玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(11)

2016年01月07日 | ラテン・アメリカ文学

 作家となったハンス・ライターを以下、アルチンボルディと呼ぶ。アルチンボルディは妻を失った後、しばらく行方不明となるが、ヴェネツィアから出版社に原稿を送ってくる。そしてその後も旅を続ける。
「アルチンボルディはイカリア島にしばらく住んだ。その後、アモルゴス島に住んだ。それからサントリーニ島に住んだ。そしてシフノス島、シロス島、ミコノス島に住んだ。それから、ハカトンベまたはスペレゴという名で、ナクソス島の近くにあるとても小さな島に住んだが、ナクソスには一度も住まなかった。その後、島を去り、大陸に戻った」(いずれもギリシャの島の名前)
 その後も様々な地名が登場するが、長く続けても意味はない。アルチンボルディは旅する作家名のだと、いつでも旅をしている作家なのだと言っておけばいい。彼の原稿はヨーロッパ各地からハンブルグの出版社に送られてきて、多くの小説が出版されるが、ボラーニョはそれらの小説についても多くを語らない。作家としての成長を教養小説風に描くなどということに、ボラーニョはまったく興味を持っていないのだ。
 最後にアルチンボルディの妹が登場し、彼女もまた戦争をくぐり抜け、ヴェルナー・ハースという男と結婚し、クラウスという男の子を産み、そのクラウス・ハースは何度か逮捕歴を繰り返し、最後にアメリカに渡ったことが語られる。
 そして、彼がメキシコのサンタテレサで、複数の女性を殺害した罪で刑務所に収監されていることを知ったロッテは、息子を救うために何度もドイツとメキシコの間を往復する。飛行場で買ったアルチンボルディという作家の小説を機内で読んでいるうちに、この作家が自分の兄であることを確信したロッテは、出版者に連絡を取り、兄ハンス・ライターと再会する。80歳を超えたアルチンボルディは甥に会うためにメキシコに向かう。
『2666』はこうして終わるのである。この作品は旅を基調とした作品であると私は言った。登場人物の多くが旅をするだけではなく、無数に語られるエピソードがまるで旅人の眼に触れるものであるかのように、次々と生起しては次々と消えていく。
 なぜ『2666』が旅を基調とする作品だと言いうるのか? それはボラーニョがエピグラフとして掲げている、シャルル・ボードレールの詩の一行「倦怠の砂漠のなかの恐怖のオアシス」に関わっている。
 この一行は、ボードレールの『悪の華』初版の一番最後の作品、その名も「旅」という長詩の中核をなす部分に含まれている。

 にがい知識だ、旅から得られる知識とは!
 世界は、単調でちっぽけで、今日も、
 昨日も、明日も、いつも、われら自身の姿を見せてくれる。
 倦怠の沙漠の中の 恐怖のオアシス!
                                                         (安藤元雄訳)

 Amer savoir, celui qu'on tire du voyage !
 Le monde, monotone et petit, aujourd'hui, 
 Hier, demain, toujours, nous fait voir notre image :
 Une oasis d'horreur dans un désert d'ennui !

 ボードレールの「旅」という詩編は、それが巻末に置かれていることから分かるように、『悪の華』という詩集全体の結論としての意味を持っている。人間はあるあこがれを抱いて旅に出、未知の喜びに浸ることを期待するが、世界中どこに行っても「永劫の罪の退屈きわまる光景」Le spectacle ennuyeux de l'immortel péché を見ることしかできないのだ。
 それがボードレールの結論であり、引用した四行はその結論の最も重要な部分なのである。世界はどこへ行っても、いつでも、旅人自身のイメージ(似姿)を見せてくれるだけである。そのイメージとは「倦怠の砂漠のなかの恐怖のオアシス」に他ならない。
 この詩を書いたボードレールの、世界への絶望とペシミズムは限りなく深いが、ボードレールの「旅」の最も重要な部分の一行をエピグラフとしたボラーニョの、世界への絶望とペシミズムも限りなく深いのである。
『2666』の中で繰り広げられる無数のエピソードは、どれもこれも絶望的で、うす汚く、冷酷で、残酷で、あまりに惨めである。まさに「永劫の罪の退屈きわまる光景」が、広大な砂漠のように拡がっている。そして、そこにオアシスがあるとしても、それは我々自身のイメージという「恐怖のオアシス」でしかないのである。
(この項おわり)

 


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