玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(8)

2016年01月04日 | ラテン・アメリカ文学

 このようなサディスティックな記述が延々と続いていく中で(「犯罪の部」は邦訳で265頁もあって、『2666』の中でいちばん長い)、様々なエピソードが展開されていく。まるで犯罪調書と、それにまつわる人々のエピソードの洪水のようである。
 しかし、それぞれのエピソードは互いに関連することはないし、並列に進行していくので、そこに『2666』という謎めいた小説を解読する鍵が隠されているわけではない。ボラーニョはこの連続女性強姦殺人を食い止めようとする人々の行動を描いていく。その中に重要な人物を見出すことはできるだろう。
 まず、千里眼のフロリータ・アルマーダという女性がその一人である。彼女はテレビ番組に出演し、トランス状態となってこの事件の解決を訴える。その悲痛な叫び……。
「サンタテレサですよ! はっきり見えてきました。そこで、女性たちが殺されているのです。わたしの娘たちが殺されている。わたしの娘たちが! わたしの娘たちが!」
「警察の連中は何もしない、手をこまねいて見ているだけだ」
 またフロリータはメキシコの偉人ベニート・フアレスについて書かれた本の中の、彼が羊飼いの少年だった時代の言葉についても語る。以下は彼女が引用する言葉である。
「僕の、この短い放浪の果てには何があるの? そして君が空を永遠に巡って行き着く先には? 人は苦悩のなかに生まれてきて、生まれるということがすでに死の危険をはらんでいる」
「もし人生が惨めなものなら、どうして僕たちはそれをいつまでも耐え忍ぶのか?」
「限りない大気は、果てしなく澄みわたる深い空は何のためにあるのだろう? この計り知れぬ孤独にどんな意味があるのだろう? そして僕は何なのだろう?」
 このペシミスティックな人生観、あるいは世界観は、ボラーニョ自身の共感において引用されているのに違いない。もしフロリータが引用している本が実際には存在していない本だとすれば、ボラーニョ自身の責任において書かれた言葉であるのだ。
 ベニート・フアレス(1806-1872)はメキシコで知らぬ者のいない"建国の父"とさえ呼ばれる人物である。そして、サンタテレサのモデルとなったシウダー=フアレスという都市の名にも彼の名は残されている。また、第5部ではベンノ・フォン・アルチンボルディのベンノの名の元になっていることが明かされる。
 だから殺人調書と同時進行するエピソードの中に、第5部と関連してくる部分が隠されているので、注意深く読まなければならないのだが、とても一回くらい読んだだけでは分からない部分がたくさんあることだろう。
「犯罪の部」の中間地点で、金髪で背の高い男クラウス・ハースが登場してくる。彼はコンピュータ販売店のオーナーで、そこを訪れた若い女性が殺されたというだけで、第一容疑者として逮捕されてしまう。このクラウス・ハースこそ作家アルチンボルディの甥であり、アルチンボルディは彼に会うためにメキシコにやってくるのだが、そのことも第5部まで明かされることはない。
 後半、殺人調書とこのクラウス・ハースの冤罪をはらそうとする闘い、アメリカから招聘されたアルバート・ケスラー捜査官の捜査のエピソード、そしてアスセナ・エスキベル=プラタ女性下院議員の長い告白が、目まぐるしく交替し、加速しながら物語は進行していく。
 この加速感は『2666』の中でも、この部分でもっとも際立っている。ボラーニョがここを書きたかったのだということが手に取るように伝わってくる。ある意味で『2666』の中で最も成功している部分かも知れない。
 女性下院議員はセルヒオ・ゴンザレスという作家・記者に、事件のことを書いてほしい、"確実な攻撃を加えてほしい"、情報はすべて提供するから"蜂の巣をつついてほしい"と懇願して告白を終える。
 最後に1997年最後の遺体が発見され、迷宮入りとなったことが報告されて「犯罪の部」は終わる。

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