玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

閑話休題

2016年01月19日 | 日記

 しばらく札幌まで旅をしてきた関係もあって、ブログを中断することになってしまった。『ゴシック短編小説集』も読み進めていないので、「ゴシック論」も中断を余儀なくされている。少し札幌で見聞したことを書いてつなぎとしたい。
 札幌には道立の「三岸好太郎美術館」がある。三岸は1934年に31歳で亡くなった夭逝の画家である。以前から興味はあったが、その作品を観る機会がなく、今回初めてまとめて見ることが出来た。
 作品を観た私の印象は「若すぎる」というものだった。彼の作品にはジョルジュ・ルオーの影響やシュルリアリスム絵画の影響も見られるが、どれも未消化で三岸独自の作風に到達していないという感じを抱かざるを得なかった。
 完成されていないのである。31歳で亡くなった画家に完成を求めても無駄と言われるかもしれないが、では37歳で死んだ中村彝や、39歳で死んだ靉光はどうなのか。彼らは多くのヨーロッパの画家達の影響を受けつつも、自らの独自性を確立したではないか。
 三岸よりも多少長生きしたからと言われても、彼らが30歳までにどのような仕事をしていたかを見れば、夭逝というだけでは片づけられない問題があることが分かる。シュルリアリスムの受容にしても靉光と比べて三岸は未熟と言わざるを得ない。
 中村彝や靉光は真に偉大な画家であった。そのことを再認識させてくれる意味で、三岸の作品を観る意味はあったのかもしれない。

 16日封切りの映画「白鯨との闘い」も観た。ハーマン・メルヴィルの『白鯨』Moby-Dick; or, The Whaleの元になった実話による映画ということで、観なければならないと思っていたのだった。特撮がよくできた映画で、観ている間は退屈しないし、結構その迫力に圧倒される。娯楽映画として楽しむこともできる。
 ところで、原題はIn the Heart of the Seaというのだが、何でこんな邦題にしたのだろう。ロン・ハワード監督はこのジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』Heart of Darkness を思わせるタイトルに、ある思いを込めたに違いないのだが、邦題からはそのことは伝わってこない。
 この映画は、海の深奥(heart of the sea)に存在する人間の力ではどうすることもできない脅威をテーマにしているのだし、もう一つのテーマは遭難における人肉食という人間の深奥に関わるものなのだから、「白鯨との闘い」などという即物的なタイトルでは監督の真意は伝わらないのである。
 メルヴィルはコンラッドと同様に船乗りの経験を持ち、格調高い海洋冒険小説を書いたことでも共通している。だからHeartはコンラッドの『闇の奥』から取られていることは明白で、せめて「ハート・オブ・ザ・シー」か「海の奥で」くらいにしてほしかった。

札幌の本屋で、柏崎の本屋には売ってなかった加藤典洋の『戦後入門』を買い求めた。635頁もある新書である。新書の軽薄短小化が進んでいる最近では、珍しいくらいに重厚な本となっている。
『敗戦後論』以降の著者の思索を集大成したもので、日本の戦後政治の「対米従属」と「ねじれ」をテーマとし、そこからの脱出の道を提起するという大胆な内容となっているが、若い世代を対象に書いているので、読みづらいということはない。
 論旨は白井聡の『永続敗戦論』に近い。というよりも白井が加藤の影響を受けて『永続敗戦論』を書いたので、加藤の先見性を読み取らなければならない。白井の『永続敗戦論』には、日本の政治に対する絶望的な批判は書かれているが、必ずしもこの先の展望が書かれているわけではない。
 一方、加藤の『戦後入門』には重要な提言がなされていて、ある種の希望を与えられることは確かである。安倍政権によって憲法改正が日程に上がっている現在、護憲ではなく、逆方向からの改憲が必要だという主張には説得力がある。
 なぜこの本が書かれなければならなかったかということが、切実に伝わってくる。戦後政治の劣化の極まりとも言うべき安倍政権に対する危機感がそれであり、そのような危機意識を共有するものにとっての必読書と言える。