみました。
全然覚えていませんでしたが、亡くなった父の事を書いていました。

今回は僕が生まれた頃のことを記してみようと思います。
実は出生直後に死にかけていたのです。


■僕は昭和56年3月に仙台で生まれました。
確か河原町にある松永産婦人科で産声をあげたのだと思います。

母から聞いた話では、
とにかく朝早くから掃除とかをしていて、
陣痛が始まったから、自転車で産婦人科に行ったら、先生に怒られたと言っていました(笑)。

そりゃそうだ(笑)。
これからお産って人が自転車で来るのは、非常識でしょう(*^_^*)。
自転車で病院に着いたときにはすでに、頭が少し出かかっていたといいます(^_^.)

これも母から聞いたうる覚えですが、
出産予定日は5月だったけど、急に早まって3月生まれたから、未熟児だったというのです。

ってことは妊娠32週頃に早産で生まれてしまったということでしょうか?

出生体重が2200g。
これはかなり小さいし未熟児です。
すぐに保育器に入れられたそうです。

問題はその後です。

なかなか経過が厳しかったらしく、
ドクターから死の宣告を受けたそうです。

早く生まれて、助からない、と。


■しかし、そこはさすがうちの母親です。
「じゃあ、自宅で看取ります」と言って、病院を退院し、
超小さい僕を家に連れて帰ったそうです。

そして、諦めずに、ストーブをガンガンに炊いて、
部屋を暖め、蘇生を促したそうです。

すると、次第に元気になったというのです!

あの時、ドクターの言うままに任せて、諦めていたら今の僕はいないのです。
母の諦めの悪さのお蔭で僕は命拾いできたことになります。
感謝ですね♪

先日、仙台の祖母から連絡がありました。
まだこの生まれる時の母の行動を知らないなら、
伝えなくちゃと思ってくれていたとのこと。
本当にありがたいです。

祖母ももう90歳直前ですが、
スマホにFacebookデビューと、
新しい分野に果敢に挑んでいて、本当にカッコいいと思います☆


■1歳年上の姉に可愛がられながら(記憶の範囲では可愛がられた記憶はないですがw)、
その後はすくすくと育ったようです。
父と母は色々折り合わずに、
僕が保育園の年長の時に離婚してしまいます。
(僕が離婚というのを理解したのは小学5年生の頃でした)

小学校1~4年の僕はしょっちゅう熱と便秘に悩まされる、
病弱児だった記憶があります。

母が子宮癌で倒れて、
僕と姉が父の元に行って、
そこで気管支炎喘息をこじらせるまで、
僕は野菜が嫌いで、病弱でした。

丁度、母の入院ということもあり、
きっとストレスがかかったのでしょう。

僕は気管支炎喘息と動物タンパクアレルギーになりました。
夜はよく呼吸困難(チアノーゼ)状態になり、
とても母親に心配をかけたようです。
寝ていると顔が紫になって苦しんでいたので、
気が気じゃなく、心配でよく寝れなかったと言っていた気がします。

母が癌の手術後に、
僕と姉を迎えた後は、
何故か嫌いだった野菜を食べるようになり、
身体がメキメキと丈夫に、大きくなっていきました。

祖母と一緒の僕

■今でこそ身長は176㎝、体重は準ヘビー級となりましたが、
未熟児とは思えない生育ですよね(笑)。
決して大きくない両親でしたので、いつの間にか親を超していました。
遺伝ってなんなんでしょう(笑)?

ほんと、沢山の人に支えられての今があると思います。

自分の娘二人も決して大きく生まれたわけではありませんが、
今こうして無事に立派に成長してくれています。

当たり前に思えますが、
本当に奇跡で有難いことだと思います。


唯一の兄弟でもある姉は、
現在も仙台で元気に過ごしているようです。
高齢の祖父母の家にもよく通ってくれています。

まさに年子の姉は、
小笠原に移住してしまった僕とは真逆の生活をしているようですが、
母がカナダで危篤になった時にも一緒に行きました。

子供の頃は喧嘩の様な記憶しかありませんが(笑)、
お互い、子どもを持つ身になって大人になると、
今はよき同志になっている気がします(*^_^*)


■最後に現在カナダの高校に留学している長女から、
嬉しい誕生日メッセージを頂いたので、ここに載せちゃおうと思います。

*お父さんついに40歳*
東日本大震災から10年。。。
あの日私は小学1年生が終わるころだった。
夜は消防団員である父が避難所に駆けつけたり村の支援をしにいっていて、
父に何かあったらという不安と初めての大きな地震への怖さに妹と母と薄暗い明かりをつけた部屋で布団にくるまって寝れないでいた。
その翌々日は父のお誕生日だったがもちろんそんなことがあったばかりで対してお祝いができなかったのを覚えている。

そんな10年前、慌ただしく30歳になった父が日本時間でー昨日の3月13日に40歳を迎えた。
我が家の親は少しどころか結構変わっている親である。

さらに母島の私の学年の親の中で1番若い父親と1番(お年寄り、というときっと怒るから)年長な母親なのである。
私の両親はぴったり10歳の年齢差があり、父が23、母が33のときに私が生まれたそうだ。

年上の母の話は置いておいても、若い父親を持つと親の年齢の話題になるたびに誇らしかったものである。
特に周りの親が40代の頃父は30代だというとよく驚かれたものである。
そんな父がついに40代の入り口に立ってしまった!

これでもう親の歳でそれほど誇らしくはなれないのだろうかと思うと少し寂しいが
父が父の父親が亡くなった年齢である39歳を無事に終えて40歳になれたのだと思うと
娘ながらもなんだか感慨深くめでたいものだなあと思う。
今年の誕生日は父は宝島事業、山ガイドと40代の体力にはハードな予定があり😂、リアルタイムで電話はできなかった。
でも、そこで元気に生きていてくれるだけでいいのだ。

特にこんないつ誰が倒れるかわからないご時世で、無事に笑顔でいてくれるだけでもう十分嬉しい。
父は人がだいすきで積極的にご縁の輪を次から次へと繋げて、みんなの笑顔を回してくれる笑顔のバトンランナーだ。
内地からの定期便に頼りきった島で持続可能な暮らしを目指していて、いろんなものが近代化された現代で
1人ガラケーのままノネコや野鳥を助けるため野山をかけまわりながら、
農薬を使わず堆肥や古くからの農法や知恵をつかい、その土地にある土の質をあげることで
小さいけれど甘くて美味しい人参やトマト、美しいローゼルやオクラを作る素敵な百姓でもある。

伝えたい父の魅力は沢山あるし、感謝していることも数えきれないほどあり、
逆にださいな、もっとこうしたらいいのにって思うところも勿論ある。
だって人間だものね。
でも、やっぱり彼を父親として育つことができて世界一幸せな娘だといつも思う。
そして前側はビールっ腹になりつつはあるものの、やはり野山で鍛えられたその逞しい背中をとても尊敬している。
お誕生日おめでとう。

素敵な光でいっぱいの一年でありますように!
2021年3月13日 
カナダ バンクーバー時間 お父さんの誕生日に。


なんだか、
長女には沢山の大事なものが伝わっていて嬉しいです。
ありがとう☆

そうか、若い父親というのは誇らしいものだったのか(笑)。
まったく自覚がなかったです(笑)。
確かに同級生の男子では僕は親になるのはトップバッターでした。

親の自覚はある程度はあるのですが、
大人の自覚は未だにございません(#^.^#)

僕は間違いなく立派な完全な大人ではないけれども、
人として大事にしたい、大事にして欲しい部分を、
長女はすでに持っていると感じます。

学校の成績やいい学校、
いい企業に就職するよりも、
もっと大事と思っているものを彼女は小さなころから身に着けていました。

僕が同じ年頃の時代には、持てなかった目線です。
(高校生の頃は生徒会長とかはしていましたが、基本アッパラパーです★)
だけど、僕が高校生の頃は話ができる父親はこの世にいませんでした。

17歳の長女とこうして色々話せるまで生きられたことも、
本当に奇跡で有難いことですね。

そんな高校生の娘からもらった言葉が、
とっても嬉しい誕生日でした♪