玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(11)

2016年01月07日 | ラテン・アメリカ文学

 作家となったハンス・ライターを以下、アルチンボルディと呼ぶ。アルチンボルディは妻を失った後、しばらく行方不明となるが、ヴェネツィアから出版社に原稿を送ってくる。そしてその後も旅を続ける。
「アルチンボルディはイカリア島にしばらく住んだ。その後、アモルゴス島に住んだ。それからサントリーニ島に住んだ。そしてシフノス島、シロス島、ミコノス島に住んだ。それから、ハカトンベまたはスペレゴという名で、ナクソス島の近くにあるとても小さな島に住んだが、ナクソスには一度も住まなかった。その後、島を去り、大陸に戻った」(いずれもギリシャの島の名前)
 その後も様々な地名が登場するが、長く続けても意味はない。アルチンボルディは旅する作家名のだと、いつでも旅をしている作家なのだと言っておけばいい。彼の原稿はヨーロッパ各地からハンブルグの出版社に送られてきて、多くの小説が出版されるが、ボラーニョはそれらの小説についても多くを語らない。作家としての成長を教養小説風に描くなどということに、ボラーニョはまったく興味を持っていないのだ。
 最後にアルチンボルディの妹が登場し、彼女もまた戦争をくぐり抜け、ヴェルナー・ハースという男と結婚し、クラウスという男の子を産み、そのクラウス・ハースは何度か逮捕歴を繰り返し、最後にアメリカに渡ったことが語られる。
 そして、彼がメキシコのサンタテレサで、複数の女性を殺害した罪で刑務所に収監されていることを知ったロッテは、息子を救うために何度もドイツとメキシコの間を往復する。飛行場で買ったアルチンボルディという作家の小説を機内で読んでいるうちに、この作家が自分の兄であることを確信したロッテは、出版者に連絡を取り、兄ハンス・ライターと再会する。80歳を超えたアルチンボルディは甥に会うためにメキシコに向かう。
『2666』はこうして終わるのである。この作品は旅を基調とした作品であると私は言った。登場人物の多くが旅をするだけではなく、無数に語られるエピソードがまるで旅人の眼に触れるものであるかのように、次々と生起しては次々と消えていく。
 なぜ『2666』が旅を基調とする作品だと言いうるのか? それはボラーニョがエピグラフとして掲げている、シャルル・ボードレールの詩の一行「倦怠の砂漠のなかの恐怖のオアシス」に関わっている。
 この一行は、ボードレールの『悪の華』初版の一番最後の作品、その名も「旅」という長詩の中核をなす部分に含まれている。

 にがい知識だ、旅から得られる知識とは!
 世界は、単調でちっぽけで、今日も、
 昨日も、明日も、いつも、われら自身の姿を見せてくれる。
 倦怠の沙漠の中の 恐怖のオアシス!
                                                         (安藤元雄訳)

 Amer savoir, celui qu'on tire du voyage !
 Le monde, monotone et petit, aujourd'hui, 
 Hier, demain, toujours, nous fait voir notre image :
 Une oasis d'horreur dans un désert d'ennui !

 ボードレールの「旅」という詩編は、それが巻末に置かれていることから分かるように、『悪の華』という詩集全体の結論としての意味を持っている。人間はあるあこがれを抱いて旅に出、未知の喜びに浸ることを期待するが、世界中どこに行っても「永劫の罪の退屈きわまる光景」Le spectacle ennuyeux de l'immortel péché を見ることしかできないのだ。
 それがボードレールの結論であり、引用した四行はその結論の最も重要な部分なのである。世界はどこへ行っても、いつでも、旅人自身のイメージ(似姿)を見せてくれるだけである。そのイメージとは「倦怠の砂漠のなかの恐怖のオアシス」に他ならない。
 この詩を書いたボードレールの、世界への絶望とペシミズムは限りなく深いが、ボードレールの「旅」の最も重要な部分の一行をエピグラフとしたボラーニョの、世界への絶望とペシミズムも限りなく深いのである。
『2666』の中で繰り広げられる無数のエピソードは、どれもこれも絶望的で、うす汚く、冷酷で、残酷で、あまりに惨めである。まさに「永劫の罪の退屈きわまる光景」が、広大な砂漠のように拡がっている。そして、そこにオアシスがあるとしても、それは我々自身のイメージという「恐怖のオアシス」でしかないのである。
(この項おわり)

 

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(10)

2016年01月06日 | ラテン・アメリカ文学

 ハンス・ライターが戦場で見つけ、繰り返し読んでいくアンスキーの手記の存在は重要である。アルチンボルディというペンネームも、アンスキーの手記がなかったらあり得なかっただろう。しかし、ハンス・ライターがアンスキーの手記から、どのような文学的影響を受けたかについてはまったく書かれていない。手記の最後の記述について次のように書かれているだけである。
「アンスキーは異世界について考える。その頃ヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ワルシャワ陥落、パリ陥落、ソ連への攻撃、無秩序においてのみ我々は存在しうる。ある夜、アンスキーは空が大きな血の海になっている夢を見る」
 このような言葉は、ハンス・ライターが読むアンスキーの言葉というよりは、ボラーニョ自身のものとして読まれる必要がある。
「アルチンボルディの部」は戦争という暴力の中で、ハンス・ライターがいかにして作家アルチンボルディになっていくかという物語なのであるが、肝心なその内実が語られない。これはいわゆるビルディングス・ロマン(教養小説)ではないのだ。ボラーニョは偉大な作家がどのようにして誕生したか、そのことを目的論的に書くことをまったくしないのだ。
 多くの出会いと多くの旅が綴られていく。アンスキーの手記よりも先に、ハンス・ライターは少年時代に働いていたプロイセンのフォン・ツンペ男爵の別荘で、男爵の甥フーゴ・ハルダーという文学青年と出会い、彼と友情を深める。ハンス・ライターは生涯にわたって、戦後行方の知れなくなったハルダーを探し求める。だから最初の文学への目覚めは、ハルダーによってもたらされたのだと言える。
 そこで、ベンノ・フォン・アルチンボルディというおかしなペンネームの謎がすべて解ける。ベンノはベニート・フアレスから、フォンはフォン・ツンペ男爵から、アルチンボルディはジュゼッペ・アルチンボルドから来ているのである。
 またハンス・ライターが事実上の妻とするインゲボルグ・バウアーは、ハルダーがいた部屋に住んでいた女性であるし、作家となった後愛人とする出版社社長の妻は、フォン・ツンペ男爵の令嬢、つまりハルダーの従妹なのである。ハンス・ライターはフーゴ・ハルダーの思い出の中に生きていくのである。
 多くの旅が語られていく。敗戦後ドイツに戻り降伏して収容されたアンスバッハ郊外の捕虜収容所では、レオ・ザマーという男と出会う。ザマーは戦時中、ある組織の局長として、彼の元へ間違って送られてきたギリシャ系ユダヤ人500人を、不本意ながら部下に命じて全員射殺させる。収容所内でこの男は絞殺死体となって発見される。アメリカ軍に逮捕されることを恐れたザマーは、ハンス・ライターに"殺してくれ"と頼んだのである(このことは明言されてはいないが、後にライターがザマーを殺したと告白していることからの類推である)。
 捕虜収容所を出たハンス・ライターはケルンでインゲボルグ・バウアーと出会い同棲、最初の小説を書き上げて、ケルンの町でタイプライターを貸してくれる人を捜す。そこで出会うのが元作家で、すべてのマイナーな作品(傑作ではない作品)は盗作だということに気づいて、書くことをやめた老人である。この老人の告白もアルチンボルディの作家としてのあり方に影響を与えるだろう。でもその内実が語られることはない。
 小説の出版先を求めてフランクフルトの出版社を訪ね、そこでフォン・ツンペ男爵令嬢と出会って関係を持つ。一方インゲボルグの病を治すために、バイエルン・アルプスの町ケンプテンに居を移し、彼女の回復後、二人でオーストリア、スイス、イタリアへと旅をする。イタリアではヴェネツィア、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマなど主要都市を訪れる。その後アドリア海に面した小村でインゲボルグは生涯を終える。
 インゲボルグが高熱をおして山をさまよい、ハンス・ライターと二人で星空を見上げる場面が印象深い。インゲボルグはこんなことを言うのである。
「あの光はどれも何千年も何万年も昔のものなの。過去のものなのよ。あの星が光を放ったとき、わたしたちはまだ存在していなかったし、地球上に生命はなかったし、地球すら存在していなかった。あの輝きはものすごく古いものなのよ。過去なの。わたしたちは過去に囲まれてる」
 ボラーニョは時にこんな場違いなほどに美しい場面を描く。あの犯罪調書の列挙とはまったく逆に……。不思議な作家である。

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(9)

2016年01月05日 | ラテン・アメリカ文学

 昨日、ラジオのニュースを聴いていたら、メキシコ中部のテミスコ市で麻薬犯罪撲滅や誘拐事件一掃を訴えて当選した、ギセラ・モタ女性市長(33)が就任の翌日に武装集団に自宅を襲われ、銃で殺害されたということが報じられた。このように首長や政治家が犯罪組織に殺害されるのは、これまでに百件に及んでいるという(いつからかは聞き逃した)。
 メキシコでは未だに麻薬を巡る犯罪組織の暴力や、女性誘拐事件が後を絶たず、市長が就任直後に殺されるなどというとんでもない事件がごく普通に起きていることが分かる。『2666』の背景にあるのはこのような現実なのである。ちなみにサンタテレサのモデルとなった、シウダー=フアレス市はつい最近まで、戦争地帯を除いて世界で最も治安の悪い地域とされていたことも言っておきたい。

 さて、いよいよ最後の「アルチンボルディの部」に辿り着いた。しかし、最後の部でこれまでの四つの部に仕掛けられていた謎が解明されるわけでは決してない。明かされるのは、第四部に登場するクラウス・ハースが、アルチンボルディの妹ロッテの息子であり、彼は甥がメキシコで逮捕されたという情報を得て、メキシコのサンタテレサへ向かうのである。
 そのことは第五部の結末と第一部の始まりを円環構造に結びつける役割を果たし、『2666』という小説が決して終わらない小説であることを示すだろう。第四部であれほど執拗に繰り返された連続女性強姦殺人事件の謎が解明されるわけでもなければ、クラウス・ハースが冤罪を晴らすという結末が与えられるわけでもない。
 この長大な小説は、世界を未完のまま、あるいは未解決のまま放り出すと言うか、世界とはもともとそのようなものであるということ、小説とは解決のないおぞましい世界に対して戦い続けることだという、メッセージを発しているのだと読まれるべきだろう。
『2666』を読みながらずっと感じていた「掴みどころのなさ」は、ボラーニョのそのような世界観、あるいは小説観から来るのだと言える。割り切れる部分がないのでる。そして、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』にはあった、終曲としてのコーダも持ってはいないのだ。
 ただし「アルチンボルディの部」は、これまでの部とはやや違った印象を与える。まがりなりにも一人の人物に的を絞って、彼の生い立ちから現在までを追跡していくからである。しかし、ここでも多くのエピソードが連ねられていくが、それらが遡及的に語られることがないのは、これまでの部と同様である。
 後のアルチンボルディことハンス・ライターは、1920年ドイツで片目の母親と片足の父親の間に生まれる。父は第一次世界大戦で片足を失った元兵士なのである。ハンスがたらいで風呂に入れてもらう場面がある。
「片目の女がたらいで風呂に入れてやるとき、赤ん坊のハンス・ライターは石鹸の泡だらけの母親の手からいつも滑り落ち、両目をぱっちり開けたまま底に沈んだ」
 ドイツ人というものは「森というメタファーの中で生きている」というが(エリアス・カネッティとホルヘ・ルイス・ボルヘスがそう言っているらしい)、ハンス・ライターはそうではなく、水の底というメタファーの中で生きるのである。生まれ落ちた時から他とは異質な生を宿命づけられたこの子供を見ると、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』を思い出さずにはいられない。しかし、この赤ん坊は小人になるのではなく、巨人に成長していくのである。
 明らかに『ブリキの太鼓』を意識している「アルチンボルディの部」は、グラスと同じように第二次世界大戦における、ナチスドイツの連戦連勝とユダヤ人の大量虐殺、そして敗北を描いていくのである。
 ハンス・ライターは20歳で召集され、ドイツ軍の兵士としてポーランド侵攻の電撃作戦に従軍し、その後西方へ送られてマジノ線を巡る闘いに参加し、ナチスのソ連侵攻作戦によって再び東方へ送られ、ルーマニアからウクライナ、クリミア半島に至る。
(このナチスによるソ連侵攻については昨年邦訳出版された、ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』に詳しい。上巻267頁に掲載された図版でハンス・ライターの足取りを追うことができる)
 ボラーニョは戦争が兵士にもたらす狂気について繰り返し書いていくが、ハンス・ライターもまた戦闘の恐怖を逃れるため弾丸に当たって死ぬことを望んでいる。そのようにして彼は重傷を負うだろう。ウクライナまで後送され、病院で治癒を得た後、住民のいなくなった丸太小屋に住むが、そこでハンスは重要なものを発見する。
 ソヴィエト・ユダヤ人のボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記がそれで、その紹介が延々30頁も続くのである。アンスキーは、ロシア人作家エフライム・イワノフのゴーストライターを務めていたらしい。アンスキーの手記によってハンス・ライターは、16世紀イタリアの画家アルチンボルドについて知ることになる。"アルチンボルディ"という作家の誕生秘話である。
 ところでこの手記の紹介の部分で、ボラーニョは初めて重層的な説話構造を実現している。とりとめのない手記の中に、別のエピソードが長々と展開されて、説話の構造が三層に膨れあがるのである。これこそゴシック小説が多用した方法であって、現在でもこの方法は生きているのである。

ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』上下巻(2015、筑摩書房)布施由紀子訳

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(8)

2016年01月04日 | ラテン・アメリカ文学

 このようなサディスティックな記述が延々と続いていく中で(「犯罪の部」は邦訳で265頁もあって、『2666』の中でいちばん長い)、様々なエピソードが展開されていく。まるで犯罪調書と、それにまつわる人々のエピソードの洪水のようである。
 しかし、それぞれのエピソードは互いに関連することはないし、並列に進行していくので、そこに『2666』という謎めいた小説を解読する鍵が隠されているわけではない。ボラーニョはこの連続女性強姦殺人を食い止めようとする人々の行動を描いていく。その中に重要な人物を見出すことはできるだろう。
 まず、千里眼のフロリータ・アルマーダという女性がその一人である。彼女はテレビ番組に出演し、トランス状態となってこの事件の解決を訴える。その悲痛な叫び……。
「サンタテレサですよ! はっきり見えてきました。そこで、女性たちが殺されているのです。わたしの娘たちが殺されている。わたしの娘たちが! わたしの娘たちが!」
「警察の連中は何もしない、手をこまねいて見ているだけだ」
 またフロリータはメキシコの偉人ベニート・フアレスについて書かれた本の中の、彼が羊飼いの少年だった時代の言葉についても語る。以下は彼女が引用する言葉である。
「僕の、この短い放浪の果てには何があるの? そして君が空を永遠に巡って行き着く先には? 人は苦悩のなかに生まれてきて、生まれるということがすでに死の危険をはらんでいる」
「もし人生が惨めなものなら、どうして僕たちはそれをいつまでも耐え忍ぶのか?」
「限りない大気は、果てしなく澄みわたる深い空は何のためにあるのだろう? この計り知れぬ孤独にどんな意味があるのだろう? そして僕は何なのだろう?」
 このペシミスティックな人生観、あるいは世界観は、ボラーニョ自身の共感において引用されているのに違いない。もしフロリータが引用している本が実際には存在していない本だとすれば、ボラーニョ自身の責任において書かれた言葉であるのだ。
 ベニート・フアレス(1806-1872)はメキシコで知らぬ者のいない"建国の父"とさえ呼ばれる人物である。そして、サンタテレサのモデルとなったシウダー=フアレスという都市の名にも彼の名は残されている。また、第5部ではベンノ・フォン・アルチンボルディのベンノの名の元になっていることが明かされる。
 だから殺人調書と同時進行するエピソードの中に、第5部と関連してくる部分が隠されているので、注意深く読まなければならないのだが、とても一回くらい読んだだけでは分からない部分がたくさんあることだろう。
「犯罪の部」の中間地点で、金髪で背の高い男クラウス・ハースが登場してくる。彼はコンピュータ販売店のオーナーで、そこを訪れた若い女性が殺されたというだけで、第一容疑者として逮捕されてしまう。このクラウス・ハースこそ作家アルチンボルディの甥であり、アルチンボルディは彼に会うためにメキシコにやってくるのだが、そのことも第5部まで明かされることはない。
 後半、殺人調書とこのクラウス・ハースの冤罪をはらそうとする闘い、アメリカから招聘されたアルバート・ケスラー捜査官の捜査のエピソード、そしてアスセナ・エスキベル=プラタ女性下院議員の長い告白が、目まぐるしく交替し、加速しながら物語は進行していく。
 この加速感は『2666』の中でも、この部分でもっとも際立っている。ボラーニョがここを書きたかったのだということが手に取るように伝わってくる。ある意味で『2666』の中で最も成功している部分かも知れない。
 女性下院議員はセルヒオ・ゴンザレスという作家・記者に、事件のことを書いてほしい、"確実な攻撃を加えてほしい"、情報はすべて提供するから"蜂の巣をつついてほしい"と懇願して告白を終える。
 最後に1997年最後の遺体が発見され、迷宮入りとなったことが報告されて「犯罪の部」は終わる。

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(7)

2016年01月03日 | ラテン・アメリカ文学

 ところで「フェイトの部」で、オスカー・フェイトもグアダルーペ・ロンカルもアマルフィターノ父娘も消えてしまう。彼らが『2666』に再登場することはない。そのことは第1部の登場人物達が、アマルフィターノを除いて一斉に消えてしまうのに似ている。
 ボラーニョは登場人物に固執しない。彼らが消えていくのなら消えていくのでかまわない。まるで彼らが旅先で出会う人物であるかのように(実際に彼らはすべて旅人であった)。『2666』が旅を基調にした物語であると言った意味はそこにある。
 しかし、旅のテーマに移行するのはまだ早すぎる。我々は「犯罪の部」と題された、恐るべき第4部の語るところに耳を傾けなければならない。
「犯罪の部」は前にも書いたように連続女性強姦殺人事件を犯罪調書のように執拗に記述したものである。この無機質な記述を読むことは、ある意味で苦痛である。だからこの苦痛に満ちた連綿たる記述を最後まで読ませるのは、ボラーニョの天才的な力量を証明しているというような批評さえあるのだ。
 しかし、そうなのだろうか。ある義務感がなければこれほど凄惨な殺人事件(数えてはいないが200件はあるのではないか)を記録し続けられるものではない。
 この連続殺人事件はメキシコ北部の都市シウダー=フアレスで実際にあった事件によっているらしい。1993年以来500人以上の女性が殺害され、行方不明を含めると5000人にも及ぶ婦女暴行殺人事件があり、そのほとんどが未解決のままであるという。被害者の多くはマキラドールで働く女工達である。サンタテレサは架空の都市だが、明らかにこのフアレスをモデルにしているのだ。
カルロス・フエンテスが「マキラドーラのマリンツィン」で舞台としていたのもフアレスの町である。『ガラスの国境』が発表されたのは1995年であるから、まだ事件は表面化していなかったのかも知れない。だからフエンテスはマキラドーラの町で起きた連続殺人事件のことも、ボラーニョが書いているギャング達の麻薬をめぐる抗争のことも、警察や刑務所の腐敗のことも書いていない。ボラーニョはフエンテスが書いていないこと、誰も書かなかったことを徹底的に書き尽くそうとしているのである。
しかし、義務感によっているだけなのだろうか。この止まるところを知らない殺人事件の列挙の縮小版が「犯罪の部」にはさりげなく隠されている。それは夜な夜な教会に現れて、小便をまき散らし、聖像を破壊し続ける正体不明の男についての診断に関わる部分である。
この男は神聖なものに対する恐怖と嫌悪に取り憑かれた"神聖恐怖症"(サクロフィリア)と診断されるが、病院の院長はそれに似た症例をざっと30あまりも列挙してみせるのである。橋渡恐怖症(ヘフィドロフォビア)、閉所恐怖症(クラウストロフォビア)、広場恐怖症(アゴラフォビア)、死体恐怖症(ネクロフォビア)、血液恐怖症(エマトフォビア)、毛髪恐怖症(トリコフォビア)、女性恐怖症(ヒネフォビア)、樹木恐怖症(デンドロフォビア)等々といった具合である。
このような執拗な列挙への情熱は、ボラーニョという作家の止むに止まれぬある種の症状であるのではないか。喜々として症例を挙げていく院長の姿に、連続女性強姦殺人事件を列挙していくボラーニョの姿が重なって見えるのである。
文学史上それは珍しいことですらない。マルキ・ド・サドの描く強姦の様々なヴァリエーションや、イジドール・デュカスの描くマルドロールの暴力のヴァリエーションを思い出して欲しい。残酷なものの列挙への衝動は明らかにサディスティックなものである。ボラーニョにもサディスティックな徴候が窺われるのである。
 とりあえず、吐き気をもよおすような殺人調書の短いものを一つだけ挙げておこう。
「九月初旬に見つかった遺体は、当初身元不明だったものの、のちにマリナ・エルナンデス=シルバだと判明した。年齢は十七歳、七月初めにレフォルマ区のバスコンセロス高校に登校する途中で行方不明になっていた。監察医によれば、レイプされ、絞殺されていた。片方の乳房がほぼ完全に切り取られ、もう片方は乳首を噛み切られていた」

 

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(6)

2016年01月02日 | ラテン・アメリカ文学

 第3部「フェイトの部」はアメリカ人の黒人雑誌記者オスカー・フェイトの物語であると同時に、アマルフィターノとその娘ロサの物語でもある。またそれ以上に、第1部、第2部とはまったく違った雰囲気の部となっていることも言っておかなければならない。
 第1部、第2部ではインテリ達が主要な登場人物となっていたが、「フェイトの部」はまったく違う。まるで卑猥で低俗なアメリカ映画を見ているような場面が続く。ボラーニョはニューヨークからデトロイトへ、そしてメキシコのサンタテレサへと移動していくフェイトの足どりを追いながら、彼の周りに暴力的なエピソードを積み重ねていく。
 ボラーニョは自身のアメリカ映画への愛好を隠さない。メキシコ系アメリカ人監督のロバート・ロドリゲスやカルト的人気のデビッド・リンチ監督の名前も出てくる。とにかく、この「フェイトの部」自体が映画的な手法によっていて、スピーディーな場面転換と多くの登場人物の出し入れをその特徴としている。
 暴力的なエピソードにも事欠かない。フェイトはサンタテレサにボクシングの試合の取材にやってくるのだが、スポーツ記者でもないフェイトがそんな仕事をするのは試合を取材するはずだった記者が、殺されてしまったからなのである。しかもボクシングは最も暴力的なスポーツではないだろうか。また、フェイトは記者仲間やサンタテレサの不良達とやたらと飲み、暴力の現場に遭遇し、自分でも暴力を振るう。
この部で初めて連続女性強姦殺人の詳細が具体的に示されていく。フェイトは次のようなニュースを、眠っていたために聞き逃すのだが、それをボラーニョが書いてしまう限り、フェイトが聞いたのと同じことになる。
「フェイトが眠っている間に、メキシコ北部のソノラ州サンタテレサ市で行方不明になったアメリカ人女性に関するニュースが流れた。レポーターはディック・メディーナという名のメキシコ系アメリカ人で、サンタテレサでは次々と女性が殺されていて、遺体の多くは引き取りを申し出る人がいないため共同墓地に埋められていると語った」
 メキシコシティからやって来た女性記者グアダルーペ・ロンカルも登場し、彼女が恐怖を代弁する。
「何もかもが恐くて。サンタテレサの連続女性殺人事件に関わる仕事に就くと、女性なら最後に恐くなるんです。痛い目に遭うことへの恐怖。報復への恐怖。拷問の恐怖」
 彼女は同僚の女性アナウンサーが、レイプされ、拷問にかけられ、殺されたことをフェイトに語る。彼女は「殺人事件の第一容疑者に面会をしなくてはならない」とフェイトに告げ、同行してくれるように頼む。
 アメリカのホラー・サスペンス映画におけるように、徐々に恐怖が掻き立てられていく。フェイトは体調不良のせいもあって、やたらと食べたものを吐くのだが、それさえ恐怖の増長に効果的に働く。このあたりのボラーニョの手法は冴えわたっている。
 ではアマルフィターノはどうしているか。フェイトは不良達の仲間に関わっているアマルフィターノの娘ロサと出会い、一目惚れしてしまう。フェイトがロサと二人で父親に会いに行くと、すでにアマルフィターノの恐怖は限界に達していて、フェイトに次のように懇願するのである。
「娘をアメリカに連れていき、それから空港まで送って、バルセロナ行きの飛行機に乗せてもらえませんか?」
 どこの馬の骨とも知れないフェイトに、アマルフィターノはこんなことを頼むのである。狂気と恐怖を逃れるためにはそれしかないからだ。フェイトはそれを実行するだろう。二人は車で国境を越え、アメリカに入るだろう。
 最後にフェイトとロンカルが「殺人事件の第一容疑者」に面会に行く場面がある。金髪の巨人であるその男は、謎の作家アルチンボルディの甥なのだが、そのことは第5部「アルチンボルディの部」まで明かされることはない。
 重要なことは何も語らぬことによって、ボラーニョは読者をこの長大な小説の最後まで引っ張っていく。

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(5)

2016年01月01日 | ラテン・アメリカ文学

 アマルフィターノという登場人物の重要性は、彼の狂気がサンタテレサで起きている連続女性強姦殺人事件への恐怖とともに、深まっていくところに認められる。「アマルフィターノの部」と「フェイトの部」は、アマルフィターノの人格崩壊の過程を描いたものとみなされるだろう。
 それにしてもボラーニョという作家は、第1部「批評家たちの部」でもそうだが、夢を多用する。この夢が登場人物達の不安な心性を象徴するものとなっていて、読者は登場人物と夢を共有することにおいて、不安や恐怖をも共有することになる。
 アマルフィターノは夢の中でも例の"声"に出会うだろう。
「夢のなかで女性の声がした。声の主はペレス先生ではなくフランス人で、記号や数字、そして「ばらばらになった歴史」あるいは「解体され再構築される歴史」と呼ぶ、アマルフィターノにはよく分からないものについて語っていたが、再構築された歴史は違ったものに、余白への書き込みに、洞察に満ちた注解に変わり、安山岩から流紋岩へ、それから凝灰岩へと飛び移り、ゆっくりと消えていく高笑いとなり、そうした先史時代の岩々から水銀のようなものがあふれ出す。アメリカの鏡、と声はいった。アメリカの悲しい鏡、富と貧しさの、つねに無益な変化の鏡、苦痛の帆を張って航海する鏡」
 この夢におけるフランスの記号学者による講義から、突然に地質の話へと移り、さらに水銀への連想から鏡のことに移っていく変幻ぶりは分裂病的である。この分裂病的な夢を読者はアマルフィターノと共有することを強いられるわけで、それによって読者もまた不安に責め立てられることになる。
 夢は『2666』において重要な要素である。地質学については、この日アマルフィターノが娘とその先生とその息子とピクニックに出掛け、そこで眺めた地層から来ていることは分かる。しかし、いきなり水銀から鏡へと飛躍する連想の突飛さが分からない。だが「アメリカの鏡」「アメリカの悲しい鏡」「富と貧しさの、つねに無益な変化の鏡」という部分は、メキシコという国への言及であり、それはカルロス・フエンテスが『ガラスの国境』で展開しているメキシコ論と共通しているのだということは分かる。
 学部長の息子マルコ・アントニオ・ゲーラは、アマルフィターノが現在置かれている状況について正確に把握している。彼は次のように言う。
「あなたは僕に似ている。僕はあなたに似ている。あなたも僕も、落ち着けない。二人とも窒息しそうな環境に身を置いているんです。何も起きていないかのように振る舞っているけれど、実は何かが起きている。何が起きているか? 窒息しそうなんですよ、まったく」
 この「窒息しそうな環境」こそ、ボラーニョがアマルフィターノが見る夢を通して描こうとしているものに他ならない。そしてアマルフィターノの不安と恐怖は、『2666』という小説全体を通しての基調となっている。
 しかし、何という大長編小説だろう。ボラーニョは作中で、長編小説の本当の価値についてアマルフィターノに語らせてもいるのである。バルセロナで出会った薬剤師が読んでいる本として『変身』や『バートルビー』『純な心』『クリスマス・キャロル』などを挙げる場面がある。
 これらはそれぞれ、カフカ、メルヴィル、フローベール、ディケンズの短編・中編作品であり、アマルフィターノはなぜ長編作品である、『審判』『白鯨』『ブヴァールとペキュシェ』『二都物語』を挙げないのかと憤っているのである。アマルフィターノの憤りはボラーニョ自身のそれと同じであろう。
「いまや教養豊かな薬剤師でさえも、未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことを知ろうとはしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを」
この言葉はおそらく、ボラーニョ自身が『2666』で意図したことを正確に語っているだろう。

 

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